大友家とは結局日向の完全割譲を以って講話となった。流石に統治機構の整備も整わないまま進みすぎるのは危険とされたのだ。
だがこれで落ち着くわけもなく、1574年9月、再度龍造寺隆信が加久藤城に侵攻。
ジャパリ博士は5万を超える龍造寺軍に対し、3万を超える兵を連れて城下に到達した。
そこからは圧巻の戦いであった。三千を超える鉄砲隊が突撃してくる龍造寺軍を攻撃。鉄砲の数と運用力の差で龍造寺軍を押し込むと、騎馬隊が横合いから突撃。
まさに王道と呼べる戦いで、4倍近い損害を与えて撤退に追いやった。
ここからジャパリ博士は肥後南部に侵攻。真っ先に人吉城を包囲した。
これに対し龍造寺家は援軍を送り込むも、この全てを撃退。
肥後南部の統治を任されていた納富信景が降伏し、龍造寺家の肥後南部の支配の軸が折れた。
それをうけ佐敷城の名和氏も降伏。一方でまだ肥後北部では龍造寺の支援を受けた阿蘇、隈部、赤星氏などが抵抗していた。
ジャパリ博士は引き続き阿蘇氏の拠点、岩尾城へ進軍。
隈本からの城氏の援軍や名将甲斐早雲の抵抗もあり、かなりの被害を受けはしたが、これを陥落せしめた。
阿蘇惟将を始めとした阿蘇家の将は龍造寺の本拠、肥前へ逃亡。
そのため島津家、そしてジャパリに流れていた阿蘇惟前を阿蘇大宮司として立て、その補佐にライオン衆を派遣。
南部は納富、名和氏、また恩賞として肝付氏などが、北部はライオン衆を軸に支配する構造を作り上げようとしていた。
しかし龍造寺隆信も体制を立て直し、肥前で再び兵を集め隈本へ進軍。
ここに隈本の戦いが幕を開けた。
ジャパリ軍の展開によって始まった隈本の戦いは、ジャパリ軍の鉄砲隊の発砲で幕を開けた。
その後の騎馬隊も含め、連勝による士気の高さを生かした突撃を進めたが、ここで一人の男が立ちはだかった。
島津義弘。あの島津四兄弟の一人である。
島津家再興のため龍造寺家を頼った義弘であったが、未だその望みの叶わぬまま客将としての暮らしを続けていた。
しかしここで6千の兵を与えられ参戦。ジャパリ軍の前に立ちはだかった。
龍造寺家周、円城寺信胤らがジャパリ軍の勢いに押され潰走する中、義弘隊は頑強に抵抗。
しかし周囲が撤退し半ば包囲されると、一部の精強な兵による捨てがまりを展開。
追撃しようとするジャパリ軍を食い止め、本体を含めた他を撤退させることに成功した。
結果的に敗北こそしたが、この奮闘によりジャパリ軍も大きな損害を受け、肥前侵攻は中止とせざるを得なくなった。
だがこれらの戦いで肥後がジャパリのものとなった。それは確かであった。
これを受け肥前の島原城の有馬義貞がジャパリ側への寝返りを打診。
橋頭堡には良い、とジャパリ側もこれを受け入れた。
結局肥後の割譲で講和の話はまとまったが、有馬をめぐる火種は次の戦へと繋がっていくのである。
この肥後侵攻が終わってすぐ、1575年6月、甲斐にて武田信玄死去。家督は息子の勝頼が相続し、甲斐、駿河、遠江、南信濃、飛騨を支配する大名として、織田、徳川を圧迫し続けることになる。
一方で武田の上野侵攻後、越後からの道が途絶えたとはいえ、佐野氏や大田氏、結城氏などが依然抵抗を続けていた。
これに対し勝頼は下野は侵攻。唐沢山城などを陥落させ、下野西部にまで影響力を伸ばしていた。
これにより上杉の関東側の拠点は喪失。関東管領は再び名ばかりのものとなった。