「律…、」
高野はできるだけ優しい気持ちでうっすらとほほ笑みを作り、目の前の律を真正面からふわりと抱きかかえた。
親鳥が雛を羽根の下に隠すように、苦しいことも痛いことも知らないで済むように。
そんな気持ちで律の身体を羽根がないから腕で覆った。
鼻先に揺れる薄茶の髪の毛からはシャンプーと混じる律の香りがただよう。そう言えば、自分が繰り返し抱きしめていたのはいつだってこの頼りない肩だった。高野が暴いた素肌からは化粧の気配はいつもなかった。
腕の中の律は一瞬戸惑ったように身体を緊張させたけど、次の瞬間には強張りを解いて高野に預けるように胸に縋った。
「ごめん。律。」
「なんですか?」
「うん…、」
結局いつだって間違う。本当に欲しかったモノは何だったんだろうか。
知らないことは悪いことではない。でも知ろうと努力しないことは罪だ。
高野が律の背に這わせた腕に力を入れ引き寄せると、見上げたせいで反り気味だった身体がさらにしなり、頬につくほどに近くにあった顔が目線を合わせられる距離になる。しかしその瞳は喜びではなく不安に揺れていた。
「律が好きだ。昔の律も今の律も両方とも好きだよ。」
腕の中にあるのは自分が世にあることを認めてくれた初めての存在。
本来は生まれ落ちた瞬間から形成されるべき自我は身近な人からは与えられなかった。
恵まれた環境も恵まれた容姿も、人がうらやんだすべてのものはあと付けでしかなくて、律がいたから腐って崩れ落ちそうだった輪郭を保ち続けることができた。
人としての形をやっとあの時に成すことができたのだ。
「確かに、律が好きだったんだ…。」
「先輩…、なんで過去形なんですか?」
つい、そうしゃべってしまったことを指摘されてドキリとした気持ちを隠すけど、おそらく身体が揺れたことは律にはばれただろう。
その証拠に「ひょっとしてコレって…フラれるフラグ立ってます?」という律のすこしだけおちゃらけた言葉の裏で少し力が入った指に震えを感じた。
「もし、『お前』がそう思うのであれば…。」
「だって、なんで?」
「わからない。でも分かってるだろ『お前』なら。」
そう言いながらもまだ間違い探しの答え合わせは済んでいない。
そしてもし答えが満点だったならばなんと残酷なことを告げたのだろうと思う。
過去が誤解でもこれはそうではなくストレートな拒絶だから。
「今、大好きな初恋の人を思い出しているんだ。本当に好きだった。」
「全部過去のことなの?」
「今となっては…。」
もっと叫んだり取り乱したりするかと思ったのに、腕の中の律は小さく「そうなんだ…。」と呟いた。初恋の人には泣いて欲しくない。なのになんでか今はなじって責めてほっぺたの一つも殴って欲しい。
我儘な自分がここにいることを自覚しつつ高野はうっと喉を鳴らす律の背を撫でながらそんな事を思っていた。
「もう二人とも変わったんだ。お前の嵯峨はいないし俺の律ももういない。」
「そんな勝手なことばっかり…。」
「今の律に会いたい…。」
胸に当たっている温もりがじんわりと湿り気を帯びていることに気づくけど、高野にはもはや何をどうすることもできなかった。
ふり返れば分岐点はあそこだったと分かるのに、その時にそれは分からない。あの時にこうすればと後悔しても時間は戻らない。過去に戻るタイムマシンは存在しない。
「先輩が俺を選んだから、律はもう出てきません。あの子はそういう子です。辛い事は全部あの子に押し付けてきました。いつだって耐えて頑張って歯を食いしばってあの子は生きて来たんです。」
「でも、お前も律なのに…。」
どこでどうなっているのか分からない。でもこの律があの凛と胸を張って生きているように見える律とは違っている事だけは高野には分かっていた。
昔の高野には確かにこの律が必要だった。何も求めずにひたすら愛情を注いでくれる律が。
でも高野は大人になってしまった。そしてこの律はそこにいまだにいる。ただただ従順で、自分より高野を優先するようなそんな律。
かわいい。ひたすら甘やかしたい。どこにも出さずに閉じ込めておきたい。
でも、それはできない。なぜなら高野はもう知ってしまったから。
お互いに高めあえるような、腕の中ではなく隣に居て、時には背中を蹴飛ばしてくれるような律が欲しいのだ。
「俺は弱いから、先輩にふられることに耐えられなくて、化粧をして笑える強い律を締め出しました。」
「だから清宮尚はおまえにだけ優しいんだな…。」
「尚は優しいから、弱い俺を守りたいだけなんです。俺は甘やかされて守られるだけの存在です。だから辛いことも悲しいことも耐えられない…。だからきっと…、こんなに辛いからまた強い律が助けてくれると思います。」
「え?」
「だから…、その時は先輩、いえ…、高野さん。律に優しくしてあげてください。あの子の頑張りを認めてあげてください。」
昔のままの律が涙の雫を光らせながらそう言ってふわりと笑った。
あ…、律はやっぱりいつだって律だ…。
「家に帰ろう。」
背を支えそう告げると律はまた懐かしい顔でにこりと笑った。