「小野寺!」
定時を少し過ぎた頃、エメラルド編集部に無愛想な声が響いた。
エメラルドの発芽周期はまだ種まき状態で、このあとの追い込み周期を考えると今はまだ人並みの帰宅ができる時期でもあって、そうしなければいけない時期でもある。それゆえ律も個人授業などと言いだしたのだ。
「もう帰れるのか?」
丁度パソコンを閉じようとしていたところで、無愛想に続く言葉を投げて寄こしたのは、約束をしていた編集長ではなく身体に合った濃いグレーのスーツをきっちりと着込んだデフォルト眉間の皺の横澤だった。
「はい。」
いつものように返事に伴ってニコッと笑ってコロリと首をかしげる律だけど内心ではチっと舌打ちをしていた。
『面倒な熊のご登場…。』
横澤の顔を見るとつい身構えてしまうのはもはや癖のようなものだったけど、自分が高野の邪魔をするなと言ったから横澤がそれを邪魔をしようとしていると思った。
煽られてそのまま引くような人ではないことは嫌でも分かるし、自分が同じように煽られたとしても、たとえ罠があるかもと思いながらも、必ずそれに乗るだろう。この人のようにプライドの高いヤツならなおさら当然だ。
「このあと付き合ってもらう。」
「今日は編集長とお仕事があるんです。」
「承知しているがキャンセルしてもらう。いいな。高野。」
「え…。」
突然自分にと話を振られた高野は、横澤の登場以来気持だけはかなり意識していたのにも関わらず咄嗟には適切な返事もできず言葉を詰まらせた。
「そんなに緊急の用事なんですか?」
「お前が、一緒に行くならいいと言った。」
「そっちですか。まったくのプライベートですよね。」
「俺にとっては最優先だ。」
しかし押し問答になっていろいろ面倒なことを吐かれる前にと、
「なにか熊さん、急ぎみたいなので編集長とのお勉強会はあとでいいですか?」
と高野に向き直して律が言うと、横澤より深く眉間に皺を寄せて「とりあえずよくわからないが分かった。」という。
おそらくここで揉めて面倒なことになりたくないという律の真意だけは知れたらしく、高野がそれ以上の余計なことを言う事もなかった。
「それでどこに行けばいいんだ?」
丸川から出て横澤が早速律にそう言うのに対して、律はヤレヤレと肩を落として「横澤さんが行くって言ったんですよ。」とため息交じりに言った。
「女モンの服なんて買ったことねーから知らねーよ。俺は財布だ。」
「そんなのお金だけ寄こすのと変わりがないじゃないですか。」
「俺に何を求めてんだ、お前。」
「さあ、よくわかんない。」
「分かんねーじゃあ分かんねーよ。」
ふん…、と呟きながら律は少し考えて、「じゃあ別のモノでもいいですか?」と言った。
横澤はその言葉に取り立てて不信感を持つ風でもなく「ああ。」と頷く。横澤にしてみれば元々償いはどういう形でもいいと思っていたから、むしろこうやって何かをしろと言われる方が楽だった。
こいつに対してあとあと少しでも負い目を持つようなことを残しておきたくないと思っていたのだ。
「部屋着が欲しかったんです。高野さんのお部屋で着るちょっと男っぽいヤツ。持ってる服全部可愛いのばっかりなんですよ。シャツとかスリッパとか。別に〇ニクロで十分ですから。」
律はよく見せる仕草…、腕を背中で組んで身体を少し傾け、フフっと笑う。
その笑顔は挑発的で不自然で、横澤にはひどく歪んで見えて、今度こそ不快な気持ちで横澤の眉間に寄せた皺が目の窪みまで深くした。
最寄りの駅には確かその系統の店が入っているビルがあるはずだと、律と横澤は並んで駅に向かって歩いて行く。駅前のショーウインドウに映る二人の姿は、スーツの男性と色の鮮やかな服を着た女性のカップルが歩いているように見える。多少女性ががっつりして見えるけどそれはそう思って見なければ違和感もなかった。
店屋でシャツを物色する傍で横澤はせがまれて洋服を見立てる男子をやっていた。いちいちシャツを首の下にあてて似合いますか?と律に聞かれて、雑にどうでもいいと答えるとわざと声を上げてひどいと言うから、目立つのをやめて欲しい横澤は結果ある程度真摯に付き合うしかなかった。
最終的に律が選んだ服は綿の肌触りのよさそうなシンプルなシャツとパンツのセット二つで、値段的にはぎりぎりゼロ3つに達するという、肩透かしを食らったのではと思うほど安価なものだった。
スリッパだけはウサギの耳のついたピンク色のモノだったけど…。
「よく高野さんの部屋で着る服とか言われて買う気になりますね。」
「フン!どうせ俺を煽って怒らせる気なんだろうけどそんな幼稚な手には引っかからない。」
「でも、これ聞いたらきっと俺の事殴りたくなりますよ。」
「は?」
「殴ってもいいですよ。別に痛いとか平気なんで。」
「お前…、何言ってんだ?」
「俺、高野さんと寝ました。」
「はあ!?」
「たぶん。」
横澤は激しく律を見返し驚きで目を見開いたけど、やがて「お前、高野の事を好きなのか?」と視線をスっと外して静かに言った。ふざけるなと襟首をつかまれるか、いきなり横っ面を張られるだろうと身構えていた律はその凪のような揺れのない瞳に急に気まずくなって答えを探す。
「嵯峨…、先輩のことは好きです。たぶん。高野さんのことは正直よくわかりません。」
さすがに先輩のことは好きすぎて恨んでますとは言えなかったが、そんな律の拗ねた迷いは感じとれなかったようで、横澤は「俺は高野がお前を望みお前がそれに応えるならそれでいい。お前が高野を傷つけないなら何でもいい。」と静かな低い声で言った。
横澤のその態度に律の気まずさはさらに深くなって、どれほど自分が捩じれきっているか、汚れきっているかを見せつけられたような気がして、揺れ始めている自分がウザイと感じてしまう。
「ふーん、やっぱり横澤さんはイイヒトなんですね。…いい人過ぎてムカツク…。」
横澤には聞こえたかどうか分からなかったが、今までとは違うトーンで律は小さくそう呟いた。
❀
「俺、男なんでそんなに気を使って荷物を持っていただいたりしなくていいんですけど。」
買った荷物を全て持ち、エスコートするように車道側を歩く横澤の紳士的な態度が気持ちが悪い律は、ツンツンと横澤に文句を言いながら言われるがままに隣を歩いていた。
「別に俺はお前をレディー扱いしているわけじゃないけど、お前が荷物を持って男の俺が手ぶらというのは傍目に見ても格好のいいもんじゃない。」
「人目を気にするんですか?」
「するよ。営業なんでな。身についている。お前が荷物を俺に持ってもらって困ることはないだろう。なんで文句言ってんだ。」
「ちっさい借りを積み重ねて作ってるみたいな居心地の悪さが湧くんです。」
「へえ、おもしれー。じゃあもう少し付き合ってもらおうかな。」
「なんで逆に俺がそう言われるんですか!?今日はそういうんじゃないですよね。」
正面を向いたまま律は相変わらずのツンツン態度を続けると横澤がフっと鼻で笑った。
「浜ゆで釜揚げシラス。利尻のウニ。勝沼の桃。」
「へ?」
「随分安い弁償だったからな。デパ地下レベルだけどお前の好きな食いもん土産に買ってけ。」
「なんで?」
「明太子とかそういうのは高野と買うんだろ?」
なんで知ってるんだと律は思いながらも、一方でエメ編での会話は(主に腐女子部署軍団によって)筒抜けなところもあるからと思い当たり言葉を止める。
「高野はお前の飯を食いたがっているから食わせてやればいい。」
この人は…。
さすがの律も横澤の態度に少しだけ胸が痛む気がした。好きな気持ちと相手を思いやる気持ちとを少しの間にきちんと折合いをつけている。
幼い自分も、おとなになった自分も、どちらもできなかったことを目の前のこの人がきちんと出来ていることに嫉妬心すら湧く。こんな人を傍に置きながらあの人はいったい何をやっているんだと、やはり矛先が今いない人に向く。
俺は悪くない…。
では…、悪いのは誰なんだろう…。
隣を歩く精悍な顔を横目で見ながらそっと呟く言葉はまた誰にも聞かれることは無かった。