人生っていうのは、想像できないほど沢山の偶然の連続によって作られているのかもしれない。目の前の景色を目にして、そう思った。
一応、念のため。隣へと顔を向けて、花音さんへ問いかける。
「あー、花音さん…………連れていきたかった喫茶店って、ここ?」
「えっ、うん、そうだけど…………あっ、もしかして、もう来たことが……あった、り……?」
「まぁ、なんていうか…………一回だけですけど」
扉の上に記された「羽沢珈琲店」の五文字が、その存在を大きく主張している。それは見覚えがあるといえばあるし、見慣れないといえばそれまでのもので。
有り体にいってしまえば、一度は訪れたことのある場所だった。
「そ、そうだったんだ…………ごめんね? ほら、美咲ちゃん……最近こっちに引っ越してきたって聞いたから…………その、オススメのカフェを教えてあげるねって…………えっと、だから、あの」
「花音さん、落ち着いてください。たしかに一回はきたことありますけど…………それは半年以上も前のことですし。ここの料理と飲み物は美味しかった覚えがありますから。また訪れる機会が出来て、嬉しいですよ」
「ほ、ほんと? 私に気を使ってたりしない? …………その、此処には失礼になっちゃうけど、ちょっと、ガッカリしてたりとか…………」
「いえ、それは全然。ただ…………なんていうか、世界って思ったより狭いもんなんだなって思いまして。花女の学校見学の時に訪れた喫茶店が、まさか花音さんの行きつけの店だったなんて…………いや、同じ街の中なんだからそんなに珍しいことでもないのかな?」
偽りのない本音だ。また来よう来ようとは思っていた場所だけれど、タイミングに恵まれていなかったから。アルバイトの帰りに寄ってみてもよかったけど、夜はどちらかというとガッツリ食べたいタイプだったし。
なにかと機会に恵まれなかったわけだから、こうして友人と一緒に来ることができたのは素直に喜ばしいことだった。
花音さんはガッカリさせちゃったんじゃないかって仕切りに気にしているけれど、そんなのは杞憂に過ぎない。
元々、そういう目新しさに拘らないタイプだから。そりゃ、口にするものは美味しいことに越したことはないけど…………どちらかというと、沢山食べられる方が嬉しいし。
その上、この店は料理もドリンクもデザートも全部美味しかったと舌が覚えている。
こうして考え事をしている間にも、お腹が早く食事をしろと急かしてくるくらいなのだから。
友達と一緒に喫茶店に訪れるなんて、よく考えたらそれほど経験があるわけでもないし。
まぁ、なんにせよ。
「これで花音さんのこと、また一つ知られましたから。同じ喜びを共有できるのは、得難い経験ですよ。それだけで十分、私は満足してますって…………まだ何も食べてないのに、なにをって感じですけどね」
「あはは…………うん。そう言ってもらえて、私も気が楽になったよ」
彼女も私のことを、少し理解してくれたんだろうか。別に言葉を飾っているわけでも、気を使っているだけでもなくて。なるべく本心で、思ったことをそのまま口にしているって。
だとすればそれは、信頼の一つの形だから。また一つ仲が深まった気がして、口元が緩む。
「じゃあ、入りましょうか。いつまでも店先でたむろしているわけにもいきませんし」
「うん、そうだね。お昼になったら混んじゃうから」
なんて、やり取りをして。わたしは実に約九ヶ月ぶりに、羽沢珈琲店へと足を踏み入れたのだった。
そして────。
「あ、美咲ちゃん! 奇遇だね!!」
…………ああ、うん。やっぱり人生っていうのは、偶然の連続で作られていると思う。
心底嬉しそうに瞳を輝かせている彼女の姿を見て、そのことを確信した。日菜さん、あなたはなんていうか…………予想できないタイミングで姿を見せますね。
☆ ☆ ☆
「ほら、こっちこっち! 二人分空いてるよ!」
「えっと…………じゃあ、ご一緒させてもら…………」
手を振る日菜さんの姿を見て、反射的に承諾しようとしてしまった。言葉を止めて確認すれば、花音さんはどこか気まずそうな顔で眉をひそめている。
無意識なのか、私の手を握る力が強くなっていて…………傍目から見ても、緊張しているのがわかる。
彼女から見て日菜さんは…………知り合いの知り合い、というやつだ。なんというか、いきなり同席するのはハードルが高いと思う。花音さんみたいな性格の持ち主なら、なおさら。
花音さんから日菜さんへと視線を戻せば、彼女はなぜ私が迷っているのか全然わからないといった表情で首を傾げている。うん、知ってた。
もう一度花音さんへと視線を戻して、確認の意味を込めて意思を問う。
「花音さんは初対面ですよね。その、同席は遠慮した方が…………」
「う、ううん。私に気を遣わなくてもいいよ…………美咲ちゃんの、友達? なんだよね。じゃあ、大丈夫だと思う…………えっと、たぶん」
「なんていうか…………そこはかとなく不安なんですけど、本当に大丈夫ですか?」
「うん…………私、頑張るよ」
「いや、頑張るとかの話じゃなくて────」
意地なのか、それとも優しさなのか。片手で作った握りこぶしを胸元に持ってきて、口を横一文字に結んでいる彼女の姿は…………正直、あまり威厳が感じられなくて。
気まずい雰囲気で黙り込むような花音さんが見たくない私は、それなりに考えてもらおうと思っているんだけど。その当人の意思の硬さの前では、あまりにも無力だった。
「ほら、はやくはやく!」
焦れて、待ちきれなかったんだろう。日菜さんは片手を大きく振って、此方へと存在感をアピールしていた。
いやあ、相変わらずこう…………強烈な人だと思う。ただでさえ美人なのに、その行動は目立って仕方がないだろう。周囲の視線を独り占めしている。
やっぱり、芸能人とか似合いそうだ。普段は何やってるか分からないけど…………学生なんだろうか。いや、本当に想像つかない。普通に授業を受けてる姿がイメージできない。
ああ、いや。今はそんなことを考えている場合じゃなくて。
日菜さんが集めていた視線は、手を振るという目立つ行動をしているからであって。すなわちそれは、振られている方にも注目が集まりかねないということで。
此方へと向けられる視線から身を隠すように、花音さんが私の後ろの方へと回っている。繋いでいたはずの手は、いつのまにか服の裾へと移動していて…………シワができそうなほど、強く握られていた。
なんていうか、正直なところいまの日菜さんのところに行くのはかなりハードルが高いけど。
こうしてお呼ばれしている上に、花音さんも構わないと…………少なくとも、嫌ではないと言っているわけだし。
だったら、私が頑なにアレコレいうのも…………おかしな話だと思うから。
「あー、じゃあ…………花音さん、すみません」
「い、いや、私は、その…………大したことじゃないけど、えっと、こういう時は…………ありがとう、の方が嬉しいかな?」
「そうですね、ありがとうございます」
「ううん、私も…………ほら、席が結構埋まっちゃってるし。助かった…………かな?」
「いやいや、二人分なら全然空いてるんですし…………そんな、無理にフォローしなくても」
「なに二人で話してるのー! あたしも混ぜてよ!」
あんたは子供か! と、言いたくなるような。あまりにも自由すぎるその言動が、私の中の良識を揺さぶって…………まぁ、焦らすような態度だった私たちにも問題はあるだろうし、と。そんな風に無理やり納得して、ため息を飲み込んだ。
日菜さんは私たちが近づいてくるのを確認すると、わざわざ立ち上がってから
吐き出しそうになるため息を飲み込むのは、何度目だろうか。ふとした拍子にやってしまいそうになるから、意識して我慢するのも一苦労だ。
カウンター席の端から三つに、花音さん、私、日菜さんの順番で座る。私が間に入ることで、二人の過度な接触を防ぐ。そんな意図のある席順。
単純に、この二人が並んでも話題が続かないだろうってだけの話だけど。そこはまぁ、こうしてちゃんと配慮しているから問題ない。
「いやー、まさか美咲ちゃんに会えるなんて。今日はいい一日になりそうだね」
「いやいや、ニュースの占いで出てきたラッキーアイテムじゃないんですから」
「…………なんだ。ちゃんと元気、出せたんだね。日菜ちゃんが余計なことを言う必要もなかったかな?」
「いや…………正直なところ、だいぶ助かりました。こうしていられるのも、日菜さんのお陰だと思います」
「えー、本当に? それは…………うん、嬉しいかな」
軽い挨拶に冗談を返せば、彼女は一瞬だけど驚いたような表情を浮かべて…………その後に、あの飄々とした態度を取り直した。
片肘を机の上に立てながら、嬉しそうに微笑んでいる。目の前のものを慈しむような、柔らかな笑顔。
それでいて相手を揶揄っているような、ニヤニヤとした笑みにも見えてくるのだから。本当に、どの表情がこの人の「本心」なのか…………未だに、理解できない。
それを向けられているのが私という点を除けば、魅力的だと思う。あまりにも綺麗だから、直視できなくて…………たまらず花音さんの方へと視線を向ければ、彼女は借りてきた猫のようにおとなしくなって…………いや、常にこんな感じなのは否めないけど。
とにかく、両方に面識がある私が仲を取り持つべきなんだろう。
椅子の半分ほど体をずらして、お互いの姿がよく見えるようにする。日菜さんを手で示して、花音さんへと話しかけた。
「こちら、氷川日菜さん。最近出会ったばかりのはずなんだけど────」
「美咲ちゃんとは、ほっぺにチューするような仲だよ」
「────と、まぁ。こんな感じでやたらフレンドリーというか…………なんか、彼女いわく古い友人らしいです。っていうか…………あの、その言い方は語弊を招くからやめてほしいんですけど」
「えっ、えっ? ほっぺに、チューって…………で、でも、女の子同士で!?」
「ほら、花音さんは純粋なんですから。あんまり誤解されるようなことは」
「えー? あたしは別にふざけてたりしないよ? ほら、こうやって…………」
「…………あっ、ちょっ!」
この流れはよくない、そう思った時にはすでに手遅れで。日菜さんは背後から私の首元に腕を回して…………。
チュッ、と。
首の下から伸ばした手で私の顎を押さえながら、不意打ち気味に頬へと口づけをした。
目の前でその光景を目撃したであろう花音さんは、自分の頬へと両手を当てて、顔を真っ赤にしてしまっている。可愛いけれど、可哀想だ。よほど刺激が強かったんだろう、今にも湯気が出てきそうに見える。
「ほら、こういう関係」
「…………あの、別に許したわけじゃないんですけど」
「おろ? …………美咲ちゃん、本当に変わったね。たった二日間見なかっただけで、随分と成長したよ。前ならもっと動揺してくれてたのに…………つまんないの」
「そんなことで成長を実感しないでほしいんですけど…………まぁ、色々あったというか。あんまり、おもちゃにしないでくださいよ」
「はーい」
やや不貞腐れたように頬を膨らませながら、投げやりな返事をして。日菜さんは自分の席へと戻った。
ぷいっ、と。こちらから顔を背けて、明後日の方へと視線を向けている。ちょっと望んだ反応がなかっただけで、どんだけ拗ねて…………いや、これも気をひくための演技なのだろうか。
分からない。でも、この人を理解しようとすること自体が…………なんていうか、無謀な気がしてならない。
気を取り直して、花音さんの方へと向き直る。
「ふえぇ…………」
まだ戻ってきていなかった。
短期間で聞き慣れた悲鳴を上げて、目をぐるぐると回している。確かに刺激的だったかもしれないけど…………そこまで? って気がしなくもない。
まぁ、エスカレーター式の女子高に通ってるくらいだから…………うん、こういう事への耐性が一般よりも低いのかもしれない。男性と接する機会なんて、そうそうなかっただろうし…………いや、私も日菜さんも女だけど。そこには目を瞑って。
なにやら思考の世界に取り残されてしまった花音さんをそのままにして、日菜さんへと紹介する。
「こちら、松原花音さん。ちょっとした縁があって、一緒にバンドをやることに────」
「美咲ちゃん、バンドやるの!?」
「ふぇっ、なに? なにがあったの?」
「うわっ、急に元気になった」
「ねぇねぇ、楽器はもう決まってるの? ギター? ベース? それともドラムとか? 実はおねーちゃんもバンドをやっててさー! あたしはここんところちょっと忙しかったから、手を出さなかったんだけど…………美咲ちゃんがやるなら、あたしもやってみようかなー! あたしはやっぱりギターかな! …………おねーちゃんも、ギターだし…………あっ、美咲ちゃんこの後時間ある? もしよかったら一緒に楽器店に行って────」
マシンガントークかなってくらい。日菜さんは矢継ぎ早に次から次へと言葉を吐き出して、私が答えを返す前に次の話題を口にする。
さっきまでどこか余裕を持っていたはずの態度が、一気に子供のように変わっていて。その変貌っぷりを始めて目の当たりにした花音さんなんかは、目を丸くして驚いていた。惚けたり困惑したり驚いたりと、なんか今日は色々忙しいな、花音さん。
分かるよ、ビックリするよね。さっきまでの日菜さんと、いまの日菜さん。どっちが本当の彼女なのかは、私にも分からないくらいだし。
ただ、このまま喋らせているといつまでも一人で喋り続けそうだから。押し倒してきそうな勢いの彼女の肩を抑えて、元の位置へと押し返す。
キョトンとした顔を浮かべた彼女と、未だに動揺しっぱなしの花音さん。その両方が見えるように、人差し指で意図を伝える。
二人の視線が指先へと集まるのを感じながら、口を開いた。
「とりあえず、注文しちゃいましょう。店員さんも待ってますし…………私も、お腹が空きました」
やや遠くで私たちの様子を見ていた店員さんに、軽く頭を下げる。ついでに、騒がしくして迷惑をかけた周りの人たちにも。同じように頭を下げた。否が応でもこちらを注目しているから、全員に伝わっているのは…………怪我の功名といって、いいのだろうか。
まだ座ったばかりなのに。こんなにも精神的に疲弊してしまうこの瞬間を、私なりに楽しみながら。
気を抜けば音が鳴りそうなお腹を抑えつつ、メニューを開いた。