鍵盤に触れるのなんて、何年ぶりのことだろうか。白と黒のコントラストが、過去の思い出を蘇らせる。
幼い自分がピアノを弾いて、妹たちが横から見守っていて。遠くでは椅子に座った母親が、他の子の親と世間話をしていた。
どういうキッカケでピアノを始めたのかは、もう思い出せない。私から頼み込んだような気がするし、親から言い出したような気もする。どうあれ、辞めてしまったのだから…………今となっては、どうでもいいことか。
そっと指を添えて、軽く押す。当時は力のない子供だったから…………子供用だったとはいえ、鍵盤は重くて重くて。ちょっと演奏するだけでも、重労働だった。
それが今では、こんなに簡単に────。
「あれ? 音が鳴らない」
感慨深い想いに浸っていたから、ワンテンポ遅れてそう口にした。思わず…………といった感じだ。予想外の結果だったから、呆けてしまった。
おかしなものを見る目で私とキーボードに視線をやりながら、鵜沢先輩が口を開く。
「そりゃそうだよ。電源、入ってないもん」
「あっ、そっか。ピアノじゃないんだった」
キーボード、即ち電子ピアノ。つい失念していたけれど、電源がついていないから音が鳴るはずもなく。
もしかして私、すごく間抜けな事をしているのではないだろうか。
それとなく視線を花音さんへと向ければ、彼女は私の顔をボーッと見つめていて…………いや、なんでそんなに惚けているんだろう。まぁ、笑われていないだけマシだけど。
「もしもーし、花音さん? 大丈夫ですか?」
少し心配になって目の前で手を振れば、花音さんはハッと体を震わせて、瞳に意識を取り戻す。
私の瞳を見つめて、頬を赤らめながら。恥じらうように顔をしたへと向けて、それでも視線だけは離さないで。
いわゆる、上目遣いのような姿勢で口を開いた。
「あっ、え…………っと。どうしたの、美咲ちゃん?」
「いや、それはこっちのセリフというか…………なんかボーッとしてるから、どうしたのかなって思ったんですけど」
「ふぇっ? …………そんなに、放心してたかな?」
「具合が悪いんだったら、無理しなくても…………」
「う、ううん、だ、大丈夫……だよ? ほ、ほら! 鵜沢先輩も待ってるから、わ、私は気にしないで」
「そう……ですか? じゃあ、何かあったら言ってください。すぐ送るんで」
「う、うん…………ありがとう」
なんか誤魔化されたような気がしなくもないけど。本人が大丈夫って言っているのなら、しつこく追求するのも違うと思うから。
花音さんに背を向けて、キーボードへと向き直る。
私たちが会話しているうちに、電源をつけてくれていたのだろうか。なにか作業をしていた鵜沢先輩はその手を止めて、私と花音さんを交互に見つめている。
彼女は首を傾げて、ポツリと呟いた。
「あれ? もしかして、リィちゃんお邪魔虫?」
「いや、なに言ってるんですか」
「だってお二人さん…………なんか、入り込めない雰囲気っていうか。えっ、どういう関係なの?」
「友達ですよ、大切な」
「あぅ」
友達、そう告げた時に聞こえてきた感嘆符のような言葉が気になって、再び後ろを振り返る。花音さんが顔を赤らめながら…………いや、なんか今日はずっと顔が赤い気がするんだけど、本当に風邪とかじゃないんだよね?
友達って言われて、照れているんだろうか。この人、普通に友達がたくさんいそうなものだけど。
恥ずかしがっているとしたら、あんまり見つめていても悪化するだけだろうし。なんでもないという意味を込めて微笑んで、顔を元の向きへと戻す。
相変わらず首を傾げた鵜沢先輩が、顎に手を当てながら「友達…………?」なんて疑問に思ってるような様子を見せていた。
確かに学年は違うけど、こうして一緒に出かけてもいいかなって思えるくらいには、私は心を許しているのだから。友達という言葉に、嘘偽りは存在していない。
花音さんも、同じように想ってくれていたら嬉しいんだけど。なんて、ちょっとした期待は胸の中にしまいこんで。
鵜沢先輩の隣を抜けて、鍵盤の前に立つ。
「友達、友達かー」なんて、繰り返し呟いている鵜沢先輩はなんというか…………ちょっと自分の世界に入り込んでしまうタイプの人間なのかもしれない。まぁ、人は多かれ少なかれそういう一面があるから。別に欠点だとか思っているわけじゃないけど。
気を取り直して、鍵盤を押す。
ピーッ、と。ピアノとは似ても似つかない、電子的な音声が店内に響いた。なるほど…………悪くない。
すでに割り切った事とはいえ。これがもしも本当のピアノの音だとしたら…………あの頃の思い出ばかり頭をよぎって、演奏どころの話じゃなくなっちゃうかもしれないから。
ちょっとだけ不安だったけど、特に何か思うところもないみたいだから。きっと、問題ないだろう。
うん、大丈夫。私はまた、音楽に触れることが出来る。
記憶の彼方から引っ張りだした楽譜を頭の中に思い描いて、軽く演奏する。滑らかに…………とは、流石にいかなかったけど。それでも、ズブの素人ではないってくらいの演奏は出来ている。
それが嬉しくて、面白くて。過去に捨ててきてしまったものを、取り戻したような気がするから。高校生らしくもなく、子供のようにはしゃいで…………一曲、最後まで弾ききる。
指を止めて、軽く息を吐き出す。この曲の名前は、なんて言っただろうか。いや、別にいいか。今はキーボードを弾けたという事実の方がよっぽど大切だ。
一息ついたタイミングで、再び鵜沢先輩が話しかけてきた。
「それで、どう? 初めてのキーボードは」
「悪くないっていうか…………なんか、すごく新鮮な感じですね。ピアノとは音が違うから…………ギャップっていうんですかね、ちょっと面白いかも」
「ほほう、それはそれは…………何か要望とかあったら聞くよ。例えば、鍵盤の重さとか気になったりしない? ピアノやってたって話だし、ピアノタッチの方がいいかな?」
「ピアノタッチ…………って、ああ、なるほど。やけに鍵盤が軽いと思ったんですけど、重さが変えられるんですね」
「それはソフトタッチっていって…………まぁ、キーボードから入った人向けのやつだね! 軽くて、押しやすい。奥沢ちゃんも女の子だから試してもらったけど、重い方がよかったかな?」
「そうですね。せっかくなんで色々試したいです」
「よしきた! まかせんしゃーい!」
他のキーボードの調整を始めた鵜沢先輩から離れて、花音さんの方へと向かう。顔を寄せて、耳打ちした。
「それで、少し長くなりそうなんですけど……花音さんは座って待ってても────」
「い、いいよ。そんな、気を遣わなくても………私、近くで見てるから」
私としては気を遣ったつもりじゃなかったんだけど。花音さんは両手を胸の前で振りながら、どこか必死な様子で提案を否定してくる。
まぁ、花音さんがそう言うなら。
「…………そうですね。じゃあ、最後まで付き合ってください」
「────! う、うん! 任せて!」
「いや、花音さんは見てるだけで大丈夫ですから。そんなに気合を入れなくても…………」
「あぅっ」
どこか空回りしている彼女の姿は、見ていて面白い。絶対に拗ねると思うから、本人には言わないけど。
「ほら、花音さん。近くで見ていてくれるんでしょ」
「あっ」
そう言いながら。落ち込んで肩を下ろした彼女の手を取って、優しく握りしめる。突然なんだと思われるかもしれないけど、花音さんは手を繋ぐことに拘りがあるみたいだから。
こうしていると、落ち着くのだろう。絶対に迷子にならないっていう安心感が、そうさせているのかもしれないけど。手を繋いでいる間は、彼女は精神がとても安定する。昨日の放課後と、今日一日一緒にいて気がついたことだ。
だから、まぁ。元気付けるという意味で。
少し離れていた彼女の手を引いて、元の位置へと戻る。花音さんは大人しくなって、なされるがままに付いてきてくれるから。
私はたぶん、笑っていると思う。彼女という人間を少しでも理解できたことが、嬉しくて仕方がない。
少しずつ、一歩ずつ。確実に充実していく日々が、たまらなく愛おしい。少し見方を変えただけで、世界がこんなにも眩しく映って見えるなんて思わなかった。
このままもっと、沢山の人達と────。
「ねぇ、やっぱりこれリィちゃん邪魔なんじゃー…………?」
「だから、何を変なこと言ってるんですか」
「えー? これリィちゃんが間違ってるの? 奥沢ちゃんって、やっぱりちょっと…………えぇ? リィちゃん、馬に蹴られて死んだりしないよね?」
「…………いや、本当に何を言ってるのかよく分からないんですけど」
「むむむーー! ま、気にしてないならいっか! さぁさぁ、次のやつ行ってみよう! どんどん試して、自分に合ったやつを見つけてもらわないとね!」
☆ ☆ ☆
「うんうん、やっぱり
「わぁ…………本当に、高いね」
「花音さんもドラム持ってるし、同じくらいなんじゃないですか?」
「わ、私のは……これの、半分くらいの値段かなぁ」
「まぁ、学生って事を考えるとそれくらいですよね」
数十分ほど色々試してみた結果、やっぱりピアノに寄せた選択肢を取ることになった。
ピアノは通常、鍵盤が八十八個存在している。だからキーボードにも八十八個…………と決まっているかといえば、そうでもない。
ぶっちゃけ、ピアノを演奏するときに端から端まで鍵盤を使用する機会っていうのは、実はそんなに存在していない。
音域の広さってのは重要だけど、全部が全部八十八個も鍵盤があったら不都合が発生する。
まず、スペースを取る。その上で、とても重い。なにせ、横幅が子供の身長ほどもあるのだから。狭い部屋で練習したいとか、持ち運びしたい時とか。そういう場合においては、不便な事が多い。
ようは、状況に合わせた使い分けが大切という事だ。八十八鍵盤以外にも、六十一とかがあるらしい。ユーザーの需要をしっかり考えられているなって、素直に感動した。
あとはまぁ、値段というか。鍵盤数が多いということは、それだけ必要なパーツとかも多いわけで。
キーボードに限らず、大抵のものはピンからキリまであるのが常だけど。八十八鍵盤はそれよりも鍵盤数が少ないキーボードに対して、比較的お高めという事情もある。モノによっては…………というか、目の前にあるやつがまさにそうなんだけど。
学生の身で六桁するお買い物って、なかなか経験しないんじゃないだろうか。
「ど、どうするの? 美咲ちゃん、お金持ってる…………? 冷やかしになっちゃうけど、楽器はこころちゃんのお家から借りた方がいいんじゃ…………」
「いや、これにします。やるって決めたなら、自分で持っておきたいんですよね」
花音さんに向けた理由は、本心だけど。ある意味では、建前でもある。
まぁ、なんていうか。ちょっとした意地みたいなものなんだけどね。こころには普段から世話になりっぱなしだから、こういう時には自分で用意したい。
貰いっぱなしじゃ、ダメだから。対等でいるってことは、ただ仲良くしてればいいってわけじゃないんだ。友人関係では相手に甘えていい事と、悪い事がある。金銭的な問題なんかは、まさに後者だ。
これはあくまで私の考えだから、他人にも同じように振る舞えなんて言わない。場合によっては、頼っていいとも思う。借りたものを返すあてがあって、その時にどうしても必要なら…………金銭的にお世話になってもいいだろう。
でも、私は嫌だ。たとえ彼女の家が想像もつかないくらいのお金持ちで、私にとっての大金が彼女にとっての端金だったとしても。
そこで甘えてしまっては、私はタガが外れてしまうだろうから。ズブズブと沼に沈んでいくように、また最初の頃みたいな…………依存に近い関係性に戻ってしまうだろうから。
この出費は必要なもので、私が新しいスタートを切るための…………いわば、投資だ。
もともと趣味らしい趣味が殆どないのだから、あとは食費さえ切り詰めればどうとにでもなる。というか、一般的な一食分に抑えていれば全然余裕はあるのだ。
だってほら、過保護な祖母がそれなりの支度金を用意してくれたわけだし。あんまり手をつけるつもりは無かったけれど、ここは素直に頼らせてもらおう。
家族なんだから、遠慮なんていらないって。あの人はいつも、そう言ってくれたから。自分から孤独を選んでいた頃の私には、届かなかったけど。
「でも本当に大丈夫なの? 学割あるけど、それでも六桁はするよ? …………いや、リィちゃんから勧めておいてこう言うのはどうなのって気もするけどさ。無理して高いやつにしなくても、最初はもっと初心者向けのやつから選ぶとか」
「現金一括でお願いします」
「わぁ……思い切りがいいね! リィちゃん気に入ったんじゃー! おまけに色々つけておくから、説明書はちゃんと読んでおくように!」
「それは有り難いですけど、勝手に決めて大丈夫なんですか? 鵜沢先輩、バイトなんですよね?」
「いーのいーの! こんなに高いキーボードを買ってくれたんだから、ちょっとやそっとじゃ怒られないって! 足りない分はリィちゃんのバイト代から引けばいいし!」
シレッと大変なことを言いながら会計準備をする鵜沢先輩へ、勢いよく振り返る。
「えっ…………いや、そこまでお世話になるわけには」
「ふっふー!! 後輩の門出を祝うのが、先輩としての役割ってものよ!」
「いやいや、まだ今日出会ったばかりですし」
「ちょっとでも申し訳ないって気持ちがあるんだったら、今後ともごひーきに、って事で! ね? それなら受け取ってくれるでしょ?」
「ええっ、と…………うーん、それなら、まぁ…………」
「はいもうダメー! リィちゃん会計終わらせちゃったもんねー! …………本当に施しを受けたくないっていうなら、グリグリで使うけど…………リィちゃんとしては、受け取ってくれると嬉しいんじゃー!」
デベコを顔の前で動かしながら、おちゃらけたようにそう言った鵜沢先輩の目は。彼女の明るい雰囲気とは裏腹に、真剣さに満ち溢れていて。
たったいま確信した事だけど。この人もまた、「良い人」なんだと思う。ちょっと強引だけどね。
ハラハラとした様子でこちらを見つめてくる花音さんの手を握って落ち着かせながら、鵜沢先輩へと財布の中身を差し出した。
「じゃあ…………キーボードだけ。会計、お願いします」
「────あいよー! まいどありーー!」
☆ ☆ ☆
「あっ、いたいたー! 店員さん、ここってクレカ使える? このギターが欲しいんだけど! 今すぐ!」
「ちょっ、日菜! あなた本当にこれにするつもり!?」
「だっておねーちゃんが選んでくれたんだもん! あたし絶対にこれにするよ!」
「そ、それは値段を見てなかったからでっ!」
「じゃあ絶対にこれ! 値段を見ないで選んだってことは、あたしの事だけ考えて選んでくれたってことでしょ? 絶対、絶対! ぜーーったい、これにする!!」
「うわぁ」
「ひ、日菜ちゃんって……なんか、すごい人だね」
「花音さん、あれはすごいっていうよりも…………単に非常識っていうか、なんていうか。うん、すごい人で合ってるのかもしれない…………あれが『日菜さん』なんだよ」
自分もまだ知り合ったばかりだけど、日菜さんについてはある程度慣れてきたと思う。いや、慣れたかったわけじゃないけどさ。
「日菜! 学生の身分でそんな高価なものは────」
「あたしもう就職してるもん! 高級取りだもん! 年収でおねーちゃんを十人は養えるもん!! 高級マンション三食昼寝つきで!!」
「…………いま、なんか凄いこと言ってませんでしたか?」
「言ってた…………よね? もう就職してるって……日菜ちゃん、私と同い年……だよね?」
「私も自信が無くなってきたんですけど、それで合ってたと思いますよ」
日菜さん、謎だ謎だって思っていたけれど。本当に、何をやってる人なんだろう。最初に会った時は制服を着て…………いや、そうだったっけ? なんでだろう、思い出せない。確か、学校から帰っている途中に────。
「店員さん! あたしがおねーちゃんを食い止めてるうちに会計よろしく! あっ、これ私のカードね!」
「日菜! やめ…………やっ、どこ触ってるの! 日菜!? ちょっと!? あっ、やめっ、離しなさい! 日菜!!」
「なんか今、日菜ちゃんが黒いカードを投げた気がするんだけど…………あれってもしかして、ブラックカードってやつなんじゃ…………」
「もう、これ以上日菜さんの事を考えるのはやめましょう。ちょっと…………っていうか、全くついていけてないです。主に常識が置き去りになっちゃってます」
姉妹仲の良い喧騒を音楽代わりに。私と花音さんは隣り合った椅子に座りながら、暖かいお茶を口に含んだ。
…………あの人が出てくると、いつも頭が痛くなるな。嵐みたいな人だよ、ほんとに。
豆知識。日菜ちゃんが買ったギターは奥沢のキーボードのだいたい三倍くらいの値段。投げたカードはセンチュリオンカードです。