「え?少女マンガですか?」
「ええ。」
「そんな…、社長の井坂さんには希望を伝えておいたのですが。」
「と、言われましても。小野寺律さんはエメラルド編集部に配属となっています。」
「でも、少女マンガを読んだこともないのですけど?」
「やり手の編集長とイケメンの部員さんで乙女部と呼ばれていますから、きっと小野寺さんにもよい勉強になりますよ。」
「乙女部ですか…、」
丸川書店に転職して、本日初出勤を迎えた小野寺律は総務課人事担当の女性社員にそんなふうに諭されて不本意ながらも某編集部に向かう事になった。
前に務めていた会社では漫画ではなく小説部門に属していた。傾向としては少女マンガに近い少女小説の月刊雑誌担当だったから、少女マンガに似ていると言われればそうなのかもしれない。
大人の恋愛小説と違って、少女たちの恋話は夢や希望と仄かなかわいらしさがあふれていて、とにかくウキウキソワソワできてとてもやりがいがあった。
しかし、入社以来その部署でちょっと特殊な背景を持つ律を可愛がってくれた上司は、何もかもにフラットで実力主義、偏見もえこひいきもないやり手だったためにトントントンっと偉くなって、この春異例のスピードで取締役となってしまった。
そして、立場上兼任もきついということで空いたそのポストに小説などとは縁のない部署から来たのは、前のフレキシブルで懐の深い上司とはま逆の、矮小な、上には媚びて下には横柄という粘着質で融通のきかない昭和のダメ社員のようなタイプの人だった。
その人は、自社の会社の社長の一人息子である律に始めこそ諂うような態度をとったが、そのうちに、上司である自分に媚びないことが気に入らなかったらしく、親の七光り君とあだ名をつけてことあるごとにあげ足取りのような嫌がらせを続けた。
元々律は喧嘩っぱやいタイプではなく、七光りと揶揄されることには耐性があったし、いい年をして親に上司の悪口を言うのは告げ口みたいで気が進まなかったから、誤解があれば何かのタイミングで解けて対応が好転するかもしれないと我慢を続けた。
きっと、こんな自分にも非はあるのだ。
認めてもらうのは難しいことは承知している。
結果を出すしかない。
と、嵐が過ぎるのを待つ森の小鳥のように頭を低くして耐え偲んで過ごしていたが、セクハラに近い暴言は日々エスカレートしていき、ある時元々持っていたトラウマに触れられた律が見せた反応が思いのほか気分良かったようで、以来、上司はそこをグリグリと深くえぐり続けた。
理不尽な待遇にも一生懸命我慢を続けていたけど、さすがに限界が来てもう無理と、とうとう律は会社をやめることにしたのだ。
自分のバックグランドが特殊なことは承知している。だから自分のような立場のものがごく普通に会社勤めをして生きていくことは難しいのは当然だ。
でも、じゃあどうしたらいいのだろうかと途方に暮れて腐りそうになった時に、たまたま父と仲の良かった丸川書店の社長の井坂さんが相談に乗ってくれて、口利きで季節外れの入社試験を経て、こうやって転職出来て丸川書店にいるというわけだった。
何もかもありがたいと思わなければいけない。
たとえ畑の違う少女漫画に配属されても精一杯頑張ろうと、律はこのところの何度目かの気持ちの立て直しを新にしたのだ。
「ここがエメラルド編集部です。」
総務の女性がにこやかに場所の紹介をする。
二通あるエレベーターの一つから降りて歩くこと20メートル。その部署のスライド式のドアを開けて覗いた瞬間、総務の女性は「ゲッ」っと、かえるの腹をしごいたらこんな音が出たぜ的な、げっぷをギ口で鳴らしまくったような声を上げて綺麗な顔にタテシマを作った。
その変わり様にびっくりして律が女性の顔をマジマジと見ると、今までの入念に手入れされ、綿密に作られたであろうにこやかな表情は消え去り、身体が小刻みに震えている。
ついでにクンっと空中に漂う異臭に鼻をヒクヒクさせてから律がハンカチを顔に当てて、「これトイレ臭ですか?臭いますね。」とちょっとだけ眉間に皺を寄せると、総務の女性はとたんに慌てだし「わわ、腐界になってる。周期間違えたみたいです…、で、でもここがそこなので、とりあえずあとはよろしく!」と律が慌てる暇も与えずに非常口の標識に描かれているピクトグラムのような姿勢で走り去った。
「ああ~、あの~、」
一瞬の出来事にワンテンポ反応が遅れてしまった律が引きとめようとしたのだけど、時すでに遅く、エレベーターも待てなかったようでマックススピードで女性は階段を駆け降りて行った。
いまさら『戻って来て~(カムバ〜ック)』って呼んでもこれ以上の説明を受けることはできないだろうなと、ちょっとだけ呆然としたものの、ドアの向こう側にクッパがいるわけでもないし、ハゲ隠しズラ頭の前会社の嫌味な編集長がいるわけでもないからと、先ほど総務の女性がしたように首だけクイっと中に突っ込んで覘くと、そこは広いフロアーをいくつかの島で分けているような配列に机が並んでいた。
もう一度廊下に首を戻して入り口横にある座席表と思しき掲示を見ると、確かに入ってすぐのところがエメラルド編集部となっている。
『ひい、ふう、み、』
紙にかかれている升目は机の配列のようで、その中には漢字が書かれている。おそらく苗字だろう。
ラスボスの部屋に入るようなドキドキした気持ちで律が中に足を踏み入れ、一番近くに俯いて座っている人物にオズオズと「あの…、すみません。」と声をかけるけど、眠っているのかその人物はピクリとも動かない。
業務中に寝ているってありなのかな?
念のためもう少し近づいてみると先ほどから香っていたトイレ臭は、夏の男子校の運動部のロッカーに入れっぱなしになってる、牛乳拭いたまま放置された雑巾のような臭いであったことが分かった。(汚物であることに違いはない。)
律はハンカチで覆ったままの顔を顰め、その人物にそっと触れ軽く揺するとその人は白目をむいて、まるでパウダービーズの人形のようにするりと椅子から崩れ落ちた。
「ギャーーーーーー」
びっくりして叫ぶと床に散らばった書類の山の間から、崩れ落ちた人が風船に空気を勢いよく入れた時のようにブクリと膨らんで(膨らんだように見えて)、ゾンビのような胡乱な顔をニョキっと持ち上げた。
「ダレ?」
一応生きていた事がわかりほっとしたのもつかの間、言葉の数だけ死に近づく(疲れる)とでも思っているのか、発せられた単語は短く切られていた。
しかし意味としては充分理解できて「きょ、今日から配属になりました小野寺律と申します。」と律は怯えながら答えた。
「ああ…、」
ゾンビはコロコロのついた不安定なピンクの椅子を支えに身体を持ち上げてから「高野さん……、高野さん…。」と弱々しくだれぞやの名を呼ぶ。
目の前の人物が一応何かの対応をしてくれそうであることが分かって少しだけ気持ちが楽になり、ぐるぐると考えを巡らせるのをやめてひたすら静かにその場で何かが起こるのを待っていた。
それにしても、なにをどうしたらこんなにモノが溢れるのだろう?紙ものは収まりが悪いとは言ってもゲラも参考文献も山積みで、いざそこに戻りたいと思っても誰も発掘できないのではないのだろうか?
すでに地層のようになっている紙の連山の向こうから、朝の礼拝のために姿を現したミーアキャットのように、ニョキリと身体を起こした塊のひとつが「うるせーな!なに!?」と圧力としては親玉ゾンビの形相でこちらを見た。
律はビクっと飛び上がって目を向いたけど、目の前のゾンビ1がおそらく疲労でだろうけどブルブルと震えながら「新しい人だって」と一声鳴いてくれて、ついでに再びぱたりとこと切れるからまたまた律はビクっと飛び上がってしまう。
いちいち心臓に悪い…。オレ、ここで仕事するの?ショック死する方が先かも…。
と怯えと困惑と後悔にまみれた感情ですっかり消耗してしまった感もあるものの、一応初日だし、第一印象が大事だから頑張らなきゃと、再度「小野寺です、よろしくお願いいたします。」と笑顔で(笑えていたかは不明)ゾンビ1より少し大きな声で挨拶をした。
この状況はよくわかんないけど前向きなやる気を込めたのが出せただろうか?
ちょっとだけ反応を探るような気持ちになっていたところで、「ああ、そういうの来るって言ってたな。」と高野さんと呼ばれた人はそっけなく言い放つ。
顔の造作はめがねで隠れててわからないものの、背中から立ちのぼる雰囲気は歓迎されてない感じがあふれてて、律はここでもか、困ったなと、ひそかに苦笑した。
今までも自分はずっとこんな感じだ。
いつだって回りの人に理解を得ることはできず、自分は奇異な目で見られているし、仕事の評価を得る前に自分のバックグランドのせいで評価のスタートラインにさえ立たせてもらえない。
それはある意味では自分の責任でもあり、ある意味では自分の責任ではないのだけど、がっかりするほど子どもじゃない。やれることをやるだけなんだから。
そんな風に卑屈になりそうな自分を引き上げている時、書類であふれるデスクの中の電話がピリピリと鳴った。
近くにいたゾンビ2が紙ものを雑にかき分けて電話を取り、短い会話のあとに「高野さん、代原の渡辺さん来たって。」と告げた。
「来い、新人」
そう言われて律はざっと立ち上がった高野のあとに続く。
途中で置いてかれたら初日から迷子だ。ここは出版社でダンジョンではないはずだけど、さっきの荒廃ぶりを見るとひょっとしてこれもひとつのクエストかという妄想さえ湧く。
先ほど来た道を戻るようにエレベーターで一階に行くけど、さっき自分が説明を受けた明るいエントランス横の応接スペースではなく、通路奥の、会議室というプレートのついた扉の並んだ部屋のひとつに連れていかれると、そこにはあらかじめ放り込まれていたらしい人がパイプ椅子にチョコリと座っていた。
代原ということは、原稿が落ちて代わりにこの人の漫画が雑誌に載るということなのだろう。となると、さっきの荒れて腐った空気は校了前ってことなのか。
部員が軒並みボロボロのゾンビ化している状況が理解ができた律は、テーブルをはさんで作家の斜向かい控えめに座り、高野が作家とやり取りをするところを興味深く見ていた。
自分がいることで作家はちょっとだけ何かを言いたそうにしたけど時間もない。高野が作家に律を紹介することもなかったから、絵を見ながら作家に指示をしているところを律は所在なさげに眺めていた。
小説でも締め切り破りはざらだったけど漫画もそうなんだな。絵と文字という違いがあっても、きっと自分のやるべきことは変わらない。でもまずはシステムが分からない。漫画読んだことないから…。
そんなことを考えている間に、高野の小さい指示出しはどんどん進んで行ってどうやらいよいよクライマックの見せ場シーンを直すらしい。
高野は作家にメインの絵の書き直し要求をしているようだった。代原なのにそんなに時間があるのだろうか?今はまだヒトゴトの律だったけど、一体この漫画はいつ発売になるのだろう?と少しだけ焦りが湧いて不安がよぎる。
「綺麗に描けているのに描きなおしなんですか?」
「綺麗なだけじゃしょーがねーだろ。」
「綺麗なだけじゃダメですか?」
「ああ、ダメだな。」
高野の視線が律に向かって一瞬ジロリと動くが、すっとまた作家の方に戻って「このラブシーン、もっと煽るようにかける?」と絵を指差す。
作家は白い用紙にメモでも描くようにさらさらとラフ絵を描いてみせるが、その絵では高野は気が済まないようで、自分のあごを指差して「こっから見た感じ。」と言う。
一筆書きのように簡単にさらさらと描いた絵は、律から見たらものすごく上手で、なにがダメなのかわからない。
むしろさっき言った綺麗なだけじゃダメってことなんだろうか?
でもどういう意味なのか少女漫画を知らない律にはやっぱりわからない。
考え込んでいる間も「ハグぐらいしたことあるだろ。」なんてセクハラ発言も飛んでいて、「自分じゃ見れない。」という作家の主張に「確かに。」と高野は納得したようで、「じゃあ見本」と短く言った。
「資料ですか?どこに行けばいいんでしょうか?取りにいきます。」
わざわざ連れてこられたのに何の役にも立たない自分が残念だったから、律は仕事を得られたことが嬉しかった。
立ち上がった高野につられるようにフットワークも軽く律も立ち上がって、脳内で組み立てたおおよその社内見取り図を思い浮かべながら続く言葉を待っていると、いきなり高野が律の腰を引き寄せたので、身体がパスリと高野の腕の中に落ちた。
うなじから髪の中に指が差し込まれ、高野の頬が律の頬にペタリと引っ付き、耳に息がかかった瞬間、
「いやーーーーーーー!」
という金切り声と同時に律は激しいビンタを高野に食らわせて、ヘナヘナと床に座り込んでしまった。
「臭い…。」
目じりから涙が零れ落ちた。
臭い男に抱き締められた…。
ありえない。
なに?この会社…。
可愛くて綺麗で素敵な少女マンガをこんな野獣が作ってるなんて、転職する!
絶対に辞める。
今日で辞める。
「いて…、」
と頬をさすりながらも高野は怒るでもなく、ギャーギャーと騒いでいる律を無視したまま作家との打ち合わせを進めた。作家は目の前で起こった殴打など意に介さないようで、持って来ていた画材道具でシュッシュと作画作業に没頭している。
「ところでさ、」
シケの海に放り出された哀れな小船のようにドンゴドンゴと荒れた心がやっと収まってきた頃、作家の作画作業を見ていた高野が律に声をかけた。
「あんた…、履歴書では男だったんだけど…、」
「履歴書も戸籍も男ですが、なにか?」
ハンカチで涙を拭いながらぺたりと座り込んでいた床からよろよろと立ち上がり、律は服についた汚れ(実際はおそらく汚れていない)をシャッシャと払うしぐさをしてみせる。
「じゃあなんでそんな格好してんの?」
「オレの一番のヨソイキですけど。初出社だからおめかししてきました。」
「あっそ…、」
興味なさそうな高野の声音に、もう尋問は終わりかとばかりに今度は髪の毛の先をなでるようにスルスルとすいて、留めてあったピンを口で咥えて先を広げてから、少し横に分けた前髪に律は刺しなおしをした。
「あ、服の後ろのリボンがゆがんだじゃないですか!」
「しらねーよ。」
「泣いたから顔もグチョグチョだし…。あとでパウダールーム教えてください。」
「オトコ用はねーよ。」
「えーーー。うそでしょ!天下の丸川が!?あ、スカートのすそも皺になってる、ひどい!」
「だからしらねーよ!あんた喋らなきゃ背の高い女のモデルに見えるけど喋るとおカマだってばれるな。」
「はあ!オレはおかまでもオネエでもないです。単に可愛い服が好きなだけです。ちなみに今日の服はゴシックロリータの黒ロリと呼ばれているものです。白ロリと迷ったんですが、初日なのでフォーマルっぽく黒にしてみました。似合いますか?」
律が高野の前でクルルンとターンしてみせるとパニエでふくらみ気味のスカートと茶色いレイヤーボブの髪の毛がシャランと揺れた。
「あと、半径一メートル以内に近寄らないでください。臭い!」
嬉しそうにターンしていたかと思うと眉間に皺を寄せてキっとにらむ律のくるくると変わる態度に高野はフウっと長いため息をひとつ吐いた。
「オレは腐った牛乳雑巾臭の人はロマンチックでないので拒絶します。」
「今日で3徹だからな。フロなんて1週間はいってねーし。まあどうせお前もおんなじように臭くなるんだ。」
ケッと高野が吐き捨てるように言うと、青ざめた律は「せっかくのご縁でしたが残念ながら今日で関係は終わりにさせてください。」とまじめな顔で言うから「離れ話か!」と高野が律の頭頂部を上からチョップして突っ込みを入れる。
「痛い…。」と頭を押さえて身をかがめる律は、ネタでも冗談でもないのにとぶつくさ言って、「お風呂は一日に二回は入らないと汚染されて死にます~。」と宣言するように騒ぐので、いよいよ高野は呆れて退職するのを引き留めるのはよそうと色々な算段を脳内で立てた。
なぜなら不毛なやり取りでただでさえ死亡寸前のHPなのに、この男の娘の相手をしていると全身から奪われるようにパワーが減る気がしてきていたからだった。