1578年のジャパリの筑前、豊前侵攻により、最早大友は筑前の一部と伊予大洲周辺に影響力を残すのみとなった。
そしてこの男は、このジャパリの急拡大に対し、先手を取った。
1579年10月。永きにわたりジャパリとの戦をやめていた龍造寺隆信、筑前に侵攻開始。
これに対しジャパリ博士はヘラジカに筑前防衛を任せ、自身は有馬領を経由して高城城へと圧力をかけた。
総計7万近い兵を肥前へと向かわせ、圧力をかけたのである。
ヘラジカ軍には新納忠元、ライオン、納富信景らが従い、岩屋城下に集結。
これに対する龍造寺軍は大将龍造寺隆信に加え、江里口信常、百武賢兼、成松信勝、木下昌直、江上家種らの譜代に加え、島津家復興を目指す島津義弘、阿蘇家の回復を目指す甲斐早雲らが集っていた。
だがもう既に薩摩、大隅で編成した精鋭足軽軍を投入していたジャパリ軍に対し、農兵を多く揃えた龍造寺軍は士気で大きく差があり、さらに鉄砲隊の猛射撃もあって、4倍近い損害を受けて龍造寺軍は撤退した。
乾坤一擲の逆転を狙った龍造寺軍の筑前侵攻が失敗に終わった以上、ここから先龍造寺に勝ち目はなかった。
ジャパリ博士が直々に高城城を攻略する中、ヘラジカ軍は筑後へ侵攻。瞬く間に柳川などの拠点を攻略していった。
そしてヘラジカ軍は肥前にも侵攻。勢福寺城をも手中に収め、龍造寺隆信のこもる村中城を包囲したのである。
その間にジャパリ博士率いる軍は大村、肥前鹿島と北上し、龍造寺家に臣従していた松浦家も反旗を翻し、伊万里城を攻略してジャパリに従属。伊万里城を差し出した。
そしてジャパリ博士も村中城包囲に合流し、ここに龍造寺の力が及ぶのは村中城内のみとなったのである。
村中城内では議論は紛糾していた。打って出て一戦仕掛けるべき、とする者。降伏しかないと主張する者。はっきり言ってこの場で龍造寺隆信の剛腕は何の意味もなさなかった。
村中城包囲が始まり2ヶ月。兵糧は尽き、打って出る気力は最早残されていなかった。
はっきり言って降伏以外の条件はなかったのだ。
だがその段階に至っても龍造寺家中は纏まるところを知らなかった。
そして九州とはいえ冷え込みがあったその日、ある男が使者として村中城内に入り込んだのである。
その顔を見て家中のものは顔に筋を張り巡らせた。
鍋島飛騨守、龍造寺を最も早く裏切った人間であった。
「どういう了見か」
道中私を切れば城兵は皆殺しですぞ、と声をかけながら城に入り込み、さらに龍造寺家の家臣、そして隆信本人と向き合った鍋島に掛けられたのは、ひどく低い声であった。
「あなた方もお分かりでしょう」
「降伏の使者、か」
「その通り。最早どう足掻こうと龍造寺の勝ちはありませぬ」
「貴様がそれを言うか!義兄弟とかほざいときながら加久藤で裏切ったこと、忘れぬぞ!」
「私がいようといまいと、この結末は変わりませんでした。なればやることは一つ」
「なんだ?降伏を認めないなら皆殺しか?やれるものならやってみやがれ!」
「いえ、家中の者、そして殿、あなたも命を許されて解放、それをジャパリ家中に認めさせることです」
「なに……」
「冗談を言うな阿呆。龍造寺とジャパリは10年近く対立してきた間柄。そうやすやすと許すわけがない!」
「いえ、事実です。殿、あなたこそ追放となりますが、それ以外の方は好きにせよ……そのように取り付けてまいりました」
「証拠は?流石になにもなしに信じるわけにはいかぬ」
「こちらが当主、ジャパリ博士からの書状です」
その後龍造寺家は降伏を受託。
阿蘇家など龍造寺に臣従していた者の扱いも決定され、龍造寺家は龍造寺の一門筋の家晴を高城城に送って独立。伊万里、村中などの肥前東部と筑後はこれまでの功績を称え、鍋島家に与えられた。
そしてジャパリが拡大を進める中、その初期の拡大を支えた者たちにも時が迫っていた。
安楽兼寛、肝付兼続、禰寝重長、相次ぎ病に倒れる。
その報はジャパリの当主の権限を一層強めていくこととなった。
だが同時にジャパリを支えるジャパリ四武神の一人がその名を挙げる。
ヒグマ。
四国を制し、畿内を征する者は、翌年の大友征伐でその名を高めた。
立花山城は立花道雪が守る要害であったが、2ヶ月に渡る攻防戦の末、これを陥落させる。
そしてヘラジカ率いる第2軍が四国に上陸、大友宗麟は八幡浜に進軍し、これを撃滅せんとした。
そしてこの戦いで名を挙げる者が一人。
立花誾千代。
烈女と呼ばれた道雪の娘は、女中で組織した鉄砲隊を以ってジャパリ軍を攻撃。
大将ヘラジカを負傷させる戦績を挙げる。
だが大友の抵抗もここまで、上陸を許した大友家になすすべなく、大友家は降伏を受け入れた。
ここにジャパリ家は九州統一を成し遂げたのである。
だがこれは、野望の始まりでしかなかった。
1582年2月
ジャパリ博士はクジャク、アリツカゲラらとともに海を渡った。
当主が直々に向かうは、四国宇和島の稲荷山龍光寺。
そこには四国方面司令官の羽柴秀吉、その弟秀長、その軍師黒田孝高らが待っていた。
ジャパリの行く末を決める会談が始まったのである。