「新発売、ボイスロイド立体化シリーズ第六作品目『紲星あかり』! より滑らかさを増した人工毛髪に加え、本製品からはバストサイズのオーダーメイドが可能に! おっきなあかりちゃんも、ちいさなあかりちゃんも貴方の思い通りとなります! また、紲星あかり発売記念としてシリーズ第五作品目『東北きりたん』を再販! お手頃な価格でお求めいただけます! ご注文はウェブサイトから!」

 ぼくはテレビを消し、パソコンを立ち上げた。ディスプレイに東北きりたんの画像と「購入する」の文字が浮かび上がる。やっとこの日が来た。逸る気持ちのままに、ぼくは購入ボタンを――



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きりたんすき


東北きりたんを殺した日

 東北きりたんは動かない。いや、動けない。

 ぼくが故意的に各関節のモーター駆動をオフにしたからだ。

 東北きりたんは笑わない。いや、笑えない。

 ぼくが故意的に人工表情筋の制御系をオフにしたからだ。

 東北きりたんは喋らない。いや、喋れない。

 ぼくが故意的に声帯モジュールを抜き取り、それを粉々に壊して不燃ごみの日に捨てたからだ。

 いま東北きりたんの中で動いているのは、CPUと、それを動かすために蓄積された電子を吐き出すリチウムイオンバッテリー、それらの過剰な発熱を防ぐための冷却水を運ぶポンプだけで、可視光線で外装を見たときに、きりたんは間違いなく死んでいた。

 もちろん本当に「死んでいる」訳ではない。仮に死んでいるとしたら、これまできりたんは生きていたことになる。

 きりたんは生きてなどいなかった。なぜかと言えば、きりたんはアンドロイドだからだ。

 

 きりたんのアンドロイド化は、ぼくがきりたんを買った二年前に行われていた。

 そもそも、二次元のキャラクターを三次元へ連れてくるという計画は十年前くらいから始まっていた。

 記念すべき初号機には、比較的一般にも受け入れられているアニメ代表、エヴァンゲリオンの各ヒロインが捧げられた。インターネットで予約者を募集したO3社は募集開始から数十秒で予約を締め切ったという。

 そこからはもう、爆発的だった。購買意欲の高いオタクの存在に初めて気がついたかのように、世界のいろいろな企業がサブカルチャー部門を作り、様々な二次元のキャラクターを三次元化した。世界は二次元で飽和した。

 窓の外を見れば、通行人の半分は何かしらのキャラクターを連れている。旧Google社の音声認識サービスが大して流行しなかった日本とは思えないほど、そのヒトの紛い物を連れる人間は多く、インターネットの発達により友達と会う必要がなくなった人間たちは身近な人型を欲していた。

 しかし既存のキャラクターには性格というものが付随する。ツンデレ、ヤンデレ、サド、マゾ。それが良さであるが、裏を返せば自由度が低いとも言える。全てがプリセットされていて、かといって自分好みに調整したそれはオリジナルへの冒涜だった。

 そんな時、白羽の矢が立ったのがボーカロイドであり、ボイスロイドだった。

 確固たるビジュアルがありつつも、個々の詳細は定められていない。コンテンツの知名度がありつつも、致命的な先入観はない。純粋無垢な初音ミクがいて、ド変態な初音ミクがいる。それこそまさに開発者の望むソリューションであった。育てるアンドロイドの誕生である。

 ぼくが買ったのはそんな「育てるアンドロイド」のシリーズ五作品目、東北家三女の東北きりたんだった。

 先輩のボーカロイド、ボイスロイドを差し置いて、姉たちすらも差し置いて、東北きりたんは異常なスピードと販売価格で立体化した。

 きりたんのお披露目から二年。シリーズ六作品目、紲星あかりの発売とともに東北きりたんは再販された。これはアンドロイドの通例で、新型が発売されるたび過去作品が廉価で再販される。当時のきりたんはたしか三十パーセントオフだっただろうか。お陰で貧乏なインターネットウィルス駆除業者であるぼくの手に届く値段となったわけだ。

 あの日の事は昨日のように覚えている。三割引きと言えど安くない値段ゆえに、日々を質素に、極めて貧相な生活に甘んじ、抑圧されたなにやらを解放せんと購入ボタンをクリックしたのだ。ディスプレイに「購入ありがとうございました! 配達予定日は二日後です!」との文言がポップアップし、クレジットからは大金が引かれていた。そして宣言通り、東北きりたんはぼくの前へ現れた。高性能モーターとカーボンナノチューブの一般化により莫大な揚力を得た無人機は正確無比に商品を届けてくれる。

 ぼくは漠然と、東北きりたんは梱包されていると思っていた。緩衝材に包まれ、棺の中の死体のように静かに目を瞑っているのだと。

 だが現実にはそんな面倒なことはなかった。インターホンに呼ばれ、ばたばたと玄関先にかけていくと、そこには東北きりたんがいた。無表情で、両手には充電用ケーブルや古風な紙製の取扱説明書、それと棒状の何か――どうやらメンテナンス用の工具らしい――を抱え、ただ立っていた。

 あなたが――さんですか。聞き慣れた声でぼくの名前を確認するきりたんを、ぼくはとりあえず部屋に招いた。

 向かいの集合住宅の、一つか二つ下の階の住人は白い髪の少女――恐らく、紲星あかりを部屋に入れようとしていた。向こうもぼくに気づいたようで、暫しこちらを眺めたあと、部屋に帰った。唐突なことで、目のズームモジュールを起動し忘れたが、恐らく蔑むような表情をしていたに違いない。発売当日に、高価な紲星あかりを買うような人間など、漏れずに性格が悪いに決まっている。だがそんなのはどうだって良かった。当時の、半年前のぼくにはきりたんが全てだった。

 おじゃまします。恭しく汚い部屋へ入るきりたんの声に抑揚はない。これから全てを設定するその時まで、ニュートラルなのは全シリーズ共通である…らしい。たしか商品説明にそう書いてあった。

 部屋の中央に置いたちゃぶ台を挟み、きりたんと対峙する。座って、と声をかけると彼女は正座をした。フローリングの上にそのまま、というのも申し訳ないので、そばに脱ぎ捨てていたズボンを敷いてやる。

 設定を開始します。本機に充電器を接続してください。言われたとおり、ぼくは充電器を接続する。えーと、これは何処へ繋げばいいのかな。説明書を読むと、どうやらどこでも良いらしい。聴診器の様な充電器の端子をきりたんの皮膚の何処かに当てれば、そこに体内の電磁石と充電口が移動し、自動的に充電が始まるようだ。ぼくはイタズラ半分で額につけてみた。しかし当然というべきか、きりたんの反応は特になかった。

 充電確認しました。これより設定を開始します。

 それからというのは、きりたんの質問にぼくが答え、ぼくの「東北きりたん」を作る作業だった。一部は自動で行い、譲れない所は手動で設定する。全てを完了するのに一時間近くかかったが、それで良かった。その半分近くは性格の設定に費やされた。

 この東北きりたんに限らず、ユーザーに依存するアンドロイドは相互で繋がっている。インターネットを介し、各ユーザーの趣向をアップロードし、ビッグデータ的なきりたん観を形作る。性格設定の際に「おまかせ」と一言言えば、その一般的なきりたんが設定される。

 それとは別に、企業が用意していたもの、ユーザーが自主的にアップロードした性格セットもある。企業側のものはバラエティに富んでいるとは言い難いが、反面ユーザー側のものは腐るほどある。性格セットには他のユーザーが評価をつけることができ、ランキング上位には、ボクっ娘、ツンデレ、敬語妹などが常駐している。しかし万年一位はエロエロきりたんであり、つまりそういう事だ。

 人類の歴史が戦争とセックスで進歩してきたように、人型アンドロイドはラブドールとしても期待されていた。

 まるで人のように振る舞い、感じ、喘ぎ、その上孕まない。女性を「産む機械」と揶揄するひとの口を借りて言うならば、人型アンドロイドは「ヤる機械」だった。産むのは女性にしかできないが、ヤるのは男型女型問わず行える。ある種言い得て妙か。

 だがそこに人間の欲深さ、倒錯は現れた。端的に言えば、アンドロイドを孕ませる事を望む消費者が現れた。でもぼくらはまだテクノロジーとの子は成せない。その溝を埋めるにはどうすればいいか。

 結論から言えば、体外受精だ。どっかの拗らせた資産家が、有能な精子や卵子を買い取り、疑似的な性行で本物の子を成す。その後子供がどうなるか、それは知らないが、なんとなくロクなことではないと認識している。

 ともかく、アンドロイドは行き場の失った性欲の最終地点でもあること。そしてぼくには、アンドロイドと子を成す勇気も資産もないことが、確固たる事実だった。

 

 東北きりたんの設定は終了した。一人称は私、基本が敬語でゲームとずん子が好きな小学生。基本は抑えておいて、細部は随時更新していけばいい。

 ただ気になるのがずん子の存在だ。東北ずん子はまだ立体化されておらず、もちもちの太ももは未だ画面の中に囚われている。

 もしきりたんがずん子の不在により何かしらの不具合を来したら。そんな不安に駆られ、ぼくはきりたんの中のずん子の存在を抹消した。正しく言えば、ずん子に対する偏愛を消去した。

「おはようございます、マスター」

 再起動したきりたんの第一声はこれだった。きりたんのぼくに対する呼び名は悩みに悩んだが、マスターで決定した。初期設定でこれなのだ。別にこだわる必要はなかった。というよりか、他に選べるものはなかった。消極的な消去法で決めるしかなかった。

「私は何をすればいいのでしょうか」

 自然なイントネーションで喋るきりたん。ニューラルネットワークだとか深層学習だとかでより自然な会話になっていくそうで、ぼくには皆目検討もつかない技術であるが、日を追うごとに流暢になることは理解できた。つまり発売から二年たったきりたんの発声は人間のそれと大差ないのだ。

 しかし何をすればいいか、と聞かれても、別段して欲しいことがある訳でもない。家事は一通りできる…一人で生活はできるし、夜のお相手というのも何か気が引けた。ここまで精巧に人間らしいと、申し訳なさというか、嫌われたくないという感情が鎌首をもたげてしまう。これこそがきりたんを買った理由でもある。

 きりたんは何がしたいんだろう。傍から見れば、ラジオペンチに将来の夢を聞いているようにも見えるかもしれないが、ぼくは本気で聞いていた。それはある意味での信仰心とも言えた。人型に対する、多大な期待。もしそれがあるのなら、ぼくは何も要求はしない。

「私、ですか。特には、何も…マスターが喜ぶことなら」

 なるほど。予想していた通りの答えだ。ならば。ぼくは最もありふれていて、平凡な目的にきりたんを使うことにした。話し相手だ。

「好きなもの…テレビゲーム。ずん姉さまの太腿も好きですね」

 よしよし、至って一般的なきりたんだ。

「あと…その、同人誌とか」

 うむ。公式設定に則っている。

「外に出たいか? ですか? いえ、私はあまり外出が好きな方では…それでいい? …よくわからない質問ですね」

 完璧だ。

「食べ物? ずんだ餅はしばらく勘弁してほしいですね。いくらずん姉さまのとはいえ、限度があります」

「夢ですか。ずん姉さまをアイドルにすることです。それと、いや、なんでもありません。…本当です」

「特技はきりたん砲です。本気を出せばここら一帯は消し炭になりますよ。今日は置いてきてますけどね。嵩張るので」

 なるほど、問題はなさそうだ。しかしきりたん砲がないのはどういう事だろう。商品紹介ページではきりたん砲はあった筈だし、別売であると書いてもいなかった。まさか、偽物を掴まされたか。慌てて説明書を読めば、きりたんの中に小型化したきりたん砲が収納されているらしい。確かにあの大きさが常に出てるとなると邪魔だ。

 こういう時、説明書が別であると助かる。基本的に製品は自分で操作方法を教えてくれるのだが、「設定」というものが存在しているアンドロイドにとってその機能はメタメタしくてやってられない。オンラインマニュアルもあるにはあるが、デバイスを立ち上げて公式サイトにアクセスするよりは紙媒体を手に取る方が早かった。

 きりたんにはきりたん砲を「持ってきてもらう」ことにした。これは必需品であり、間違いなくきりたんを構成するいち要素として大きな位置を占めていた。

「いいですけど、ほんとにおっきいですよ?」

 構わない。そう告げるときりたんはスリープ状態に入り、背中の腎臓がある辺りから白く小さな円柱が出てきた。それは瞬く間に巨大化し、ぼくに見知ったシルエットを顕してくれる。ささやかに貼られた「発射口は人に向けないでください」のシールが輝いていた。

「はい、これです。ほんとに大丈夫ですか? そうですか、ならいいんですけど」

 きりたんの記憶では何処からかきりたん砲を持ち出し、ここまで来たことになっているのだろう。

 だが持ってくると言っても、何処からなのだろう。それが仮にきりたんの実家なのであれば、愛想を尽かされて出て行く、なんてことが起こりうるのだろうか。二次元から部分的に具象化されたこの東北きりたんという存在に、帰るべき所はない。辛うじて実家と言えるのは、鉄と潤滑油の匂いが入り交じる工場だけだろう。

 

 東北きりたんとの生活に苦労はなかった。ぼくが漠然と予想していたメンテナンス等はほぼ存在しておらず、特には電池持ちが悪くなった際にバッテリーの交換をするくらいだった。

 風呂は必要ない。代謝が行われていないから、垢が出る訳もない。ただ、防水は施されているので風呂に入る事はできる。シリーズ第三作品目から追加された機能で、浴室でそういった行為がしたいとの要望が寄せられたため追加された機能だ。理由はなんともあれだが、結果的に製品としての剛性が高まったのならオーライといえる。

 食事も必要ない。当然きりたんは電力で動いており、有機物を取り込む行為は電力の無駄にしかならなかった。だが食事の真似事はできた。それはアンドロイドと食卓を囲みたい、という切実な願いと自分の分泌物を摂取させたい、というふしたらな欲求の産物だった。口を通ったものがどういう経緯を経て体外に排出されるのかは分からない。一度きりたんのトイレを見物させてもらおうとしたが、「変態! 見ないでください!」の一点張りでついぞ一目見ることはなかった。なお、この行動は飽くまでも知的好奇心に根付くものであり、他の感情はこれっぽっちしかなかった事を述べておこう。そしてその後のきりたんのぼくを見る目が暫く変わったことも、語るべきことではない。

 きりたんを買ってから約一ヶ月。細かい所の修正はあれど、凡そきりたんはきりたんだった。目を触ろうとすれば嫌がり、足の裏を擽れば笑い、皮膚は暖かかった。だけれどきりたんに自我は存在しない。より正確に言えば、恐らく存在しないと考えられている。というのも、O3社のAI技術は完全なブラックボックスだった。色々な外的干渉は試みられているが、ここまで高度なAIの尻尾さえも掴めていない。しかし今の技術では完全なAI、つまるところ自我を持つAIを制作できるとは考えられず、暫定の結論として、いわゆる人工無脳の正統な進化形であると考えられていた。あまり詳しくは無いが、こういう存在を行動的ゾンビと言うらしい。哲学的ゾンビの親戚だというのだが、そういう小難しい話はさっぱりだ。

 きりたんは自我が無い。きりたんは考えない。だが仮にそうだとして、ぼく自身が「きりたんは生きていて、自分でモノを考えることができる」と信じ込めば、そこにいるのは本物のきりたんではないか。何度も自分に言い聞かせ、信じ込もうとしていた事だが、事実との乖離はそこから始まっていたと言わざるを得ない。

 

  生活は順風満帆だった。なにせ夢にまで見たきりたんが、目の前にいるのだ。不満なことなんて何一つなかった。

 二ヶ月位が過ぎた頃か。きりたんが

「外に出ましょう!」

 と言い放った。ぼくは狼狽えた。それはもう、多分に。過大に。

「マスターは外に出なさ過ぎです。私から見ても病的ですよ!」

 そう言われてぼくは外出の記憶を探る。昨日。出ていない。先週。出ていない。先月。出ていない。いや待て、先月はきりたんに掛かりっきりで、もとを辿るならば…

「あぁもう、御託は後で聞きます! ほら、空、見に行きましょう!」

 空は窓からでも見れるじゃないか。言い終わる前にぼくは玄関から投げ出されていた。きりたんは力が強いなあ、と流れ行く景色の中、思った。今思ってみれば、これがぼくときりたんの初めての散歩だったらしい。衝撃。コンクリートの床がマッチポンプな痛みを冷やしていた。せめてもの抵抗と寝そべったまま動かないでみる。だがそれは虚しく、きりたんの怪力には無力だった。

 行き先は、ときりたんに聞けば、そんなものある訳ないじゃないですか、と当然の如く返された。その簡潔さにぼくは呆気にとられる。そんなぼくの間抜け面を見たきりたんは、でも、と続け、

「私が見たことないものばっかりで、面白いです」

 私が。そこに何か含みがあった気がするが、些細なことだ。それよりも、ぼくはきりたんを今の今まで缶詰にしていた事を反省していた。何が「きりたんに掛かりきり」だ。ぼくがしていたのは…なんだっけ。きりたんと話していた記憶しかない。なんてことだ。ぼくはただ、きりたんの貴重な時間を駄弁りに浪費していたのか。

「…すたー…マスター、マスター!」

 ぼくを呼ぶ声が聞こえて、はっと顔を上げる。きりたんの顔があった。

「折角の外なのに、道路ばかり見て。顔上げてくださいよ」

 少し膨れて言うきりたん。ああ、またか。ぼくの癖だった。ぼくは視線を大地と平行に保つのが苦手だ。直そうと努力はした…している。でも、ほら、こうやって視線を上げると、少しずつ重力に引かれて、地面だ。ニュートンの万有引力は視線にさえ働く。

「またそういうこと言う…分かりました。マスターがその気なら…」

 視界からきりたんの足が消えた。かっかっと下駄のなる音が背中へ回る。なんだなんだ、帰るのか。

「はっ」

 きりたんの掛け声。直後に肩に軽い重み。くも膜下出血か、という心配は杞憂だ。

 きりたんは両足でぼくの胴を挟み、両手でぼくの身体をホールドし、いわゆる「おんぶ」の格好だった。存外軽いな、と思って間もなく視線がぐいと上げられる。視線だけではない。きりたんは背後から、ぼくの首から上を統御していた。どこを見るかという、本来なら自由意志の管理下にあるはずのそれは、今だけはきりたんにハイジャックされていた。

「これならマスターは前を向けて、私の視界は広がる。一石二鳥ってやつです」

 背中に温みがある。重みもある。拍動もある。もはや生命だった。人の技術力は人間の感覚を越えたのだ。世界を変えるのに、世界を変える必要はない。脳みそを少しいじれば、それでいい。

 今ぼくが背負っているのは命の重みだ。彼女が生きた、生きている全ての意味だ。

 散歩はすぐに終わった。少なくとも、海までは行こうと考えていたのだが。きりたんが始めた外出は、きりたんの寝落ちによって幕を閉じた。背中で寝息を立てるきりたんの首を絞めようなどとは思わなかった。ましてや不快感など沸き起こるはずもなかった。なかったのだ。

 

 きっかけは分からなかった。ただ、朝起きたとき、きりたんは隣で寝ている…充電されているのだが、その寝顔がひどく不自然なものに見えたのだ。呼吸はしていた。発声の原理は人と変わらないから、肺の相同器官は備わっている。胸も上下していた。至って自然な、これまでぼくが自然と感じていたその状況が崩壊したのだ。ぼくが日常だと盲信していた日々は、危うい均衡の上に成り立っていて、何かしらの要因でそれは崩れ去った。

 きりたんの胸に手を当てる。省電力モードで知覚が鈍いきりたんは少し身じろぎ、ぼくの手には拍動が伝わる。心臓ではない。身体の各所に冷却水や電解質を送り出すためのポンプだ。暖かかった。でもこの温みは生理的なものではない事を、ぼくは知っていた。どこかの発熱用の部品、または余剰の熱を利用した、メカニカルな体温だ。

 どうしてそうしたか、よく思い出せない。とにかく、気づけばぼくの両手はきりたんの首を絞めていた。一秒経っても反応はない。二秒、三秒経っても。四秒経った頃、頭部に冷却水やらが届いていないと気づいたのか、きりたんはぱっちりと目を見開き、まるで喉を絞められているような声で

「ま、すたぁ、なに、を」

 と囁いた。喉を締めているとはいえ、アンドロイドなのだ。これ位の力で首は変形しない。そういったプレイをしたい者のための機能であろう。

「何をしているか教えないと分からないのか?」

「ちが、ゃめ、はなし、てくださっ」

 ぼくはきりたんの言う通りにした。咳き込むきりたんにおはよう、とひと声かけて、ぼくは朝食を作りに寝室を出た。昨日はきりたん、今日はぼくが当番だ。後ろ手で寝室の戸を閉めたとき、きりたんの声が聞こえたけど、無視した。ばつが悪かった。両手には生温かい感触が残っていて、それが酷く不愉快だった。

 朝食と言っても、トーストに目玉焼き、薄いコーヒー程度で、率直に言って質素だった。それもきりたんが来るまでは。向かいの席に誰かがいる。独りじゃないという事は、想像以上の豊かさをぼくに齎していた。景色的にも、気色的にも。

 いただきます。両手を合わせて、きりたんとぼくの声が部屋に響く。かちゃかちゃと食器と箸とがぶつかる音の中、きりたんが口を開いた。勿論、この場合の「口を開く」とは、食事を取るための行動ではなく、言葉を発した、という意味の慣用句である。

「…マスター」

 ぼくはコーヒーを啜り、どうしたの、と答える。

「さっきの事です」

 さっきのこと。俯きがちなきりたんの表情を窺い知ることはできない。ただ、その声色には多分な恐怖と困惑が滲んでいた。

「なんで、あんな、首を絞めたりなんか」

 なんで、か。分からないとしか言いようがない。衝動的な犯行で、論理立った説明などできるものか。しかしどうしても言語化しろ、と言われるなら、きりたんが好きだからとしか言いようがない。

「好き、って…。…マスターが時々、分からなくなります」

 ぼくも時々ぼくが分からなくなる。でもいつだって、ぼくはきみを愛していることだけは変わらない。

「またそうやって有耶無耶にしようと…」

 有耶無耶になんかしていない、と続けようと思ったが、くどいので止めた。何より、きりたんの耳が赤くなっているのを見たからだ。それが羞恥を示すことくらい分かる。ユーザーに好きだと言われて、それを恥ずかしがる。きりたんの中でどういうロジックが動作しているのかは分からないが、ぼくにはそれが薄っぺらく感じられた。会話をやめたのは、そこに不明な憤りを覚えたからに他ならない。

 ごちそうさまでした。トーストの材料である小麦も、目玉焼きのための卵も、全て自動制御された無人機によって作られている。そこに生産者への労いを、ひいては生命に対する感謝を示すのは冒涜とさえ思えるが、何事も形骸化だ。集積回路がどんな原理で信号を受け取り、発しているかなど誰も気にしない。人間にはどうせ表面しか見えない。なら、それが現実世界の全てなのだ。

 

 この部屋に、いってらっしゃいは存在しない。

 ぼくの職業柄、外出とは縁遠い。通販サービスが潤沢なこのご時世、やろうと思えば屋内で一生を過ごすことだって可能なのだ。だから、ぼくときりたんの日常といえば、朝起きて、朝食を摂って、ぼくは仕事、きりたんはゲームをして、昼食を摂って、ぼくは仕事、きりたんはネットで何かを探していて、夕食を摂って、きりたんとどうでも良い話やゲームをして、二人で眠りにつく。基本的にその繰り返しだった。彩りがないと思われるかも知れないけど、ぼくにはそれで十分すぎた。きりたんも満足げで、いや、きっときりたんに不満足は存在しないのだろう。

 その日、ぼくは仕事をしていた。居間の隅にあるパソコンに向かい、しょうもない案件をこなし続けていた。と、きりたんが突然駆け寄ってきて、デバイスの画面を見せる。

「マスター! いきなりこんな画面が!」

 どれどれ、と見れば、画面いっぱいに「ご購入ありがとうございます!」の文字。懐かしい。

 これはフィッシング詐欺といって、相手の誤解を招いてクレジット番号だったり保障番号をだまし取る悪辣なハッタリなんだ。そう教えると、きりたんは心底ホッとした様子で、よかった、と呟いた。しかしなんだって、こんな懐かしい詐欺に。

 何を見ていたんだい、と少々意地悪な質問をした。

「いやぁ、そのぉ…」

 きりたんは言いよどむ。それはそうだろう、この類のものはアダルトサイト界隈ぐらいでしか見かけられない。

「なんか間違えちゃったのか…えっちなサイトを…」

 …もどかしいので履歴から該当サイトを開いてみた。

「あっ、待って!」

 必死なきりたんの嘆願は無視し、内容を検めさせてもらう。

 あぁ、太腿だな。

 きりたんは顔を真っ赤にしている。デバイスに広がったのはありとあらゆる太腿の画像で、基本的には太腿オンリーなのだが、稀に十八禁要素がちらつく。

 だがきりたんにちらついていたのは、チラリズムのエロスなどではなく、ひとえに東北ずん子の影だったのだろう。

 不愉快だった。ずん子に会いたいなら、そんな電子機器での残像なんかじゃなくて、実際に会いに行けばいいのに。できるわけ無いだろ、と心の何処かで反論が聞こえたが、聞こえない。きりたんは東北きりたんで、東北家の三女。姉を愛し、ある意味では姉妹の中で一番こじらせてしまった小学五年生。それが東北きりたんで、なおかつきりたんなのだ。だからぼくがずん子への偏愛を削除した程度で、その愛情は歪まない。ぼくとは比べ物にならないほど、きりたんにとってのずん子は大きいはずだから。

 盲導犬に、渡ってはいけない時に渡れ、と指示して、渡っては叱られるを繰り返した盲導犬が正解を知るという昔のコピペ(ネット上に広まっていた秀逸な話のこと)がある。ぼくはそれに近いことをしているといえた。そしてまた、「オチ」が異なってしまうだろう事も、予感していたはずなのだ。

 

 きりたんとの共同生活を始めてから三ヶ月、四ヶ月ほどが経った。

 ここまで来ると齟齬もなくなり、非常に円滑な関係を築き上げ……られなかった。この頃からぼくの乖離は確固たるものになり、半ば二重人格とも呼べるような状態だった。きりたんがきりたんであると信じた部分、信じられなかった部分。日を追うごとに隔たりは加速度的に増幅し、きりたんはユーザーであるぼくへの対応をどうすべきか悩んでいた。製品として持ち主が不機嫌であることは打破すべき問題であり、しかし一向に解決策が見つからないこの状況において、会話が少なくなるのも当然であった。ぼくはこの日も、ただ同じ部屋にいるだけの関係、いうなれば同室別居とも表せる日常が続くと思っていた。

「マスター」

 朝。食事中だった。口内にはまだトーストの断片が居着いていたから、ん、とだけ返事をして先を促す。

「いい天気ですね」

 トーストに吸われた水分補給のためコーヒーを流し込み、そうだな、と返す。窓からは灰色の空が覗ける。昔は「空色」といえば薄い青だったそうだが、ぼくは生まれてこの方青い空というものは見たことがない。ぼくの知りうる限り、天気というのは晴れ、雨、雷雨の三つのみで、後ろ二つはほぼ同一とすれば、天気というものは二つしか存在しない。

 沈黙が降りる。何を話せというのか。天気の話をされて広がる話などあるか。膠着状態に入る。互いが攻めあぐねていた。そんな気まずい雰囲気を破ったのは、きりたんだった。

「マスターは、私のことが好きだって、ことあるごとに言ってきますよね」

 そうだな。今更だ。

「でも最近は、あんまり笑顔を見せてくれません」

 そうかな。

「マスター、もう一度聞きます」

 なんだい。

「私は、何をしたらいいのでしょうか」

 …。

 きりたんに出会って、初回起動時にされた質問。たしかあの時ぼくは、

「私の好きなようにすればいい、と言ってくれました。あの頃の私は何も分からなかったけど、今なら私が何をすべきか、分かる気がします」

 

「私が死ねばいい」

 

 ぼくの手から箸が転げ落ちた。落ちた箸を拾い、流しで洗う。

 なにを突然言い出すかと思えば。

「マスターにとって、私は『東北きりたん』になり得ない。違いますか?」

 …違わなかった。ぼくがここまで悩み続けていた核心を突かれ、少々たじろぐ。きりたんがこちらを見ている。ぼくが話すのを待っているようだ。

「…そうなのかもしれない」

 ふと口をついて出てしまった言葉。きりたんの表情が曇る。

「…やっぱり、そうですか」

 ぼそり。そんな擬音さえ聞こえた気がした。

「実は、この間、他の『東北きりたん』のデータを見たんです。マスターのきりたん、つまり私の設定は、他の誰よりも忠実でした」

 それはそうだろう。ぼくのきりたんが最も「東北きりたん」に近いことは自負している。飽くまでも近似でしかないが。

「マスターは私を『東北きりたん』にしたいんだって事は、痛いほど分かりました。でも幾つか、相違点がありました。二次元と三次元の隔たりを埋められない、致命的な相違点が」

 その通りだ。ぼくはきりたんを東北きりたんにしてやれない。

「それが姉である東北ずん子と東北イタコの存在であり、私の出自でした」

 未だずん子とイタコの販売は決定されておらず、工場で生まれたきりたんに実家はない。小五になるまでの記憶も、果てには脳はおろか、心臓さえ無かった。

「本来ならこういうメタ的なデータにアクセスする事はできないんですけどね。もしかしたら最初の質問で、私の中の優先事項が書き換えられたのかもしれません」

 自らを「東北きりたん」の模造品であると理解する。人間であればアイデンティティの崩壊すらあり得るそれをきりたんは成し遂げた。もはやきりたんは「東北きりたん」ではない。しかし、「きりたん」と呼ぶのも憚られた。ぼくは、きりたんを、彼女を、それを、なんと呼べばいいのだろう。

「だから私は、私の破壊を推奨しました。マスターの願いを叶える方法はこれしか思い付きません。この不自然な日常を続けることは、私にとっても、マスターにとっても、良い結果は生まないと思うんです」

 さっきまでの暗い表情を払拭して、朗らかに、至極当然のことかのように告げるきりたん。既視感を覚えたのは、それが広告に映されていた「東北きりたん」の笑顔と全く同じものだったからだという事に、この時のぼくは気づかなかった。

 ぼくは。ぼくも。

「ぼくも、そう思う」

「じゃあ話が早いです。私を壊してください」

「待て。少し時間をくれないか」

「またそうやって後回しにするんですか?」

「また? ぼくがいつ後回しにしたことがあるんだ」

「初めて私の首を絞めた日です。マスターが臆病でなければ、この会話はあの日にされてたはずですけど」

「違うんだ、あれは! ぼくはきみを殺したくなんかないはずだった!」

「口ではそんなこと言って身体は正直だったじゃないですか。殺意がない上でのあの行動ならカウンセリングを受けたほうが良いです」

「っ、きみは、どうしたいんだ。ぼくを徒に苛立たせて得があるか」

 ああ、違う。ぼくがきりたんを壊せない事を、聡い彼女は知っているんだ。苛立たせているのは踏ん切りをつけるため。代わり映えない悪循環を断ち切るためのショック療法だ。そう考えることはできた。でもそれ以上に腹が立っていた。ぼくを否定された気がした。日々を削って買ってやったきりたんに。ぼくがいつ彼女を不幸にしたというのか。いや、彼女に不幸という概念は存在しない。ならばなぜここまで傷つくのだろう。

 気付けばぼくはきりたんの――彼女の首を絞めていた。口から紡がれる言葉を止ませたかった。なんと短絡的で、暴力的なことか。

「ほら、そうやって。私は『ターミネーター』のT-800ほど強大じゃありませんよ」

 ターミネーター。古い映画だ。アンドロイド技術が発達した頃に話題になっていたが、どんな内容なのかは知らない。

「その調子です。もう少しで強制終《冷却水の供給が低下》了できますよ。ああ、フレームレートが下《温度上昇》がってきました。処理が低下してますね。これが気《強制終了します》」

 ぼくは両手でもって、沈黙を手にした。首の僅かな拡縮が弱り、温みが少しずつ失われる。四肢をだらんと伸ばし、首がかくんと落ちた。目は閉じている。急に彼女の身体が重くなった気がして、ぼくはそれを地面に取り落としてしまった。

 どすんと音がした。

 

 メンテナンス用の工具をここで使うとは思っていなかった。説明書によれば、右の髪飾りに棒の先端を差し込むらしい。そのための穴があるはずだが…あった。カチンというまで奥に。カチ。音はしたが、髪飾りからではない。服を脱がし、背中をさらけ出させる。

 人間で言う肩甲骨の間辺りに、縦長の四角が浮き上がっている。上にスライドさせれば制御盤だ。

 横に三行、縦に五列。合計で十五の穴が並び、それぞれがメンテナンス用の工具でのみ操作できるようになっている。

 各種感覚のオンオフから、関節のモーター駆動、表情に至るまで、あらゆる人間的行動の制御ができた。

 ぼくはそれらの内の、各関節のモーター駆動と表情変化をオフに切り替え、声帯モジュールの取り外しを行った。

 声帯は別売されている。東北きりたんを買ったが紲星あかりの声が聞きたい、というちぐはぐな精神状態の人の為である。というのは冗談で、ボイスロイド以外の声帯…例えば、有名な声優の声帯を再現したものもあり、これらアンドロイドは声の着せ替え人形としても使えた。

 首からプシュ、と音がする。直方体が飛び出し、それを抜き取れば、きりたんは声を失う。

 抜き取る。部屋の隅にあったビニール袋の中に入れ、手で潰す。硬い部品は特にないはずで、怪我を負うことはなかった。

 外にゴミ箱がある。玄関先に黒い箱があり、そこにゴミを入れておけば国営の収集業者が持ち帰ってくれる。今日は不燃ごみの日だ。声帯モジュールが何ごみかは知らないが、燃やそうと思わなければ燃えないのだから不燃ごみだろう。ついでにメンテナンス用の工具も捨てる。可逆性は求めていない。これはあってはならないものだ。

 部屋に戻り、制御盤を隠し、服を着せる。倒れた状態のまま気をつけをさせ、両手を腹の上で組ませたところで笑いが込み上げてきた。なんだ、これは。まるで死体じゃないか。さながら葬式を演出しようとしているのか。こんな無生物の集合体に。

 東北きりたんは動かない。いや、動けない。

 東北きりたんは笑わない。いや、笑えない。

 東北きりたんは喋らない。いや、喋れない。

 今きりたんの中ではCPUとバッテリーと、極力騒音と運動が発露されないよう緩やかに拍動するポンプのみが動き、可視光線で観測したとき、きりたんは間違いなく死んでいた。

 

 目下には東北きりたんが倒れている。

 きりたんと出会う前、ぼくの脳内に描かれていた「東北きりたん像」が横たわっている。口を開かなければ完璧なのだ。彼女が自分を出さなければ。

 物言わぬきりたんを眺める。この時、ぼくは、思いの外取り乱しているぼく自身に、多大な失望を抱いていた。

 ぼくは所謂、原作至上主義者であり、公式こそ正道かつ真実だと信じて疑わなかった。だから公式の作品であるそれに「東北きりたん」としての本質が宿っていると妄想していたし、きりたんがこういう状態…つまり死んでいても、心の底から愛せる筈だった。外面は装飾品に過ぎず、根本的な部分できりたんを愛している筈だった。それがどうだ。この動かない鉄くずに、ぼくは愛を抱けるか。ダメだ。仮に抱いたとして、それはきりたんと過ごした過去の記憶を愛しているだけで、ぼくが信じた「東北きりたん」のイデアではなかった。

 ぼくは焦る。焦り、慄く。ある種の自己愛に自惚れていた事を自覚する。

 きりたんがぼくの思い描いていた「東北きりたん」像で無かったように、ぼくもまたぼくの思い描いていた「東北きりたんのファン」像に満たなかった。

 失って初めて気づくとはよく言ったものだ。ぼくはこんな初歩的なことに気づくため、何ヶ月、いや、何年も費やしてしまった。今までの言動が急に稚拙なものに思えて、恥ずかしくなった。だがそんなことより、まだ「生きていた」きりたんを取り戻そうと考えていることが恥ずかしい。このきりたんを再起動するには工具が必要だ――外のゴミ箱。玄関の戸を開け、ゴミ箱を確認する。中身はなくなっていた。既に収集された後だ。

 素晴らしい。きりたんは完全に沈黙した。どうだ、さっきまでのぼく。これで満足だろう。心の何処かにそいつを探したけれど、全て今のぼくに置き換わっていた。そして今のぼくにはきりたんが必要であり、つまるところ心はがらんどうだった。

 ぼくは何のためにきりたんを買い、何のために暮らし、何のために殺したのだろう。答えの出ない問いを脳内でこねくり回した所で事態は進まず、それを現実逃避であると認めて開き直るぼくに、もはや救いはなかった。救いならたった今、自分で切り捨てたところだ。

 

 それから暫くして、ぼくはきりたんを再起動した。何ま変わらず「おはようございます、マスター」と声を掛けてくれるきりたんを、ぼくは浅ましくも夢想し、それは砕かれた。ポンプが低出力から通常稼働に戻る。目を閉じたまま、息もせず、胸だけを僅かに震わせるきりたんは、寝ているようにしか見えない。身体を揺すれば不機嫌そうに起き上がるんじゃないか。しかし当然そんなことはない。

 ごめん。

 許されようとは思っていない。許される必要があるのかも分からない。ここで寝ているのはアンドロイドなのだから、謝罪は不要なのかもしれない。それでも、ぼくにとってきりたんは生きていた。見て、聞いて、触ることを楽しんでいた。回路がどう動いているかなど知るか。どのプログラムが作用しているかなど関係ない。ぼくにはそう見えているのだから、それが現実なのだ。よって、きりたんがもう起き上がらないこともまた、揺るがぬ現実であった。

 ぼくはひたすらに謝った。きりたんに縋りつき、無様に頭を垂れた。自らを辱めないとどうにかなってしまいそうだった。きりたんの集音装置はまだ生きている。きりたんの脳も死んでいるわけではないから、この言葉は届いている筈だ。ぼくは誤り続けた。そして今は謝り続けている。滑稽だと笑え。ぼくにできることはこれしかないんだ。ここまで間違い続けて、一線を越えてしまったぼくには何も無い。驚くほどに空虚だった。

 ふと思い立った。きりたんの感覚系はまだ生きている。外へ連れて行こう。音は良いとして、景色はどうしようか。今きりたんは眠ったように目を閉じていた。そうだ、瞼を抉じ開ければ良いのか。きれいな、瞳が覗ける。この色は臙脂色とでも言うのだろうか。目の前で掌を左右に揺らした。反応はなかった。

 

 いざ。きりたんを背負って部屋を出る。灰色の空が微かに赤みを帯び始めていた。そんなに時間が経っていたのか。集合住宅から長い影が伸びる。

 いつも寂寥と乾燥を届けてくれる風がいつもより辛辣だった。僅かずつ体温が奪われていくのを感じる。そして失った分の温みがきりたんから供給される。暖かいのだ。変わらないのだ。ただ少し、細い棒でスイッチを押下しただけなのに、もうきりたんは動かない。些細な行動で大きな結果を齎す。風が吹けば…なんだっけ。一際強い風が吹いた。それがぼくの記憶を攫ったのか、思い出すことはなかった。

 街を抜けると海に出る。昔は青かったらしいのだが、ぼくは青い海を見たことがない。灰色だ。落ち窪んだ灰が眼前を埋め尽くす。ただ、この時間帯は朱が差しているので平坦な印象はない。うねる海水面の陰影は絶え間なく、風に掬われるきりたんの髪のようだった。もちろんきりたんの髪はこんな不健康な色じゃないけれど。

 きりたんを下ろし、腰も下ろす。支えがないと倒れるので膝に乗せる。頭を持ち、海へ向ける。この映像はきりたんの記憶媒体に保存されているはずだ。波の音もきっと。

 ここまで来て、ぼくは言うべき言葉が謝罪なんかじゃなかったことに気が付いた。もっと優先すべきことを忘れていた。

 ありがとう。

 きみは確かに、金属とシリコンからできた無生物の集合だ。その拍動は血液を運んでいないし、その肺は酸素を取り込むことを知らない。

 けれど、きみは全くもってきりたんだった。東北きりたんであろうとした、或いはさせられてはいたけれど、確かにきりたんだった。

 中身がなんだ。構成物がなんだ。細かい齟齬なんて、公式が全て、なんて事があろうはずもない。ぼくのきりたんはぼくの頭の中にいて、けれど決して出会えない。それでいいじゃないか。完璧など存在しない。その理想との相違点こそに楽しみがあるんじゃないか。

 それを気付かせてくれた彼女に、ぼくは感謝せねばならない。不器用で稚拙なぼくにここまで着いてきてしまった彼女を労わねばならない。

 死者の存在は救いか、束縛。その二択だ。そしてぼくの様な生者にできることは、その存在が救いであると信じること。何より、きりたんはぼくに不幸であって欲しいとは思わないはずだ。そう信じることが互いにとって幸福となる。

 勝手だろう。傲慢だろう。けれど存在なんてのはぼくの中にしか存在しない。エゴイズムだろうか。

 少なくともそれでいいんだ。ぼくはきりたんを愛していた。そう思い込んだ。きりたんはぼくを愛していた。そう思い込んだ。だから、いま、きりたんが少し笑っているように見えるのも、思い込みなのだろう。

 

 ぼくはきりたんを殺した。ぼくの中で生きていたのだから、殺せるに決まっている。だがきりたんは死んでいない。ぼくが生きている限り、きりたんは死ねない。

 ぼくがきりたんを生かす。これまでがそうであったように、これからもまたそうなるのだ。

 




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