しかし龍造寺隆信の動きも警戒してか、大友宗麟は直々には出馬してこなかった。
その代わりに大友に逃れていた島津歳久を総大将に据えて、朝倉一玄を補佐につける形で、大友に従っていた相良や伊東も従えた5万人以上の大軍を日向佐土原に送り込んできたのである。名目としてはもちろん、島津再興軍、であった。
ジャパリ側としてはもちろんこれを撃退すべき、との方針で一致していたが、ジャパリ博士が独断で開いた大評定に肝付ら大隅の国人衆や一門衆の一部が参加。これによりジャパリ鞄の外交失策を批判し、これの解任、及び大友、龍造寺の早期の弱体化を狙うべき、との方針を採択した。
これには薩摩の国人衆やジャパリ鞄の外戚である禰寝氏が反発したが、ジャパリ鞄が大友撃退後にそれを履行するとの声明を出し、実質的にジャパリ博士への家督継承を認めたため、この混乱を抑えて大友に対峙することが可能になった。
この戦いはジャパリ鞄が遂行し、佐土原城下で迎え撃つことが決定された。ジャパリ鞄を総大将、島津家久、肝付兼続、ジャパリ河馬、薬丸兼正らジャパリの重鎮が2万近い軍勢で迎撃に向かったのである。だがこれもやはり龍造寺を警戒し、鍋島直茂、ヘラジカに加え、薩摩の国人衆などの兵を薩摩側に割いた上での出陣であった。
内政に注力してきたジャパリは密貿易などでも富を稼ぎ、大量の鉄砲をこの戦いに投入した。その数、2千。さらに兵の半数弱は農兵ではなく流民を訓練した足軽であり、その資金の潤沢さが伺える。
こうして1573年10月、ジャパリ、大友という九州の二勇が佐土原の地で激突することとなったのである。
ここでジャパリ宗家の配下武将として参加していた島津家久が一計を案じた。それは一ノ瀬川を渡って新富に展開して野戦を行い、家中でも勇将として知られる自身を囮として引き付けたところで、西側の唐ヶ山の斜面を利用して奇襲を仕掛ける。
そのためにもまず自身は歳久本隊を発見次第攻勢を仕掛ける、半ば博打性も持った作戦だった。釣り野伏せ、である。
だがジャパリ鞄、ジャパリ博士ともにこの案を飲み、そして退路確保のために鞄自身も前方に出ることが決まったのだった。
この策は功を奏した。家久隊が歳久隊、角隈石宗隊の攻勢で後退し、敵方が功を競う中、ライオン、ジャガーの両隊による奇襲が成功。これを機に全軍反攻に転じ、島津歳久は這々の体で退却しなくてはならなかった。
ここにジャパリの覇道を開く障害が一つ取り除かれたのである。
まさかとも呼べる敗北ではあったが、大友家中はそこまで不安視していなかった。
当時はまだ鞄が当主であり、これまで龍造寺軍を撃退しても反攻に転じてこなかったからである。
それと同様の展開が繰り返される、それが家中の大半を支配していた幻想であった。
だからこそジャパリ家が米と引き換えの講和を拒否し、高城に進撃を開始したのは、かなりの驚きをもって受け止められた。
作戦としては高城、鍋城の大友の南方二大拠点を陥落させ、懸土持家をこちらに引き込むこととされた。
高城は殆ど抵抗なく陥落し、次の鍋城でも大友に逃れた山田有信が援軍を送ってきたが叶わず、相良氏は拠点を失って逃走した。
その間にジャガーを通じて土持親成がジャパリ家に転じ大友から独立。
この一連の戦いにより、ジャパリは日向一帯にその影響力を伸ばすことに成功したのである。
これを終える中、ジャパリ鞄は家督をジャパリ博士に継がせた。
九州の島の長、天下の総大将、ジャパリ博士による統一事業の始まりであった。
ボスダヨ
なんかこうして話すのもすごく久しぶりな気がするよ。
さてこうして出てきたのには理由があって、博士に相続させたことで志が変わったんだ。
志の名は『三州の総大将』、島津義久と同じだね。
この島の長とイメージ的に近そうだからチョイスしたよ。
志の中身は上の通り。基本的には軍事最強となる志だよ。その代わり内政がサポートされないけど、そんなこと関係ないくらいの経済力をもうジャパリは持ってるよ。
何より鉄砲が強化されるから、弱めの武将を出陣させざるを得ない時も、鉄砲持たせれば十分使えるようになるから、使いやすい志ではあるね。
あとはこの先1574年にはペパプのみんなが仲間として加わるよ。でもあいにくデータ消しちゃって詳細な能力は覚えてないけど、みんなだいたい全部のステータス50程度にして、利水上手をつけたはずだよ。
あ、でもフルルは最弱クラスにしたかな?マーゲイは武勇こそ低いけど、統率と知略は60台にしてたと思うよ。
さてついに大友、龍造寺の両家を相手に進撃を開始したジャパリ家。その運命はいかに。