「う…、そうですか?横澤さん…、」
「だからお前は詰めが甘いんだ。混乱が起きたらほかの客にも迷惑なんだから最悪を想定してフローを決めろ。」
「でも、それはこちらの注意を聞かないファンが悪いんですよね…、」
「事故が起きてもそっちが悪いって言うつもりか。」
「それは…。」
企画の打ち合わせで律は苦手な横澤と小会議室で対面して当日の細かいフローを詰めていた。
律の担当作家のコミックスがバカ売れしてアニメ2期も決まり、この波を逃すまいと企画したイベントの内容はすでに取りこぼしを無くすという最終段階だけにかなり細かい部分の調整のみとなっている。
予定しているのは協賛してくれる書店での原画展で、予約制ではないからどれほどの人数が集まるかわからない。しかも原画展とのコラボで開催前日には人数を絞ったサイン会も開催することになった。後付けのサイン会はまるで突貫工事のような慌ただしさだけどファンにその楽屋裏を見せるわけには行かない。
そして想定していた集客については杞憂となり、ネット上ではありえないほどの盛り上がりを見せていた。
主催は書店ではあるけど、元々企画の打診はこちらからだから、お互いの認識に祖語のないように出版としてのフローをきちんと伝えておかなければならない。
原画展では、グッズを買ってくれたファンに最新版のサイン本(スペシャルな当たり)を含めた福引も予定しているから、レジの混みも予想される。
あらかじめできる喚起としては、時間前にあまり長い行列ができると他店にも迷惑だから、開始30分前以前に並ばないでとお知らせしているけれど、それを皆がきっちり守ってくれるとは限らない。何しろすべては好きだからなされることなので、ペナルティなど儲けていない。
「それは会場の書店が考えることでしょ?」
「お前そんな無責任な奴なのか?書店がやっててもこっちも気をつけてもらうようにできる手は打って、整えるべきは整えるんじゃないのか?書店は通常の業務だってあるんだ。お前今までどんなイベントやってたんだ。」
「え…、」
改めてそう言われてみると後ろめたい気持ちが湧いた。今までやったイベントは、自分の中ではベストは尽くしたつもりだったけどやはり周りがおぜん立てしてくれたような気がする。
--- 結局俺はお坊ちゃま扱いだったのか…。 ---
黙り込んだ律の立場と気持ちを察して横澤がため息交じりに「いずれにしてもここでは誰も甘やかしてくれないからちゃんとしろ。」とトーンを落として過去は過去だと遠回しに言う。
それには揶揄いも糾弾の気持ちもなく、言葉は律の中にスっと入って来た。そしてここでは七光りもお坊ちゃまも関係なく、ただの「小野寺律」として仕事ができる。そう感じた。
「人の目も耳も、見たいものを見て聞きたいことのみ聞く。他に気持ちが行けば全部素通りするもんだ。だから喚起だけではなく人を立たせろ。書店はこれ以上は人手を割けないだろうから誰かやれそうなヤツに。あとここ、サイン会の受付は詳しい奴にしてもらうように言うけど、さらにフォローに入れるやつがいるかどうかは営業でも確認するから。今は何かあった時の応対を失敗するとすぐにネットで炎上するから。」
「分かりました。エメラルド内で誘導は調整します。」
「ところで…、」
「はい。」
「お前、当日そんな格好で来る気か?」
「そんな?」
「服装だ。」
眉間に皺を寄せ苦いものでも食べたような顔をした横澤が、人差し指で律の胸元のリボンを指す。ついその指を追って律もリボンを見下ろしてから横澤の言わんとしていることが解り律は言葉を捜して沈黙してしまう。
律の女装は完璧で、喋らなければ男性だと疑われることはないだのだが、イベントの手伝いとなれば無言ではいられない。挨拶はするし、女性に扮しているわけではない律はことさら女性らしい立ち振る舞いをするわけではないので、どうしても違和感が出てしまうだろう。
横澤は女装NGと言っているわけではなさそうだが、やはり好ましいとは思っていない雰囲気で、律がどうするのかを聞きたがっているのだと分かるけど、どうしてもその質問は律にはダブルバインドで女装を否定されているように思えてしまう。
「女装はだめですか?」
少しだけ声が震えるのが分かる。この化粧と服装は自分を守るための鎧だ。素顔で人と対峙することは昔の絶望を思い出すことと同義語で、それを剥がされるのは怖い。
自分でなくなるのが怖い。自分ではないものが自分を支配するのが怖い。
「好ましくないことは確かだ。」
横澤はあくまでもだめだとは言わない。好ましくないという言い方は律に決定を任せるために用いた言葉だった。それが分かるだけに律は結局「わ、わかりました…、」と小さくだがはっきりと答えるしかなかった。
「とりあえずこれであとは当日の設営くらいだな。ここからは営業の方で書店と詰めるからエメ編の方はお前が調整しろ。」
「分かりました。よろしくお願いいたします。」
「ああ、」
一旦仕事は終いとファイルをぱたりと閉じてから横澤は手つかずだった冷えたコーヒーを啜る。律はこのまま部屋から去っていいのかどうか状況を計りかねていて、そのまま横澤がコーヒーを飲んでいるところを見ていた。
食堂の自販機で売っている紙パックのイチゴミルクを律は持って来ていたが、この男ぶりの良い人の前でストローでチューチュー吸うイチゴミルクを飲むのはなんとも場違いに思えて、結局パックを温めるように手のひらで握ったまま、しばしの時間沈黙に身をゆだねていた。
「お前さ、」
コーヒーをクっと飲み干しながらポケットから煙草の箱を引き出した横澤は、会議室は禁煙だと思い出し箱をもてあそびながらボツリと言葉を発する。
「普段は男の恰好するんだろ?」
それはひどく唐突で意外な言葉だった。言われている言葉の意味は分かっても、それに対する返事をうまく返せず、横澤がなぜそう言うのかの意図を測りかねていた。
律の日常は、家に帰って風呂に入り、朝もう一度風呂に入って化粧をする。スッピンでいるのはその間だけだが、その間の寝巻は比較的ユニセックスなデザインのモノだった。
「この間普通にスッピンで歩いてたそうじゃないか。」
「この間?」
「週末だ。」
「そう、ですか?」
「随分ヒトゴトみたいないいようだな。友達と一緒にスーパーに行っただろ。」
「ああ…、そんなことがあったかもしれません。」
歯切れの悪い喋り方は、しかしそれを否定したりごまかしたりする風でもなく、一つ一つ思い出しながら確認しているようにみえる。つい先日のことなのになんであやふやな答えなのか横澤には分からない。
基本的に律はきっぱりしていて、恫喝すると怯えた顔を見せるものの、間違いは間違いとして潔く認めるし、不条理なことに対しては反発も見せる。
なので、こういうどっちつかずの態度は珍しく、いつもとは違った方向で横澤は苛立ちを感じた。
その顔色をみて律が横澤の不満に気付き「そういうときの俺は寝ていることが多いので、全部を覚えているわけじゃないんです。」と言い訳にしても妙なことを言った。
「化粧をしている俺は今ここにいる俺ですけど、化粧をしていない俺は人も苦手だし、根性とかなくて甘ったれで感情的です。まあ、総じてできの悪いだめなヤツだから本当は男の格好でイベントに行きたくないんです。なのでその日の俺には期待しないでください。」
女装をして行きたいがための言い訳にしても随分だと、横澤の苛立ちはもう一段階レベルを上げた。そろそろ暴れ熊と呼ばれる自分をご披露するべきかと思うほどに。
確かに女性が仕事の時の服装や化粧のことを戦闘服と呼んだりするのを耳にすることはある。家にいるときにはだらけて仕事ではしゃんとするという比ゆ的な表現だと分かるけど、男の格好をする律が部屋着で来るわけでもないのだろうに、それはふざけきった言い草だと苛立ちと呆れがフツフツと沸いた。
「仕事だぞ、何だその言い草は。」
「だったら女装のままを許してください。ちゃんとフォーマルで来ます。」
「ふざけてるのか?まったく意味が分からん。」
律と冷静に体面して話をすることは、横澤にとってはまだ大きなストレスたった。しかし高野が律を望んでいる事と、律が仕事に対しては真摯であることで何とか個人的な負の感情を律にぶつけることを押さえていられるのに、当の律自身が仕事に対してそんな言い草をするならば、それは我慢のならないことだった。
「はっきり言って、スッピンの俺は役に立ちません。廊下の掃除でもさせていただきたいぐらいです。」
律はそう言って今度こそファイルを掴んで会議室を出て行った。ぱたりとドアの閉まる音を背中で聞きながら、残された横澤はますます不快だとばかりに持っていた紙のカップをグショリと握りつぶした。
苦々しい顔で喫煙ルームで煙草を吸う高野に理由を問いただしたのは朝のことだった。仕事のことでこんなに憂鬱そうな顔をするわけが無いから、おそらくプライベートだと思って探りを入れると、高野は直接なにかがあった訳ではないけど、男の姿の律が友人と談笑しているのを見て不安になったと言った。
「小野寺が?あいつ男の格好できるのか?」
「俺に聞くな。」
「とは言っても、家でまであんなピラッピラした服は着んだろう。」
「でも部屋着とかとも違ったんだ…、ちゃんと男の姿だった。」
「まあ、本来はそれが正しいんだろうけど想像できんな…、」
それっきり口を閉ざした高野の横顔をみていると自分までも苦しさが伝染するような気がする。
苦い、煙草の苦さよりもっと病的に苦い感情だった。
好きなやつには常に笑って欲しいとか、そんな乙女なことを思っているわけじゃない。生きていれば苦しさや辛さがあっても当然で、だからこそ自分は高野の親友とうい立場でいる。不安や戸惑いの辛さからはできるだけ救ってやりたいといつも思っていたのだ。
もともとの恵まれた才能は過去の高野を幸せにはしなかった。こいつが欲しがっているものは普通の人間が普通に持っているもので、自分たちはそれを少しも特別だとは思っていないから、それと気付くにはかなり近い距離に隙間を縮めなければならなかった。
そして高野はそれがないことで自分の根っこを張り切れずにいる。
本人は否定しているが横澤にはそれがよくわかっていた。
それを持ってないから人として欠けていて、欲しいものが手に入らないとあきらめかけている高野にとって、小野寺律は欲望を具現化された存在であることも横澤は知っていた。
高野はそれが手に入りさえすれば過去の渇望のすべてが解消されると思っている。
そしてきっとつい先日までとうとうそれを手に入れたと喜んでいたのだろう。
なのにまたもう一度元の場所に落とすような出来事があったのだ。
こいつは身体もでかいから存在感が強すぎるがゆえに威圧的に思われがちで、そのうえ仕事では俺様に振舞うこともある。
だらか実はとても繊細だとわりと人は気付いていない。
その上あまり努力をしないでも成功してしまうから、自分のもっているものが本当はすばらしいと気付いていなくて、自分の手に入らないものばかりを欲している。
「週末にでも猫を連れて遊びに行ってやるから元気出せ。」
「久しぶりだな、ソラ太に会うのも。」
「あいつも爺さんだからもっと頻繁に会わせてやりたいけどな。お互い忙しいから。」
「ああ。」
そこでやっと高野はうっすらと嬉しそうに笑った。
❀
企画のための準備をしていたら随分遅い時間になってしまった。
企画の準備は通常の業務の他にしなければならないから、まとまった時間を捻出するとなるとどうしても深夜になる。そろそろ終電の時間だから切れの良いところでお終いにしないと帰る足がなくなる。
律は少し慌てて机の上に散らかってしまった書類をかき集めた。見渡せばフロアーの他部署の灯りは暗く、自席の周りだけ明るく、まるでスポットライトが当てられているかのようだ。
だだっ広いフロアーはささやかにパーテーションが置かれているものの、それもあまり目隠しには役立っておらず、出版前の校正原稿の赤字が無造作に積み上げられている。
一応フロアーには部外者は入れないルールになっているから過度の用心はないものの、時々これで良いのだろうか。終了したものに関しては鍵付きの資料室に格納されるのだけど、ファックスも送信されっぱなしで無用心甚だしいのだ。
ファンにとってはお宝といえる原画はもとより、それ以前のプロットも作家の絵はさすがに美しい。
何枚も何枚も書いてもらっても、結局ページをボツにすることもある。それらには代金は発生しないのだからなんとも切ない話だ。
エアコンを一括停止として、電気を消す。どうせこのあと警備会社が廻ってきて一応チェックをしてくれるのだけど、消えてない空調などがあるとあとから注意が来たりする。
ふっと律は今日は一度も見ていないお誕生日席の主を思い出していた。
横澤と企画を詰めてから、高野は編集長としてエメ編でできることの細々を手配してくれた。皆協力的ではあったけど新人の自分がイニシアティブをとるのは難しいシーンもあって、それをスッとさりげなくサポートしてくれる時、初めて自分は不安だったと知って、自分の弱さに戸惑った。
慣れない仕事に必死で食いついてきたけど、その都度何もかもが不安だった。経験がなさ過ぎて手繰り寄せたものが良いものか不要なものかの取捨選択もできない。なのに仕事は土石流のごとく自分を追い詰めて覆いかぶさってくる。
これでいいんだろか?自分は間違えていないだろうか?
そんな迷いを払ってくれるのはいつも絶妙なタイミングで差し出される手だった。
見ていただけの頃には分からなかった憧れの先輩と、目の前の実体を持った高野さんがどんどん解離していく。
寂しいという感情さえも閉じ込めてしまっていたあの遠い目を、確かにあの頃の俺は好きだったはずなのだけど、今思えば霞に恋をしていたような気がする。
よく夢を見た。
触れようと伸ばした手が何にも掴めず通り抜けて、慌ててふり返るとそこには自分と並んで歩く先輩の後ろ姿があった。そしてその横に立っている自分は振り向いてにっこりと笑った。
綺麗に化粧をして可愛い服を着て…。
今の自分は勝者の筈だった。なのになんで今さら消したはずの過去が実体になって現れる…。
苦い…、と思った。
律の胸に競り上がる気持ちは日を追うごとに苦みを増して、身体いっぱいにどんどん広がるような気がした。
IDカードをかざし、手順通りキイを押していくとピっと軽快な音が鳴りフロアーが施錠されたことを知らせる。
廊下の薄い光量の非常灯に導かれてエレベーターに乗って、一階のエントランスに差し掛かるとそこには仕事を終えて帰って来たらしい高野がいた。
「え?高野さん。遅かったですね。お疲れ様です。もう施錠しちゃいましたけど。」
「ああ、カラー原稿貰ってきたから一旦戻ってきた。窓が暗いからもう誰もいないと思ってたけどお前いたんだな。」
「入れ違いですね。さっき電気を落としたところです。まだデジじゃない先生も多いんですね。」
「最近は半デジが多いけどな。」
紙の本は恐ろしいスピードでデジタル化が進んでいる。入稿も今やボタンひとつで送信で済む時代だ。
それでもまだ手描きにこだわる作家は多くて、読者もしかり。まだまだ紙で頑張れると思わせてくれるのだ。
「丁度いい。俺んちでメシ食って。」
一旦部署のフロアーに戻り、鍵付きの棚に原稿を格納する間、腕を引いて律を離さないようにしっかりと捕獲しつつこれからの予定を迫る。
「なにが丁度いいんですか。」
一旦は反抗をみせるのが流儀なのか、最後は思う通りになる癖にいつだって口を尖らせて面白くない言葉を言う律。
照れ隠しなのか本音かの判断はいまだつきにくいけど、結果がすべてでプロセスは二の次だと高野は律の態度は無視して話を進める。
「お前あんま外食好きじゃねーよな。だけど時間的に料理も無理だからあきらめてあるもんで食おう。」
「今日は家にちゃんとご飯がありますから結構です。」
「へえ…?朝から夕飯を作って来たのか?」
「いえ…、」
ああ、と高野は思った。先日見たあの男が用意しているのだろう。だから家で食う…、それは至極当たり前だと思った。そうなると予定は未定で決定にはならずかと、若干浮いた気持ちが沈むのが分かる。ほんの些細な時間でもやなことは忘れて同じ場に居たい。そしてもっと身近に律を感じて律に浸りたい。
律とあの男が笑う顔がフラッシュバックするように鮮明に脳裏に浮かぶ。
あいつのあの許されているという感じが気に入らなかった。単なる友人にしては距離が近すぎる。女子じゃないんだあんなにべたべたしなくてもいいだろう…。自分が知らない律を知っている男の存在はたとえどんな関係だろうと愉快であるはずがない
この独占欲は偶像信仰にも似た感情だった。
誰のものにもならないならまだ赦せる。だけど誰のモノにもならないはずのものを手に入れる奴がいることは我慢がならない。。
高野自身それが嫉妬であることを認めるのにさして時間がかからなかった。
「ああ、もしよかったら高野さんも食べに来ますか?飛び入りでも大丈夫だと思いますよ。」
「は?」
「俺んち白山です、高野さんの最寄り駅から近いですからどうぞ。」
そのイノセンスに満ちた笑顔に己が汚れを恥じながら高野は律の横に並んで歩き始めていた。
今回は本を入れられなかった
三島由紀夫の金閣寺にしようかとも思ったけど、あれを用いるには、私には力が無さすぎでした