その後の大評定により、ジャパリ家は今後の拡大は控えることを決定した。薩摩、大隅双方の復興を優先したのである。
今回の薩摩攻め、ジャパリの側からしても厳しいものであった。南海大地震の影響もないわけではない中で、数ヶ月に渡り大軍を動員し続けたのである。その犠牲も少ないものではなかった。
また薩摩の方も度重なる動員と僅かな食糧を巡る乱取りの日常化により、人口、生産力共に停滞していた。この中でジャパリ家は大隅同様乱取りの禁止を薩摩にも適用。この年の収穫は一定の回復を見せた。
しかし1570年の夏、筑後に攻め込んだ龍造寺家であったが、四国攻めを取りやめ、その大軍を向けた大友家の前に撤退せざるを得ず、大友家はそのまま肥前勢福寺城へと攻め込んだ。
しかし鍋島直茂らの夜襲を受け、混乱した大友の軍勢は肥前から撤退した。この後逆襲をかけ、龍造寺家はついに筑後を掌握したのである。
これに気を良くした龍造寺隆信は家臣の忠告を無視して、それまで通商協定を結んでいたジャパリと絶縁、および出水城への侵攻を開始した。筑後、肥後の服属させた諸勢力も動員し、その数は4万を下らないとされる大軍であった。
これを受けて出水の肝付兼亮はジャパリ本家へ救援を要請。肝付氏が力を持つ大評定で否決されるはずもなく、大隅、薩摩双方から派兵することを決めたが、その数は必然劣るものになった。
総数は2万にも満たないものであった。その中では辛うじて損害が少なく、金銭収支も安定してきていたジャパリ宗家が最大兵力を送っていた。
こうして翌月には出水に集結したジャパリ軍であったが、出水より前方の水俣の方が地勢的に優位と知ったジャパリ軍は水俣へ進軍。龍造寺家との衝突に至った。
この後数度にわたるジャパリと龍造寺の戦いの初戦となる、水俣の戦いが始まったのである。
結果からすれば、この戦いはジャパリの圧勝で終わる。細山田のみならず種子島で拡大した鉄砲生産、豊富な騎馬、坊津掌握後拡大を見せる貿易収入。その力が存分に発揮されたのである。
損害は倍以上。そのままジャパリ家は進撃し、佐敷城の包囲に入った。
しかしここで龍造寺家から補給用に肥後南部に送っていた大量の兵糧と引き換えに撤兵を求めてきた。それはジャパリ全領土の年貢収入の半分にも登るものであり、龍造寺の余力の大きさを見せることにもなった。
これに関して軍議は紛糾した。兵糧はあるとはいえ、数万もの大軍を再度動員する力はないと思われ、反撃する力はない、とする肝付兼続ら継戦派と、撃退の目標は達成されたので講和を飲むべきだ、とする講和派。これは薩摩の国人衆などの多くが主張した。しかし肝付氏は出水の領土防衛を無くせると踏み、強硬になった。
しかしここでジャパリかばんが動く。
実質独断でこの講和を纏めてしまったのである。
最大兵力を動員したジャパリ宗家が撤退すれば、継戦派の軍勢のみで龍造寺には対抗できない。負ければ先の勝利の意味もなくなりうる。兵糧は一時的にジャパリ預かりとすることで、全軍後退せざるを得なかった。
この戦の結果、ジャパリ本家を軸に軍事的威信が高まる一方、ここでジャパリ宗家と肝付氏の間に溝が入ることになった。
また兵糧は功績に応じて各勢力に配分されたが、この臨時収入を払い下げ時期の分散、米代手形の発行、海運売却など多岐にわたる手段を通じて的確に運用し成果を上げた一人のフレンズが、この後内政において『ジャパリの銭守』の異名をとることになる。
ツチノコ、正体不明の流浪の身から、のちに一大名まで上り詰める者である。
「オーホーハーハー!これで米流通を握ったら次は……」
また外交上も変化を見せた。ジャパリと龍造寺が明確に敵対したことを受けて、ジャパリと大友はさらに接近した。こののちジャパリと大友は対龍造寺を見据えて同盟を結ぶ。これには河野家を服属させた長宗我部家が伊予の大友領に猛攻を仕掛けたこともあった。
畿内では織田包囲網が本格的に動き出し、織田家はその対処に動き出すことになる。