豊後の掌握に力を注ぎ続けて翌年の1577年、東では武田勝頼の美濃侵攻に対し、上杉謙信が信濃中部へと侵攻。
一方で武田勝頼は上野から下野へと影響力を伸ばすなど、大勢力が拮抗していた。
この戦においてジャパリ家は織田家への支持を表明。鉄砲百丁を提供し、その姿勢を鮮明にした。
この戦いで武田家は高遠城を失陥。甲斐と信濃を結ぶには駿河、遠江を通らざるを得ず、武田家はさらなる危機に陥るかと思われた。
しかし翌年1578年春、越後の龍、上杉謙信死去。
その後継の地位をめぐり、養子の上杉景虎と姉の子上杉景勝が対立。御館の乱が勃発すると、直江兼続の活躍により即座に春日山城を占拠した上杉景勝は武田勝頼に接近。
一方で上杉景虎は自身を支持するものの多い越後北部に拠点を構え、北条家の指示のもと徹底抗戦する。
武田勝頼はこれにより信濃の交通路を回復。命永らえることになる。
一方で織田家は武田勝頼の猛攻を凌ぐと、四国を統括していた羽柴秀吉にジャパリ家への侵攻を命じた。
これは背後を固めるとともに、大友、龍造寺のあるうちにしかジャパリの戦力を分散させることはできないと踏んだからとされている。
そして1578年6月、羽柴秀吉の弟、羽柴秀長を中心とした6万の兵が、九州攻略軍として差し向けられたのである。
おまけにその翌月には豊後を中心に大地震が発生。その対応に人手が割かれるなど、万全の体制で迎え撃つことは厳しくなった。
「やむを得ないのです。豊後の復興には肥後より人足などを用意させるので、織田に対しては薩摩、大隅、日向より集めた兵で迎え撃つのです」
「今の我々に四国に攻め込む余裕はありませんからね」
「それに織田と戦い続けることは不可能なのです。撃退して力を示してから、その天下を認めるしかないのです」
ジャパリ家は2万の兵を集めて日向一帯に情報網を展開。上陸予想地を日向臼杵に定め、兵を展開した。
そして8月某日、日向に上陸を開始した織田軍に対し、ジャパリ博士率いるジャパリ軍が交戦を開始したのである。
結果は大量の鉄砲による包囲体制を築いていたジャパリ軍が圧勝。織田軍は船とともに四国へと撤退した。
この敗戦を受けて織田家は九州攻略を断念。西においては毛利攻めに注力するようになり、ジャパリ家に対しては交渉による服属を目指すこととなった。
その後ジャパリ家はその軍を筑前に差し向け、大友家の拠点を攻略。
大友宗麟は四国伊予西部に残った拠点に逃げ込み、九州には立花道雪らがこもる立花山城を残すのみとなった。
ボスダヨ
織田とはいえ全軍突撃を仕掛けて来なければ防衛は余裕ダヨ。
そして宣戦布告仕掛けてきた大友の残滓を殴って圧勝したヨ。ゲームでは鷹取山城を残して九州領を頂いて、伊予は残したよ。
こうすることで、織田が大友をひき潰しても武将をこちらが管理できるようにしたんだ。
あとは九州のもう一つ、龍造寺を倒せば九州統一は完了。やはり九州は武将の質が高いね。
あと1578年の新たなフレンズたち、ロッジのフレンズだね。
タイリクオオカミ
統率 50くらい
武勇 60後半
知略 70後半
内政 50代
外政 70代
くらいにしておいたよ。マンガかけたり嘘をつけたりするから、知略と外政高めにしたね。武勇もそこそこあるよ。
アリツカゲラ
統率 60後半
武勇 40代
知略 70くらい
内政 80くらい
外政 60後半
運営しているだけあって、内政や統率はそこそこ高めだよ。
アミメキリン
全部40代
ヤギね!
ミライさん
知略 90
内政 86
他 1
映像だからね……