「えっ…………なに? この状況」
「お、奥沢さん…………たすけて」
困惑する私へと控えめに手を伸ばした戸山さんの声は、今にも消えてしまいそうなほどか細く、それでいて、分かりやすく震えていた。
目尻には微かに涙が浮き出ていて、割と本気で限界が近いのが伝わってくる。蛇に睨まれた、とでも表現するべきだろうか。逃げたいのに逃げられない、そんな顔をしている。
そこまで長い付き合いというわけじゃないけれど。戸山さんの性格というか、内向的な人柄はよく分かっている。彼女は積極的に他人と関わるようなタイプじゃなくて、むしろ極力会話などを避けるように立ち振る舞う人間だ。少なくとも、
だから、まぁ…………ぶっちゃけてしまえば。こころに出会う前の私と同じくらいにはコミュニケーションが苦手で、だからこそ、相性というものがハッキリしている。
一度でも心を許せば、わりとあっさり受け入れるんだろう。まだ出会って数週間の私にも、こうして助けを求めてくるくらいには。私のことは信用してくれているみたいだし、遠慮することもなくなった。何か特別なことがあった訳でもなく、なりゆきで。もとより、友達っていうのは大体がそんなものだから。彼女は関係を作ることに少しだけ消極的なだけで、あとは割と一般的な感性をしているんだと思う。
私の周りには破天荒な…………というか、なんだ、ちょっと変わった人ばかり集まるから。戸山さんみたいな普通の人を見ると、なんか安心する。いや、まぁ……内面は普通じゃない方かもしれないけど。それは珍しさというか、特異性が原因なのであって。少なくとも性格は大人しい方だし、人目を気にするタイプの人だから変なこともあんまりしないし。うん、常識人だろう。
色々と似ているところがあるからか、共感出来るというか。彼女の内心は、結構理解しているつもりだ。
勿論、何もかもが同じという訳ではない。
今の彼女の目を見れば、それは一目瞭然だ。私も彼女も、積極的なタイプじゃないけれど…………私は相手に引っ張り出されるのを待っていて、彼女は殻を破るのを相手に待っていてほしいから。
私にとってのこころは、優しくも強引に背中を押し出してくれる存在だけど。彼女にとっては、理解が及ばない存在なんだろう。
というか、単に慣れていないのかもしれない。共通の知り合いである市ヶ谷さんや牛込さんは、相手に過剰に踏み込まないタイプだし。市ヶ谷さんは強引そうに見えて何だかんだ気遣いの人で、牛込さんは見た目通りの大人しい子だから。
長いことだらだらと人様の人柄をあれこれ考えていた訳だけど。ようするに、噛み合っていないということ。
椅子に座ったまま動けなくなった戸山さんから伝わってくる感情は…………戸惑い、羞恥心、それと少しの恐怖。見ていて可哀想なほど、居心地が悪そうにしていて。
その感情を向けられている私たちの弦巻こころは、なぜか中腰になって机の端から顔の上半分だけをひょこっと覗かせている。自然と見上げる形になっていて、上目遣いになった黄金の瞳が戸山さんを射抜いていた。両手を顔の前で机にちょこんと乗せている様は、戸山さんに負けず劣らず小動物的な庇護欲を誘ってきていて。
あれだけ元気そうに戸山さんに質問を投げかけていたはずなのに。少し目を離しただけで、随分とヘンテコな状況になってしまっていた。
キラキラと光を宿した黄金の瞳は、さっきまでと同じくらい輝いているのに。どこか納得がいかないみたいな、不思議に感じているというか。首を傾げて、思案に耽っている。
無言で見つめられているというのは、ある意味では拷問にも近いんだろう。目は雄弁にものを語るというけれど、それは私みたいに相手の心を覗き込めるからこそ成立するようなものだから。一般的な感性を持っている戸山さんにすれば、気まずさを感じてしまってもおかしくない。
しかも、めちゃくちゃ目立っている。教室中の視線のほとんどがこころと…………ついでに目の前の戸山さんに向いている。こころが周囲を気にしない性格なのはよく知っているつもりだけど、流石に他所のクラスでこんなに目立っても全く動じていないというのは…………もはや才能といってもいいかもしれない。
巻き込まれた戸山さんには可哀想だけど、素直に感心してしまう。
「ほら、こころ。戸山さんが困ってる」
その無防備な背中から、両脇の下に手を挟み込んで。そのまま優しく持ち上げて、机から引き離す。こころ自体がもともと軽いほうだから、私にとっては羽を持ち上げるみたいなものだ。
クラス中の視線が、戸山さんやこころから私の方へと移動したのを肌で感じる。これだけ注目されていたのなら、私じゃなくても重圧を感じ取ることができただろう。多数の関心から解放された当の戸山さんは、私の割と強引なやり方に驚いていたけど。それはそれとして、安心したみたいだ。胸元に手を当ててホッと一息ついた後、申し訳なさそうな表情を私に向けてペコペコと頭を下げている。
さしたる抵抗もないままなされるがままのこころに、ちょっとだけ違和感を感じながら。少し離れたところで手を離して、自分の足で立たせる。借りてきた猫のように、というやつだろうか。やけに大人しい。
いや、そういえば…………委員長と始めて挨拶を交わした時も、同じような反応をしていた気がする。なにが不思議なのか、首を傾げてジーッと顔を見つめていた。
戸山さんに向けたそれほど、長い時間ではなかったけれど。大小の差こそあれ、相手に関心を抱く時はこんな風に無言になることがあるんだろうか。案外、こころも人見知りの一種というか…………まるで未知と遭遇した子供みたいだなって思ったけれど、それは胸の中に置いといて。
一度教室全体を見渡して、軽く頭を下げる。賑やかしたわけじゃないけれど、騒がせてしまったのは間違いないから。詫びの気持ちを込めて、申し訳ないって気持ちを乗せて。慌てて視線をそらした同級生たちを尻目に、視線を戸山さんへと戻す。
相変わらず大人しいこころと、私の背中に隠れて顔だけ出して戸山さんを見ているはぐみ。その二人に対して首を傾げている戸山さんと、目を合わせてから。
どちらからともなく、頷く。きっと、お互いに考えていることは同じだろう。いや、覗き込もうと思えば確信が持てるけど。そんなことをするまでもなく、私たちの気持ちは一致しているのが分かるから。
入ってきた扉の方を、それとなく首の動きで強調して。それから、言葉を口にした。
「場所、変えようか」
☆ ☆ ☆
「紹介するね。こっちがうちのバンドのボーカル担当の弦巻こころ、私と同じC組だから。A組との合同授業とかはあんまりないと思うけど、仲良くしてくれると嬉しいな」
「あ、はい…………その、戸山香澄です」
戸山さんの声音には、戸惑いの感情が多分に含まれていて。ああ、うん、そうなるよねって。思わず納得してしまう。
廊下に出て少し進んだ先、人目の少ない階段の下で。私とこころとはぐみの三人と向かい合うように、戸山さんは立っている。
そういえばまともにお互いの紹介もしてないなってのに気づいたのは、教室を出てからだ。私が止めるまでにこころと戸山さんの間でどんなやり取りがあったのかは分からないけど。どちらにせよ、知り合いを挟んでやりとりしたほうが幾分か警戒心も薄まるだろうし。
私の肩と腕に手をかけつつ、顔だけ出して戸山さんを見つめているこころのことを、彼女に紹介した。格好が格好というか、珍妙な姿勢で向き合っているから。戸山さんとしては、警戒心よりも困惑の方が大きいらしい。
ある程度落ち着きを取り戻した彼女は、自分の名前を口にしながらしずしずと頭を下げた。
「こころ、前にちょっとだけ話題にしたことあると思うんだけど。この人が戸山さん。鵜沢先輩のライブの時に知り合ったんだけど…………彼女もバンド、やってるんだ。ギターがすごく上手くて、ボーカルも担当してる」
「あ、えっと、その…………そんな、私なんて」
「見て分かると思うけど、ステージ以外では大人しい人だから。さっきみたいに無理やりグイグイ質問ぜめにするのはダメだよ?」
「いや、あの、ほんとにその、大したことないから。あんまり、あの、その事は」
「いやいや、そんなに謙遜しないでよ。実際、かなりのものだったと思うよ。私、思わず聞き入っちゃったもん」
「ひ、あぅ」
あんまり褒め慣れてないのかもしれない。正直に思ったことを口にしただけなのに、戸山さんは両手をブンブン振りながら否定してくる。顔は火が出そうなほど真っ赤になっていて、誰が見ても分かるくらい照れている。
ちょっと揶揄いすぎただろうか。いや、でも、嘘はついてないし。
ちょっとだけ申し訳なさが湧いてきて、それを誤魔化すために心の中で言い訳を重ねながら。
やっぱり驚くほど反応がないこころを気にしつつ、はぐみに一回だけ視線で合図を送る。
どこか不安そうにしていたはぐみも、それに気がついたのか。私に向けて一度頷いてから、一歩前に出る。
珍しい、と判断できるほど長い付き合いじゃないけれど。それなりに一緒に過ごした彼女からの、初めての「お願い」だったから。
たとえ理由を知らなかったとしても、首を縦に振っていたとは思うけど。聞いてしまった以上は、なおさら放っておくわけにもいかない。
「戸山さん、こっちはうちのベースのはぐみ…………北沢はぐみ。戸山さんと同じクラスだから、名前くらいは知っていると思うけど」
未だに目を強く瞑ったまま首と手を横に振っている戸山さんに対して。今度は、はぐみを紹介する。不自然じゃないように、それとなく探るように。手振りを交えながら、話を進めようとして────。
「あ、あの! 間違ってたらごめん! 戸山さんって、『かすみちゃん』だよね!? はぐみのこと、覚えてる!?」
「あー…………」
それが焦れったかったのか、もう我慢の限界が来ていたのか。あるいは、緊張しすぎて思わず声を上げてしまったのか。
急に大きな声を出したはぐみに対して、戸山さんはビクリと肩をゆらした。少し赤らんでいた顔の色が、ゆっくり引いていくのが分かる。はぐみの切羽詰まった声が、逆に冷静さを取り戻させたんだろう。突然のことに困惑しているのは伝わってくるけど、恐怖の類の感情は全くない。
小動物みたいな戸山さんのことだから。あんまり急に距離を縮めてしまったら、逃げ出してしまうかもしれない。そんな風に思っていたけれど、少なくとも話自体はできそうだった。交流こそ少ないものの、知らない関係では無かったんだろう。はぐみの大きな声にも、思ったより動揺はしていない。
むしろ、どちらかといえば。声をかけたはぐみの方が、酷く冷静さを失ってしまっている。
「あっ、えっと、き、急にごめん! びっくりさせちゃったよね? あの、はぐみ、前からもしかしたらって思ってて、でも、えっと、
「はいはい、落ち着いて。戸山さん、困っちゃってるから」
今にでも戸山さんに飛びかかるんじゃないかってくらい動揺していたはぐみに近づいて、後ろから両肩を抑える。はぐみに話しかけられた時の戸山さんみたいに、体をビクッと反応させてから。はぐみはゆっくりと後ろを振り返って、私の顔を見た。
彼女の瞳に映り込んだ私の表情は、苦笑に満ちていて。それが、責められているように感じたのだろう。勢いが萎んでいって、すっかり意気消沈した様子で。はぐみは両手の人差し指を所在なさげに擦り合わせながら、その場で俯く。
「あっ、みーくん…………その、えっと、ごめん」
「いや、
本当に、心の底からそう思っているから。彼女の小さな肩をポンポンと叩いてから、無理やりじゃない程度の力加減で戸山さんの方へと向き直らせる。
私だって、
ちょっとグダついてしまったのは間違いないけど。ある意味では、それがいい方向に向かったというか。だとすれば、私の紹介なんて必要なかったんじゃないかと思うけれど。
困惑から、理解へと。その間に熟考を挟んで、徐々に顔色が変わっていく戸山さんのことを見ながら。私は、はぐみの予想が正しかったことを確信した。
はぐみも、何かを感じ取ったんだろう。私とは方向性が違うけど、この子も結構人の機微に鋭いところがあるから。俯きがちだった顔を上げて、戸山さんへと食い入るように視線を向けている。いや、いまの私からははぐみの顔は見えないけれど。なんとなく、そんな感じがするから。
「…………えっと、もしかして『はーちゃん』?」
震える声を、絞り出すように。勇気を出して口にしたんであろうその言葉を聞いて、はぐみが飛びついたのを見守りながら。
思っていたよりもいい結果に落ち着いたことに、安堵のため息が溢れた。