疎らに浮かぶ雲の隙間から、強い陽射しが降り注ぐ。通学路は人通りもそれなりで、そのほとんどが花咲川女子学園の生徒だ。この制服も、ここ数週間ですっかり見慣れてしまった。
空いている方の手を宙に掲げて、光を遮る。たとえ雲に遮られていても、太陽の輝きは強く険しい。指と指の間から、僅かな光がすり抜けた。
足を止めそうになって、組んでいた方の腕を彼女に引っ張られた。ほぼ反射的に引っ張り返しそうになりながらも、彼女の足を止めるような事はしたくなくて。たたらを踏みながら、前へと進んだ。
急に立ち止まるのは、危なかったかもしれない。
もう見慣れた街並みであるにも関わらず。ただ歩いているだけなのに、こころはすごく楽しそうだった。視界の端に移る彼女の横顔には、いつも通りの笑顔が浮かんでいる。
いや…………もしかしたら、だけど。いつもよりも、楽しそうにしているかもしれない。それはバンドを始めるからなのか、他に理由があるのか。心を読めばわかる事だけど、それは無粋というものだろう。
だって、私も同じなのだから。
たった一日、たった一度。彼女と通学路を共にしなかっただけで、ひどく懐かしく感じてしまう。凪のように揺蕩う心に差し込んだ、一筋のそよ風のように。私はいま、とても感傷的な気分になっていた。
その感情が、とても心地よい。
人はどんな事にも慣れてしまう生き物だ。適応する、と言い換えることも出来るだろう。喜びでも、悲しみでも、怒りでも、驚きでも。それは変わらない。一番最初が一番鮮烈で、印象的で。回数を重ねるごとに、その気持ちは薄まっていくものなのだろう。
いま思えば、私と彼女はあまりにも共に在りすぎたのだ。私の依存が原因だから、あまり強くは言えないけれど。振り返ってみると、あまり健全な関係とはいえなかったかもしれない。
私は、それでも構わないと思っていたけれど。それは側からみれば、ただの開き直りと同じことだから。
一日、たった一日。
その僅かな時間が、私の心から「慣れ」というものを無くしてくれたのだろう。こうして再び彼女といく道は、いつもとは違う景色に見える。
と、いうよりも。
私は本当に、彼女のことしか見えていなかったんだ。視野が狭くて、心も狭くて。少しでも離れたくない、ずっと一緒にいたい。そんな独占欲で満たされていた私は、どんな時だって弦巻こころという少女を見続けていた。
太陽を見続けた人は、その輝きに目を焼かれてしまう。昨日までの私はきっと、そんな状態だったんだろう。
強い光に目を焼かれ、だからこそ執着する。それはもう、盲目的なほどに。
いまの私がこの時間を新鮮に思うのは、色々なものが目につくようになったからだ。
こころ一人に向けていた視線を、余所へと向ける余裕ができた。喩え話とかじゃなくて、そっくりそのままの意味で。
そのことが少しだけ寂しくて、感傷的な気持ちになってしまうけれど。この変化はきっと、私にとって良い事だから。寂しくても、辛くはない。
成長した、と言ってもいいかもしれない。
昨日までと比べて、私は確実に成長した。子供がやがて親元を離れていくように、「奥沢美咲」も弦巻こころから自立したのだ。
だから、悲しくない。
だって、切っ掛けすら。彼女からもらったものだから。
たとえ隣に彼女がいなくても、心の中に彼女の存在を感じることができるから。彼女からもらった言葉が、愛が、勇気が。悲しみを吐き出して生まれた心の隙間を、埋めてくれているから。
ただ離れた訳じゃない。手を引っ張られるだけだった私が、初めて自分から前へと進み始めた。それが理由で繋いでいた手が解かれたとしても、彼女がどこか遠くに消えた訳じゃない。
いまこの瞬間だって、隣にいるんだ。
手を伸ばせば届く距離。お互いのパーソナルスペースに、お互いが踏み込んだこの状態が、私は心地よくて、誇らしい。
こころはその気になれば、私を置いて走っていけるというのに。いつまでも薄れる事のない、全てのものへと向ける好奇心に従って、羽ばたいていけるというのに。
彼女はそれでも、私のことを置いていったりしない。私の腕に、自分の腕を絡ませて。立ち止まりそうになった私を、引っ張っていく。
それは…………私が彼女を好いているように、彼女も私のことを好きでいてくれている証拠だと思うから。そんなことすら、私は気づけていなかったけれど。
でも、いまならそれが分かる。
分かるからこそ、信じることが出来る。
繰り返すようだけど、人は慣れていく生き物だ。だから私はこの行為に、「人を信じる」ということにも、慣れていきたいと思う。
多分、人ってそうやって繋がっていくんじゃないだろうか。親の愛を信じられるから、兄妹の愛を信じられるから、友の愛を信じられるから。だからこそ、自分から人を愛することができるんだ。
大切なのは、信じるための勇気。裏切られることもあるだろう、裏切ってしまうこともあるだろう。それでも決して失いたくないのが、忘れたくないものがある。
私は母を、父を、妹を、弟を、友を。確かに愛していたのだから。どんなに気持ちが変わってしまっても、現実が望むものではなかったとしても。かつて信じていた事だけは、変わらない事実だから。
それを、思い出していきたい。
似合わないことは、自覚しているけれど…………今日の私は少しだけ、ワクワクしている。
彼女と同じだ。新しいことを始めるのが、新しい人間関係を作っていくのが、楽しみで仕方がないんだ。
少しだけ、こころに似てきているのかもしれない。彼女の心に触れて、一緒に過ごしていくうちに。私はいつの間にか、彼女に影響されてしまったんだ。
今までの私にはなかったもの。もしかしたら、子供の頃も持っていなかったような。そんな積極性が、私の背中を押している。
こころ、あんたが羨ましいよ。
あんたはいつも、こんな風に世界を見ていたんだね。そりゃあ、毎日が楽しくて仕方がないと思うよ。
新鮮で、鮮烈で、胸が踊る。こんな気持ちで見た風景は、それはそれは…………美しくて。
見慣れたあんたの笑顔ですら、もっともっと魅力的に見えてしまう。思わず、見惚れてしまうほどに。
私はきっと、この光景にすら慣れてしまうだろうから。いま感じている胸の高鳴りも、いつかは薄れていくだろうから。
それをずっと忘れないままで過ごせるあんたのことが、すごく羨ましい。
あんたが見続けているものを、私も見ていたいんだ。出来ることならば、隣で、一緒に。
だから私も、ちゃんと進むよ。今度は、自分自身の力で。
「美咲、いまから海に行きたいと思わない?」
「いや、学校あるから」
「じゃあ放課後に行きましょう!」
「いや、バンドの話はどうするの?」
「あら、それもそうね…………だったら、みんなで海に行けばいいと思わない?」
「それじゃあ話が纏まらないから、また今度ね。今日はちゃんとバンドの話をしようよ…………紹介、してくれるんでしょ?」
「美咲がそういうなら、そうしましょう! 海はいつでも行けるけど、今日はみんなが集まる特別な日なんだから! 折角だし、あたしの家に集まりましょう!」
あれ、そういえば。
「こころの家、行くの初めてだ」
「そういえば、そうね。美咲の部屋の居心地がいいから、いつも遊びに行っちゃうの。招待するの、すっかり忘れてたわ!」
こころの家、か。なんとなく想像できるけど、心構えだけはしっかりしておかないと。想像以上のものが出てきて、驚きを通り越して放心してしまいそうだ。
☆ ☆ ☆
「奥沢さん! 大丈夫だったの!? 先生から体調不良って聞いたけど!?」
「うわっ、ビックリした」
教室に入るや否や、見知った顔が私へと大きな声で話しかけてきた。反射的に耳を塞ごうとしたけれど、片手がこころの腕で塞がっているから。空間が揺れたんじゃないかと思うほどの大声が、鼓膜を直接突き抜ける。
無意識のうちに声を漏らしながら、片目を閉じる。軽く眉間にシワがよっていたのか、私の反応を見た彼女は大慌てで自分の口を塞いだ後、そのまま両手でろくろを回しながら言葉を続けた。
「あっ、ご、ごめんね? その、私、心配してたから…………えっと、声、煩かったよね? 病み上がりなのに、ほんとごめん…………」
「いや、大丈夫だから。そんなに落ち込まないでよ」
「あ、ぅ、本当にごめん…………えっと、奥沢さん、今まで休んだことなかったから…………その、心配で、先生から聞いて、あの、ぅ、大丈夫、なんだよね?」
シュンとした顔で両肩を下げ、胸の前で両手の指をツンツンと合わせている彼女の姿は、見ているだけでこちらの罪悪感を煽ってくる。もう明らかに心の底から心配していましたって雰囲気が凄くて、とてもじゃないけど。仮病でした、なんて言えない。
相変わらず、いい子だな。なんて、そう思いながら。
兎にも角にも、元気を出してもらおうと。俯いているせいで上目遣いになっている彼女へと、口を開く。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に大丈夫だから。
「あぅ、その、えへへ…………えっと、元気そうでよかったです」
「いや、なんで急に敬語なの」
彼女をついつい子供扱いしてしまいそうになるのは、この健気な態度が原因なのかもしれない。はにかむ彼女は見た目よりも幼気で、とてもじゃないけど同い年とは思えない。身長はそこまで低いわけじゃないのに、不思議なものだ。
思わず笑ってしまった私の顔を見て、彼女も気が抜けたのか。ふにゃっとした顔のまま、体を左右に揺らしている。いや、ほんとうに褒められると弱いなこの子。
委員長は私が中学生の時の同級生だ。いや、今も同級生だから紹介の仕方としては不適切なのかもしれないけど。だいたい意味は伝わってくれてると思う。
彼女は一言でいえば、とても面倒見のいい性格をしている。とにかくいつも元気に笑っていて、友達に囲まれていて、それでいて頑張り屋さんだ。私も、それなりにお世話になったことがある。
学級委員の仕事をずっとやっていたらしくて。委員長といえば彼女のことだと認識するくらいには、みんなが彼女を委員長と呼んでいた。私が見てきた人の中でも、飛び抜けて善人の気質をしている。邪念がないというか、とにかく人に悪感情を向けることがないのだ。
たぶん、陰口を言ったことが一度もないんじゃないかって思うくらいには。彼女から感じる気配は明るくて、気持ちがいい。その人柄の良さから、クラスメイトのみんなから慕われていた。
彼女がいてくれたから、中学時代の教室は居心地がよかったのを覚えている。クラスメイト同士のいざこざとか、そういうのがほとんどなかったから。たまに喧嘩はあっても、彼女がその場を収めて、後腐れない解決の仕方を見つけていた。
人付き合いを避けていた私にも、根気強く話しかけてくれていたくらいだから。その人の良さには驚かされる。あの頃の私って、正直関わりたくないって思う人が大多数でしょってくらいには、褒められた態度じゃなかったと思うし。嫌われてもおかしくないほど、そっけない態度を取ってしまっていた。
彼女は私に袖にされて落ち込んでも、次の日にはまた元気になっていた。それでいて、私に嫌悪感を向けることもなかった。思えば私は、彼女のその態度に少し甘えていたところがあるかもしれない。
どんな巡り合わせか。そんな彼女は高校生になった今も、こうして同じクラスに席を並べる間柄になっている。入学式の日以来あまり関わってくることがなかったから、てっきり忘れられたのかと思ってたけど。
こうして面と向かって心配してくれるくらいには、交友は残っていたらしい。
正直人が良すぎて、心配になる。そのうち悪い人に騙されたりしないだろうか。
私にも優しくしてくれるくらいだから、そのうち勘違いする男も出てくるんだろうなって思う。ここが女子高で本当に良かったよ。流石に、痴話喧嘩で落ち込む彼女の姿は見たくない。
正気を取り戻したのか、委員長は私の方へと視線を向けてくる。目が合いそうになって…………咄嗟の行動なのだろうか、勢いよく逸らされた。耳まで赤くなっているから、恥ずかしいのかもしれない。
彼女が視線を逸らした先。私の左手側には、私の腕を取っているこころの姿がある。
平然と腕を組んでいることに、驚いたのだろう。委員長は軽く目を見開くと、すぐに元の笑顔を浮かべた。いや、心なしか…………少しだけ、強張っているように見える。うん、そうだよね。普通は驚くよね。
あまりにも当たり前のように腕を組んでくるから、もう慣れてしまったけど。やっぱり他の人からは、変に見えるものなんだろう。
そこで、こころの様子がおかしいことに気がつく。
いつもだったら、こんな風に長時間大人しく黙っているはずがないのに。委員長と見つめ合って、不思議そうに首を傾げている。
珍しいな、なんて。そんな風に思いながらも、視線は委員長に固定されたままだった。
なんというか…………なんだ。今までに見たことがないほど、表情をコロコロと変えていて…………相変わらず、面白いところもあるんだなって。
「弦巻さんも、おはよう! 相変わらず奥沢さんと仲良しだね! …………あの、どうやったらそんなに仲良くなれるの? 私にもこっそり教えてくれたりしない?」
彼女の中で何かしらの結論が出たのだろうか。見ている方が元気になれそうな笑顔を浮かべた彼女は、こころ相手でも物怖じせずに挨拶していた。エスカレーター組はこころの実家のことを知っているから避けている節があるし、外部生である委員長の反応は珍しい方だと思う。まぁ、委員長ならエスカレーター組だったとしてもこころに普通に話しかけそうなものだけど。
最後の方は小さな声で言ってたけど、正直全部聞こえていた。いや、ほんと。あの頃のことは謝るから許してくださいって、頭を下げてしまいたくなる。
「あなた、今まで見たことないタイプの人ね! 素敵な笑顔だと思うわ! それと、おはよう!」
「えっ、本当に? 笑顔が素敵…………かぁ、初めて言われちゃった! …………えっと、ね、その、奥沢さんも、そう思う?」
「あ、うん。委員長はいつも笑顔だし、見てて気持ちいいよ」
「えへ、えへへ…………へ、へー、そうなんだ…………奥沢さんは私の笑顔が好き、なるほど、うん、えへへ」
いや、そんなことは言ってない…………まぁ、あながち間違っているわけでもない、のか? これはこれでいいかなって。訂正しようとした口を閉じる。
なんか知らないけど嬉しそうだし。委員長、褒められるのが好きみたいだから。このままにしておこう。
「ところであなた、美咲のお友達? お名前は? なんていうの?」
「と、ともっ!? 私が! 奥沢さんの友達!? そう見える!? ほんとに!?」
「いや、存在を覚えられてなかったことに驚こうよ。こころ、クラスメイトの顔ぐらい覚えなって」
こころの両肩を掴んで、何故か取り乱した委員長の姿を見ながら。そういえば、彼女は友達といえるのかと。そんなことを考える。
彼女はみんなに優しいから、特別私と仲がいいというわけじゃない。中学の頃も特定のグループの子たちと良く話していたし、私はただのクラスメイト止まりだと思う。
卒業するときに連絡先を聞かれて教えたけど、今まで一度もやり取りをしていないし…………うーん、友達…………なのか? ちょっとよく分からない。
一度考え始めたら、なんだか気になってきた。彼女は私のことを、友達だと思っているのだろうか。
前までならそんなに気にしていなかったことだけど、今の私は違う。
彼女みたいな人が友達なら、それは嬉しい事だなって。心の底から、そんな風に思えるのだ。
むしろ、これまでが本当に対人関係に淡白すぎたというか…………あまりにも薄情だったかもしれない。どんだけ視野が狭かったのか、今となってはよく分かる。
委員長の肩に手を置くと、彼女は過剰なくらいの速さで此方へと振り向いた。おおう、ちょっとびっくりした。
目がグルグル回転しているようにすら見えるほど、委員長は取り乱していた。
…………うーん、これはどういう反応なんだろう。今までテレパシーに頼りすぎていたせいか、相手の考えている事を察する能力に乏しいのかもしれない。
至近距離で目が合って、委員長はどんどん顔を赤くしていく。もう、耳まで真っ赤だ。本当に、恥ずかしがり屋なんだなって思う。
よく考えたら私もそこそこ赤面癖があるから、あんまり人のことをいえないか。
彼女の瞳を見つめながら、されど超能力は使わないで。私は彼女に、思ったことを口にした。
「私は委員長が友達だと嬉しいけど…………委員長は私のこと、どう思ってる?」
「好きです!」
…………え?
「えっ?」
「あっ、いや、今のはちがくて、えっと、そうじゃなくて…………その、友達として、えっと、す、す、す、す…………ちょっと待ってて、すぐに落ち着くから…………ふー、はぁ…………さっきの好きっていうのは、奥沢さんの事を友達としてす、す、すすすすす、す…………」
「す?」
「────────きゅう」
「えっ、委員長…………? 委員長!? えっ? 気を失ってる…………? うそ、なんで?」
「ね、ね、美咲。この人はイインチョウっていうの? 美咲のお友達って、なんだかすごく面白いわね!!」
「こころ、勘違いしてると思うんだけど委員長ってのは名前じゃなくて…………いや、そんな事を言ってる場合じゃ…………っ!」
結局、委員長はすぐに意識を取り戻した。私に抱きかかえられているのを認識して、俊敏な動きで離れたから元気だとは思う…………たぶん。いや、様子がおかしかったから自信がないけど。きっと大丈夫なはず。
そのあと教室を飛び出して、聞き取れない言葉で叫びながらどこかに走り去っていったのには驚いたけど。授業開始前にはいつもの調子で帰ってきていたから、うん…………大丈夫なんじゃないかな。
でも、まぁ。彼女が私を友達だと思ってくれていたことが分かったのは、素直に嬉しかったよ。うん、本当に。
祝☆委員長本編登場!