「お前オレと交換した弁当食ってねーの?」
受付に荷物を出しに行った帰り、自動販売機で飲み物を買おうとしていたらしい高野に律はそう呼びとめられた。
きっと木佐が高野に何かを言ったのだろうと察することができたけど、律はそれに対して返事をしなかった。
木佐に気を使ってもらって若干浮上した気持ちが高野の顔を見ただけでグンっと落ちて行くのが分かる。そして指摘されただろうことで高野が自分に対して気を使うような素振りをするのも、逆にまた文句を言われたりするのも嫌だった。
自動販売機で高野がコーヒーを買って、ホイっと律に手渡そうとするけど、律は首を降ってそれも断る。上司だから無視することはできないけど、できればほっといて欲しい。
差し出した手の行き場所に困るように高野は少しだけ上げた手を宙に漂わせてから、フウっと息を吐いた。
「ああいうの嫌いなの?」
腰から壁にもたれかかり、コーヒーのプルタブをカツリと起こして、高野はズっと音を立てて中の液体をすする。缶コーヒーの濃い人工的な香りが少し離れて立っている律のところまで漂ってきた。
長い足を放り出すように伸ばし、缶を支えながら半分腕を組んだ姿勢と、時に冷たく見える丹精な顔立ちは、初日の臭い男と同一人物とは思えないほどのイケメンで、漆黒の癖のない髪はうつむくと自重でさらりと頬に触れた。
律は高野の質問には答えずにボソリと「なんで…、なんでそんな意地悪するんですか?」とつぶやく。
新しい会社で一生懸命に仕事をしようと自分を励ます意味で作っているお弁当を、この会社に入ってから一度も食べることが出来ていない。
自分にはだれも励ましてくれる人などいないのだ。せめて自分ぐらいは自分を励ましてやりたい。ただそれだけなのに、どうしてそれを阻むのだと、そんな独りよがりな気持ちが沸いて止められない。
つい目の前の上司をキッとにらんでしまう。
「お前の弁当が食いたいから。それだけだけど?」
高野は律の不快そうな態度にも慌てるでもなく、淡々とした口調でそういった。
そういえば、うまいと言って欲しくて、そういう顔を見たくて一生懸命弁当を作ったことがあった。結局それは一度もかなわないまるで夢を掴むような願い事だった。
ひょっとして自分とお弁当はそういう不遇な関係なのだろうか?と思い始めて、律はそれ以上昔のことを考えたくなくて、つい目の前の人に理不尽なかつての怒りもまとめてぶつけるように言葉を放った。
「子どもみたいにオレの弁当を無理やり取って、バカにしてるんですか?よく知りもしない俺の弁当なんて…。それに高野さんは肉とかがっつりしたのが好きなんでしょ?いつもお弁当はそんなのばっかりですよね。」
むかつく気持ちを吐き出したのに少しもすっきりしないどころか、むしろ自分でも意味のわからないもやもやが広がるばかりだ。しかし高野の表情からは自分が意地悪をしたという自覚はないようで怒るそぶりも見せずむしろキョトンとしている。
「なんで?お前いつもオレと弁当交換してたじゃん?」
「え?」
「オレのコンビに弁当とお前の弁当とずっと交換するって約束してただろ?」
「な、なに言ってるんですか???」
「ずいぶん長いこと会えなかったけど。お前、まさか彼氏のこと忘れたんじゃねーよな?」
「かれ、し?????」
「オレ、旧姓、嵯峨政宗だから。」
「!!」
高校一年生の時に、律と嵯峨はほんの少しの間付き合って、そしてあっという間にわかれた。それ以来10年間律と嵯峨は会うことは無かった。
「お、オレをもてあそんで二股したくせに。」
「二股?何のことだ!?お前、意味不明にオレに回し蹴り食らわせて逃げただろう。オレはあの時昏倒して、約2年間お前とつきあってた間の記憶をなくしていた。やっと思いだした時にはお前はいないし、女装してた方から探ってもキャンペーンのことなんて手がかりも全くなくて、もうあきらめてた。」
「ま…、まさか…。なんで?オレがキャンペーンの女の子だって知ってたんですか?」
「はあ?何度もデートしただろ。学校の奴らもけっこう知っているヤツ多かっただろ。」
「だって学校ではそんなことなんにも言わなかったのに…、」
「お前が言われたくないって思ってたんだ。」
中学一年生になったばかりの頃に、小野寺律は図書室で嵯峨政宗に一目ぼれした。
自分は男だし、先輩のことなんてほとんどなにも知らない。
この気持ちだってきっと何かの気の迷いだと否定しながらも嵯峨を恋しく思う気持ちが募り、人が野生動物を観察するように、なるたけ気配を消して(なんにも消えてなかったけど)俗に言うストーキング行為をしていたのだ。
いつだって先輩は大勢の中でもスポットライトが当たっているかのごとく輝いて見えた。
でも…、嵯峨先輩はいつでも一人でいた。
いつも行く図書室に隣接している談話室は、元々は図書準備室だったのだけど、やがて生徒の減少で使われることがなくなって、生徒が飲み物を飲んだりできるような部屋になった。
そこには小さいテーブルセットが何個も据えてあり、嵯峨はよくそこで一人きりの昼食をとっていた。
大きな学食が別にあるために、談話室は弁当を持ってきている生徒が訪れる場所で、嵯峨はいつもそこでコンビニの弁当を広げていた。
高校男子らしく、がっつり系の丼モノやあんかけのような楽に食べられるタイプの食事が多いように思えたが、時にはサンドイッチだけだったり、可愛らしくプリンやクッキーなどの甘み系も食べていた。
もし自分が先輩にお弁当を作るとしたら、もっとバランスもよくて可愛いお弁当を作ってさしあげるのに…。
律は母の弁当を食べながらも毎日自分がもし先輩にお弁当を作るならという妄想を広げ、読書に出てくる西洋の料理や日本のお惣菜などの料理を再現してみたいと思うようになった。
嵯峨が好きで好きで、律の全部が嵯峨への想いに浸潤されて、もう何一つ律としてモノを考える余裕もなくなった頃、出会いがしらの事故のような触れ合いから律と嵯峨は付き合うことになった。
先輩が付き合うって言った。
オレ男なのに、先輩が別にいいけどって。
夢なら一生寝てていい。
もう二度と目覚ましなんて鳴らなくていい。
一生夢の国で朝露とか虹色の霞とか、おなかになんにもたまらなくてほわほわしたものばかりを食べて生きていく。
そんな乙女な気持ちに浸っていた。
「嵯峨先輩。」とそっと声に出して名前を呼ぶとそれだけで律のほっぺたあたりがぼわぼわっとくすぐったくなって、その名前を発した唇をギュっと押さえてしまう。
「サガ…、マサムネ…、」
フルネームで呼ぶと、ほっぺたから首の後ろの方までザワザワと猫じゃらしでさすられたみたいにかゆくなる。
こそばゆくてワーっと騒いで、髪を毛の向きと反対側に向かってワシワシとかき混ぜたくなる。
しかし、実際に付き合い始めてからの律と嵯峨との距離は、近くなったかと問えば、それはなんとも微妙だった。
あんなに切羽詰まったように先輩を好きだったはずなのに、実際の律は恋人として真横に立つなんてとてもできないし、顔を直視するのも無理で、せめて何か喋ろうと思っても、あがってアワアワと挙動不審で声もきちんと出せない無様な状態だった。
付き合うって何だろう?
ストーキングをしていた時の方がよほど自由に嵯峨先輩を見つめることができていた。
それでも律は当初の夢だったお弁当を押し付けるように嵯峨と交換することに成功して、昼食を一緒にとることができるようになっていた。
そんなある日、
「今度の日曜日は女の子のりっちゃんとショッピングしたりお食事をしたりしたい。」と、幼馴染の小日向杏に久しぶりにお願いをされた。
杏は律が小野寺の夏のキャンペーンの時に女装をした事も知っていて、それからはショッピングに映画にと女の子の律と出かけるのを好んでいた。
「だって男の子のりっちゃんと歩いていて誰かに見られると後で色々言われそうだけど、りっちゃんが女の子してくれると絶対にばれないから。」というのが大きな理由だった。
しかし…、さすがに高校生になったのに女子の服を着て外を歩くのはハードルが高く、はじめは断っていたのだけど、杏がお化粧をしたらわからないと言いだして、おさがりの化粧品まで持ってきたのだ。
女装どころかお化粧なんてとひどく困惑した律だったが、結局押し切られて初めてお化粧をしたところ、今までとは違って全く別の律が誕生したような不思議な気持になって、結果仲良しの幼馴染の希望を叶えることにした。
しかし、
当日、等の本人は出がけに急に用事ができて予定は延期になってしまった。
流行のドレスを着て待ち合わせの場所まで行った律だったから、(さっさと帰ればよかったのだけど)せっかく来たからと欲しい書籍と文具を買うために書店のある駅ビルに行った。
大好きな宇佐美秋彦の新刊は山のように平積みになっていたのに、目の前で奪い合うように減って行き、見る見るうちに山は平地と化していく。
出直したら完売してたかもと胸をなでおろしたのもつかの間、その場所でなんと嵯峨と遭遇したのだった。
嵯峨は律の姿を見るや否や戸惑うことなく寄って来て「買い物?」と無表情のままに律に声をかける。
今まで女装でナンパされたことはあるけどまさか無口無表情の嵯峨が女性に声をかけるなど思ってもいなかったからかなり驚いて、断るどころか返事もできないでいると、嵯峨は律の手をスっと取りスタスタと歩き出した。
逃げることも、ましてや嵯峨を相手に拒絶することもできないでいる律は、結局流されるがままに甘味のお店に連れて行かれて嵯峨に言われるままにクレープを食べた。
筒タイプの中に具の入っているクレープではなくて、四角くて縁をおった蕎麦粉のガレットで、乗っているのはイチゴにモモに、イチジク、キウイ、マンゴーにチーズクリームのアイスと生クリーム。はちみつ漬けのナッツやハーブがちりばめられていてチョコやストロベリーのソースがたっぷりかかっていた。
立ち食いの苦手な律だったからこういう落ち着いて食べられるお店はありがたかったものの、さすがにゴージャスすぎて目をまん丸くすると、頬杖をついていた嵯峨がその顔をじっと見つめた。
今の自分はいつもの気弱な律じゃない。きっとこのスイーツみたいに可愛い律なんだ。そう思うと気持ちが楽になって、甘みを含むと顔も緩む。
いつもはまともに喋れない律も今は律じゃないと思ったら、すらすらと味の感想を述べることができた。
「ずいぶんうまそうに食うな。」
そう言った嵯峨の顔が笑ってはいないのに何だか優しいように感じて、いつもなら食べることだけで精いっぱいの自分なのに、嵯峨先輩の顔色まで見れるなんてと魔法にでもかかったようにも思えた。
その後は映画を見て、飲み物やポップコーン、ファーストフード店では映画の話をしたりと、ありえないぐらい楽しい時間を過ごした律は『夢ならさめないで』と、またそう思って、そっと愛しい嵯峨の顔をみつめた。
ほどほどの時間になって分かれる時に嵯峨先輩は「お前可愛いな。また来週」と言った。
『また来週?』それってどういうことなんだろう?
また来週の日曜にデートをしようというお誘いなんだろうか?
挙動不審に陥りがちなオレなのに、今日は本当の恋人同士みたいに自然になれた。
ドレスを着た律は先輩の前でもあがらずに過ごすことができた。
先輩だっていつものピリっとした態度の先輩ではなくて、やわらかい雰囲気が溢れてた。
無口のままだったけど、やさしくエスコートしてくれたしお金も受け取ってくれなかった。
苦手なファーストフードの注文でも丁寧に説明してくれたうえに時間がかかってもゆっくりとオレの迷ってることを聞いてくれた。
でもそれは男の律ではなくて、女の子の律だから?
そう言えば先輩は何気にキャンペーンの律を気に入っていた。
お家にお邪魔した時に壁にポスター(非売品だったのに)も貼ってあった。
やっぱり先輩はキャンペーンの律のような女の子が好きなんだろうか?
先輩はオレとつきあってるんだから、こういうのは浮気なんじゃないんだろうか?
それともそもそも男のオレなんてノーカウント?
女の子として過ごした時間の楽しさと男の自分の戸惑いがない交ぜになったまま、翌日の学校では、当たり前の男の律で嵯峨と弁当の交換をした。
相変わらず嵯峨は市販のお弁当だったけど、それでもどうやら律の好きそうなものをチョイスしようとしてくれているらしく、毎回好みのみは聞いてくれる。
律はそれに対して嫌いという言葉を発することはなくて、いつだって嵯峨が買ってきたお弁当を喜んで食べた。
律にとって弁当の中身などどうでもよかったから、
嵯峨と食べることに何よりの幸せを感じていたから、
牛丼でもカツ丼でも、
油のにおいがちょっときつく感じても、
化学調味料で舌がピリっとしても
何もまずくは感じなかった。
結局律は、昨日は誰と何をしていたんですか?などとは確認することもできず、「先輩…、あの日曜日って…。」とオズオズと聞くと、嵯峨は「欲しい本があるから開店と同時に本屋に行く。」と答えた。
先輩はやっぱりあの女の子と会うつもりなんだ…。
またって言ったもんね。
可愛い女の子と男のオレでは全然違う。
話も弾まないどころかほとんど会話をした事もない、
くっついて歩くこともでない、
いつも引きつってしまってニコニコもできない。
「わかりました。」
そう言うのでせいいっぱいの律の喉の奥はギュっと絞られるみたいに縮んで、泣きたい気持ちが身体の中身全体をタプンと埋めた。
嬉しい気持ちはサラサラプクプクと軽くて揺れるようなのに、なんで悲しい気持ちはダルンとまとわりつくみたいに粘度が高いんだろう。悲しい気持を全部掻き出して、水で洗い流してもどっかにいやなダルダルはへばりついていて、ちょっとだけしかなかったはずなのにいつの間にかまたすごく大きく膨らむんだ。
それでも大好きな嵯峨に会いたくて、結局律はまた女の子の服を着て出かけた。
嵯峨は律の背を抱いて、特設で展示されている評判の美しい絵画を見て回る。
嵯峨が触れている背が気になって、男の律が泣くのに女の子の律が喜んでいて、二つの液体がグルグルと攪拌されてどんどん濁っていくような気持ちだった。
だけど男の律を切り捨ててもいいと思うぐらい幸せだった。
「お前可愛く笑うし、こういうのっていいな。」
嵯峨がポツリと言って視界を影が遮ったと思ったら唇にチュっとキスが落ちて来た。本当に触れるだけの軽いキスだったけどはっとして嵯峨の顔を見るとほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
先輩が笑っている?
オレと一緒の時にはいつだって無表情なのに、こんなにやわらかく…。
「今度さ、弁当作ってきてよ。」
その日の最後、別れ際に嵯峨は律にそう言ってまた笑った。
苦しかった。
先輩の笑顔を見たら、でっかい巨人が心臓を雑に掴んで、さらに中身を絞り出すみたいにギューギューと扱かれるような気がした。
学校での先輩はオレとも普通に接する。
オレは先輩にとってなんですか?
好きなんです。オレは先輩が。
だれにも渡したくない。
だれにも触れて欲しくない。
だれも先輩に触れて欲しくない。
二人っきりの部屋で先輩の冷えた顔を見ていたら、答えを聞けば絶対に後悔すると分かっていたのに、口からは止めようもない言葉がこぼれてしまった。
「俺たちつきあってるんですよね?」
--じゃあなんで女の子に触れたんですか?----
「先輩はオレのこと…、好きですか?」
--あの子より好きって言って…。---
なのに先輩は一瞬びっくりしたような丸い目をしてからプっと笑ってオレの顔をじっと見て「ヒデー顔してんな。」と言った。
あとのことはよく覚えていない。
覚えているのは家中の鏡どころかガラスを全部割って、自分の顔も覆い隠してひたすら泣いたこと。
「だれもオレを見ないで!」
--先輩に笑われた顔なんていらない---
--先輩はあんな可愛い女の子が好きなんだ---
--だからオレなんていらないんだ---
ずっとそんなことをグルグルと思っていた。
母も今まで反抗の言葉ひとつ言ったことのなかったオレにどうしていいのか分からないと泣いた。
父はカウンセリングの病院に行った方がいいと提案した。
涙も枯れて、心が空っぽになった頃、心配した杏ちゃんが、「りっちゃん。そんなに顔を見せたくないなら私がりっちゃんを別の人にしてあげる」と言ってお化粧をしてくれた。
「ほらね。もう男の子のりっちゃんじゃなくて、私の大好きなやさしいりっちゃんよ。」と笑った。