「そういえば美咲ちゃん、おねーちゃんに会ったんだよね?」
アイスティーの入ったグラスに砂糖とミルクとガムシロップをこれでもかと入れて混ぜながら、日菜さんは私の方へそう語りかけた。
そういえば、と。昨日の事であるはずなのに、やけに遠いもののように思える記憶を呼び起こしながら、一つ頷く。
ちょうど口にサンドイッチを頬張ったタイミングだったから、言葉で返すことが出来なかったけど…………正直なところ、会話の内容よりも彼女の飲み物が気になってしかたがない。あまりにも見た目の衝撃が強すぎて、口が自由であったとしても、言葉が出なかったんじゃないかと思う。
頭を回すためには糖分が必要、とはよく聞くけれど。この人レベルで頭のいい人物になると、常人の数倍のソレを必要とするものなのだろうか。単に甘いものが好きってだけかもしれないけど、なんとなく気になってしまう。
視界の端で見える花音さんの表情は、それはもうあからさまに引きつっていて。まぁ、あれを見ればそんな顔にもなるよねって。共感してしまうくらいには、私もそれなりに引いていた。
そんなに甘くするくらいなら、別の飲み物を頼めばいいのに。好みは人それぞれだから、野暮なことは口にしないけど。
言葉とサンドイッチを飲み込んでから、会話へと進む。
「紗夜先輩から聞いたんですか?」
「んー? いやぁ、おねーちゃんはあたしにそういう事あんまり教えてくれないからさ。おねーちゃんから聞いたわけじゃないよ」
「…………もしかして、カマをかけた感じですか?」
「おねーちゃん、分かりやすいんだもん。ちょっと美咲ちゃんのことを話したら、そわそわ落ち着きを無くしちゃって。昨日の朝なんて、あからさまに会話が上の空だったし…………ああ、これは会いに行くんだろーなーって思ったよ。そしたら案の定、わざわざ下の学年の教室まで顔を出してるし…………本当にもう、過保護なんだからさ」
仕方ないんだから、なんて口にしながらも。唇の端についた水滴を舐めとる彼女の表情は、それはもう…………嬉しそうな笑顔で。
本当に…………お姉さんの事が好きなんだなって。お互いがお互いを思い遣って、好きだということを隠すこともなく表している。それが、自分のことのように喜ばしく感じられる。
確かめるまでもないんだろうけど。それでも、言葉にして尋ねてしまう。
「紗夜先輩のこと、好きなんですね」
「大好き」
間髪を容れずに言い切った日菜さんは、そこで一呼吸置いてから、言葉を続けた。
「たぶん…………世界で一番」
「そこは断定しないんですね。ちょっと意外です」
「あたしは大体のことは理解できるんだけど、自分の感情だけはよく分かってないんだよね。だから、たぶん、って言ってるの」
目を細めて遠くを見つめている彼女の横顔は、どことなく寂しそうにも感じられる。天才だからこそ、見えている景色があるのだろうか。
あそこまで好意的な態度を取っておいて、その気持ちに自信が持てないなんて。側から見ればおかしな話だけど、当事者である彼女にとっては…………答えの出ないことなのかもしれない。
その姿が、少し前までの自分に重なって。まさか、この人がこんな顔をするなんて思っていなかったから。
…………気軽に「分かります」なんて、言いたくはないんだけど。それでも、共感してしまった気持ちに嘘をつけないから。
相槌を打って、言葉を返した。
「…………まぁ、言いたいことはなんとなく分かりますよ。自分のことを一から十まで理解している人なんて、そうそういないと思いますし」
「それに、ほら。日菜ちゃんには美咲ちゃんもいるからね! …………あたし、美咲ちゃんのことも大好きだよ!」
冗談めかして口にしているものの、彼女が私に向けた瞳は本気そのものだった。
藪蛇だったかな、なんて。ちょっとだけ後悔しながら。それでも、こういう風に偽りのない気持ちを言葉にされるのは、結構嬉しいことだから。
私も、正直に。思ったことを口にする。
「流石に、お姉さんと並べられるのはちょっと複雑な気持ちですね。私からしたら、感覚的にはまだ日菜さんと知り合ったばかりなんで」
「まぁまぁ、それは時がきたら分かるよ」
「いま思い出せないことを、この先思い出せるようになるとは思えないんですけどね」
「あたしと美咲ちゃんは運命で結ばれてるからね、
私には理解できない理由で、彼女は自分の考えに確信を持っていた。そこまで言われると、流石に気になってしまう。
心を覗けば…………なんて、考えて。よくよく思い出してみれば、あまり深層意識を見ることがなくなった事に気がついた。
なんていうか、これもまた成長というべきなんだろうか。表層的な感情や思考の方向性は読み取っても、明確な「言葉」で聞こえるような読心をする気になれない。
人の気持ちを知りたい、という思いは変わっていないけど。それはかつてのように人間不信からくる衝動ではなくて…………どちらかというと、「もっとこの人の事を理解したい」という前向きな感情からくる欲求に近いのだ。
そもそも人とわかり合うのに超能力が必要かといわれると、そんな事はなくて。
こうして言葉を重ねて、気持ちを察して。人と同じ時間の流れに身を置くことでこそ、真に相手を理解できると思うから。
そんな、考え方の変化が理由なんだろう。
私は無意識のうちに、自分の超能力の使い方を変えていたんだ。
それは例えるならば、焦点を少しずらすような感覚。見えているものがボヤけて、ハッキリとはしないけれど。それでも相手の気持ちが正負のどちらかに偏っているかは理解できる程度の。有り体に言うならば…………出力を抑えたテレパシー。
深く見るんじゃなくて、広く眺める。感情の機微に聡いといってしまえばそこまでの。どちらかといえば普通の人でも備えているような、そんな力の使い方。
それを劣化だと言う人もいるかもしれないけど…………うん、これはこれで悪くない。何も、覗き込むことが出来なくなった訳じゃないんだし。なんなら、条件反射で人のプライバシーを侵害することもなくなった分、使い勝手は格段に良くなっている。
その力越しに見た日菜さんの感情は、胸の内に隠しきれない熱を持ちながらも、凪のように穏やかだったから。
それ以上踏み込む気になれなくて、誤魔化すようにレモネードで喉を潤した。
「あたし、美咲ちゃんの
「なんですか、急に」
「べつに〜? それよりほら、日菜ちゃんとばっかり話してていいの? 松原さん、だっけ? 気まずそうにしてるけど」
「ふぇっ? え、あ、私のことは、その…………別に、気にしなくても…………」
「そんなに寂しそうな顔してたら説得力ないって! なんで遠慮してるの? あたしがいるから?」
「い、いえ、そ、そういうわけじゃ…………」
日菜さんは私越しに花音さんへと視線を移して、屈託のない笑顔で言葉を投げかけた。
日菜さんの雪崩のような質問の連打は、なるほどたしかに。精神を逆撫でしているようで…………その実、本当に悪意はないようで。人の感情が理解できていないという本人の弁にも、説得力がある。
花音さんからすれば、この上ないほど迷惑な話だろう。知り合いと、その知り合いらしい見知らぬ相手が自分を抜きに談笑していたと思ったら、急に話を振られたのだから。その上、相手は何故か煽るような口調で…………これでその気がないのが信じられないくらいには、およそ好意的とは程遠い言動で。
もちろん。彼女を抜きにして話をしていた私にも、この状況を生み出してしまった責任はある。
それを抜きにしたって、困り果てて助けを求めるような視線を私に向けている花音さんは見ていられないから。
お互いの視界から相手を遮るように、体をやや前のめりにして視線を断ち切る。
花音さんが私の背中へ身を隠したのを気配で確認しながら、口を開いた。
「日菜さん、あんまり花音さんを虐めないでくださいよ…………花音さんも、あんまり気にしないでください。この人、これでも悪気はないんで」
「えー、なにそれ! あたし、なにか気に障るようなこと言った?」
「う、ううん…………氷川さんは悪くないです、よ?」
「固いなー、日菜ちゃんでいいよ? 美咲ちゃんのお友達なら、あたしにとっても他人って訳じゃないし」
「じ、じゃあ私も…………その、花音でいいです」
「ほんと? じゃあ花音ちゃんって呼ぶね。それでさそれでさ、さっきから美咲ちゃんの口ばっかり見てたのはなんで? もしかして…………キスしてほしいの? 時々自分の頬とか気にしてたよね? ムッツリさんなんだ?」
「ふええ!? そ、そ、そんなことないです!! へ、変なこと言わないで…………その、み、美咲ちゃんも…………わ、わた、私…………」
「だから、虐めないでくださいってば…………今のは、わざとやってますよね」
「えへへ、バレちゃったか」
舌を出してウィンクした日菜さんの姿は、とても様になっているというか。普段からこういうことを良くやっているんだろう。引き際もリアクションも、手慣れているように見える。
冗談だってことが分かったからか、花音さんはホッと安堵のため息を吐いていた。まだ少し警戒しているみたいだけど…………それも、出会った時に比べるとだいぶ薄れている。
全く、ヒヤヒヤさせるというか。馴染むにしたってもう少しやり方ってものを選んでほしい。
ため息を我慢して、代わりにサンドイッチを咀嚼する。
花音さんも乱された感情を整えるのに一段落ついたのか、自分の紅茶に口をつけて、笑顔を浮かべている。湯気とともに茶葉の香りが立ち昇っていて、その匂いで気持ちが落ち着くのが分かる。
「ひ、日菜ちゃんって…………氷川さんの妹さん、だったんだね」
「あれ? おねーちゃんのこと知ってるの?」
作られかけていた沈黙を破ったのは、意外にも花音さんだった。彼女から日菜さんに声をかけるには、まだ時間がかかると思っていたけれど…………普段から怯えることに慣れているから、なんだろうか。思っていたより、勇気があるというか…………思い切りがいい。
少なくとも表面上はもう、日菜さんに気後れしていない。さっきまで随分と怯えていたというのに…………切り替えが早い。
昨日あんな風に元気付けておきながら、私はまだ花音さんのことを見誤っていたみたいだ。少なくとも、私なんかよりよほどコミュニケーションに長けている。
「話したことはないけど…………氷川さん、凄い人だから。結構有名人なんだよ」
「へぇ、そうなんだ。おねーちゃん、あたしの話は聞いてくれるけど自分のことはあんまり話したがらないからなぁ…………まぁ、あたしはおねーちゃんの事ならなんでも知ってるから、おねーちゃんがみんなに一目置かれていることも知ってたけどね!」
「う、うん…………氷川さん、勉強も運動も出来て、風紀委員のお仕事も頑張ってて…………あと、音楽もやってるって話だから。私もドラムやってるし…………その、ちょっと気になってたんだ。隣のクラスだから、結局話しかけられなかったけど…………」
恥ずかしそうに口を噤んだ花音さんの言葉からは、紗夜先輩に対する憧れというか…………尊敬の感情が伝わってくる。ドラムをやめようとしていたくらいだから、やっぱり何かしら思うところはあったんだろうか。そこらへんはデリケートな部分だと思うから、無理に知ろうとは思わないけど。
大好きな姉である紗夜先輩のことを褒められた事で気を良くしたのか。心なしか、日菜さんもさっきより機嫌が良さそうだ。
「花音ちゃんもバンドやるんだっけ。いいなー、美咲ちゃんと一緒かー! やっぱりあたしも音楽始めようかな。おねーちゃんとの会話の話題にできるし!」
「紗夜先輩も音楽やってるの、結構意外ですね。なにかキッカケでもあったんですか?」
「おねーちゃんはね…………えへへ、ダメ! やっぱり教えてあげなーい!」
「えぇ…………いや、まぁ、別にそこまで深い意味はなかったんですけど。そういう風に言われると、逆に気になってきちゃいましたよ」
「気になるんだったらおねーちゃんから直接聞いてみたらいいよ。たぶん、恥ずかしがって教えてくれないと思うけど」
「…………恥ずかしがるような理由なんですか?」
「あたしは別にそこまで恥ずかしがらなくてもいいと思うんだけどね。おねーちゃんって、結構繊細だからさ?」
「へぇ…………じゃあ、機会があったら本人に聞いてみます。機会があれば、ですけど」
☆ ☆ ☆
結局、その場では。紗夜先輩のことで盛り上がった日菜さんが喋り続けて、私と花音さんは聞き手に回ることになった。
姉のことで知らないことはない、と豪語するだけあって…………日菜さんは紗夜先輩にとても詳しく、姉妹であるということを加味しても…………少し怖いくらい、色々なことを知っていた。
面と向かって話したのは昨日の一回限りだというのに、あの人のことに随分と詳しくなった。お姉さんについて話す日菜さんがあまりにも楽しそうにしていたから、私も花音さんも止めどきを完全に見失ってしまって…………私が昼ごはんを完食する頃には、結構な数のエピソードを聞いてしまった。
割と最近まで人参が苦手だった、というのには驚いたけど…………これ、本人のいないところで話していい事だったんだろうか。
「それでね、その時おねーちゃんがさー」
「日菜さん、私たちはそろそろ楽器屋に行こうと思うんですけど…………」
「あっ、もうそんな時間? うーん…………ん、ちょうどいいタイミングかなぁ」
「…………? それはいったい────」
どういう意味ですか、と。言葉を続けようとして。
チリン、と鈴の音を鳴らして、喫茶店の扉が開かれた。日菜さんが立ち上がって、音の鳴る方…………店の入り口へと、嬉しそうに手を振った。
噂をすれば影、という事なのだろうか。
私と花音さんが振り向いた先には、今の今まで話題に上がっていた人が立っていて。
ああ、なるほど…………と。
予想外なのは間違いないんだけど。ある意味では…………この展開は彼女らしいって、そう思わざるを得なかった。
店の入り口に立っていたその人物はこちらに気がつくと、少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら、綺麗な姿勢で一直線に近づいてきて。
日菜さんもその人へと近寄って、嬉しそうに両手で相手の片手を取った。
「おねーちゃん! 来てくれたんだ!」
「日菜、あなたが呼んだんでしょうに…………って、あら? そこにいるのは、奥沢さんと…………松原さん、ですか? 意外な組み合わせですね」
こんなに早く再開するなんて思っていなかったから。直前まで彼女のことを聞いていた事もあって、ちょっとだけ気まずい。
視線をちょっと逸らしながら、平静を装って挨拶を返す。
「えっと、こんにちは。昨日ぶりですね」
「…………ええ、こんにちは。どうやら、日菜がお世話になっているようで」
「えー? あたしの方が美咲ちゃんより歳上なんだから、普通はあたしがお世話している方なんじゃないのー?」
「あなたの事はよく分かっています。まったく、どうせお二人の迷惑も考えずに無理やり会話に付き合わせたのでしょう? だいたい、休みの日とはいえ…………急に呼び出すなんてどういうつもり? 私、これでも忙しいのだけど」
「でも、こうして来てくれたじゃん! んー! 『るんっ』てきた! おねーちゃん、だーい好き!」
「ちょっ、こらっ、や、やめなさい…………日菜! こんな、目立つところで…………」
挨拶もそこそこに、日菜さんはその人────紗夜先輩へと抱きついた。紗夜先輩も一応抵抗しているけれど、見た限りでは満更でもなさそうで。
この後の展開を予想しながらも、ただ黙して言葉を待つ。
紗夜先輩に抱きつきながら、日菜さんがこちらへと顔を向ける。心底嬉しげな、子供のような笑顔を見て…………これはもう、逃れられないなって。そう思った。
「じゃあ、みんなで楽器を見にいこっか!!」