『あかりちゃん、ちょっとずつだけど良くなってるって。元気に……歩けるようになったら、キャッチボールしたいんだってさ』
キャッチボールしたい、の後に「美咲ちゃんといっしょに」って一言が入るのを、知っていたから。だから、はぐみは嬉しいけど、ちょっとだけ寂しかった。
『あ、それと…………あかりちゃん、はぐみに酷いこと言っちゃったって気にしてたよ。謝りたいんだって』
合わせる顔なんて、なかったから。あかりを傷つけて、無責任なことばかり口にしたことが、どうしても苦しかったから。せっかく元気になってくれたのに、また笑顔を曇らせたくなかったから。だから、会いたかったけど、謝りたかったけど、口から出た言葉は「ごめん」の一言ばかりで────。
『そっか…………じゃあ、無理にとは言わないからさ────』
はぐみが感じていた『うしろめたい』気持ちも、みーくんにはお見通しだったんだと思う。困ったように微笑んで、それでも、はぐみを傷つけないように、顔に出さないようにして。
だけど、みーくんは嘘をつくのが苦手だから。残念そうに、申し訳なさそうにしているのが、はぐみにもよく理解できた。
みーくん、本当はもっとすっごく綺麗に笑うんだもん。みんなと一緒にいる時間とか、こころんの思いつきを実行しようと準備しているときとか…………こころんと、二人で会話しているときとか。本当に、楽しそうに笑うから。
だから、みーくんの笑顔は好きだけど。はぐみと一緒にいるときに浮かべる、この笑顔だけは。見ているとどうしても、胸の中がモヤモヤしちゃって。
でも、みーくんにそんな表情をさせているのがはぐみだってわかってたから。せっかくみーくんが、あかりのために心を砕いてくれているのに。みーくんに頼ってばかりのはぐみが、困らせてばかりの自分が、情けなくて、悲しかった。
そんなはぐみの気持ちも、みーくんには伝わっていたんだと思う。
『────はぐみに勇気ができたら、一緒に会いにいこうよ。曲でも作って、ライブの準備もしてさ。こころの言葉を借りるなら…………私たちって一応、世界を笑顔にするバンドらしいし』
俯くはぐみの頭を撫でながら、元気づけるように、明るい声で。みーくんはそう言ってから、最後に一言だけ付け加えた。
その言葉を、はぐみは今でも覚えている。
『だから、ね? はぐみも────────』
☆ ☆ ☆
『あかりちゃん、はぐみとキャッチボールしたかったんだってさ』
そう言いながらあかりを連れてきたみーくんは、とても穏やかに笑っていた。それこそ、はぐみと一緒にいるときに見せてくれるものと同じくらい、優しい瞳をしていて。
ほら、ちゃんと言わなきゃ。そんなふうにあかりを促すみーくんの姿は、子供の扱いに慣れているのが、一目で理解できるものだったから。
あかりとキャッチボールをする約束をしながら、家まで送るって言って別れたみーくんとあかりの背中を見つめながら。頭の中では、別のことを考えてた。
あの瞳に、見覚えがあったから。
だから、分かっていたことだけど。
ああ、やっぱり。みーくんにとってのはぐみは、妹さんたちやあかりと同じように、見守る対象なんだなって。改めて、そう思い知らされた。
本当に、全然違うんだ。わかるよ、だって、ずっと見てきたんだもん。
最初から、分かってた。みーくんはみんなに優しくて、はぐみのこともちゃんと見てくれているけど。こころんに向ける時の、あの、普通の女の子みたいな視線だけは…………はぐみには、一度だって向けてくれなかったから。
それが、ちょっとだけ残念で。だけど、それ以上に嬉しい。
みーくんが、はぐみの知ってる優しいみーくんと同じだって。心の底から、そう思えるから。あのときの、あの、はぐみのことを置いていってしまった、冷たい瞳とは違うって、思えたから。
まだ、はぐみは頑張れる。
はぐみはみーくんに捨てられてない。その実感があるだけで、胸の中が温かくなっていって。寂しさとか、息苦しさとか、不安に思う気持ちを、忘れさせてくれる。
はぐみはみんなを知っているのに、みんなははぐみのことを知らない。はぐみはハロハピのことを覚えているのに、他の誰も、ハロハピのことを覚えていない。
もしかしたら、みんななら。そう思っていたのに、口を揃えて「はじめまして」って言って、はぐみのことを「北沢さん」って呼んだから。楽しかった思い出も、辛かった思い出も、全部夢の中の出来事なんじゃないかって、はぐみの頭がおかしくなっちゃったんじゃないかって、不安だった。
でも、それでよかったんだと思う。だって、もしもみんながあの一年間のことを覚えているんだったら。きっとみんなは、はぐみに会ってくれなかっただろうから。
覚えていてほしい、忘れていてほしい。自分でもおかしいと思うけど、矛盾してると思うけど。それが…………はぐみの、正直な気持ち。
だけど、それとは別に。みーくんが、はぐみの知ってるみーくんとは少しだけ違うことが、本当に怖かった。
頭がいいのは知っていたけれど、目立つのは好きじゃないって。前のみーくんは、新入生代表挨拶は断っていたはずなのに。いまのみーくんは、あんなに楽しそうに壇上に立って、立派に役割を果たしていた。
こころんと出会ったのは、入学してからって言ってたはずなのに。いまのみーくんは、入学式よりも前からこころんと知り合いだった。それこそ、二人の間に入り込めないくらい、仲良しになっていて。
だから、ひょっとしたら。はぐみの知っているみーくんとは、別人なんじゃないかって。ちょっとだけ…………ううん、すごく苦しかった。
せっかく、やり直せるのに。はぐみの好きなみーくんに、会えると思ったのに。
もしもこころんが、みーくんを連れてきてくれなかったら。ううん、それ以前に。
こころんが、ハロハピを作らないかもしれない。いつも何かに追い詰められて、苦しんでいたみーくんに、笑顔を思い出してほしいって。そういってこころんがみーくんの手を引っ張ってきたのを、昨日のことのように覚えているから。
こころんだけで、こころんとみーくんだけで、笑顔になれているのなら。そこにはぐみの居場所なんかなくて、ハロハピである必要がなくて。
はぐみは、みーくんにとって必要のない存在になってしまったんじゃないかって。それが、何よりも怖かった。
でも、それははぐみの考えすぎだった。
まるで、そうなることが
みーくんがキーボードを弾くことになったのは、びっくりしちゃったけど。でも、前も作曲するときはピアノを使っていたから、そこまで違和感はなかった。みーくんがピアノを弾いて、はぐみとこころんがそれを聞いている、あの時間も大好きだったから。どちらかというと、すごく嬉しい。
嬉しいけど、不安は消えてくれなかった。
はぐみの知らないみーくん、はぐみの知らないハロハピ。触れれば消えてしまいそうなほど、現実感のない日常と。はぐみの知っている未来が、こないかもしれない恐怖。
だから、知りたかった。みーくんのことを、もっともっと沢山知りたい。知らないことも、知っていたことも。ぜんぶ現実で、ここにあるんだって、確かめたい。
だから、作曲をするって話になったときは、チャンスだと思った。前のときのはぐみは、あんまり役に立てなかったけど。いまはベースもできるし、ハロハピの曲ならぜんぶ覚えてる。
みーくんと一緒に過ごして、役に立って、みーくんのことを知る。こういうのを「いっせきさんちょー」って言うんだって、みーくんが教えてくれた。
迷惑かもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。
みーくんはなんでも出来て、作曲だってほとんど一人でやっていた。好きでやってるから、自分にできることをやっているだけだから。そういったときのみーくんの表情は、はぐみが大好きなみーくんだったけど。
そうやってなんでもかんでも任せっきりにしたことが、頼り切ってしまったことが。はぐみの間違いで、やり直したいと思った理由だから。
だから、みーくんの家を訪ねた。
場所は、前のときと一緒だった。違うかもしれないから、念のためこころんに確認したけど、そこは変わってなかった。
ううん、それだけじゃない。
あの笑顔も、匂いも、温もりも。夢の中にいる、あの時のみーくんと変わらなかった。
やっぱり、同じだったんだ。みーくんはいつでも優しくて、かっこよくて、温かくて、いい匂いで。一緒にいるだけで、落ち着く。
それが、とても嬉しくて、安心できたから。絶対に迷惑をかけるようなことはしないって決めてたのに、途中で寝ちゃった。それくらい、心地よかった。
こうして帰ってきて、お風呂に入った後でも。はぐみの身体に、みーくんの匂いが残っているように感じる。はぐみの一番好きな匂いが、まるで抱きしめられているみたいに、はぐみのことを包み込んでいる。
────やっぱり、好きなんだ。
何処がって聞かれたら、きっと答えられない。たぶん、全部って言っちゃうと思う。
もう二度と、失いたくない。ずっとずっと、今年も、来年も、その次の一年も…………ううん、想像もつかないほどの未来まで。
みんなと一緒に、みーくんと一緒に過ごしたい。
もっと沢山の思い出を作りたい。
☆ ☆ ☆
布団の中に入ると、色々なことを考えちゃう。これからのこととか、夢の中の出来事とか。本当に、沢山のこと。
そのほとんどが、不安な気持ちと一緒にやってくる。このままでいいのかな、他にもできることがあるんじゃないか、もっと頑張らないと。そんな感情ばかりが溢れて、息が詰まって、苦しくなる。
瞳を閉じると、瞼の裏に見えてくる。
みんなで積み重ねた思い出、はぐみだけが覚えている大切な日々。その中では、みんなが笑顔で過ごしているのに。
最後にはいつも、一人になってしまう。
こころんが
そして、みーくんがいなくなる。
みんなが、はぐみを置いていく。
そんな未来が、一度は辿った結末が。夜に眠るたび、次の朝を迎えるたびに、刻一刻と迫ってきている。
もしかしたら、そうならないかもしれない。みーくんも、こころんも、かのちゃん先輩も、薫くんも…………はぐみだって、同じようで、少し違う。
全く同じ月日が流れるわけじゃない、そう思ってもいいかもしれない。
だけど、それで何もしなかったら。何もしなかった結果が、あの決別に繋がってしまうとしたら。
はぐみはきっと、今度こそ心が壊れちゃう。
わかるんだ、自分のことだから。
「みーくん」
口から自然と、名前が出てくる。目尻から冷たいものが溢れて、横になったはぐみの頬を伝って、布団の上へと落ちていく。
濡れた場所か、すごく熱く感じる。燃えているみたいに、熱が引かない。
閉じた瞼の裏側に、張り付くように。大切な人の、好きだった人の最後の姿が映り込んで、消えてくれない。
「みーくん…………」
真っ白な部屋の中に用意された、一つのベッドの上で。あの人が、横になっている。瞳は閉じられていて…………まるで、眠っているみたい。
だけど、そうじゃない。眠っているだけなら、よかったのに。
水晶のような、輝きの宿っていた瞳は。もう何も映していない。光も、あの場所も、はぐみのことも。なにも、見えていない。
もう、二度と眼を覚ますことはない。
「みーくん…………っ!」
もらった
体はすごく冷たくて、心はもっと冷え切っているけど。
はぐみが、頑張るから。
きっと、役に立ってみせるから。
だから、だから────。
『────だから、ね? はぐみも、笑顔でいてよ』
────みーくんも、笑ってよ。
『キミ』の記憶。