その日、宮芝和泉守治夏は国立魔法大学付属立川病院の四階の一室にいた。
本来、この部屋にいるのは平河千秋である。しかし、敵の口封じを警戒した治夏は別に三階の一室を用意し、そこに平河千秋を移していた。無論、幻術を多用して病院の皆には治夏のことを平河千秋という名であると誤認させている。
部屋には多数の罠を仕掛けて迎撃の準備は万全。後は敵がやってくればよし。やってこなかったとしても、たいして損はない。
そのまま室内で書類仕事をしながら一日を過ごし、午後四時過ぎ。突如として病院内に警報が鳴り響いた。それは、暴力行為対策警報。暴力行為、犯罪行為に第三者が巻き込まれない為の警報であると同時に、治安回復の為の協力者を募る合図だった。
「全く、どこの馬鹿だ」
誰も聞いていないのをいいことに口汚く罵りながら、無関係の者が巻き込まれるのを防ぐために扉に設置していた罠を解除する。せっかく設置したことを考えると惜しい気もするが、部屋の中の罠だけでも十分に敵に対処することは可能だ。失ったとしても、特別に問題は発生しない。
治夏が扉の罠を解除してすぐ、病室のドアノブが引き抜かれた。敵が室内に入ってくるまでには、まだ時間があるだろうが、用意はしておくに越したことはない。呪符を両手に三枚ずつ持ち、室内の六つの罠を起動状態で待機させる。しかし、とっておきの罠が敵を屠ることはなかった。
「人喰い虎……呂剛虎! 何故ここに!?」
「幻刀鬼、千葉修次」
外で二人の男の声が聞こえた。どうやら襲撃者は大亜連合のエース、呂剛虎らしい。
「これは思った以上に大物が釣れたものだが……面倒だな」
言いながら、気配隠蔽を行い、扉の隣の壁から生えているノブに手をかける。その瞬間、幻術が解除されて扉は壁に、隣の壁は扉へと変わる。
もしも介入してきたのが、たいした実力のない者であったなら、治夏は有利な病室内から動かなかっただろう。しかし、千葉修次といえば日本でも有数の近接魔法師だったはずだ。こんなつまらぬ戦いで命を落としてよい存在ではない。
本来の病室の扉を開けると、千葉が攻撃を仕掛け、呂が体を捻って回避しているところであった。緊迫した戦闘だ。それだけに介入は容易だ。
「おや、呂剛虎とは、随分と大物が釣れたものだ」
言葉を発しながら、呂に対して魔法を放つ。治夏が放ったのは、言伝という魔法。周囲に聞かれないように特定の相手にだけ秘密の言葉を伝える魔法だ。この魔法に攻撃力は皆無である。だが、普通に耳から聞くのとは違う聞こえ方をするため、唐突に使用すれば相手を戸惑わせることができる。今回の治夏は、その狙いで魔法を使用した。
期待した通り、呂は思わずといった様子で治夏の方を向いた。そして、治夏が拳銃を向けるのに合わせて、千葉に向けていた警戒を外してしまった。
「いいのかい? 余所見をしていて」
治夏に言われて慌てて千葉に視線を戻すが、もう遅い。千葉は呂の守りを抜いて、手傷を負わせた。呂の闘志は少々の傷では衰えた様子はない。傷をものともせずに高い身体能力を生かした後方への跳躍で千葉から距離を取る。
「距離を取れば安全だと思うのは、早計だぞ」
忠告に対し、呂の警戒が治夏に向く。しかし、それこそが悪手。罠を張って待ち構えている宮芝が、単独行動を取るはずがない。呂が行うべきは周囲への警戒だった。
村山右京の幻術により隠蔽されていたが、病院の四階廊下の、さして高くない天井の上には一面に、どす黒い油のような液体が付着している。それは郷田飛騨守が魔法『黒油』で作り出した、極めて粘性と可燃性の高い液体だった。
それが天井からはがれ、呂の顔へと付着する。呂は慌ててはがそうとするが、『黒油』の粘着性は高く、容易には引きはがせない。
「君の防御能力は非常に高い。だが、攻撃以外の手段ではどうかな?」
治夏の言葉に呼応して皆川掃部が『種火』の魔法を放つ。この魔法は極めて発動が早い代わりに威力はほとんどない。せいぜい燃えやすいものに種火をつける程度。しかし、元より高い可燃性を持つものに向けた場合であれば、その限りではない。
『種火』は『黒油』に火を点けて一気に燃え上がらせる。さすがに音に聞こえし呂剛虎というべきか、それでも痛手とはなっていないようだが、顔の周囲で容赦なく燃え上がる炎は呂の肺に酸素を送り込むことを許さない。
このままでは徐々に体の自由が利かなくなる。それに対する呂の対応策は、付着した顔の皮膚ごと『黒油』をはがすという方法だった。
「ほう、随分と思い切りがいいな」
少しは感心したが、予想外という方法でも、予定外の流れというわけでもない。『黒油』と『種火』はセットで使えばなかなか強力だが、それでも特別に強い魔法ではない。実力者であれば何らかの方法で破ってくることは想定済だ。
しかし、しばらく呼吸を止められたのは確か。ならば次の敵の手は、酸素の補給。それは頭で考えての方法ではなく、生物であれば当然の息を吸うという行動。それに合わせて山中図書が魔法を放つ。
極限状態での戦闘の最中のこと。呂は図書の魔法に気づくことなく、階段から飛び降り、そのまま撤退を図る。
「千葉の麒麟児、追撃は無用だよ」
当初、千葉は不審そうな顔をしていた。しかし、治夏の自信に満ちた表情と、音もなく集まってきた飛騨や右京、掃部などの姿を見て、これまでを含め、呂の行動は治夏の掌中と感じたのだろう。素直に追走を諦めてくれた。
その後、遅れて現れた渡辺摩利から平河千秋の行方などを追及されたが、呂の追跡を理由にして、その場を離脱。治夏は三階に用意していた平河の部屋に逃げ込んだ。
「やあ、平河千秋。気分はどうだ?」
「宮芝さん……!」
治夏の姿を認めると、平河はベッドから転がるように下り、額を床に押し付ける。
「あたしはどうなっても構いません。だから、どうか姉さんだけは!」
平河がこのような態度に出ているのは、入院中に九校戦の折に海外マフィアに協力した真鍋の一族の末路を、分かりやすいように映像で見せたためだ。国を裏切った者には、三族までの粛清で応じる。その方針に沿えば誰が真鍋の妻のような目に遭うか。平河はすぐに理解したようだった。ピンとこないようなら幻術で自らの姉が穢される姿をはっきりと見せようと思っていたが、その必要すらなく、平河は完全服従した。
いくら後悔しようと、犯した罪はなくならない。先ほどまでは、それでも平河を殺害しようと考えていた。しかし、少しばかり状況が変わった。
大亜連合は平河を殺害するために呂剛虎という大物を投入してきた。どうやら、あちらは治夏が思っていたよりも遥かに平河を重要視していたようだ。そうと分かれば、自らの手で殺してしまうのは惜しい。
人が人を殺そうとすれば、どうしても痕跡を残してしまう。つまりは平河を大亜連合に殺させれば、日本に侵入している敵性分子の尻尾を掴む機会を得られるということだ。加えて、平河千秋の助命を条件に、平河小春を傘下に加えることもできる。
平河小春はわざわざ労を負ってまで傘下に加えたいと思えるほどの有能さではなかったため、重視はしていなかった。だが、ただで手に入るなら飼っておくのも悪くないと思えるくらいには有能でもある。
「お前の罪は容易に許されるものではない。だが、敵がお前の命を狙う以上、お前には汚名を雪ぐ機会がある」
言いながら平河の目を見る。
「これより、お前の身体に呪術を仕込む。もしも、お前を唆した者たちが接触をしてきたら、迷わず術を発動させて自爆しろ。敵が接触をしてこなければ、そのまま日常生活を送っても構わない。だが、もしもが現れたにも関わらずに何も行動をしなかったら……そのときは分かっているな?」
平河は覚悟を決めたように頷いた。自らの命で姉が助けられるのならば、惜しくはないと考えているようだ。
美しい姉妹愛。それだけに扱いやすくて助かる。
「では、いこうか平河千秋。いつまで続くかは私にも分からないが、君の新しい人生の始まりだ」
平河を引き連れ、治夏は宮芝家中の呪術に長けた者たちの元へ向かうべく病院の外へと向けて歩き始めた。