『今からお邪魔してもいいですか?』
そんなラインメッセージが律から高野の携帯に到着したのは、既に日も落ちて随分経った頃だった。
もちろん高野は是と返し今は律の訪れを待っている。
今日は律から個人授業をと申し出があって一緒に食事をする筈だったのに、横澤に連れ去られるように退社したのは定時を少し過ぎた早い時間だった。
横澤が律を激しく責める姿を何度も見ているだけに、その後どうなったか不安で仕方がなくて、いつ連絡をしようかとソワソワしていたから、こうやって律から連絡をくれたのはありがたいことだった。
再開して日が浅いせいか、仕事では突っ込んだことも言えるのにプライべートとなると一歩引いてしまう所があって、横澤の件もしかり。ここぞという時のタイミングを見誤りがちだ。
そのせいか律は過去のことを多く語らない。
どっちの律も同じ律なのに二股とかわけの分からないことで怒ってたけど、あれっきりその事で俺を責めるどころか、そのことに触れようともしない。自分のなにが律にひどい誤解をさせてしまったのか、はっきりとはしないし、腕の傷のことも聞いてみたいのだけど、それはセンシティブなことに思えて切り出す勇気も湧かない。
本当に…、本当に俺はお前を愛しく思っているんだと、どうすれば信じてもらえるのだろうか。
いっそ怒らせて本音を吐かせようかと横暴な言動を向けようとしても、根っこのところで律に辛く当たれるわけもなく、曖昧な態度はさらりと冗談のように交されて話はそらされる。
弁当の時のようにむきになってくれればこっちも言い訳ぐらいできるんだけど、結局それもならなくて切り出し方が難しい。
聞きたいことは山ほどあるのに分からないことばかりだ。
お前が消えてしまった10年を取り戻せなくてもいいから、今はこの隙間を埋めたい。
だから拒否しないで欲しい。触れられるほどに近くにいて欲しい。
できれば腕の中に。
少しして、手に大荷物を抱えた横澤と軽やかな(手ぶらの)律がやってきて、静かな部屋はにぎやかになった。
それは実際の音と人の気配の両方で、しかも律と横澤はなぜか随分と打ち解けていた。
買ってきたらしい食材などを横澤がさっさと冷蔵庫や棚に格納すると「勝手知ったるってやつですか?」と律が得意の手を後ろで組んだポーズで肩越しに茶化すように言う。
横澤も別に気にした風でもなく「調味料のストックはこの辺りに置いてあるから買う前に見ろ。」と憮然とした顔ながらも(根は親切なやつだけに)あちこち扉を開いて置き場所の説明をしたりしていた。
深読みしないで見るなら、それは少しも険悪な感じではなかった。
ただ、見慣れないその光景にはなにやら薄ら寒いような気もしなくもなく、二人が仲良くしてくれるならそれに越したことはないと無理やりに自分を納得させる努力をした。
そう、変に藪をつつくのも不本意だからと高野はそのまま傍観を決め込んだ。
「横澤さんが食材を買ってくれたんです。釜揚げのシラスとかいくらとかウニに桃に、どれもつやつやピカピカでおいしそうですけど今日はもう時間も時間だから食べるのは無理ですね。」
経木に包まれて、シラスが少しはみ出して見えているビニール袋を目の位置でかざして律が嬉しそうに言う。
シラスはどうやって食べるつもりなのだろう?
一応過去の自分の食事経験をたどる高野だったけど、せいぜい大根おろしと醤油で白飯にのせて食べるくらいしか思い浮かばないし、おそらくそう食べるのが一番ポピュラーだろう。
時々シラウオばりに葛とあえて餡にしたりするものもあるけど、その場合は葛の中で泳ぐ程度の量しか入っておらず、律の両手に乗る量のシラスを捌かせるには骨が折れそうだと、食いしん坊の量に高野は少しだけ呆れる気持ちがした。
「横澤も小野寺も食事がまだならそれを食べて行けばいい。メシぐらいすぐに炊ける。」
高野がそう言って台所に向かうと律は「え?」となぜか驚いた顔をして、それを見た横澤は気持ちを察したようで「お前たち編集と違って俺は朝早いから帰る」と言った。
さすがに横澤と律が高野を囲んで食事をとるというのは無理があろう。横澤はまだ高野に未練があるし、律は食事という欲を見せる場所でライバルと同席するところまでは気持ちが至っていなかった。
丸川はフレックス制度を導入していて、特に編集は午後出勤のタイムシフトもあるために朝が早くはない。朝少々のデスクワークを終えてから外に出かけて行く営業とは若干タイムスケジュールが異なるのだ。横澤の取って付けたような言い訳は、しかし決して的外れではなかった。
しかし朴念仁なのか高野は二人の距離を打ち解けたと誤解して、もう少し仲良くなれればいいと目論んでいた。急いてはことを仕損じるといわれる状況だと、少しも分かっていなかったのだ。
「なら余計に食って行けばいい。お前があれこれ買ったんだろう?」
「これからメシを炊くかと思うとそれだけで面倒だ。」
「なに買ってきたんだ?」
「小野寺の欲しいってもんばっかりだ。」
「ったく、なに買いに行ってたんだ。」
軽く笑う高野の顔を眺めつつもそれを無視するように横澤は上着を着直して、腕時計に目をやり、高野も釣られるように壁にかかった時計に目をやるとその針は丁度8時を指していた。
「俺帰ります。じゃあまた。」
横澤と高野のやり取りの合間に律がサッと帰り支度を終えたらしくそういって居間から出て行こうとする。
高野ははっとして目の前を横切る律の腕を掴んで「だから飯食ってけって!」と強く引くと、身をよじった律が身体を引きながら「血の滴るようなステーキだったら食べてもいいですよ…。」と、高野の顔を見上げ、まつげを付け根から持ち上げるようなクリリとした動きの瞳で見た。
いつも、良いも悪いも感情豊かな律のはずが、それはひどくペタリとした無表情な顔だった。
「三枚肉と大根の煮込みとかでもいいです…。」
そんな合間に横澤はさっさと玄関に向かって行き、小野寺の腕を掴んだままの高野はクっとその華奢な身体を引きながら玄関までついて行って、どうやら本当に引き留めが効かないと諦めて横澤を見送った。
横澤がドアの向こうに消えたあと、腕を抱えたままの律を見下し「なに?向田邦子か」と半分笑いながら高野が言う。
「先輩のそういう説明が不要なのに鈍感で無神経なところ好きです。」
「お前が俺の読書を追っかけてたんだろ。ストーカー。三角関係とか穏やかじゃないな。」
「だって…、」
律の言ったステーキや三枚肉とは、向田邦子の小説『三枚肉』にある食事のシーンの事だった。
主人公の男と部下の女性との食事のシーンに出てきたのが、生々しいその後の情事をイメージさせる『血が滴るようなステーキ』で、妻と友人がかつて関係があったのではと怪しんでいるその主人公が友人と妻と自分の三人で食べた食事の時の料理が三枚肉と大根の煮物だったのだ。
「横澤をお前が気にするのはお門違いだ。あいつはそういうんじゃない。」
三角の関係はどっち向きにベクトルが向いていれば成り立つんだろう。それぞれがそっぽを向いている今、どうやっていけばいいのか律には分からなかった。
草をのんびりと食んで暮らしている牛のあばらに層をなす脂と肉…。
幾重にも重なるそれは人の心の深さにも似ている。律はただ、グッと飲み込む言葉と同じぐらい飲み込まなくてはならない感情が溢れださないように、また何か厚いもので覆い隠した。
「いえ、いいんです。ごめんなさい。拗ねてました。」
律は逡巡などおくびにも出さずに高野の腕からするりと抜けて、「本当にごはん食べるんですか?」と、わざとあざとくはにかむような笑顔を作ってそう聞いた。
❀
簡単にあるもので食べようとの高野の提案は却下して、しかしメシを炊くのだけは諦めて律はパスタを茹でて食べることにした。先ほど横澤に説明されたストッカーには缶詰や保存食めいた物もいくつかあった。そしてそこに素麺や乾燥うどん、パスタといった乾麺も少し置いてあったのだ。
横澤曰く、贈答にもらったり、横澤自信が運んできたというので、律が中にあった細いサラダ用のパスタ『バーミセリ』でサラダパスタを作ることを提案したのだった。
「桃とウニとモッツァレラのバルサミコ酢ソースのサラダが美味しいんですよ。」
先ほどこのサラダを作ろうと思って横澤に買わせた具材を思い浮かべて律が料理を組み立てる。
「パスタですけどサラスパって感じですかね。バーミセリは揚げてパリパリにしてもいいですけど、今日はもうそのまま茹でて食べましょう。」
律は棚にあったパスタパンに給湯器から湯を入れてさっさと火にかける。
一方で湯が沸く時間にサラダ部分の準備を進める。桃は半分に切ってから実を削ぎ、その一切れにウニの一欠けをのせてテリっとバルサミコ酢をかけて、カウンターの所で律の手元を見ている高野の目の前に「はいアーン」と腕を伸ばして差し出した。
高野は瞬間驚いたように目を丸くしたけど、首を伸ばしてそれを口で受け止めて咀嚼嚥下する。
「旨いな、意外だ。」
親指でキュっと唇をぬぐって高野は嬉しそうにそう言って薄く笑った。
「横澤さんが服を弁償するって言いました。高野さん何か言ったんですか?」
ゆで上がったバーミセリをザッザと水で冷やしオリーブオイルと少々の塩コショウで味を調えながら、慌ただしくもう一方のコンロで作っていた簡単なスープの味も調える。
「横澤が聞いて来たんだ。心配していたように感じたからついでに服をだめにした事を言っておいた。」と手際よく料理を完成させている律に頬杖をついた高野がそう言った。
「だから面倒なことになるんです。そうやってなんでも横澤さんに話すのはやめてください。」
「個人情報にかかわることは言ってない。」
「今回の案件になんの個人情報が関わってるっていうんですか…。」
ミニトマトとバジルの葉、千切ったフリルレタスを多めに冷えたパスタに乗せたあと、細切れのモッツァレラと桃とウニを飾り、バルサミコ酢で作ったドレッシングを上からトロリとかけた。
スープは鶏ガラスープとクリームコーンを温め味を調えてからとろみをつけ溶き卵で仕上げたもので、洋風→イタリアンではなく、中華のメニューだったけど、丁度コーン缶があったのでそれにしたのだ。
鶏ガラスープはお手軽で便利だと律は笑っていた。
「さ、いただきましょう。」
律は高野とあまり好きではない一品料理的な夕飯を食べる算段を整えるべくテーブルを片づけるとそう言った。
軽く手を合わせていただきますのポーズをとって、早速とばかりにスープをススっとすする。
高野はそんな律を見て「お前が食事をしている姿を見ていると『斜陽』を思いだす。」と言った。
「太宰ですか…、」
「お前がどんなものを食べてもどんな食べ方をしても俺にはひどく優雅で優美に見える。」
「それを言ったらあなただって所作は綺麗で…、いや、でも優雅という感じではなくて…。」
言葉を詰まらせる律は、むしろ食べることは面倒だとばかりに腹に納める冷えた表情のかつての先輩を思い出してしまっていた。
「ほら、どうやったって俺はあのお母様にはならないだろ。」
「それは俺が浮世離れしてるってことでしょうか?」
「おいおい悪く取るなって。単に血筋が良くて所作がきれいだって話をしたいだけだ。つまりお前の食べる姿そのものがきれいだってこともだな。」
「俺のスウプを飲む姿はヒラリ…、そんな感じですか?」
「ああ…、そんな感じだ…。」
いつもはふてぶてしく思える高野の顔がひどく儚く見えた。
「先輩は…、山桜です。」
「石川淳か?」
「ええ。」
「随分だな…。」
山桜のタイトルのその文豪の短い小説は、山桜の下で昼寝をして起きてから起こった妄想とも思えるような不思議な話で、かつて身体の関係のあった女性とその自分にそっくりの息子が出てくるのだけど、女性はすでに亡くなっていて、彼女の息子も実在なのかどうか、どこからが夢でどこからが本当なのかわからない幻想というか奇譚のような話で、のちの研究者の間でもに文豪の小説に対する意見は色々なのだった。
「先輩は俺には桜の花でした。装飾する言葉を全て並べてもしっくりくるものは無かったから、先輩は俺の中ではもはや幻想で良いと思っていました。現実だったとしたら俺はきっと…、」
律はそこで止めて続く言葉を発することは無かった。
「食べてください。シャンとしたこんな上等の桃とウニなんて、横澤さんご馳走様ってあっちの方むいて拝んで食べたいと思います。」
「いや、横澤の家はむしろ北の方だ。」
「そんな個人情報聞きたくないです。あ、そうだ、シラスはトーストにして食べると美味しいんですよ。」
「へえ…、じゃあ明日の朝作ってくれ。」
「え…、」
高野は顔を皿に向けてパスタを掻っ込みながらそう言って、律はピクリとして咥えかけたフォークを止めた。
「甘いデザートも食べたい。」
フリーズしている律の事を放ったまま高野が上目遣いに律の瞳を覗く。
「辛くても知りませんよ…。」
律はプイっとそっぽを向いてまたパスタを口に運び始める。高野はそんな律を見てフフっと息だけで笑った。
食事の間ずっと律は先ほど口から出さずに飲み込んだ言葉を心の中で何度も反芻していた。
先輩が幻想ではなくて現実だったら…、憎くて殺してしまったかも…。
先輩…、大好きでした。