飲み終わったカップをスタッフさんに渡しながら、チラリと後ろを振り返る。
視線の先、ライブハウス内のテーブル席で。
日菜さんと薫さんに話しかけられて、戸山さんは緊張で身を固めていた。助けを求める視線を私へと向けているのを確認して、軽く手を振り返す。ごめんね、と。謝罪の気持ちを込めた行為だ。
その事を正しく理解したのだろう。戸山さんの困惑に揺れていた瞳に、捨てられた子犬のような悲しみの色が混じった。なんとなく、放っておけない気持ちにさせられる。市ヶ谷さんも、いつもこんな気持ちを抱いているのだろうか。
隣から話を振られて、戸山さんは私から日菜さんへと視線を移した。所々口ごもりながら、飲み物でお茶を濁しながら。それでも黙り込む事なく、言葉を返している。
色々と吐き出して、気持ちが楽になったんだろう。出会った時に感じた怯えのような感情は、どこにも見当たらない。
日菜さんと薫さんは独特な人柄をしているとはいえ、相手のデリケートな部分に無遠慮に踏み込むタイプではないから。今の彼女なら、任せても大丈夫だろう。
いや、日菜さんはちょっと怪しいとは思うけど。あの人もあの人で弁えているというか、引き際を見誤らない賢さがある。
空気が読めない人、みたいに思われることが多いけど。その実、誰よりも相手の底を見抜く観察力を持っている。してはいけない事を理解しているからこそ、そのギリギリを通り抜けられるというか…………正直、そこまで出来るならもっと配慮してほしいんだけど。
憎めなさ、というんだろうか。全部計算してやっているなら、恐ろしいと思う。
それは、まぁ。今は置いておくとして。
薫さんはいうまでもなく、気遣いの人だ。私が知っている中でも、一二を競うくらいには。相手の内心を推し量る事、適切な距離で歩み寄る事に長けている。
どちらかというと相手を引っ張りがちな日菜さんのことも、ちゃんとフォローしてくれると思う。
薫さんの含みを持った視線に、一つ頷く。頭を下げれば、私だけに見えるように軽く手を振り返してくれた…………眩しいくらいに男前な、輝く笑顔を添えて。
こういう如才のなさは、どこで身につけたんだろうか。普段の振る舞いからは考えられないほど、他者への対応は繊細だ。
役者というものは、あんなものなのだろうか。だとしたら、少し嬉しい。
私の中にある「演技」という行為への偏見が、ちょっとずつ薄れていくような気がする。
世の中の役者がみんな、薫さんみたいだったら…………いや、それは流石に疲れてしまいそうだ。薫さんみたいな目立つ人は、一人いるだけで十分だろう。
心なしか、来た頃よりも雨の勢いが強くなっているような気がする。水の打ち付ける音が、ライブハウスの奥から聞こえてくるギターの音と合わさって、なんともいえない賑やかさを作り出している。
扉をあけて、雨の降り注ぐ中へと身を晒した。
手ぶらなのもどうかと思って、目の前にあった自動販売機でコーヒーを二つ買った。雨の影響もあって、今日は気温が低いらしい。
熱を放つスチール缶を、両手に一つずつ持って。雨に濡れないように軒下を進んで、SPACEの裏手へと回る。
湿気の強い日の、くすんだ景色の中。物思いに耽った表情で空を見上げる彼女の姿は、そこだけが…………周囲の景色から切り離された、別世界のようで。
私の友達と同じ色の髪を、寂しそうに揺らしながら。
市ヶ谷有咲は一人、静かに佇んでいた。
「市ヶ谷さん」
一瞬だけ、なんと声をかけるべきか悩んだけれど。口から出てきたのは、相手の名前だけという、とても単純なもので。
「…………奥沢、美咲」
私の声を聞いた彼女は、此方へと視線を向けながら。どこか恨めしそうな声音で、私の名前を呟いた。
あまりにも予想通りな反応に、自然と苦笑いを浮かべてしまう。それは決して、馬鹿にしているわけじゃないんだけど…………市ヶ谷さんは、そうは思わなかったみたいで。可愛らしい顔を顰めて、眉間に皺を寄せてしまった。
まだ一言交わしただけだというのに、機嫌を損ねてしまった。自分の見せた態度が悪いと分かっていても、あまりにも先行きが不安すぎる。
とりあえず、というか。
視線で「何をしにきたんだ」と強く訴えてくる彼女へ、手に持ったコーヒーを揺らして見せる。なるべく嫌味にならないように気をつけて、自分に出来る限りの和かな笑顔を浮かべる。
怪訝そうな顔の市ヶ谷さんへと、再び声をかけた。
「少し、お話ししませんか」
☆ ☆ ☆
「学年主席サマが、わざわざ何の用ですか?」
嫌そうな表情を、隠しもしないで。そっぽを向きながら、市ヶ谷さんはそう口にした。
こう思うのは変なのかもしれないけれど。そのわざとらしい態度が…………なんだか、とても可愛らしい。
「とりあえずこれ、よければどうぞ」
寒さは体によくないですよ、なんて。ちょっと説教くさいかもしれないけど、一言付け足して。二本のコーヒーのうちの一本を、彼女へと差し出す。
市ヶ谷さんは私の顔を見て、コーヒーを見て。もう一度私の顔を見つめてから、「どうも」と。簡素な礼を口にして、缶を受け取った。
「あちっ!?」
「わ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、ちょっとビックリしただけです」
手のひらで包み込むように缶を受け取った市ヶ谷さんは、そのまま反射的に放り投げて何度か手の上で跳ねさせた後、おっかなビックリと両手で握った。
思わず私が声をかけると、それまでの慌てぶりが嘘のように真顔になって、抑揚のない声で言葉を返してくる。先ほどよりも鋭くなった、恨めしいものを見つめる瞳を添えて。
あえて気づかないふりをして、プルタブを開ける。一口含むと、独特の香りが口の中に広がった。
私が先に飲んだのを見て、市ヶ谷さんも缶コーヒーに口をつける。あちっ、とか、にがっ、とか。隣から聞こえてきた小さな叫び声にも、気づかないふりをした。
二人して飲み物を口にしているから。お互いに、声を出すことは出来ない。
そのまましばらく、二人の間に沈黙が続いた。
今日初めて会った相手と並んで、一緒に缶コーヒーを飲む。なんとも奇妙な状況だけど、それを作り出したのは自分だという事実の方が、もっと奇妙に感じられる。
どうして、そうしようと思ったのか。
理由なんて、自分が一番分かっている。
でも、それが…………私の感じたものが正しいのか。それはまだ、分からないから。だからこうして、彼女から直接話を聞こうと思ったんだ。
私の気のせいなら、それでいい。普通に世間話をして、それからみんなの元へと戻ればいいだけの話だから。
でも、そうじゃないとしたら。
彼女へと抱いた親近感も、戸山さんから話を聞いた時に感じた違和感も。そのどちらも、間違っていないのだとするならば。
その時は、私は彼女の────。
「…………香澄は、ちゃんと話せたか?」
意外にも、と言ったら失礼だろうか。沈黙を先に破ったのは、市ヶ谷さんの方だった。
正直、なんと話したらいいものか。切り出し方を悩んでいた側としては、実にありがたい。
「納得いくかといったら微妙ですけど、お礼は受け取りましたよ。何様かと思われるかもしれませんけど…………戸山さん、いい子ですね」
「…………そっか。あいつ、私がいなくても、ちゃんと会話できたのか」
「寂しいですか?」
「いや…………まぁ、その気持ちが全くないっていったら、嘘になるけど…………安心したよ」
ほんとに、と。また一口、缶コーヒーを飲んでから。そう付け加えた彼女の瞳は、ここじゃないどこかを見つめていて。
その視線の先には…………たぶん、戸山さんの姿が映っているんだと思う。
「それで?」
「…………と、いうと?」
「あんた、あいつの話を聞いてどう思った?」
いつのまにか、此方へと向けられていた彼女の視線へと。私の視線を重ねて、見つめ合う。隠しきれないほど大きな感情が、言葉よりも雄弁に語りかけてくる。
不安、期待、焦り…………そして、嫉妬。
彼女自身、自分がどんな答えを求めているのか理解していないのだろう。ごちゃ混ぜになっている内心を整理できていなくて、その矛先を自己の外へと求めている。
その姿に、彼女の人柄の全てが現れている気がした。
きっと、彼女は強い人間ではないんだろう。
戸山さんの口から語られた市ヶ谷さんについての話は、期待と尊敬に満ちたものだったけど。こうして相対すれば…………言い方は悪いけど、それが戸山さんの作り上げた虚像であることがよく分かる。
戸山さんと市ヶ谷さんは、似た者同士だ。人との交流に飢えていて、相手から嫌われることを恐れていて…………そして。お互いのことを、自分自身よりも大切に思っている。
その出会いは、偶然だったんだろうけど。それでも、かけがえのないものだから。市ヶ谷さんは手放さないように必死に引っ張って、戸山さんは手を引かれることを選択した。
分かるよ。私もそうだったから。
戸山さんと市ヶ谷さんは似た者同士だ、なんていったけど。きっと、そこには私も含まれると思う。
引っ張ってくれる相手が、引っ張られてくれる相手が。自分から離れてしまわないか、自分を必要としなくなってしまわないか。
そんな風に悩みながらも、共に過ごしている。
それが私から見た、彼女たちの在り方。まるで、出会った頃の私とこころの関係そのものじゃないか。
いや、こころは不安なんて感じていないのかもしれないけど。私も戸山さんも市ヶ谷さんも、彼女ほど心が強い訳じゃないから。
だから、私が二人分。戸山さんと市ヶ谷さん、それぞれに半分ずつ。勝手に共感して、勝手に親近感を覚えて、勝手に同情してしまっている。
だからこれは、ただの余計なお世話だ。
やらない方が良いのかもしれない。放っておいて、二人が解決するのを見守るべきなのかもしれない。むしろ、それが当たり前なんだと思う。
でも────。
『勇気がないなら、あたしがあげるわっ!』
『世界はみんなが、誰かのヒーロー。そう言ったのは美咲ちゃん、君なんだから』
────私はこれから、その余計なお世話をしようと思う。
☆ ☆ ☆
涙を流しながらも話すことをやめなかった、戸山さんの姿を思い出す。
『だから、私、奥沢さんに感謝してるんです』
その一言を口にしてからは、それまでが嘘みたいに。戸山さんは饒舌になって、自分のことを話してくれた。
『奥沢さんが入試で一位を取ってくれたから、有咲ちゃんは学校に来てくれるようになりました』
最初は、何を言っているかよく分からなかった。言葉の意味を考えている間に、戸山さんは次へ次へと、矢継ぎ早に言葉を重ねていった。
『有咲ちゃんは…………やっぱり、あまり乗り気じゃなかったみたいなんですけど。学年で一番じゃなくなったからって…………先生に言われて、普段の授業にも出ることになったらしくて』
そこまでが、彼女の限界だった。そこから先は…………震える声で、嗚咽を漏らしながら。
まるで、己の罪を懺悔するかのように。戸山香澄は、自分と市ヶ谷有咲についての事を語った。
『私は…………私は、何も出来なかったから。有咲ちゃんが悩んでいた時も、学校に行かなくなかった理由も。自分から聞き出す勇気すら、持てなくて』
『サイテーだって、分かってるんです。有咲ちゃんはこんなこと望んでなくて、あの蔵の中でいられればよかったんだって。だから、有咲ちゃんが学校に来てくれたとしても、有咲ちゃんの本意じゃないって。それは、分かってるんです』
『だけど、私は…………それでも、有咲ちゃんと一緒に居たかったから。あの場所で二人きりで過ごすのも嫌じゃなかったけど、それだけじゃダメだって、分かってたから』
『だから、機会をくれた奥沢さんのことは、入学前から話に聞いてて。あの、主に有咲ちゃんの愚痴なんですけど…………あっ、でも、その、決して悪口とかじゃなくて!』
『それで、その、こんなこと言われても困ると思うんですけど…………どんな人なんだろうって、ずっと考えてて。だから、あの、入学式の時の、沢山の人の前だったのに、すごく堂々とした挨拶を聞いて…………えっと、か、カッコいいなって。わ、私も、奥沢さんみたいになれたらいいなって、思って』
『有咲ちゃんには、助けられてばかりだったから。だ、だから、私も…………奥沢さんみたいに、有咲ちゃんを引っ張れる存在になりたくて』
『も、目標なんです! 私みたいなのが、何をって思われるかもしれないんですけど…………私が有咲ちゃんを必要としているように、有咲ちゃんにも、私を頼ってほしいから』
『その、言ってることがぐちゃぐちゃで申し訳ないんですけど。わ、私は、だから、全部ひっくるめて、奥沢さんにお礼を言いたくて』
『その…………ありがとうございます。有咲ちゃんを、あの場所から連れ出してくれて』
『私には…………出来なかった、ことだから』
…………彼女が口にしたことは、私に直接関係することではなかったけど。それでも、彼女たちの関係を拗らせてしまったのは、間違いなく私だから。
自分の気持ちに嘘をついている少女と、自分の気持ちに素直になれない少女。二人の間にある繋がりを、どうしようもなく歪めてしまったから。
本音を言えば、怖いけど。人の心に踏み込んで、その関係を変えてしまうことが、怖くて怖くて仕方がないけれども。
私が何もしなかった事で、泣いてしまった人がいるから。また同じような間違いを犯して、同じ後悔をしたくないから。
だから、これは私のため。私は自分のために、彼女たちの問題へと口を挟もう。
ねぇ、こころ。私に勇気をくれませんか。
人の心に踏み込む勇気。あなたのように…………人の心を、変えてしまう勇気を。
「市ヶ谷さん」
「……………………なんだよ、怖い顔して」
「どうして、戸山さんに嘘をついたんですか?」