「お前は…、」
校了が済んだ週末なのに、たまっていた雑事があれこれと多くて結局残業になってしまった律が、最終退館者としてフロアーを閉めようかと思ったところで後ろから曇った感情のない声が聞こえるた。
ハッとして振り返ると、そこにはこのところ何度か律的にあまり楽しくない思いをさせられた背の高い男性が腕を組み、入口の柱にもたれかかるようにして立っていた。
「小野寺律だよな。」
この営業の横澤はいつも第一声から怒鳴っていて、眉間に皺を寄せたきつい顔しか見たことがなかったから、今のような静かな声音はめずらしく、うすら怖くてできれば律はお相手をしたくないと思ったものの、新人編集としては営業の人間に失礼な態度を取ることはできない。
できる限りのお愛想で「ウフフ、はい…、お名刺要りますか?」と律は横澤ににこりと笑って応えた。
横澤は律のわざとらしいおちゃらけた返事に瞬間眉間に皺を寄せ「水商売か!」と吐き捨てるように言ったけど、すぐにスッと表情を元に戻し、つま先から頭のてっぺんまで値踏みするような視線を一往復させた。
横澤はその怒鳴り声と怖い表情で暴れ熊と呼ばれている割にはむさ苦しくはない精悍な整った顔つきで、背の高さは高野と同じぐらい。
営業で鍛えているせいか締まった体つきにがっしりとした肩幅をしていて、丸川きってのイケメン高野の親友ということも相まって女性にも人気がある。
その証拠に休憩所などではどこそこで誰と飲んでたとか、誰だかが告白をするらしいとか、まるでストーカーでもいるのか?と思われるような行動の軌跡が語られることもある。
そんな事を考えながら、律もまた指先を顎に添え不躾な視線のお返しをたっぷりと上下にした。
横澤は不満げに眉の端はピクリとさせたが、一応それ以上の何かはギュっと抑えたようだ。
「何か御用ですか?横澤さん。」
あからさまに抑えるふりをされると余計に何かただならない感じを受けて、本当は肝試しは嫌いなのに、何か怖いことが起こるならさっさと済ませてしまおうと律はこちらから話を振った。
「お前ってさ、高野の何なの?」
率直な律に横澤もそのままの言葉を投げる。高野の何なの?高野となんのかかわりがあるの?高野の大事な人なの?
横澤の短い言葉にはいろいろな何かが隠れていると律は感じる。
「ただの中高の後輩です。」
隠す必要はないので事実のみをパスリと簡潔に伝えると、またピクリと横澤の眉間に皺が寄る。律の中では嘘偽りのないことだけど、さりとてそれ以上の私的なことを話す謂れはないし、ましてや付きあっていた事実など、たとえ少しの期間のことであってもどこのだれにも話すつもりはない。
第一こんな時間にこんな場所でなんで自分がそんな事聞かれてるのか?日常業務では下っ端の自分なので今のところ横澤とはあまり接点もない。
そもそも初めから横澤は律を気に入らないようだったのだから積極的に接点を持ちたくもないのだろうに、冷静に考えてこのツーショットは可笑しいだろうと視線を机の上のパソコンに向け律は帰り仕度をはじめた。
「俺は自分を高野にとっての唯一無二の存在だと思っている。」
背をむけた律の背後から横澤の押さえた声が聞こえる。怒鳴らないほうが不自然だと思えるほど圧を感じるが、声量としてはずいぶん無理をして押さえられているようで、しかし律は相手にしたくない事を分からしめる意味であえて感情を込めず「さようですか。」とその態度を受け流すことにした。
「たとえお前が小野寺律だとしてもだ!」
「言ってる意味が分かりません。俺が小野寺律だと何かあるんですか?」
多少失礼なモノの言い方だとしてもお相手がこの人なので致し方ないと、堪えることを止めて不愛想に返事をする。そもそも仕事でもないのにこうやってお相手をしていることにも疑問が湧くほどなのだ。
「出会った頃の高野は何もかもをあきらめていた。多くのモノを持っているのにそのすべてに奴は興味がなく、しかし欲しいものが何なのかもわからないのにそれを欲しがって常に乾いていた。」
そう言えば、律は高野が二年間自分の事を忘れていたと言ったことを思い出していた。それは蹴りの衝撃だったのか、精神的なものだったのか、律にはわからない。おそらく高野にも。
「だから俺は高野に飯を食わせ、身体をつなげた。あいつが呼ぶ誰かわからない奴の代わりに。」
「身体を!?」
横澤の言葉に律はひどく驚き、手にしていたペンケースを取り落してしまった。
散らばったペン類からさらに外れて、コロコロと机の上を転がっていく消しゴムを拾おうとして慌てて出した手に積んであったファイルがなぎ倒されて落ちた。
ストップモーション動画のようにファイルのビニールがチラチラとひらめく落下シーンを見ながら、気持ちは一瞬で重くなり何年かぶりの虚無感にも襲われた。
「だから何を考えているのか知らないけど今更政宗の周りをうろちょろするんじゃねー!」
いきなりの怒声に少し驚いたけど、周りをうろちょろするなってなに?結局やつ当たりなの?と、何かにつけて自分にきつく当たる不当な横澤の態度に合点も行き、今までの自分に対する回りの反応から不快に思う原因は性癖のせいかもと勝手に思いこんでいたけど、どうやらそれは違っていたらしい。
そしてその生臭い理由はひどく律を不快にさせた。
「ふふ、横澤さんってとても精悍で男らしいと思っていたのですけど、案外矮小で女々しい人だったんですね。」
動揺は見透かされないようにさっさと隠して、わざと嘲るように笑いながらそう言う律に、横澤は不快を隠すつもりもないようでギロリと律を睨みつける。
横澤自身も不条理なことを言っているという自覚はあった。しかし根底にある激しい悋気がそもそもの理性的思考をないものとしていたのだ。
それきり二人の会話が止まり、最終退館時間も近づき、明かりの落ちたフローはファックスの着信音だけが響いた。
校了から続く疲労もそろそろピークだ。なんでこんなことで絡まれなければならないのかと、いよいようんざりしていた律が散らばった文具やファイルを片づけるために身を屈めると、不遜な手が律の首根っこをグイっと掴んだ。
「男のくせに媚びやがって!気持ち悪いんだよ!」
「え!?止めてください!暴力ですか!?」
襟をつかまれているから身動きが思うようにできず上半身だけ引かれる力にバランスを崩し、横澤に身体を抱えあげられて手足をばたつかせるけどあっという間にフロアーから廊下に引きずり出される。
圧倒的な力に贖う術もなく行った先は出口からすぐの給湯室だった。
「そのむかつくみっともねー化粧!剥いでやる。」
横澤が律の身体をシンクの縁に押し付けて混合詮のコックをたたくように押し上げると、目の前の蛇口が湯をザーザーと勢いよく噴出させた。
律の後頭部の髪の毛を鷲掴みにしたまま蛇口に当たるかと思うほど近く律の顔を押さえつけて台所用の洗剤をふりかけると、顔の化粧を擦り落すようにガリガリと洗い流す。
もがく律だったけど溺れそうなほど湯がガブガブと口にも入ってきて、叫ぶどころか息を吸うのもままならず、横澤の押さえつけている手も少しも緩まない。
爪を立てるように横澤の腕にしがみつくけど横澤の身体を引きはがすこともできず、襟元どころか上半身がずぶぬれになるのが分かりった。
化粧が落ちるにつけ身体がブルブルと震え始める。
「誰かいるのか?」
と…、突然気の抜けた声が聞こえて二人はまさかまだ人がフロアーに残っているとは思っておらず、聞き覚えのあるその声に慌てた横澤の手が緩む。
湯に打たれ髪を濡らしたままの律は脱力してくたりと身体が床に落ち、激しく流れ出ている湯が跳ねて床もずぶぬれになっていた。
「なんで?!横澤?律?」
「政宗!?」
同時に聞こえた声に律の身体はビクリを大きく跳ねて顔を上げると、そこには見知った高野の顔がドアから呆然と覗いている。しかし、その顔を見るや否や見る見るうちに顔から血の気がうせ、律がいきなり「イヤだーー!」と、ひどく切迫した悲鳴を上げた。
「誰も!誰も見ないで!イヤーーー!」
頭を抱えて床に蹲って叫ぶ律に慌てて高野が駆け寄るけど、律は触れられまいとするように金切り声を上げて手足をばたつかせて暴れる。
高野が着ていたパーカーを脱いで野生の動物でも押さえ込むように頭から包み、ギュっと胸に納めて「見ないから!」と叫ぶように何度も繰り返し言う。
律は高野の腕から逃げようとしてもがき四肢をばたつかせて「イヤダ…、イヤ…。」と、うわごとのように言い続けていたけど、やがて声も止んでとうとう最後にはガタガタと震えながら高野に縋りついた。
さすがに錯乱している律の姿に横澤もどうしていいかわからないようで、「横澤、あとで話を聞かせてもらうけど一旦帰ってくれ。」と高野に言われ、おぼつかない足取りでふらっと部屋を出ていった。
律は震えながら小さい声で「イヤダ…イヤ…」とつぶやき続け、高野は律を抱きかかえたまま濡れた床にうずくまってその背をさすり続けていた。
△
律が静かになった頃、ふと背後に気配を感じて振り仰ぐと両腕に荷物を抱えた横澤がなにも言わずに給湯室の入り口に立っていた。
「一応施錠してきた…。」
横澤に高野は聞きたいことが山ほどあったけど、きまり悪そうに視線をそらし動揺からか顔の色をなくした横澤に、今日はなにも聞かず家に帰る算段をするしかなさそうだと高野は悟った。
揉め事の場合は双方にいい分があると分かってはいても、常日頃、横澤が律に当りの強い態度を取っていた事はうすうすは知っていたから、今理由を聞けば自分は横澤を咎める言葉を発してしまうだろうと思えたし、尋常でない律の有様に二人の間になにがあったのか知るのも少し怖かった。
自分にとって横澤は特別な存在ではあるけど、今の高野には腕の中の律のことしか考えられなかったのだ。
高野は律を抱え、横澤は荷物を持ち、互いに無言で社屋の地下にある駐車場まで歩いた。座席を倒してパーカーで包まれたままの律を横たえると、横澤が後ろを向いたままの高野に「また連絡する」とだけボソリと言って立ち去る。コツコツという規則的な革靴の音だけが暗い駐車場に響いた。
錯乱して気を失っている律のはずだったけど眠っているのとどこが違うのか分からないほど穏やかな顔に見えて高野が自分のマンションに律を連れて帰っても目を開くことがなかった。
顔を見るなと泣く律はあの姿に何かの闇を持っているということなのだろう。湿ってぐしょぐしょになった髪と落ちてしまった化粧の下の素顔をタオルでなぞり、濡れた服を着替えさせようと濡れたつけ袖を腕から抜くと、剥き身になった腕のそこかしこに激しい傷跡が表れた。
それは引きつったケロイドのような赤黒くも痛々しい痕で、高野はギクリとして鼓動が跳ね、酸素が足りない金魚のようにパクパクとしてしまい呼吸が早まるのが分かる。
暑い季節でも律はいつでもつけ袖の服を着ている。それは服としてかわいらしいからだとばかり思っていたのだけど、ひょっとして、この傷跡のために半袖や袖無しの服で腕をさらけ出せないからだったのだろうか。
「律…。そのままのお前がいてくれればいい。」
思わずその手首にキスをしてこのまま時間さえも消えたらいいとさすった。