─────にゃー、と。
猫の鳴き声が聞こえた気がして、足を止めた。それに釣られて、花音さんも歩みを止める。
なんだかここ数日の間によく耳にするようになったその声は、私を「もしかしたら」という気持ちにさせる。少しの期待とともに周囲を見渡せば、レンガの塀の上に立って此方を見つめている
「美咲ちゃん…………?」
「花音さん、ちょっと待っててください」
「えっ…………? うん、その…………べつに、いいけど。どうしたの?」
「ちょっとした知り合いの姿が見えまして。すみません、すぐ戻ります」
「あっ…………」
繋いでいた手を離して、あの子の方へと近づく。花音さんの驚くような声が聞こえたけれど、私の視線はあの子に釘付けになったままだった。いきなり手を離したから驚かせちゃったのかなって思ったけど、それはあとで謝ることにして。
頭の冷静な部分が「急に近づくとびっくりして逃げちゃうかも」なんて囁いてくるけど…………あの人懐っこさだったら大丈夫だと、根拠のない自信も頭の中にあって。
それを証明するかのように。彼女は塀から飛び降りて、近づく私の足元へと歩み寄ってくる。
綺麗に整えられた、淡い水色の体毛。つぶらな黒の瞳には、どこか親愛のような感情すら感じられる。
両耳の下で結ばれた一対のリボンが、動きに合わせて微かに揺れていた。
ある程度近づいたところで屈んでやれば…………なんていうか、予想通り。
人に慣れているのだろう。彼女は私の足元へと擦り寄ってきて、足と足の間に体を滑り込ませた。喉を鳴らしながら私へと自分の体を擦り付けて、可愛らしくも甘えてくる。
視界いっぱいに広がる心温まる光景に、自然と頬が緩むのが分かる。やっぱり、生き物ってのはどこか人の気持ちを癒す力があるのだろう。ペットを飼う人の気持ちが、なんとなく理解できた。
されるがままにしていると、彼女は私の様子を伺うように下から顔を覗き込む。まん丸な瞳が愛らしくて…………気がつけば、頭を撫でていた。
なー、と。誰が聞いても分かるであろう。心の底から気を許しているその声に、堪らず両手で彼女を抱き上げた。
温かかった。小さくても命があるんだなって、納得できる体温だった。
片腕で支えながら、もう片方の手で撫でる。目を細めてそれを受け入れる彼女の姿が、私の理性を優しく溶かしていって。
チロリ、と。撫でる私の手を、彼女が舐めたから。後ろに花音さんがいるのにも関わらず、猫なで声で話しかけてしまった。
「んー…………子猫ちゃん、もしかして私に会いにきてくれたのかなー? …………ほらほら、ここが気持ちいいのかな? それともここかな?」
そんな、似合わない声音で囁きながら。私はどこかで見聞きした記憶をたどって、猫が喜ぶであろう場所を撫で回す。
喉から始まって、頬、耳の後ろや後頭部。抱えている方の腕では、背中とお尻を。
耳を撫でていた手を移して、仰向けになっていた彼女の胴体をわしゃわしゃとくすぐる。
うろ覚えだったから少しだけ不安があったけど。彼女の反応を見る限りでは、私の行動は間違っていなかったようで。
どこまでも安心しきったように脱力するその姿が、私を更に夢中にさせた。
きっと今の私はこれ以上ないほどだらしのない顔をしているのだろう。でも、だって…………こんなに可愛いのが悪いと思いませんか? いや、誰に向かって話しかけてるのって感じだけど。正直、これは卑怯だと思う。抗いがたい魅力がある。
なんなら、このまま顔を押し付けちゃおうかな。なんて、押し寄せる感情の波の終着点を見失いつつあった私は、そんなことまで考慮し始めて…………。
「えっと、あの、美咲ちゃん…………?」
「あっ」
花音さんから声をかけられた事で、正気を取り戻した。
…………完全に我を失っていた。いや、ほんと、危ないところだった。話しかけられなかったら、何をしでかしていたか分かったもんじゃない。
でも、そんなことはおくびにも出さず。
胸に猫を抱きしめたまま、顔に笑みを浮かべて。なんでもないような顔で、彼女の方へと振り返った。
…………後ろめたいことは無い筈なんだけど、どことなく気恥ずかしい。猫撫で声を聞かれていたら、どうしよう。顔は赤くなってやいないだろうか。私は赤面癖があるみたいだから、ちょっと心配だ。
花音さんは首を傾げて、私のことを見つめていたけれど…………手の中にある存在に気がついた瞬間、その目を丸くして釘付けになっていた。
ああ、うん、そうだよね。花音さん…………こういう小さな動物とか、好きそうだし。
腕の中の猫ごと、ゆったりと左右に揺らす。花音さんの視線も、右へ左へと振り子のように動いた。釣られてか、体も少し揺れている。フリルのついた服が、水槽に揺蕩う魚のヒレのように波打った。
あ、大丈夫そう。これ、多分私の声とか気にしてない。
あれが聞かれてなかったことに安心して、軽くため息を吐き出す。どうしたの? と言わんばかりに猫が私の手をテシテシと叩いて、また得体の知れない感情が湧き上がりそうになるのを、必死に堪える。
可愛いって、ズルい。こんなことをされたら、誰だって抱きしめたくなっちゃうじゃん。
そんな言い訳を頭の中で繰り返しながら、興味津々といった様子の花音さんへと声をかけた。
「よかったら、触ってみます?」
「…………いいの?」
「見ての通り人懐っこい子なんで、多分大丈夫だと思いますよ」
「…………じ、じゃあ…………その、折角だから」
言葉では消極的でも、態度までは誤魔化せない。私が声をかけるまでもなく伸ばされかけていた腕が、少しずつ此方へと近づいてくる。
私の方からも一歩進んで、花音さんへと手の中の猫を差し出すように近づけた。
私の顔を見ていた猫が、自分へと伸びてくる掌に気づいて────。
「あっ」
「…………あっ」
前者が私、後者が花音さんの声だった。
猫は花音さんの手を確認した瞬間、それを払うように尻尾を当てると、顔を背けて私の胸元へと顔を寄せたのだ。
勘違いとかじゃなくて。その行動からは、明確な拒絶が見て取れた。それまで甘えたような声で鳴いていた姿からは想像できないような、冷たい態度。
花音さんは呆然とした様子で固まっていて、私は彼女よりも先に我を取り戻した。
「あ、あれ? どうしたの? ビックリしちゃった?」
なー、と。先ほどまでと同様の甘え声を出しながら、彼女は私にグリグリと頭を押し付けている。花音さんの手を払ったことが、気のせいだったように思えてしまう。それくらいには、その姿は親しみ深い。
でも、目の前でショックを受けている花音さんの姿が嫌でも目に入ってしまうから。さっきの行動は気のせいとかじゃなくて、 本当に起こったことで。
そう思えば、この懐いてくる小さな命も、なんていうか、好みがあるように見えてきて……えっと、その、つまり…………?
「あの、花音さん…………? その、そんなに落ち込まないで貰えると…………えっと」
「だ、大丈夫だよ…………そ、その子、たぶん美咲ちゃんの事が好きなんだと思う…………うん、私は、気にしてないから…………」
「いや、そんな泣きそうな顔で言われても…………」
「な、泣いてない…………泣いてない、よ?」
「…………流石にそれは無理がありますって」
「ふぇ、そ、そう…………かな? うん、そうなのかも…………」
なんていうか、心にくる。悲しそうにしている花音さんの姿を見ていると、私まで泣きそうな気がしてきた。原因の一端が私にあるというのも、罪悪感を助長している。
だって普通、その、こんな風に人に慣れているんだからさ。みんなに同じような態度なんだって思っちゃうじゃん。
まさか、撫でられるのを拒絶するなんて。予想外にもほどがある。
困ったように微笑んでいる花音さんの目尻には、隠しきれない涙の影が浮かび上がっていて。無理やり笑顔を作ろうとしているのが、なおさら痛々しい。
猫と花音さんとの板挟みで、気持ちが温かくなったり冷えてしまったりと、忙しなく動き続けている。
というか、気まずい。
花音さんとの間に、見えない壁ができてしまったかのようだ。さっきまで感じていたほんわかとした感情が、急転直下で底に沈んでしまった。お通夜のような、というべきか。
ああ、もう、仕方ないな。
心の中で猫に謝りながらも、目を合わせる。その感情も、伝わってしまうんだろうけど。
猫に対して、テレパシーを使用した。
【お願い、花音さんを元気付けてあげて】
猫は案外賢いから、わざわざ超能力を使う必要なんてないのかもしれないけど。それはそれとして、花音さんに聞かれて更に落ち込まれても困るから。
申し訳ないって気持ちと、どうしても元気を出してほしいって気持ちの両方を込めて、私の感情を伝える。
人間の言語を用いない彼女にとって、それは明確な言葉として聞こえたわけじゃないんだろうけど。感情っていうものは、人間以外にも通じる概念だから。
私の心からのお願いを聞いた彼女は…………仕方ないな、とでもいいだけに尻尾を揺らして。その体を伸ばして私の頬をペロッとひと舐めして、腕の中から飛び降りた。
そのまま、花音さんの方へと歩み寄る。
急な接近にあたふたとしている彼女の足に体を寄せて。私にしたように…………いや、心なしか少し控えめに擦り寄っている。
花音さんは「ふええ」なんて言いながら、私と猫を交互に見て…………いいのかな、とでも言いたげな視線を、猫へと向けて固定していた。
まぁ、一度拒絶されてたから気持ちは分からなくもないけど。そんなに気になるなら、素直に撫でてあげればいいのに…………なんてのは、心に余裕がある私だから言えることなのかな。
自嘲気味に浮かべそうになる苦笑いを抑えて、花音さんへと声をかけた。
「撫でたらいいんじゃないですかね」
「えっ、いや、でも…………だって、さっきは…………」
「私からちゃんとお願いしておきましたから、大丈夫ですよ。花音さんが泣きそうになってるから、慰めてあげてって」
「そ、そんな…………泣きそうになんて」
「ああ、もう! それは分かりましたから…………ほら、こうしてあげればいいんですよ」
本当は撫でたいのに、遠慮するもんだから。また拒まれたりしないかって、不安そうな瞳で。その迷っている姿が、とても焦れったくて。
彼女の元へと足を進めて、宙をさまよう手を取る。さっきまで繋いでいた、シミひとつない綺麗な手を。
体を硬直させた彼女を、半ば無理やり屈めさせて。足元で首を傾げていた猫の元へと、花音さんの手を近づけて。
そっ、と。その頭へと、優しく添えさせた。猫はくすぐったそうに瞳を細めて、頭を摺り寄せる。やっぱり、私と比べてちょっとだけ控えめだった。
「あっ…………」
「ほら、ね? いい子でしょ?」
「う、うん…………温かい…………」
道の往来で足を止めて、二人揃って腰を屈めて猫を撫でる。最初は遠慮しながら撫でていた花音さんも、猫が逃げないことを確信したのだろう。だんだんと手つきが大胆になっていって、最後には慣れたように耳の裏を優しく掻いていた。
一度は拒まれて泣いていたのにも関わらず、その目つきはとても慈しみに満ちていて。ああ、この人は本当に…………良い人だなって。心の底からそう思ったから。
「可愛いですね」
なんて、柄にもなく。自然と口から言葉が漏れていた。花音さんは猫に視線を向けたまま、私の言葉に反応する。
「うん、そうだね…………本当に、かわいい…………」
その言葉を聞いて。勘違いされてるなって、気がつく。猫のこともそうだけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて。
「いや、猫も可愛いですけど…………私が言ったのは、花音さんのことですよ」
「……………………ふぇっ?」
「ほら、そういうところ。女の子らしいっていうか…………なんだろ、私は好きですよ」
「えっ…………えっ? そ、そんな…………私なんて」
「花音さん、もっと自分に自信を持った方がいいですって。絶対その方が…………いや、でも……今のままの方が花音さんらしいか? あー、うん。そのままの、可愛らしい花音さんでいてください」
褒められて顔を赤くしている彼女の姿は。それはもう、言葉にできないほど女の子らしくて。私はきっと彼女のことを好ましく思うと同時に、羨ましいとも感じているんだと思う。
フリルのついた可愛い洋服も、儚げな印象を与える容姿も、女の子らしい趣味も、裏表のない優しい心根も。
彼女にはあって、私にはないものだから。
このいかにも気弱そうな、物語の中から出てきたお姫様みたいな少女のことが。私は羨ましくて、気に入ってるんだ。
最初は、どちらかといえば嫉妬に近かったのかもしれないけど。こころの事もあって、精神が安定していなかったから。
でも、今なら。こうして口に出して認められるくらいには、その事も受け入れられていて。
私もこうありたいと願うと同時に、近くで守っていたいとも思っている。
人と触れ合うというのは、本当に面白い。まだ少しの付き合いなのに、こんなにも気持ちが刺激されて…………心の形が、少しずつ変わっていくのを実感できるから。
顔を赤くして黙り込んでしまった、この人も。私と同じように、この時間を楽しんでいてくれたらいいなって。
嬉しいとか、楽しいとか。そういう感情を共有できたらなって、本心からそう感じられることが。一人で思い悩んでいたあの頃には絶対に手に入らなかった感情が、私の胸の中を、どうしようもないほど高ぶらせる。
もっと、もっと知りたい。
人と触れ合うということの心地よさを、そこから得られる感情を。
そうすればきっと、私はもっと彼女の元へと近づくことができる。人の喜びを自分のことのように感じて、自分の喜びを他人へと伝えて。
世界を笑顔にしたい、なんて途方も無いお伽話を夢見る彼女のように。私はそうなりたくて、近づきたくて、隣に立ちたいから。
だから今は、この人のことを沢山知っていこう。
私にできた、新しい友達のことを。可愛らしくて、勇気があって…………心の中で沢山の愛を育てている。頼り甲斐があって、揶揄い甲斐のある。歳上の友達のことを。
この正直な人に…………私も、正直でありたいと思うから。だから私は、思ったことを口にしてしまう。
「ねぇ、花音さん」
「な、なに、美咲ちゃん」
「私、こころが選んだのがあなたで良かったと思います。他の人だったら…………なんて、考えるのは失礼かもしれませんけど。たぶん、こんな風に一緒に出かける事もなかったんじゃないかなって、そんな気がしますから」
「あ、あの…………えっと、わ、私も…………その、美咲ちゃんと仲良くなれて、よかった、よ?」
「じゃあ、両想いですね」
なんて、かつて自分が貰った言葉を口にすれば。彼女は赤かった頬を更に赤らめて、口をパクパクと動かして…………うん、やっぱり可愛らしい人だと思う。
この気持ちが片想いじゃないのなら、それ以上のことはない。私が彼女を友達だと思っているように、彼女も私のことを友達だと思ってくれているのなら。今は、それだけで十分だから。
一番欲しかった筈の言葉が、あの子のものだった言葉が…………私の中に溶け込んで、私の言葉へと変わっていた。
今はそれが、とても嬉しいよ。
「美咲ちゃん、もしかして…………また、揶揄ってる?」
「え…………? いや、特にそんなつもりはないですけど」
「そ、そう…………なんだ。うぅ……ずるいよ…………」
何がずるいんだろうか。聞こえてきた言葉が気になったけど、彼女はきっと聞かれてないと思ってるだろうから。
わざわざ小さい言葉で口にしたことまで、聞き出すことはないかなって。そう思って、聞こえなかったふりをする。
いつのまにか私の足元まで近づいてきていた猫の、頭を撫でながら。
私はこれから訪れる筈の楽しい時間のことへと、思考を巡らせた。
☆ ☆ ☆
「あっ、美咲ちゃん! 奇遇だね!!」
チリン、という鈴の音がなった少し後に、声をかけられた。
いらっしゃいませ、じゃなくて。もっとずっと気安い言葉。友達に対してかけられるような、そんな優しくて嬉しげな声音で。
予想外の遭遇に、驚きながらも。
友達と出会えた嬉しさの方が勝って、私はやや大きな声で…………その人の名前を呼んだ。
「…………日菜、さん?」