「あぁ…………無事に終わって良かった」
安心感と達成感がごちゃ混ぜになったような、なんともいえない温かな感覚に満たされて。無意識のうちに、そう呟いてしまった。
大きく息を吸い込んで、そのまま吐き出す。不思議なことに、あれだけ大変だったにも関わらず。その中に含まれた感情は、気苦労とかそういうマイナス的なやつではなくて。
身体中を満たす
「美咲ちゃん、お疲れさま!」
「日菜さんも、ありがとうございました」
「やだなぁ、お礼なんていいよ! 折角の美咲ちゃんからのお願い事だもん、なんだってやるよ! …………あ、ちょっと動かないでね」
「なにを────んっ」
「ほら、汗をかいたままだと風邪引いちゃうからさ。擽ったいかもしれないけど、少し我慢しててね」
自分で拭きます、という声は。彼女が私の口に当てたタオルによって防がれて、胸の中へと溶けて消えた。
知らず知らずのうちに掻いていた汗を、隣に座っている日菜さんが拭っている。何処からか取り出した真っ白なタオルを使って、それはもう丁寧すぎるくらいに。まるで割れ物を扱うかのような繊細な手つきに、抵抗する気力すら無くなっていくのが自分でも分かる。
周りからの視線がすごいから、ちょっとは気にしてほしいってのが正直な気持ちだけど。生憎といまは二人きりだから、彼女を諭すための都合のいい言葉が見つからなくて。
なされるがままに身を任せながら、せめてもの抵抗で彼女に視線を送る。ニコニコ笑っていた瞳と目が合って…………ウィンクされた。ああ、うん、絶対に伝わってない。
洗いたてなんだろうか。柔軟剤のいい匂いがするタオルが、私の首から上を行ききしている。口元から首筋、両耳、両頬、こめかみと額。子供を相手にしているみたいな、優しい手つき。悔しいけど、やけに上手い。
なんか、子供に戻ったみたいだ。なんて、思っている間に。
日菜さんの手が服の中に差し込まれそうになったのを、手首を掴むことで無理やり止める。
「あの、日菜さん。そこは流石にちょっと」
「えー、ゆっくりしてなよ。美咲ちゃん、
「いやいや、それを許したら大切なものを色々と失っちゃいますって」
「失っちゃったら、取りにいけばいいんじゃない?」
「いや、そういう事が言いたいんじゃ…………って、ちょ、なんか力込めてない!? 日菜さん、やめっ、やめてくださいってば!」
強行突破しようとした彼女の手首を痛めてしまわないよう、力を加減しつつ抑え込む。肉体のスペック的にまず力負けするような事はないけれど、下手をしたら相手を傷つけかねないから。
割と本気の声で注意すれば、彼女は舌をちょこんと出してから軽く頭を下げた。
「えへへ、押せばいけるかなって」
「いや、ダメですからね? そんな可愛い風に言って誤魔化してもダメなものはダメです」
「残念」
相変わらず、切り替えが早いというか。あれだけ強引であったにも関わらず、日菜さんはあっさりと手を引いた。
彼女を見つめる私の目は、それはもう胡乱げだった事だろう。そんな目で見つめられているにも関わらず、彼女は笑顔を一ミリも崩さない。楽しくて楽しくて仕方がない、そんな笑みを向けられて…………誤魔化されていると分かっていても、ため息を下げずにはいられなかった。
なんていうか、ズルい人だ。このまま成長して誰かと付き合うってなった時に、相手を弄ぶ光景がありありと浮かんでくる。悪女とか呼ばれてそうだ。いや、流石に言い過ぎか。小悪魔とか言われてそう。
そんな失礼なことを考えている私の目の前で。手に持っていたタオルを私に手渡してから、日菜さんは席を立った。
「飲み物買ってくるから、汗はちゃんと拭いといてね」
「あ、じゃあ私も一緒に────」
「いいから、美咲ちゃんは座ってて。コーヒーでいい?」
「あー…………すみません、それでお願いします」
「日菜ちゃん的に。そこはすみません、じゃなくて、ありがとう、って言ってほしいなぁ」
「…………ありがとうございます」
「いいね、『るんっ』てきちゃう!」
鼻歌を口ずさみながら離れていく彼女の背中を見送りながら、背もたれに体重を預ける。立ち上がろうとして気がついたけど、足が少しだけ震えていて。
ああ、実は結構緊張してたんだなって。自分のことなのに、他人事のようにそう感じた。現実感がないっていうか、まだちょっと浮き足立ってしまっているのだろう。いまいち、実感が湧かない。
エントランスには、私たちの他に人はいない。お客さんは既に帰っちゃったし、バンドの人たちはまだ後片付けの最中だ。
残っているのはスタッフの人と、私みたいに知り合いを待っている人だけ。ライブの時間が殊の外延びてしまった影響もあって、頭数はかなり少ない。外が暗くなっているのを見て、みんな慌てて帰ってしまった。
戸山さんと市ヶ谷さん、それとベースの女の子はまだ奥で話をしている最中。ベースの子のお姉さんがグリグリにいるから、そっちで集まっているんだと思う。薫さんはギターを貸してくれた子とそのバンドメンバーを相手にファンサービスをしているらしく、ここにはいない。
顔見知りが全員残っているのに、一人でさっさと帰ってしまうのはどうなんだろうって思ったのもあるけれど。それよりも今は、この興奮を誰かと分かち合いたいという気持ちの方が強いから。正直に口にするのは恥ずかしいけど…………結構、楽しかったし。
なんていうか、悪くなかった。
こころと花音さん、はぐみがここに居ないのがちょっと物足りないけど。それを抜きにしても、今日の経験は得難いものだ。
知識として知っているということと、実際に経験しているということ。何事にも言えることだけど、この二つには大きな差があるから。みんなの役に立てるように、なんて気を引き締めた身としては。この一日の出来事は、ありがたいの一言に尽きる。
その原因が台風で、鵜沢先輩たちが大変な目にあったという背景があるから。あんまり素直に喜べないし、不謹慎だと感じちゃうけど。それはそれとして、糧にしたいと思う。
「おまたせ、微糖でよかったよね」
「あれ? 私、微糖が好きって言ったことありましたっけ?」
「にひひ、あたしはなんでも知ってるんだよ」
猫みたいな、悪戯っぽい表情を浮かべて。冗談めかしてそう言った日菜さんは、私の隣に腰を下ろす。他に席はいくらでもあるのに、わざわざ隣に座るところがいかにも彼女らしい。
彼女と接していると、たまにこんな感じで教えていないはずのことを知られていることがある。多分、過去に出会った時に教えてたんだろうけど。気分がいいか悪いかというと…………最初はちょっと怖かったりしたけど、もう慣れたから。いくら聞いても関係性を教えてくれない事もあって、あんまり気にならなくなってきた。
だって、ほら。どうせ口八丁手八丁で有耶無耶にされちゃうだろうし。
気になって、心を覗こうと思ったことがないと言えば嘘になるけど。なんていうか…………それじゃ負けっていうか、この人に向き合うことから逃げた。みたいな気持ちになるだろうから。
好奇心に蓋をして、なるべく考えないようにして。いつか彼女から教えてくれるか、あるいは自分から思い出せる日を待っている。
先端まで綺麗に整えられた淡い水色の髪の毛と。ぱっちりした大きな瞳に、やや高めの鼻。全体的に纏まった、可愛さを残しつつ美しいと感じられる相貌。
謎が多いというか、秘密主義というか。とにかく積極的に自分を語ろうとしない上に、こちらの事を見透かしているかのような目で見つめてくる。そんなマイナス評価になりそうな点ですら、魅力へと変えてしまう彼女のことを。
果たして、忘れられるものだろうかと。
そこがどうしても理解できなくて。なんだか、自分の記憶ほど当てにならないものはないと。この人を見るたびに、感じてしまう。
「ん? どうしたの?」
「え? 何がですか?」
「いや、あたしの顔をジーっと見てるからさ…………あっ! もしかして、美咲ちゃんもついに日菜ちゃんのことを…………」
「いや、別に…………」
「なーんだ、残念。あたしにときめいてくれたと思ったのに」
特に残念そうでもない彼女を見て。少し、その気になったというか。彼女的に言えば『るんっ』ときた、とでも表現するんだろうけど。
変に誤魔化すよりも、感謝を伝えた方がいいと思ったから。一応、というか。ぶっちゃけ、かなりお世話になっているわけだし。
恥ずかしい気持ちに蓋をするために、なるべく不自然じゃないように他所へと視線を向けて。私は彼女へと、言葉を返した。
「……まぁ、いい人だと思います。基本的に優しいというか、気が利きますし。ちょっと、空気が読めない……意図して読んでなさそうな所もあるけれど────私は、結構好きですよ。日菜さんのこと」
素直じゃない私には、これが限界だけど。言葉以上の気持ちを、この一言に込めているから。それが彼女に伝わってくれることを、心の底から望んで────。
彼女の様子がおかしいことに気づいた。
「日菜さん?」
彼女のことだから、茶化してくるものだと思ってた。そうじゃなくても、もっと過剰な反応が返ってくるっていうか…………これは私の想像だけど、直接絡んでくるものだと思っていた。
頭の中に思い浮かべていた、彼女の表情。こういう風に揶揄ってくるんだろうな、とか。あとでほじくりかえされるんだろうな、とか。言葉が達者な彼女を、どう受け流そうか。そんなことまで考えていたというのに。
気になって視線を向けた先、私の目の前にいる日菜さんは。そんな、今まで見てきたどの表情とも違う顔を浮かべていて。
それが少し…………いや、かなり意外だったというか。正直いって、不意打ちを受けた気持ちになったというか。
ああ、この人も人間なんだなって。失礼だけど、そんな感想を思い浮かべてしまうくらいには。
顔を耳まで真っ赤にして、惚けたような顔でこちらを見つめている。彼女のその姿が、とても印象的だった。
いや、ちょっと。勘弁してくださいよ。そんな反応をされたら、こっちまで恥ずかしくなってくるじゃないですか。結構好きですよ、とか。ライブで気分が高揚していたとはいえ、素面で口にできる言葉じゃないのに。
日菜さんだったら軽く流してくれる、みたいな。そういう根拠のない確信があったから、だから言ったというのに。
やっぱり、ズルい人だ。異邦人のような、どこか平凡からかけ離れた雰囲気と才能を持っているというのに。私の前にいる彼女は、まるで普通の女の子みたいだ。
「…………った」
彼女の体が、ちょっとずつ震えていく。ワナワナと、とでも表現するべきだろうか。火山が噴火する前の、あるいは大きな地震が起きる直前の。そういう…………なにかが爆発する時の予兆みたいな、そんな仕草。
どこか遠くを見つめていたはずの瞳は、いつのまにか強い輝きを宿していて。それが私の瞳を通じて、心の中にまで入り込んでくるみたいに。一直線に、此方へと向けられている。
強く激しい、星が瞬くような。一瞬の煌めきを凝縮して、解き放つ。そんな、あまりにも大きすぎる感情の揺れ幅が。彼女の中で荒れ狂っているのが分かる。
「
「わっ、日菜さん!?」
「あたしも、大好きーーーー!!」
嵐の中にいるみたいだった。凪のように穏やかだったはずの、彼女の精神が。赤く色付き弾けて、ビックバンのように爆発する。
複雑に絡み合った感情の一つ一つが、劇的なほどに膨れ上がって。その全てが、私一人に向けられたものであるということが信じられないくらいに。
一体どこに、ここまでの激情を隠していたのだろうか。私の言葉一つで暴走してしまうような、こんな大きすぎる好意を。どうやって抑えて、生活してきたのだろうか。
ともすれば、恐ろしいと感じてしまうほどの。あまりにも一直線で、理解できない感情が。テレパシーを通じて、無理やり私の中へと注ぎ込まれてくる。
目の中に火花が散って、視界がチカチカと点滅を繰り返す中で。なんとか抱きとめた彼女の体は、先ほどまでと比べ物にならないほど力強い。
いや、っていうか。たしかに私は、こころや日菜さんみたいに。あんまり自分の好意を伝えるタイプの人間じゃないけれど。
ちょっとした小言を付け加えた上での、あんな言葉で。こんなに喜ぶだなんて。本当に、私はこの人とどんな関係だったんだ。
☆ ☆ ☆
「落ち着きましたか?」
「えへへ、ごめんね?」
心なしか肌が艶々している日菜さんを椅子に座らせて、彼女が買ってきてくれた珈琲を口にする。
比較的早く大人しくなったとはいえ、パワフルな彼女を宥めるのにはそれなりの消耗を強いられた。肉体的には全然だけど、精神的にはかなり疲れた。正直、もう帰って寝たい。
すっかりいつも通りになった、ニコニコとした笑顔を浮かべて。日菜さんは私を見つめながら、嬉しそうに体を揺らしている。何がそこまで楽しいのか分からないけど、機嫌がいいのは悪いことじゃないから。
過剰に摂取してしまった甘さを、珈琲の苦味が紛らわしてくれる。今だけは微糖じゃなくて、無糖の方が良かった気もするけど。美味しいものは美味しいし、満足感がある。
そうして、少しばかりの時間を静かに過ごした後に。日菜さんは唐突に立ち上がって、自分の荷物を持ち上げた。
呆れるくらいキスを迫ってきた唇を開いて、私へとさよならを告げる。
「じゃあ、あたしは先に帰るね。もうちょっと一緒に居たかったんだけど、そろそろおねーちゃんに怒られちゃうし」
「あー、確かに門限とか厳しそうですよね。紗夜先輩、風紀委員って聞きましたし」
「そうなんだよね。おねーちゃん、心配性でさ! あたしが少しでも遅く帰ろうとしたら、沢山連絡してくれるんだよ! 嬉しいよね!」
全く悪いことをしてません、みたいな顔をして。紗夜先輩について語る彼女の姿を見て、少しだけ気になる事が出来たから。それを、正直に問いかける。
「…………もしかして、そのためにわざと遅く帰ったりしてます?」
「? なんで分かったの? テレパシー?」
「────いや、なんかその方が日菜さんらしいかなって思いまして」
完全に勘だったから、嘘にならなかったけど。テレパシーって言葉に反応しなかったか、ちょっと自信がない。完全にまぐれというか、冗談なんだろうけど。急に確信を突くようなことを言われるのは、本当に心臓に良くない。
無駄に鋭くて、なんでも知ってると豪語する彼女のことだから。もしかしたらバレてるのかと思ったけど。流石にそれは被害妄想というか、ビビりすぎというか。
いや、ほんと。上手く平静を装えてたらいいんだけど。
「じゃあ、また一緒に出かけよーね! 今度はこころちゃんの代わりじゃなくて、ちゃんとしたデート! ね、
「まぁ、都合がつけば…………っていうか、女同士でデートって表現は変じゃないですか?」
「細かいことは気にしなーい。じゃ、他のみんなによろしくね!」
バイバーイ、と。手を振りながら店を出て行く日菜さんを、手を振り返しながら見送る。
扉の奥、その先の通路を曲がって姿が見えなくなったあたりで手を振るのを止めて、時計へと目を移す。
思ったよりも時間が経っていない。体感ではそれなりに日菜さんと話していた気がしたけれど、そこまで長くなかったみたいだ。
他のメンバーの片付けが長引いてるのかと思ってたけど。タイミング的には、もうちょいかかってもおかしくない。それくらいには、まだ時間が余っている。日菜さんも、もう少し残ってればいいのに。そう思ってしまうのは、こうして一人で座っている時間が寂しいからだろうか。
なんて、感傷的な気持ちに浸っていると。通路の向こう側から、声が聞こえてきた。
「香澄、いい加減に元気出せって。演奏も歌も、おかしなところはなかったって」
「香澄ちゃん、かっこよかったよ」
「ほんとに? ほんとに変じゃなかった?」
「あー、もう! 私が良かったって言ってるんだから素直に受け取れよ!」
「うぅ…………でも…………」
戸山さんと市ヶ谷さん、それと牛込さんの声だ。聞こえてくる分には、ぎこちなさも無くなって打ち解けているように感じられる。
「か、か、かおるしゃま! すごくいい演奏でした!! それで、その、もしよければなんですけど! またライブをする時は、えっと、見に行っても…………?」
「ふふっ、勿論だよ。私の歌と演奏はいつだって、キミたちを楽しませるためのものだからね」
「は、はぅ…………美しすぎます…………あっ」
いや、あの人ほんとにいつもあの調子なんだ。っていうかファンの子、また倒れそうになってるけど本当に大丈夫なんだろうか。一日に何度も興奮状態になるのって、体に良くないんじゃないかな。
「あっ、奥沢ちゃん!! おまたせ!!」
「鵜沢先輩」
後ろにみんなを引き連れながら。鵜沢先輩は一直線に此方へと向かってきて、私の目の前で立ち止まった。いつになく嬉しそうというか、なんか雰囲気が砕けている。
「奥沢ちゃんのお陰で間に合ったよ! オーナーも許してくれたし、本当にありがとう!」
「いやいや、私一人の力じゃないですって」
「勿論、他の子にもお礼は言ったよ。でもやっぱり、奥沢ちゃんにはちゃんとお礼がしたいから…………あっ、このあと時間ある!? 一緒にご飯食べに行かない? リィちゃん、奢っちゃうよ!」
「…………私、結構食べる方ですよ?」
「いいよいいよ、むしろ大歓迎だから! そんなんで借りを返せるとは思わないけど…………うん、困った事があったらなんでも言ってね! 先輩として、借りっぱなしは格好がつかないし!」
「おや、美咲は食事に行くのかい? 私もついていっていいかな?」
「あっ、み、みさ…………奥沢さん。その、出来れば私も…………えっと、有咲ちゃんとりみちゃんも一緒に…………」
「私は別に構わねーけど」
「お姉ちゃんも行くみたいだし、私も大丈夫」
この光景を、こころにも見せてあげたい。
みんな笑顔で、みんな楽しそうで。こんな風に笑いあって過ごせるんだったら、骨を折った甲斐があったというもので。
…………うん、本当によかった。