二月十八日、月曜日。千葉エリカは宮芝和泉を実技棟の一室に呼び出していた。
ここ数日、エリカは激動の日々を過ごしていた。去る二月十五日、千葉家の高弟であり、次期当主である長兄の千葉寿和の側近でもある稲垣が亡くなった。国立魔法大学に仕掛けられたテロを防ぐための戦いで、一般市民に紛れた工作員の銃撃によるものだった。
その現場には、長兄の寿和もいた。けれど、雲霞の如く押し寄せる市民と、その中に紛れた敵工作員への対応で離れ離れになってしまったらしい。
普段は軽い言動が多い長兄が、その日からは時に沈痛な表情を浮かべ、時に何も考えていない様子で虚空を見つめることが多くなった。いつものようにエリカに嫌味が飛んでくることも、一度もない。
犠牲者の多さから合同葬儀となった警察官三十九名の中には、千葉家の門を叩いたことのある者が三人いた。当主である父も、次兄である修次も、亡くなった魔法師たちの遺族の元に赴き、忙しくしていた。
広い家にいるのは、まだ高校生であるエリカと、事件で身体と、それ以上の大きな傷を心に負った長兄の寿和だけとなった。稲垣はエリカも知らない相手ではない。それなりに心を痛めてもいる。しかし、今の長兄の前では、稲垣の名すら出すことを憚られた。
子供の頃、エリカが稽古のたびに立てなくなるまで叩き伏せられたのが、この長兄の寿和だった。その記憶は今も心の片隅に残されていて、だから長兄のことは父親に次に嫌いで、父親よりも苦手だった。
いつもは憎らしい長兄が、稲垣が死んだ日以来、とても弱く、小さく見える。いつか兄を乗り越えることができたら、そんなことを考えてしまうくらい、長兄は幼い頃のトラウマともいえる存在だった。けれど、今のエリカには何の達成感もない。あるのはただ、今の事態を引き起こした敵への怒りと憎しみだけだ。
そして今日、憂鬱な気持ちのまま、それでもエリカは登校した。今回の事件で、エリカ自身は何の被害も受けていない。身内には怪我人すらいない。そんな状態で欠席は、さすがにできなかったのだ。
そうして登校した教室で、エリカは小さな違和感を抱いた。それは和泉の少しよそよそしい態度だった。和泉が抱いているのは、かける言葉が見つからない、などの戸惑いではなく、後ろめたく思う気持ちに感じた。けれど、その理由までは分からなかった。
違和感が強まったのは、達也との昼食時だった。僅かにではあったが、感情の起伏の少ない達也が和泉に対して苛立ちを覚えていることを、周囲の状況に敏感になっていたエリカは確かに感じた。
突如として牙を剥いた大亜連合系の外国人たち。続けて起きた反魔法主義者たちの暴挙。効果的に日本国民、特に女性を敵に回して、そこから一般男性までをも反魔法師活動から遠ざけさせるような事件の内容。和泉の態度。そして、達也の態度。不意に、エリカの中で何かのピースが合わさった。
「和泉、放課後、少しいい?」
気づけば、エリカは和泉にそう言っていた。
今回の件に、和泉は何らかの形で関与している。そうエリカの直感は言っている。その直感に従って、エリカは和泉を呼び出したのだ。
だから、こうして人気のない部屋の中で和泉を待っている。だが、果たして自分は和泉に来て欲しいと思っているのか、それとも来ないで欲しいと思っているのか、それがエリカ自身にも分からなかった。
あの忌まわしき事件に黒幕がいるのなら、知らなければいけない。そして、相応の対応をしなければならない。その思いで一度、家に戻って真剣を持ち出した。一方で、黒幕が和泉であるのなら、それを知ってはいけない、いや、知りたくないという思いも確かにあるのだ。二つの気持ちが入り乱れ、エリカの心は千々に乱れる。
「すまない、遅れてしまったね」
ついに和泉が現れた。和泉は口調こそ普段のものであるが、その顔は緊張で強張り、声は僅かに震えていた。
「和泉、正直に話してほしい。和泉は魔法大学前のテロに関わっているわね」
「……そうだ」
その瞬間、エリカは持っていた刀を抜き、和泉に突き付けた。
「なぜ?」
たった一言に力を込める。睨みつけた視線と合わせて、曖昧な発言は絶対に許さないと、はっきりと伝わるように。
「日本のためには、必要だったから」
「ふざけないで! あれだけ多くの犠牲が必要なわけがないでしょう!」
民間人が三百四十人。警察官が三十九人。魔法大学生が一人。計三百八十名。この死者数は一昨年の横浜事変に匹敵する被害だ。
「反魔法師活動は完全に根絶しなければならない。宥めて一時の情熱を失わせるだけでは、何かがあるたびに燻る火種が燃え上がり、その都度、少なくない力を注がなければならなくなる。それでは他国に付け入る隙を与えてしまう。そのためには、魔法師に対する嫌悪感よりも、反魔法師活動に大きな嫌悪感を与え、賛同する声を上げることさえ躊躇われるようにしなければならなかった」
「二高の生徒の事件も同じだって言うの?」
「そうだよ。あの一件で反魔法師活動が女の指示を得ることは絶望的になった」
高校生の女子が大人の男たちに凄惨な暴行を加えられ、裸にされて、生きたまま火をかけられる。同じことを小学生の男の子にも行う。
それは、戦場であれば殺人も忌避感なく行えるエリカであっても、吐き気がするくらいに気に食わない光景だった。同性であるからこそ、二高の女子生徒がされたことは許容できることではない。子供を殺すことも同じだ。どんな大義名分があろうとも、そのような行為は到底、認められない。その意味では和泉の作戦は成功したのかもしれない。
「じゃあ、身内がそんな最低な考えで起こされた事件の犠牲になった、あたしがどんな気持ちでいるかも、当然に分かるわよね」
「……ああ」
ここまでずっと、和泉は声だけでなく足も震えて真っ直ぐに立っていることさえできていない。それでもエリカから視線を逸らすことはしていない。おそらく、それは和泉なりの誠意であるのだろう。けれど、そんな誠意などいらない。
「じゃあ、それだけのことをした以上、自分が同じことをされても、文句は言えないってことも分かっているわよね」
「…………ああ」
恐怖で掠れる声ながら、和泉はエリカの言葉を肯定した。エリカが和泉を殺すことはないと信じているのか。いや、それはなさそうだ。
微かな音に視線を少しだけ下げてみれば、和泉のスカートの裾から雫が落ちているのが目に入った。和泉は震える拳で裾を握りしめ、腰砕けにならないように懸命に耐えている。殺されないと確信を持っているとは思えない。
「あれだけのことをしておいて、自分が傷つけられるのは、そんなに怖いの?」
「……怖い。痛いのは怖い。苦しいのも怖い」
「じゃあ、なんであたしの呼び出しに応じて、抵抗もせずに立ってるの? 和泉なら、あたしから逃げることは難しくないんじゃないの?」
「さっき、エリカも言っただろう。自分がやったことは、いつか自分に返ってくる。それくらいの覚悟はしているつもりだ」
残忍な行いで権力を得た独裁者は、自らも同じ行いをされることを恐れ、自らを脅かす者たちを粛清していくようになるという。和泉はそれとは少し異なるのかもしれない。
「覚悟しているようには見えないけどね」
「か、覚悟はしていても怖いものは怖いんだ」
「ま、いいわ」
エリカは突き付けていた刃を引いて、納刀する。
「斬らないのかい?」
「あたしに和泉を斬る資格はない」
和泉に対して腹は立てている。だが、稲垣の敵討ちとして和泉を斬るのは完全に間違った行いだ。エリカにとって稲垣は千葉家の門弟の一人である。その死に対して、誰かに死の制裁を加えられるだけの関係は有していない。
兄の心に傷を負わせたことも同様だ。兄とエリカとは、これまでお世辞にも仲が良いと言えなかった。それなのに相手を殺害するほどの怒りを見せるというのもおかしな話だ。
たいした考えもなく事件を起こしたのであれば、元友人として和泉を止めるために刀を振るったかもしれない。身勝手な思いに囚われて、大事の前の小事と犠牲を無視していても同じだっただろう。
けれど、今日の和泉が間違っているのか正しいのかは、エリカの頭では判断しきれない。だから、今日のところは保留だ。ただ、だからといって無罪放免とはいかない。
「じゃあね、和泉」
それは単なる別れでなく、友人関係の終わりを告げる言葉だ。
「……うん」
それが分かったのか、和泉は細い声で短く答える。
「ま、最後の余計なお世話として美月たちには連絡しておくから」
「待って、やめて!」
「やめたら、帰れないでしょうが」
ひょっとしたら、幻術で誤魔化せるのかもしれない。けれど、さすがに今の格好のままで人目に触れさせるわけにはいかない。一時の恥を忍んで、ここは助けを求めるべきだ。今更ながら恥ずかしそうに俯いて、足元を見つめる和泉を置いてエリカは部屋を出る。
部屋を出たからといって、すぐに帰れるわけではない。美月の到着までに誰かが入ってこないよう、部屋の前で見張りをする。
これが友人として和泉のために使う最後の時間になるだろう。壁に背中をつけて天井を見つめながら、エリカは静かな時間を過ごした。