此処が
数歩先が見えないほどの暗闇と、微かに聞こえてくる水の流れる音。見渡しても、見上げても、見下ろしても。何も見つからず、私しか存在しない世界。
瞳を閉じているのか、開けているのか。それすら曖昧になってしまうほどの、光を飲み込むような風景だけの場所。
初めての経験じゃないからこそ、気がつくことができた。
水の流れる音はたぶん、川のものだと思う。だけど、それが何処にあるのかは分からない。もしかしたら一歩隣にあるのかもしれないし、それなりに離れた場所にあるのかもしれない。
分かっていることといえば、それが現実のものじゃないということ。そして、普通の手段では辿り着けないということ。
私の力を以ってしても、容易く見つけられるものではない。此処では超能力が使えなくて、そして使う必要もない。私はただありのままを見つめて、感じて、相手の感情に身を任せるしかないのだから。
どこまで続いているかも分からない一本道を、ただ黙々と歩き続ける。
いや、歩けているのかすら分からない。前に進んでいるのか、それとも立ち止まっているのか。代わり映えのない景色と、いつまでも聞こえ続けている水の音が感覚を狂わせる。
どれだけの間、そうしてしただろう。何も変わらず、何処にも辿り着けない。永遠のような一瞬が、どこまでも続いているというのに。
私はほんの少しでさえも、そこに何かを感じることはなかった。焦りもなければ、絶望もない。ただあるがままを受け入れて、一本道を歩き続けている。
それはきっと、本能で理解していたからなんだろう。果てしなく続くこの道も、やがて終わりが訪れるのだと。永劫続くと思われた絶望に、終止符が打たれる時が来るのだと。
この世界に入り込んだ時から、彼女の中を覗き込んだ瞬間から。誰に教えてもらわなくとも、知っていたから。
だからこそ、こんなにも落ち着いている。
より深く、更に暗いところへと。人の心というものは、簡単に解き明かせるようなものではないから。傷つけてしまわないように、刺激してしまわないように。
ただそれだけを考えて、足を動かす。
水の流れる音が、だんだんと大きくなっていくのを感じる。少しずつ目的地に近づいているという実感が、胸のうちに僅かに漂っていた不安を薄れさせる。
だけど、近づけば近づくほどに。
大きくなっていった水の音が、全く違うものへと変化していく。より大きく、より感情のこもったもの。自然の中から生まれてくるそれとは違った…………有り体に言えば、人の声へと。まるで最初からそうであったかのように、違和感を与えることなくすり替わった。
『────わたしは、歌なんて好きじゃないです』
声が聞こえてくる。少女の…………たぶん、あの子の声が。感情を押し殺した、聞いているだけで胸が痛むような。そんな、悲しい叫び声が聞こえてくる。
ジワリ、ジワリと。心が直接触れたことで、彼女の感情が力を通じて私の精神に浸食してくる。彼女の悲しみや苦しみを、まるで自分の事のように感じてしまう。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
一歩進むごとに、深く沈んでいくごとに。まるで壊れた音声機器のように、彼女の言葉が繰り返される。
風が吹くはずなんかないのに、向かい風のような抵抗に精神が押し返される。最初は小さかったそれは、私が近づくごとに勢いを増していき…………やがて、感情の嵐となって。無遠慮にも足を踏みいれようとしている私を拒む。
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
『わたしは、歌なんて好きじゃないです』
この声はきっと、彼女が作り上げた心の殻なんだろう。自分が口にしてしまった後悔を、たった一人で抱え込んで。言霊となった一言が、彼女の本当の気持ちを封じ込めてしまっている。
だから、本当はこんな風に入り込むことすら出来なかったんだと思う。人の心とは、人が思っている以上に脆くて、そして強いものだから。彼女が本心から私を拒絶していたのなら、こんなことにはならなかった。
それでも、強引に入り込むことは出来たんだろうけど。そんな事をしてしまえば、彼女の精神は粉々に砕け散ってしまうだろうから。
だからこそ。こうして迎え入れてくれたということは…………彼女が私に、ほんの少しでも心を許してくれているということで。
絶望することはない、こんな暗闇に閉じこもってる必要なんてない。そう伝えたい。
私はまだ、彼女のことを詳しく知らない。今日知り合ったばかりで、少し話した以上の関係はないから。それは仕方ない、これから知っていけばいい。
ただ、そんな私でも。ひとつだけ、分かることがある。
それは────────。
『わたしは、歌なんて好きじゃ』
「本当に?」
『…………わたしは、歌なんて』
「本当に、好きじゃないの?」
繰り返されていた彼女の言葉が消えて、沈黙へと移り変わる。誰かの声が返ってくるなんて、思ってもいなかったんだろう。
だって、ここは彼女の
普通だったら、レスポンスなんてあるはずもない。これまでと同じように…………たった一つの言葉で、感情を封じ込め続けることが出来ただろう。人はそれを、呪いと呼ぶのだけれど。自分を縛る鎖というものは、案外自分自身では見つけることが出来ないものだから。
私が、何かしようというわけじゃない。あまり干渉し過ぎれば、彼女の精神は私の意思によって塗りつぶされてしまう。だから、質問するだけ。本当は、それすらしてはいけない事なんだろうけど。
他でもない彼女自身が、それを望んでいるのなら。私は、私に出来る限りの事をしてあげたい。
「────歌うことは、嫌い?」
『────好きだよ、大好き』
その言葉をきっかけにして。
空が、暗闇が、砕け散った。
☆ ☆ ☆
空を見上げれば。そこは暗闇なんかじゃなくて…………沢山の星々が輝く夜空の下で。どうして気がつけなかったんだろう。そう思ってしまう程度には、見事な景色だった。
『きーらーきーらーひーかーるー』
目の前で、女の子が歌っている。
河川敷を舞台に、満天の星空をステージライトに。まだ幼い…………恐らく、小学生くらいの少女が歌っていた。
私と彼女を線で結ぶように。地面にも沢山の小さな星が輝いていて。空を見上げても、地面を見下ろしても。光が灯っているというのは、ロマンチックだと思う。
手を伸ばせば届きそうな距離なのに、不思議とたどり着くことが出来ない。きっとここが、彼女の原風景。
人は記憶の中に、大切な景色を残している生き物だから。私にとってのそれが、あの日の夜であるように。彼女にとってのそれも…………どんな思い出よりも大切な、かけがえのないものである事は間違いないだろう。
この景色が、この場所こそが。卑屈さと臆病な振る舞いに隠された、彼女の本当の姿そのもの。気持ちや感情に嘘はつけても、自分の心を誤魔化すことなんて出来ない。この美しい景色に、偽りなんて存在していない。
だから、というか。私が彼女に感じていた違和感の正体が、これでハッキリした。
どうしてこんなに気になるんだろう、ずっとそう思っていた。どこかで会ったことがあるのか、他人と何かが違うのか。そんな疑問が常に思考の中を漂っていて、シコリのように残っていた。
彼女の話を聞いて、市ヶ谷さんの話を聞いた後でも。それは変わらなかった。まるでこの世界と位相がズレているかのような、そんな違和感を彼女から感じ続けていた。
私は彼女と会ったことがある。いや、会ったというほどの関係を結んだわけじゃない。少しすれ違って…………今と同じように、違和感を覚えた。それだけの、ちっぽけな縁。
私とこころが出会った、あの日に。
学校見学に向かう私の正面。花咲川の方から歩いてきて、すれ違った少女。ずっと下を向いて歩いていて、どこか気になって仕方がなかった。あの子こそが…………戸山香澄と私の、ファーストコンタクトだったんだ。
今とは髪型が違うから、なんてのは言い訳に過ぎないと思うけど。私が彼女を思い出せなかったのは、見た目の印象が違うことが大きな理由だと思う。そもそも、半年以上前に一度すれ違っただけの人の事を覚えている方が、よっぽと変かもしれないけど。
それでも、思い出せてしまうくらいには。
戸山さんには、普通の人とは違う特徴があるから。一見して、普通の人には分かるはずもない事だけど。
人の心を覗き込めてしまう私には、それが気になって気になって仕方がなかったんだ。彼女の心の構造が、あまりにも…………常人とはかけ離れていたから────。
『ありがとう、美咲ちゃん』
目の前に立っている少女が、私の方へと話しかけてきた。髪型を猫の耳のように結んだ、いまの彼女の姿をした何者かが。私の目を見て、私に笑顔を向けて、私へ礼を告げている。
だけどそれは、彼女の意思でそうしているわけじゃない。
この世界はあくまで、私が彼女の心の中を理解できるように、その複雑な胸の内を景色として解釈しただけの場所。ようするに、私に都合のいいアニメーションみたいなものだから。そこに存在している
だけど、丸っきり幻想という訳でもない。戸山さんの心を基にしている以上、目の前の彼女が口にした言葉というのは…………本心から私に向けた感情であるのは、間違いない。
底抜けに明るい笑顔が、本当に似合っている。いつもそうしていたならきっと、クラスの人気者になること間違いなしだろう。そう思わされるくらいには、世界中が一斉に恋に落ちてしまうくらいには。彼女はとても可愛らしくて、魅力的で、特別な女の子だ。
『美咲ちゃんのお陰で、
「それは違うよ。戸山さんと市ヶ谷さんが、お互いを大切に想っていたから。それが、ちゃんと伝わってくれただけ。私は…………何もしてない」
『そうかな?
心の底から音楽が好きなんだって。全身で伝えてくるような、無敵で最強の歌。
歌を歌う少女も、ギターを弾く彼女も。見た目の年齢は違えども、同じ
私が今まで話していたのは、歌っている方の彼女なんだろう。あれだけ臆病で、怯えていて、自信がないように振舞っていたのに。此処にいる戸山さんは、そんなものを一切感じさせないくらいには。明るくて、溌剌としている。
じゃあ、目の前にいる彼女は。
ギターを持っている彼女は、いったい誰なのだろうか。
見た目も、笑顔も、中身も、その全て戸山さん自身のもので。だけど、それはもう一人の少女も同じだから。
一つの体に、二つの
最初から、見えていたんだと思う。ただ、それがなんなのか。初めて見た私には、理解できないものだったから。ボタンを掛け違えたような違和感だけが、私に残されていたんだろう。
ああ、ハッキリ言ってしまおう。
彼女は、戸山さんは────。
『また
「その時は、もっと身近な人を頼るんじゃないですかね。ほら、市ヶ谷さんとか。凄く友達想いですし」
『うちの有咲は優しくて、いい子だからね!』
「…………そうですね、そう思います」
☆ ☆ ☆
静まり返ったステージ、たった
『みんな、最高がほしいんでしょう!!』
人が変わったような、自信に満ちた表情。星の距離でも届いてしまいそうな、力強く鮮烈な歌声。
六本の弦を搔き鳴らすことで生み出された、激しい旋律が響き渡る。
『私はほしい!! 最高を、この手で掴み取りたい!!』
少女が叫ぶ。何処までも届くように、何処までも聞こえるようにと。強く、強く、もっと強く。
彼女が構えたギターの先端が、私へと向けられる。彼女は片目を閉じて、狙いをつけるように此方を見据える。
ドキドキしている。彼女は勿論のこと…………それが伝わってくる、私までもが。胸の高鳴りを抑えられなくて、この一瞬が永遠に続けばいいなんて。そんな気持ちにさせられている。
『────
────戸山香澄は、二重人格である。