前回更新分と合わせて、一話分です。話はあまり進んでません。
子供というのは、良くも悪くも自分に正直な生き物だ。
食べたい時に食べて、寝たい時に寝る。欲しいものは我慢できないし、嫌いなものは遠ざけようとする。
よく笑って、よく怒り、よく泣いて、よく遊ぶ。それは自分という存在に対して、素直であるからこそ。
我慢を覚えて、妥協を受け入れて、挫折や諦めを経験することで。人は大人になるのだから。それを教える前、あるいは学ぶ前の子供というものは、とにかく自分に正直な生き物だ。
社会的とは程遠いだろうけども、もとより子供というのはそういうもの。彼ら彼女らに対して秩序を求めるというのは無理な話だし、そもそも大半の大人たちはそんなことを望んではいない。
子供は子供らしく、元気よく。他人に迷惑さえかけなければ、それでいい。よしんば問題を起こしてしまったとしても、責任は大人が取ればいい。そして、次は同じ間違いを犯さないように注意する。健全な成長というものは、大人が子供の誤ちを正すことから繋がっていく。
もう覚えていないほど昔の話だけど。たぶん、私もそうやって育ったのだろう。たくさん笑って、たくさん泣いて…………その都度、親の世話になった。ごく一般的な家庭で育った者であれば、多少の違いこそあれど、みんなそんなもんだ。特に、この日本という国では大多数の人間がそういう経験をしているだろう。
まぁ、何が言いたいのかというと────。
「ほら、こころ。こっち向いて、口にクリームがついてる」
すっかり大人しくなって。こっくりこっくりと首を縦に揺らしているこころの顔をこちらへと向けて、口元を拭いてやる。半開きになった瞳は一定の間隔で瞬きを繰り返しており、だんだんとその頻度が少なくなっているのがわかる。目を閉じる回数が減ったというよりは、目を開く回数が減ったと表現するべきだろう。
黄金の星が露わになる時間は、間違いなく短くなっていて。
口の周りが綺麗になって、手を離した途端。彼女は両手を私へと広げて、ぼやけていた焦点をこちらに合わせた。ゆったりとした動きで口を開いて、その端から微かに唾液がこぼれ落ちる。
「みしゃき…………だっこ」
「眠くなっちゃった?」
「ん…………」
たとえ年不相応に賢かったり、あるいは聞き分けが良かったりしても。子供である以上は、生物の原始的な本能から逃れられる訳がないということで。
私の小さな友人である弦巻こころも。そういった点でいえば、間違いなく子供なんだと。今の彼女の姿を見ていれば、誰もが理解できる事だろう。
子供は起きるのが早い。とにかくエネルギッシュで、体力を持て余している。こころみたいに好奇心が旺盛で、体を動かすのが好きな子であるならば、尚更のこと。
私が授業を終えるまで。つまり、午後になるまで。彼女はその好奇心の赴くままに、色々な経験をしてきたのだろうから。自覚がないままに、体を酷使していたとしてもおかしくない。
その上で、お腹いっぱいになるまでおやつを食べたのならば。こうして、疲労感が一気に押し寄せてくるのは自然だろう。大の大人だって、ご飯を食べた後は眠くて仕方がないのだから。生理現象、生き物としての本能に忠実な幼子であるこころが眠気を訴えてくるのは、当たり前のことだ。
「ほら、おいで」
とろん、と。今にも溶け落ちそうなくらい、潤みを帯びた瞳が。うつらうつらと繰り返される瞬きによって見え隠れしている。さっきまであんなに元気一杯だったというのに。少しのあいだ座っていただけで、微睡みの海へと旅立ってしまった。
両脇に差し込まれる私の両腕を、抵抗もなく受け入れている。
ぷにぷにとした手で目元を擦ろうとするのを止めながら、その小さな体躯を抱き上げる。この体のどこに、あんなに沢山の活力が詰まっているのか。というか、本当に食事が足りているのだろうかと。あれだけ裕福な実家だから、まさか栄養不足ということはないんだろうけど。ちょっとした不安を感じてしまうくらいには、体重が軽く思える。
いや、この年齢だと普通なんだろうけど。それでも、なんていうか、こう…………もうちょっと、肉がついててもいいんじゃないだろうか。
お互いが向かい合う形で抱きかかえて、彼女の頭を私の肩に乗せてやる。あまり快適とはいえないだろうけど、空気のクッションを挟み込むことで首を支えているから。まぁ…………即席の枕くらいにはなるだろう。
「ちゃんと時間になったら起こすから、寝てていいよ」
「や」
「こら、我慢しないの」
「やー!」
顔を私の首筋に押しつけながらも、こころは首を微かに左右に振って眠気に抵抗している。抱っこをせがんできた時点で、限界は近いだろうに。彼女は昼寝をするとき、毎回こうやってグズる癖がある。
たぶん、まだ遊んでいたいとか。あるいは、一緒にお喋りをしたいとか。そういう感情が、眠気を押しのけようとしているんだろうけど。
その抵抗も、長いこと続くことはない。だって、肉体も精神も幼い彼女にとって…………眠気というものは、決して抗うことのできない本能に近いものだから。
トントン、と。一定のリズムで背中を叩いて、それに合わせて軽く揺らしてやれば。
グズる声はすぐに聞こえなくなって、代わりに、安らかな吐息が首元に吹きかかるようになった。それが少し擽ったくて、そして、ほのかに温かい。
こうして彼女を寝かしつけるのも、これで何回目だろうか。まだ出会って一年も経っていないというのに、随分と慣れてしまった。
ぐったりと、あるいは、ぐっすりと。全身から力を抜いて、安心しきった表情を浮かべて。私に体を預けてくれる彼女の姿が…………こんなことを言ったら勘違いされてしまいそうだけど、大好きだ。
いや、まぁ、少なくとも今まで過ごしてきた中で、好きじゃなかった姿なんて一つもないんだけど。私が言いたいのは、そういうことじゃなくて。
こうして、寝ているところを見せてくれるというのは。私の思い違いじゃなければ、とても信用されているということだと思うから。子供である彼女に、そんな考えなんて無いとは分かっているんだけど。
なんだか、許されたような気がして。
決して妹たちの姿を重ねているわけじゃ無いけれど。それでも、こうして誰かの保護者として振る舞えるというのは。今はもう届かない、遠い日々を取り戻したような気持ちになれるから。
ああ、つまり、えっと、なにが言いたかったんだっけ。いろんな感情がごちゃごちゃになって、自分でもよく分からない。彼女のことを見ていると、どうしても冷静じゃいられなくなってしまう。たぶん、他の人にはバレていないと思うけど。
胸の中が満たされるような、そんな愛おしさを感じていると共に。決して無視できないくらい大きな、仄暗い執着を抱いてしまっていて。
強く抱きしめれば、壊れてしまうと分かっているから。だから私は、今日も間違いを犯さずに済んでいるんだろう。私の中に巣食うこの感情は、幼い彼女が受け止めるには、あまりにも、あまりにも────。
「こころちゃん、すっかりおねむだね」
「…………そうですね」
「すっかり安心しちゃって…………ふふ、食べちゃいたいくらいかわいいね」
テーブルの向かい側の日菜さんがわずかに身を乗り出して、こころの頬を指でつつく。私はこころが座っていた椅子の方へと向いているから、その私に正面から抱かれているこころの顔は、ちょうど日菜さんから触りやすい角度になっていたんだろう。
子供らしい、膨らんだ頬へと。日菜さんのすらりとした指が沈んでは、弾力に押し返される。起こしてしまう可能性があるから、あんまり刺激を与えてほしくないんだけど。かくいう私も、割と頻繁に同じような行為に手を染めてしまっているから。それを何度か目撃されている以上、あまり強く言いだす事が出来ない。
こころが首を軽く振って明確な拒絶をするまで、日菜さんの些細な悪戯は続いた。肩に乗っていたこころの頭が、居座りのいい場所を探すように。私の肩から首、そして体の中心へと移動していって…………最終的に、私の胸元で落ち着いた。
小さな体を、さらに小さく。まるで胎児のように丸まって、私の腕の中にすっぽりと収まる。こころの姿勢が変わったのに合わせて、私も抱き方を変える。膝の裏と背中に手を挟み込んで、横抱きに近い体勢へと。なるべく体に負担がかからないように、ちょっとだけ念動力を使って下から体重を支える。
彼女の頭の重みを、心臓の上に感じる。きっと私の心音は、直接こころへ伝わっているんだろう。それが、彼女の安らかな眠りの助けになっているのなら。これほど嬉しいことはない。
「んじゃ、とりあえず今の所は解散かな? こころちゃんのこと、布団で寝かせてあげたいでしょ?」
「まぁ、出来れば」
「決まりだね。つぐちゃんもそれでいい?」
「あ、はい。私は大丈夫ですけど…………その、それより、というか。本当に私もお邪魔しちゃっていいんですか?」
つぐみがやや不安げに口にしたのは、さっきまで私たちで話し合っていた計画についてのことで。
あんなに乗り気だったのにも関わらず。今の彼女は、なぜか不安そうで。急にそんな事を口にしたつぐみに向けて、私と日菜さんの視線がスライドする。
つぐみはどこか居心地が悪そうに体を揺らして、それから私のことを見つめてきた。私とこころの間で、彼女の視線が行ったり来たりを繰り返す。言っていいのか、言うべきではないのか。そんな風に、迷っているみたいで。
なんとなく…………彼女が何を考えているのか、分かった気がする。
勘が半分、確信が半分。でも、それが正しいとは限らないから。たしかに言い出しにくいとは思うけど…………彼女から伝わってくる懸念を言葉にすることで、その正否を確かめる。
「もしかして、邪魔になるかもしれないって思ってる?」
「…………うん」
羽沢つぐみという少女は、とても優しい女の子だ。自分の気持ちだけを優先するんじゃなくて、相手の気持ちも汲み取ろうとする姿勢を崩さない。
彼女だって、一緒に行きたいという気持ちは間違いないだろうに。あれだけ嬉しそうに話題に混ざってきたのが演技だったとは、とても思えないから。それなのに、何を感じ取ったのか。しなくてもいい遠慮をして、自分の気持ちを誤魔化そうとしている。
たぶん、私にも責任があるというか。彼女がこんなに不安そうにしているのは、私が原因なんだろう。日菜さんも言っていたけれど、最近はこころに付きっ切りで顔を見せに来れていなかったわけだし。
そのこころのために立てられた計画に参加するのは、なんとなく気が咎めるのかもしれない。日菜さんは嫉妬だとかなんだとか表現していた感情は、実はもっとずっと複雑なものだろうから。そうさせてしまったのは私だと思うと、なんとも申し訳ない気持ちが湧いてくる。
つぐみも、大切な友達だというのに。
そんな風に遠慮されるのは、なんていうか……寂しいじゃないか。
「…………私は、つぐみにも来てほしいと思ってるよ。あの日のやり直しって訳じゃないけれど…………その、また一緒に、星を見たいし」
「美咲ちゃん…………」
「ほら、つぐちゃん。美咲ちゃんもこう言ってるんだからさ。へんな気を使わなくたっていいんだって、ね?」
「…………はい、今夜はよろしくお願いします」
「任せて、あたしの所の最新の機材をくすねてくるからさ! 絶対に忘れられない夜にしようね」
「いや、流石にそれは怒られるんじゃ…………」
「いーのいーの、あたしの権限でなんとかなるし。権力っていうのは、使ってなんぼだからね」
またお姉さんが聞いたら怒りそうなことを。この人の破茶滅茶さというか、問答無用なところは今に始まった訳じゃないけど。こうしてそれを再確認するたびに、呆れとも関心ともつかない大きなため息が出そうになる。
口には出していないものの。流石のつぐみも困惑を隠せていない。いや、分かるよ。この人ってほんと…………なんでもありだよね。
どちらかといえば私の方がなんでもありなんだけど、その事実からは目を逸らして。つぐみと一緒になって、日菜さんになんともいえない視線を向ける。
そのことに気づいているだろうに。日菜さんは全く動じる様子も見せずに、伝票へと目を通している。
「つぐちゃん、会計いい?」
「あ、はい。いま準備しますね」
机の上の食器をひとまとめにして持ち上げながら。つぐみはそう言い残して、店の奥の方へと戻っていく。
その背中をなんとなく見送って、それから日菜さんへと向き直る。彼女の目の前に置かれた伝票へと、手を伸ばして────。
「あっ、会計はあたし持ちでいいよ。ほら、呼び出したのあたしだし」
そう口にした日菜さんが、ひょいと。もう一度伝票を手にとって、私の手の届かないところへと移動させた。
「いや、流石にそこまで迷惑になる訳にはいきませんって。っていうか、私だけめちゃくちゃ注文してますし」
「気にしないでよ。あたし、お金には困ってないからさ。会計済ませてきちゃうから、美咲ちゃんは座ってて」
「いやいや、そこまでしてもらう理由ないですって」
「美咲ちゃんにはなくても、あたしにはあるの。ほら、いいからいいから」
暖簾に腕押し、というのはこういう状況をいうのだろうか。止めようとする私と、意地でも払おうとする日菜さん。人の話を聞かないとは思っていたけれど、こんな状況でそれを発揮しなくてもいいのに。
この時点で、既に心が折れそうになっているんだけど。日菜さんの方が年上とはいえ、彼女と私の関係は友人だから。対等な付き合いをするためにも、あんまり借りを作りたいとは思えない。
なおも、言い募ろうとして。
「でも────」
私の唇に、彼女の人差し指が押し付けられた。強制的に言葉が遮られて、口の動きが止まる。
目を白黒させているであろう私の顔を見ながら、彼女は怪しげに笑った。
「あんまり遠慮されちゃうと、日菜ちゃん泣いちゃうかもなー? 年甲斐もなく大きな声で泣き叫んで…………もしかしたら、こころちゃんが起きちゃうかも?」
「…………あの、そこまでします?」
「どうだろ。美咲ちゃんがもっと素直だったら、あたしも恥をかかずに済むんだけどなー?」
嘘だ、とは言えない。彼女はきっと、やると言ったことはどんなことでもやってしまうんだろう。そう思わせるだけの凄みが、この人にはあるから。
正直、こころが起きてしまわないように。彼女の周りだけ力で囲って、防音状態にすることも出来るんだけど。
それはそれとして、もしもの場合。日菜さんの醜聞というか、尊厳というか。そういった目に見えない何かが傷ついてしまうのは、間違いないだろうから。
今日だけで何度目かわからないため息が、口から溢れ落ちる。力が籠りがちな目頭を軽くもんで、彼女へと視線を戻す。
そして、暫し躊躇ってから。説得するのを諦めて、頭を下げた。
「…………じゃあ、ご馳走になります」
「えへへ、行ってくるね」
慌ただしくレジの前へと戻ってきたつぐみの元へ、日菜さんが足を向ける。その背中を見送って…………失礼だけど、やっぱり、変な人だなって思いながら。
夢の世界に旅立っているこころの顔を見て、これからの事へと想いを馳せる。
────今夜は、天体観測だ。
次の一話で完結です。本編で出ていない情報を扱う事になるので、先に少しそちらの方を進めてからの更新になると思います。もしかしたら我慢できなくてさっさと完結させるかもしれませんけども、そこらへんは今後の気分次第で。
それと忘れないうちに告知しておこうと思ったんですけど、だいぶ前にちょっぴり話題にあげてた「委員長√」の構想が固まったんで、そのうち書きたいと思います。