潤んだ瞳は宝石のようで。いますぐにでも、大粒の涙が溢れ落ちてしまいそうだった。
キッと睨みつけるように見つめる彼女の眼の中には、私の顔がハッキリと映り込んでいる。彼女…………市ヶ谷さんの口は横一文字に固く閉ざされていて、口角は痙攣するように震えている。
身長差のせいで上目遣いになっている彼女のその表情は…………申し訳ないけど、あまり怖くはない。
ただ、胸が痛くなる。見ているだけで心が締め付けられて、同情心が湧いてしまうほど。彼女の顔は悲痛に満ちていて、それでいて、やり場のない怒りを湛えていた。
そんな顔をさせてしまっているのが、私なんだと思うと。どうしようもないほど、自責の念が胸の内に溢れてしまう。必要なことだと分かっていても、罪悪感が止まらない。
視線を正面へと移して、彼女を視界から外す。被っていた帽子の鍔へと手を伸ばして…………それを下ろす代わりに、前髪を留めているヘアピンをなぞった。
視線を遮ろうとするのは、昔からの癖だ。人の目を見ることが怖くて、人の心に触れるのを忌避していた頃。私がこころに出会う前の習慣の、その名残。
前髪を伸ばして、帽子の鍔を下ろした。人の心が見えてしまうことが、何よりも恐ろしかった。好意が信じられなくて、誰かに嫌われてしまうことを想像して。
ふとした拍子に、目の前の人の内心を知ろうとしてしまう自分のことが。他の誰よりも…………嫌いだったから。
だからこそ、見て見ないふりをしていた。自分という存在がどれだけ普通からかけ離れているのか。
その気になれば、人を思いのままに操ることができてしまうという事実そのものが。私の持つ恐怖心の根源であって、罪の象徴でもあるのだから。そこから目をそらす為に、視界そのものを閉ざすのは…………とても有効的で。それと同時に、愚かな選択でもあったのだろう。
人は目に見えるものよりも、見えないものを恐れる生き物なのだから。目を逸らして、瞳を閉じて。その先にあるのは…………疑心暗鬼に走った末の、破滅だけだ。
もう、十分逃げてきた。
人の気持ちに向き合う機会を、何度も何度も逃した。自分の周りにいる人たちの好意を知らぬ存ぜぬで誤魔化して、自分自身の気持ちにすら、妥協と後悔で蓋をした。
それはまるで、自分から孤独へと向かっていくように。光の届かない暗闇の中で、見えないゴールへと走り続けていた。
そんな私を、変えてくれたのは。
きっと、こころだけじゃない。きっかけは間違いなく彼女だし、私にとって一番大切な思い出だと思うけど。
日菜さんや、委員長や、花音さん。紗夜先輩に、薫さん、はぐみも。
もしかしたら、戸山さんも含まれるかもしれない。
今の「奥沢美咲」になるまでには、彼女たちとの出会いが必要不可欠だっただろうから。
人の心に触れるたびに。私の中にあったはずの絶望や疎外感、孤独に、罪悪感、その全てが…………削り取られて、形を変えて。新しい「私」へと、生まれ変わらせてくれた。
心に、感情に触れるということは。それがどういう形であったとしても、相手に影響を与えてしまう。
物語の登場人物を見て、その行動理念に共感するように。不幸な境遇に身を置く人を知って、可哀想だと感じるように。
人の気持ちは不定形で、移ろいゆくもので。ちょっとのことで形を変えてしまうほど、内外問わず刺激に敏感だ。
だから、今の私がいるのはみんなのおかげ。
壊れてしまないように。それでも、前へと向かっていけるように。別に、彼女たちが何かをしたって訳じゃないけれど。
超能力を持っているわけでもない、人の心を覗き込めるわけでもない。そんな普通の人たちが、普通の人を相手にするように、私に向き合ってくれたから。
私は、もう。自分でも気がつかないうちに…………みんなから、色々な影響を受けてしまっていて。
人はそれを、成長と呼ぶんだと思う。
前髪も、帽子も。もう、必要ない。
鍔を握って、少し位置を整えた。ほんのちょっとだけ視界が広くなった程度の変化。それでも、見えているものには大きな違いがある。
一度逸らした目を、しっかりと合わせて。私は正面から、市ヶ谷さんと向き合う。
小さな人だ。身長とか見た目とかの話だけじゃなくて…………誰かに内心を暴かれてしまうことを恐れている、普通の、悩める少女。
まだ未成熟な心身を必死に取り繕ってまで、誰かの期待を背負っている。正直になれない自分が嫌で、吐いてしまった嘘を…………自分のしてしまったことを、後悔している人だ。
私も、彼女にはこんな風に見えていたのだろうか。分からない。分からないけど、知りたいと思う。
私はあの子みたいに、誰も彼もを救えるような出来た人間じゃない。持ってる力は大きくても、当の本人が小心者なのだから。こころのように…………全てを受け入れられるような、大きな心は持っていない。
でも、目の前にいるのなら。
手が届く範囲で、腕を伸ばすことができるのならば。
たとえ、押し付けがましくとも。相手が言葉に出さずに、助けを望んでいなかったとしても。
「奥沢美咲」は、言葉にならない叫び声を聴くことが出来るのだから。
私にしか出来ないやり方で、変えていきたい。みんなが私の心を変えてくれたように…………私も、誰かの世界を。より良いものにしたいんだ。
この身に宿る、力とともに。
☆ ☆ ☆
「どうして、本当のことを言ってあげなかったんですか?」
「…………なんのことだよ」
今度は、市ヶ谷さんから目を逸らした。反応を見るに…………もともと、後ろめたい気持ちは感じていたんだろう。もしかしたら、私が口を出す必要もなく…………彼女自身が、自分の力で気持ちに折り合いをつける日がきていたのかもしれない。
市ヶ谷さんは、賢い人間だ。何が正しくて、何が間違っているのか。それをちゃんと理解しているのは、見るまでもなく分かる。
ただ、理解できているからといって。全てを間違えることなく選択し続けることが出来るかといえば、それは違うと言わざるをえない。
彼女は分かっているんだろう。
本当は自分がどうするべきだったのか、どうしたいのか。ちゃんと分かっているのに…………それを素直に認められない。
一度、嘘をついてしまったから。
罪悪感や後悔や、その他諸々の感情が。彼女を善き人たらしめている良心そのものが、彼女の行動を阻害してしまっている。
嫌われることや、失望されること。大切な人が自分から離れてしまうのではないか、そんな恐怖心が目を曇らせている。
分かるよ、私もそうだった。いや…………きっと、みんなそうなんだろう。
人は相手の心が見えないから。だからこそ、言葉や行動を尽くして相手に伝えようとするんだ。超能力なんかなくたって、人と人は心を通わせることが出来るのだから。
ただ、それが全てうまくいくとは限らない。一度の誤ち、たった一つのほころびで。人は躊躇い、心を閉ざしてしまう。
どんな人間でも、それは変わらない。嫌われたくない、間違いたくないのだから。だからこそ嘘をついて、その上で偽りを重ねてしまう。
ダメだと分かっていても、抗うことができない。打ち明けたいと思っていても、言葉にできない。
まるで袋小路だ。光の届かない迷宮の中で、焦りと恐怖だけが大きくなってしまって。
だけど、それだけじゃない。
市ヶ谷さんを苦しめているのは、そんな単純な理由だけではない。
不思議だ。今まで以上に…………それこそ、手に取るように。目の前の人の苦しみが、悩みが、感情が理解できる。
瞳が熱い。まるで
「戸山さん、言ってましたよ。市ヶ谷さんが学年で一番じゃなくなったから、登校しないといけなくなったって」
「…………そうだよ。だから私は、あんたのことが────」
「でも、それって嘘ですよね」
ヒュッ、と。吐き出しかけた息をのむ音が、私の耳に届いた。目の前の市ヶ谷さんは、私から目を逸らしたまま…………隠しきれない感情を、その小さな顔に浮かび上がらせていて。
ああ、やっぱり。そうだったんだなっていう確信が、頭の中を走り抜けた。
黙り込んでしまった市ヶ谷さんへと、用意していた言葉を投げかける。
「花咲川女子学園は、良くも悪くも伝統のある学校です。パッと見では、内部生と外部生の扱いに目に見えた違いはないけれど…………それでも、行事に関わる部分ではいくつか決まりがあるそうです」
「……………………」
「受験生が入学するために行った試験と、エスカレーター組が高等部に上がる際に行った評価試験。最高得点を取ったものが複数いる場合は、エスカレーター組の生徒が新入生代表として選ばれる。入学前に学校側から連絡があって、そう説明を受けました」
「……………………」
最初は、ちょっとした違和感を感じただけだった。記憶の中に手がかりがあるような気がして…………そして、すぐに思い出した。
私が知っているんだから、彼女がそれを知らないはずがない。そう思ったからこそ、市ヶ谷さんが嘘をついていると気がつくことが出来た。
「市ヶ谷さん…………私と同じように、満点で主席でしたよね。どうしてわざわざ、新入生代表を断ったんですか? どうしてそこまでして、戸山さんに嘘をついたんですか?」
市ヶ谷有咲、という名前には。私も聞き覚えがあった。そこまで興味があったわけじゃないけれど。
私が知らないところで、名前を知られていたように。私だって、相手の知らないところで名前を聞く機会くらいある。
市ヶ谷さんは、本当だったら新入生代表として高等部に入学するはずだった生徒だ。私と同じように満点の評価を出して、内部生が優先されるゆえに、代表に選ばれたはずだった。
とはいえ、辞退するのは本人の自由だ。学校側としても、人前に出るのが苦手な生徒に無理をさせるのは本意じゃないんだろう。内部生が優先されるといっても、それは古い習慣が残っただけのもので…………言ってしまえば、形骸化した規則だから。強制力があるわけではないし、絶対というわけでもない。
ただ、普通なら知られることは無いんだろうけど。珍しいことに、今年は主席と呼べる生徒が二人もいたわけだから。
だから、教員がついつい口を滑らせたのだろう。入学する前から、私は市ヶ谷さんの名前を知っていた。
新入生代表を辞退した生徒がいるから、代わりに代表を務めてほしい。そう連絡が来たことは、まだ記憶に新しい。
私を見る市ヶ谷さんの瞳に恐怖や焦りの感情があったのは、それが原因だ。市ヶ谷さんに私の名前が伝えられたのと同じように、私に市ヶ谷さんの名前が教えられている可能性がある。
市ヶ谷さんが理解しているように、私が…………市ヶ谷さんのついた嘘に、気づいてしまうかもしれない。そのもしもの出来事を、市ヶ谷さんは恐れていたんだろう。
自分以外の者の口から、戸山さんに真実が伝えられてしまうこと。市ヶ谷さんの隠しておきたかったことが、晒されてしまうことを。
市ヶ谷さんは、何も言わない。
顔をうつむかせて、体を震えさせている。それがどんな気持ちからくる動作なのか。私には分からないけど、推し量ることはできる。
「戸山さん、市ヶ谷さんの事ばかり話してましたよ。大切な友達で、いつも世話になってばかりだって」
「…………てる」
「今からでも、遅くないんじゃないですか? 市ヶ谷さんだって、苦しそうじゃないですか」
「……………………てるって」
「戸山さん、勘違いしてますよ。私って、そんな立派な人間じゃないのに。感謝されるようなことをしてないのに尊敬されるって、結構…………悶々とするっていうか。流石に見ていて焦れったいというか…………素直に、戸山さんと一緒にいたかったって。そう言ってあげたら────」
「そんなの、私が一番分かってるに決まってんだろ!!」
大きな声と、強い感情。
…………実際は、そこまで大きな声じゃなかったのかもしれないけど。重なり合った視線の先、覗き込んだ瞳の奥から。市ヶ谷さんの今まで抑えてきた気持ちが、濁流のように流れ込んできたから。
テレパシーの感度を少し下げながら、彼女の瞳を見つめ返す。
ポロポロと涙を溢しながら。私を睨みつけてくる彼女の両手は、強く握りしめられていて。
そこから伝わってくる感情の名前を、私はよく知っていた。
嫉妬、だ。
「あいつとずっと一緒にいたんだ! 気がつかない訳がないだろ!? 最初から分かってた! 私が間違えてしまったことくらい! あいつを傷つけたって事ぐらい!! あんたに言われるまでもなく、分かってるんだよ!!」
「だったら────」
「言えるわけないだろ! どんな顔して伝えればいいんだよ!! あんたに憧れてから、あいつはどんどん変わっていった!! 前より笑顔が増えて! 下を見ながら歩くこともなくなった!! 私がいないところでも人と喋れるようになった!! 私の知らないところで、友達だって作った!! バンドを組むことにも前向きになって、ギターも一日ごとに上手くなっていく!! そんなあいつに、なんて言えばいいんだよ!!」
寂しさが伝わってくる。
「あんたがあいつを変えたんだ!! 私には無理だった!! どれだけ自信をつけさせようとしても、前を向いて歩かせることすら出来なかった!! 会話のアドバイスできるほど、コミュニケーションが上手いわけでもない!! 教室だって違うから、周りに馴染めるよう手伝うことだって出来やしない!! 何もだ!! 私は何一つ、あいつにしてやれなかったんだ!!」
哀しみが伝わってくる。
「それなのに…………奥沢美咲!! あんたが、あんたが全てを変えたんだよ!! あんたみたいになりたいって、瞳を輝かせて…………っ! 前向きに努力を重ねるあいつの気持ちを、踏みにじれるわけないだろ!! せっかく…………私がいなくても、大丈夫なように、なってきたのに…………あんたのお陰で、立ち上がって、くれたのに」
怒りが、伝わってくる。
蹲って泣き出してしまった彼女の元へと、駆けつける。
降り注ぐ雨の音にも負けないほど、彼女の叫びは大きくて。色々な感情をごちゃ混ぜにした涙は、どんな言葉よりも雄弁だった。
ハンカチを差し出して…………その手を、払いのけられた。
「…………市ヶ谷さん」
「……………………私は、あんたが嫌いだ」
呟くように吐き出された言葉を、黙って受け入れる。その言葉の裏にある感情が、私の心を痛いほど刺激した。
「香澄に尊敬されている、あんたが嫌いだ」
【香澄に何もしてやれない、自分が嫌いだ】
「たくさん友達がいるくせに、私から香澄を奪っていこうとするあんたが嫌いだ」
【傷つけるだけのくせに、醜い独占欲を捨てられない自分が嫌いだ】
「私には、香澄しかいないのに」
【私には、香澄しかいないのに】
焼き増しのようだった。少し前までの自分を、そのまま見せつけられているかのような。自分のことのように…………なんて言ったら、市ヶ谷さんに失礼だけど。とてもじゃないけれど、他人事のようには思えなかった。
瞳から、涙が滴った。熱く、熱い、一筋の涙痕が頬に描かれる。
抱きしめたかった。あの子が私にそうしてくれたように、私もそうしてあげたかった。手を握って、慰めて、助けてあげたかった。
でも、それは
私を救えたのが、こころであったように。市ヶ谷さんを、救うことができるのは…………他でもない、あの人だけだから。
市ヶ谷さんが地面に落としたスチール缶を拾って、その場に背を向ける。きた道を遡るように、ゆっくりと足を進める。
ライブハウスの壁を、一つ横へと曲がる。そして…………
「じゃあ、あとは任せたよ。