「俺は木佐が気が付くまでもなくお前があの律だと分かった。どんなに化粧で隠しても俺は素のままのお前が好きだ。そしてお前も俺の事を分かっていて知らない顔をしているのだと思っていた。だけどお前は俺が嵯峨だとは微塵も思わなかったんだな。」
高野は少しだけ唇を絞めて表情をゆがめ、律はぼんやりとその顔を見つめた。
初日の醜態を除けば、見目が整っていることは今更ながら当然と目の前に存在していて、その冷たく見える端正な容貌はそうと言われてみれば嵯峨のもののような気もする。
顎…、がシャープになったのか?
頬の肉も一枚削げたように薄い。
髪型も違うし何より眼鏡をかけている。
ただただ、ひたすらに好きだった人の成長した姿など考えたこともなかった。
あの混乱の後、律は嵯峨を記憶から消すように努力をした。だから輪郭さえあやふやになりすぎて比較するものもなく、今を計ることもできなくなってしまったのかもしれない。
「嵯峨政宗って…、だれですか?俺はもうそんな人は知りません。今はどこが好きだったんだろう?って思うぐらいです。なのでもう理由とかはどうでもいいことです。ましてやあの時に嵯峨先輩が何をどうしたかなんて。」
もう過ぎたことだ。傷跡は消えていないけど、長く繰り返し膿んでいた傷は乾いた。
今更あの時ことなど知らされても時間は取り戻せないし、痛かったなと言われても不快なだけで共感などできようもない。そう、誰にもなんの益もない。
少しずつ、少しずつ今度こそはと何にも負けない外装を作りあげた。
今更継ぎ目のほころびぐらいで崩したくない。もう昔に戻りたくない。
「律…。」
「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでください。オレは貴方を知らない。」
冷たい瞳でキッと睨んで律が吐き捨てるように言うと高野の目が絶望で揺れる。しかし次の瞬間氷のように冷たく見えた律の顔がふわりと緩んだ。
「見てください。オレ可愛くなったでしょ?誰もみっともないなんて言いませんよ。そりゃ男だから気持ち悪いって、そういうことはありますけど、昔のオレはもうどこにもいないんです。だから。」
チェーンの飾りのついたミュールをカツっとならし、クルリとターンをした律の身体に引かれるようにシフォンのスカートが揺れた。
まるでそこに風が吹いたように良い香りが漂い、律はつけ袖の先に見えるネイルの施された指先を頬に当てながら首をコクっとかしげて「全部忘れてください。」と綺麗に笑った。
▽
「どういうことなんですか!」
エメラルド編集部のランチタイムは恒例の律の怒号で始まった。
「どうしていつもオレの弁当取るんですか!」
「オレがお前の弁当を食うと決めたから。」
「決めたって何ですか!勝手に。泥棒ですよそれ。」
「はあ、お前オレと約束したくせにそういうこと言う訳!?」
「約束って…、」
「今ここで約束の内容を全部言ってやってもいいけど?」
「や!止めてください!」
言い合いも日常化して、すでに周りのメンバーも「ほのぼのしてるね。」と言いだすほどだ。
実はいい加減律もあきらめていて、今も腕を後ろ手に取られてソファーに押し倒されていた律はフっとため息を一つ吐いた。ため息は幸せを逃すと言われるが、逃すべく幸せの持ち合わせのない律は何度でも盛大にため息を吐いてやるといつも思っていた。
「いい加減話してください。このソファー、埃臭いんです。」
「お前臭いの嫌いだよな。」
「臭いのが好きな人いるんですか?」
「お前のジャンルで言うならクサヤとか納豆とか?」
「食べ物と汚物を一緒にしないでください。」
「このソファー汚物なわけ?」
高野がクククっと笑って戒めの手を開放する。背に乗った膝はまだそのままだ。
「背骨に膝が当たって痛いです。」
「なんかバクバク食ってる割には肉付きがわりーよな?昔から…、」
「戯言を……。」
昔からという言葉に律の顔にスッと影が落ちる。忘れてくれと言っておきながら一番それにこだわっているのが律自身であることを否応なしに自覚させられる。
嵯峨の部屋で、図書室で、律は何よりも誰よりも近い場所に嵯峨招いた。
しかし、官能と酩酊の状態で求めあうには、まだ幼すぎた律には過ぎた刺激が与えられるのみだったといえよう。
そして初めての恋は暴走し、自分の感情さえも見失い、未だ幼いままに律の深層に封じ込められている。
仕事だけしたいのに…。
「どいてください!オレは男ですけど、客観的に見て高野さんが女性を襲っているようにしか見えませんよ。」
「まあ、別に襲ってるって思われても構わねーけどさ、飯の時間が無くなるから食うか。」
背を解放された律は苦々しい顔をしてさっさと自席に戻る。高野が寄こそうとした弁当を断って、最近新調した大きなトートバックからおもむろに花柄の弁当を引き出した。
「せっかくですが自分の弁当を食べるので結構です。」
「なに!?じゃあオレにこれ作って来たってこと?」
「違います!でもオレもうこういうの嫌なんです。自分の弁当は自分で食べたいんです。」
若干高野のパワーに屈服した感がぬぐえないものの、一方でなぜ早くこうしなかったのかと妙にサバサバした気持ちにもなれた。何よりもう一つの弁当箱を出した瞬間の高野の呆けた顔が小気味よかった。
「へえ、じゃあ弁当代払わなきゃな。」
フッと笑って意地悪な顔がそう告げるが、すかさず「そっちも結構です。」と憤然とした態度で律が答える。
「ただ飯を部下から巻き上げるのは気が引ける。」
「勝手に引けててください。もうこういうことに煩わされるのは嫌なんです。」
「ふ…、ん…。」
高野が弁当箱の蓋を開いて早速小さい串カツを手でつまみ上げ、ハムっと噛み締めるとちょっとだけ表情を変えた。
「具はエリンギと味噌漬け豆腐ですけどお嫌いでしたか?」
「いや、むしろびっくりした。肉じゃないんだって。うまいな。」
「揚げ物でもありますけど、それ油あんまり使ってないですから。生活習慣病になりますよ、あんまり脂や肉ばっかりだと。」
そんな話をしながら律が思い出したように「アッ」と小さくつぶやくから「なに?」と高野が繭をピクリとさせた。
「代金の件、有効ですか?」
「もちろん。ただ飯食う気はないから。」
「じゃあ、やまやの明太子キロで、あと、枕崎産の本枯節と浅草海苔、小豆島の手絞りオリーブオイルと国産菜種油、利尻昆布、それから…、博多の干し飛魚、ぐらいかな。今欲しいのは。」
「金払えばいいの?」
「とんでもない。ちゃんと現物買ってきてくださいね。」
律はにっこりと笑いながら、行儀悪く今日一番に食べる予定にしていた茄子と豚肉のトロトロ炒めを箸で掬い上げて目の前に翳した。