「おまたせ! 日菜ちゃんのお帰りだよー!」
あと少しでライブが始まろうかという、その瞬間だった。
ライブハウスの扉をあけて中に入ってきた日菜さんは、両手を前に突き出した状態のままでそう言い放った。それなりに増えてきたフロアの客の視線が、一気に集まる。
ああ、またあんな目立つようなことをして。なんて考えて…………それが、まるで保護者目線のように思えて、微妙な気持ちになった。きっと今の私は、なんともいえない表情をしていることだろう。
ひとかたまりになっていた私たち四人は、さぞかし見つけやすかったことだろう。日菜さんは此方へと顔を向けていて、彼女の視線が私の視線と重なった。
ニンマリとした笑みを浮かべて、此方へと歩み寄ってくる。
「美咲ちゃん、ただいま!」
「っと…………日菜さん、どこ行ってたんですか。電話にも出ないし」
前へと伸ばしていた両手を、私の頭の後ろで交差させて。まるでそうすることが自然とでもいうように、彼女は私へと抱きついてきた。ちょっとビックリするくらい軽い彼女の体を、危なげなく抱きとめる。
出会ったばかりの頃の私なら慌てていたのかもしれないけど、流石にこの類のスキンシップにも慣れてきた。特になんとも思わない自分に、少しだけ寂しくなってくる。いや、元から抵抗感はそこまでなかったんだけど…………なんていうか、年頃の女の子として失ってはいけない何かをなくしてしまったような。たぶん、羞恥心とかそういうやつ。
いや、まぁ、世の中の女子高生的にはこういうやり取りが普通なのかもしれない。それでも、当たり前のように公衆の面前でこういう事をされるのは…………なんだ、ちょっと困る。
…………というか。
「あの、日菜さん?」
「えへへ、ちょっとね」
「いや、ちょっとじゃなくて…………その、いい加減離れてくれると嬉しいんですけど」
「えー、もうちょっとだけ」
「いや、動けないんですけど。それに、あと少しでライブ始まりますよ」
「美咲ちゃんはあたしとライブ、どっちが大切なの?」
「まーた変な事を。そんなセリフが出てくるような関係でもないでしょうに」
「…………うーん、それもそっか」
未練を感じさせるような、そんな不満げな声を出しながら。スルスルと服と服が擦れる音を立てて、彼女は離れていった。声と所作からは、これでもかと寂しさが伝わってくるけれど。その表情は相変わらず笑顔のままで…………どっちを信じればいいのか。相変わらず、よく分からない。
「なんか、さっきも似たようなやり取りしませんでしたか?」
「それくらい美咲ちゃんのことが好きってことだよ。ほんと、食べちゃいたいくらい」
いつも思うけど、なんでそんなに好感度が高いんだろうか。食べちゃいたいくらい、っていうのがどれくらいの意味を持っているのかは私には理解できないことだけど。それでも、彼女から私に向けられた感情の大きさは、瞳を通じて伝わってくるから。
理由が分からない私は、目を逸らして、話をはぐらかすことしか出来ない。理解できないものを覗き込む時ほど、気持ちが揺さぶられてしまうから。
「はいはい。それで、何を取りに行ってたんですか?」
「あっ、そうだ! これこれ! ジャーン!」
腕に下げていた紙袋から日菜さんが取り出したのは、ぱっと見はプラスチック製の二本の棒だった。
どんな用途なのかは知っているけれど、名前が思い出せない。普段の生活に馴染みがないから、咄嗟に言葉が思い浮かばない。
「あー…………なんでしたっけ、それ」
「サイリウム! …………って言いたいところだけど、なんか厳密には別物らしいよ。ペンライトっていうんだってさ。はい、これ美咲ちゃんのぶんね」
「えっ、いや、いらないんですけど」
嬉しそうに棒を差し出してくる日菜さんにつられて、つい受け取ってしまった。思ったよりも重量感のある二つの棒が、手の中でずっしりと存在感を主張してくる。
わざわざ私の分まで用意してくれた事自体は嬉しいけれど。正直、これを振る勇気は私にはない。
返却しようとする私をするりと躱して、日菜さんは薫さんの方へと次の棒を差し出した。
「こっちは薫くんのぶん!」
「私がこれを手にしたら、余計に私の美しさが目立ってしまうのではないだろうか。もしかしたら、ライブをしている子猫ちゃんよりも視線を集めてしまうかもしれない…………」
「あはは、何言ってるかわかんないや」
「うわ、辛辣…………じゃなくて、私は別に必要ないっていうか、あの、日菜さん?」
日菜さんはまたしても私の手を華麗に回避して、今度は戸山さんたちの方へと足を進めた。
「あ、香澄ちゃんと有咲ちゃんのぶんもあるよ」
「あ、えっと、その…………ありがとうございます、氷川さん」
「…………いきなり名前呼びって、距離近すぎませんかね」
素直に受け取った戸山さんに対して、市ヶ谷さんは微妙そうな顔で日菜さんの手に持ったペンライトを見つめている。彼女の性分もあるのだろう。なんの脈絡もなく近づいてきた日菜さんへと、懐疑的な視線を向けている。
「えー? あたしは香澄ちゃんとも有咲ちゃんとも仲良くしたいんだけどなー? ほら、お近づきの印だと思ってさ!」
そして、そんな視線を向けられている日菜さんはどこ吹く風といった様子だった。市ヶ谷さんが抱いている感情を理解していないはずがないのに、笑顔を一ミリも崩す事なくペンライトを差し出している。
日菜さんと市ヶ谷さんの視線が重なり、そのまま無言の攻防が始まった。二人の間で稲妻が弾けているような気すらしてくる。
無理強いは良くない。ただでさえ、市ヶ谷さんはさっきまで強い感情の揺れを経験していたのだから。何かの拍子にそれが爆発してしまったら、空気が悪くなってしまう。それは、私も望んでいないし…………なにより、戸山さんが気まずくて可哀想なことになるだろうし。
「日菜さん、そこら辺にしておい────」
「あの、あ、有咲ちゃん! 氷川さんもこう言ってるし…………その、えっと…………私は、有咲ちゃんと一緒に…………」
流石に止めようと。二人の間に入ろうとした私よりも、少し早く。意外にも、戸山さんが市ヶ谷さんへ口を挟んだ。
口籠もりながらも、小さな声でも。たとえ、最後まで口にできていなかったとしても。彼女の瞳には、今までになかった意思の強さが宿っていて。
「…………はぁ、分かった、分かったよ。ありがたく受け取りますよ」
さしたる抵抗もなくそれに従った市ヶ谷さんを見て…………なんていうか、少しだけ拍子抜けしてしまった。
戸山さん、結構やるじゃん。
「ほんと? うれしーなー! 香澄ちゃん、有咲ちゃん、これからよろしくね!」
「言っときますけど、私、あなたに心を許したわけじゃないんで」
「あ、有咲ちゃん! 氷川さんに失礼だよ!」
「いいよいいよ、これから仲良くなっていけばいいんだからさ! それにほら、有咲ちゃんだってまんざらじゃなさそうだし! きっと照れ隠しだって!」
「ちょっ、日菜さん」
止めようとした時には、遅かった。日菜さんは言葉を最後まで言い切っていて、それはやっぱりというかなんというか…………本人にその気がないのは分かっているけれど、それでも挑発的に聞こえる内容で。
日菜さんの発言を受けた市ヶ谷さんは、顔を真っ赤にして反論する。
「違いますー! 照れ隠しなんかじゃありませーん!」
「えー? でもでもー、耳まで真っ赤だよ?」
「はぁっ!? これはあれだ、あれだよ!」
「あはは、慌てちゃって。かわいーんだ」
「かっ……!? 違います、可愛くないです」
「あの、二人とも…………もう少し静かにしてほしいっていうか。いい加減にしないと────」
「そこのあんたたち」
ピシャリ、と。背後から声をかけられた途端、水を打ったように…………周囲の喧騒が一瞬で収まった。嫌な予感が現実になったことに、頬の痙攣が止まらない。
そーっと後ろを振り返れば…………そこには、呆れ半分怒り半分といった様子の、このライブハウスのオーナーが立っていて。
顎をクイっと動かして示した先は、扉の向こう側なのだろう。未だに勢いの強い雨が降り注ぐそこは、見ているだけで憂鬱な気持ちが湧いてくる。
「騒ぐんだったら、外でやりな」
冗談が一ミリも含まれていないその言葉に、自然と頭を下げていた。それは私だけじゃなくて……薫さんや戸山さん、先ほどまで大声で日菜さんと言い争っていた市ヶ谷さんも例外じゃなくて。
「すみません」
「次はないよ」
とりあえず、あれだ。
そこで笑ってる日菜さん。お願いだから、あなたも頭を下げてください。
☆ ☆ ☆
「はぁ…………」
「どうしたの美咲ちゃん? やっとライブが始まるのに、ため息なんて吐いちゃって」
「いや、どうしたのっていうか…………やっぱりいいです。言っても意味なさそうですし」
「えー? 言ってくれないと分からないよー」
両手にペンライトを握りながら、日菜さんは楽しそうな顔でそう言った。いや、逆になんで分からないんだよって。そう思わなくもないけれど…………その無邪気な表情を目の前にして、毒気が抜かれてしまった。
原因といっても過言ではないこの人がこんなに気楽にしているのに、私がいつまでも引きずっているというのは変な話で。
いつのまにか下がっていた視線がペンライトを捉えて、ふと疑問に思った。
「あの、日菜さん」
「ん? なーに?」
「本当にペンライトを取りに行ってたんですか? わざわざ…………直撃じゃないとはいえ、台風もきてるのに?」
正直、労力と成果が釣り合っていないと思う。こんな…………言っちゃなんだけど、ショボいもののために。正直、薫さんが言っていた団扇やらなんやらと大差ない。雨に打たれるリスクを追ってまで…………というのは、日菜さんの人柄を多少なりとも知っている身としては、どうにも違和感を感じてしまう。
まぁ、結果から見れば。日菜さんは全くといいほど濡れていなかったわけだけど────。
「え? 違うよ?」
そんな気持ちを込めて尋ねた言葉は、本人によってあっさりと否定された。
…………は?
「…………は?」
「ペンライトはあれ、お土産だから。それとは別に必要になるものが…………あっ、まだ内緒にしておくんだったっけ。まぁ、とにかく、あれだよ。美咲ちゃんの役に立てるように、日菜ちゃん頑張りました!」
日菜さんはそう言っておちゃらけながら、片手を頭の上で一直線に伸ばして敬礼の姿勢をとった。
彼女が何をしたいのか、分からない。分からないけど…………少なくとも、嘘は言っていない。貼り付けたような笑顔を浮かべているのにも関わらず、誤魔化そうともしていない。それが、少しだけ恐ろしく感じる。
この人だけなんだ。人の心を覗き込めるはずの私が、少しも意図を読むことができない相手は。
こうして瞳を合わせて、思考を探ろうとしても…………何一つ読み取ることができない。それでいて、彼女が誤魔化そうとしていないことだけは分かってしまうから。だから私は、どうしようもないほど…………彼女に惹きつけられてしまう。
背筋に走った冷たいものを振り払って、再び口を開く。
「…………いや、ちょっと意味わかんないんですけど。さっきペンライト入ってた袋以外何も持ってませんでしたよね?」
「うーん、別に全部教えちゃってもいいんだけどー…………それじゃあ面白くないかな? サプライズの方がいいと思うし…………折角だから、美咲ちゃんに考えてもらおうかな! 可愛いくて天才の日菜ちゃんは、いったい何を持ってきたのでしょーか!」
「サプライズって…………それに、急にそんなこと言われても」
「まぁ、ライブが終わるまでには分かると思うから。それまでに考えといてね!」
話が通じている気がしなかった。同じ言葉を口にして、嘘偽りなく会話しているというのに。相手の考えていることが、全く理解できない。
不思議な感覚だった。同じ人間じゃないみたいな…………目の前に立っている人が、宇宙人か何かなんじゃないかと思ってしまうような。どこかおかしいはずなのに、何が変なのか分からない。そんな違和感が喉に詰まって、呼吸がうまく出来ない。
初めての感覚ではない。日菜さんと会話していると…………たびたび、こういった現象が起きる。そして、その理由もわかっている。
日菜さんに見えているものが、私には全然見えていないんだ。
…………彼女が、あえてそうさせているのは分かっているけど。
「…………うん、分かった。考えとく」
「美咲ちゃんも喜んでくれると思うから、楽しみにしててね!」
「まぁ、あんまり期待しないでおきます」
「あっ、酷いなぁ。あたし、これでもかなり美咲ちゃんのこと考えてるんだからね」
知ってますよ。なんて、軽口を返せたらよかったんだけど。日菜さんが口にするその言葉には、いつも言葉以上の大きな、大きな好意が…………執着のようなそれが、宿っているから。
その大きさに押しつぶされそうになって…………怖気付いて、踏み込むことを躊躇ってしまう。
日菜さんのことは、私も好きだ。色々とお世話になっているし…………なにより、今まで出会ってきた人の中で一番
今さら何をって、自分でも思うけど。彼女とのこの距離感を心地よく思っている私がいるのも、偽りのない本心だから。
彼女の口にする「いつか分かる」という言葉が、現実のものになるまで。それが、具体的にいつの話になるかは知らないけど。多分、そこまで遠い未来の話じゃないと思うから。
それまでは、色々なものに目を瞑っていようと思う。彼女の抱えている秘密とか、私の中にある疑念とか。全て受け入れて、その上で見極めていきたい。
☆ ☆ ☆
「あっ、始まるね…………あんまり煩くしてるとまた怒られちゃうから、静かにしてないとダメだよ?」
「一番騒いでたの、日菜さんでしたよね」
「えー? 有咲ちゃんの方が大きな声出してたよ」
「そこ、聞こえてるからな?」
「えへへ、ごめんね」
そんな、私たちの声をかき消すように。
楽器の大きな音と共に、観客の歓声が周囲を包み込んだ。
『SPACE! 今日はよろしくお願いします!』
名前も聞いたことのなかったバンドの、名前も知らない少女が。マイク越しに、この場の全員へと語りかける。
「いえーーーい!!」「い、いえー…………い」
『ありがとー! 早速一曲目、歌っていきます!』
ノリノリに叫ぶ日菜さんと、それに続くように控えめに叫んだ戸山さんの声が、どこか遠くに感じる。
人生初めての、ライブ。
いつか私たちも、同じように舞台の上に登ることになるんだろうけど。それはまだ、近くて遠い未来の話で。
今の私はまだ、舞台を見上げるだけの観客のままだから。
心臓の音をかき消すような、力強くも繊細な音楽と出会って。
柄にもなく…………私は、感じている胸の高鳴りを抑えきれそうにもなかった。