周防、長門に攻め込んだジャパリ軍はジャパリ博士軍、ヘラジカ軍共に大打撃を与え、瞬く間にこれを攻め取る。しかし補給線の長大化と兵力損耗を受けて周防、長門のみで一度進軍を停止する。
その中で羽柴秀吉は明智光秀との熾烈な争いを展開する。ジャパリ博士は織田家に臣従していたことを用いて、対毛利で協力する羽柴秀吉を支持する。
それ以前から手を結ぶ誘いがあったため、これを受け入れた格好となった。
そして羽柴秀吉が明智軍を破り上洛を果たした翌年の1583年冬、周防、長門にて足軽軍をかき集め、ジャパリ家は石見、安芸へと侵入した。
先の戦いからの回復もままならぬままに毛利家はあちこちで敗走し、数ヶ月ほどで安芸、石見を失陥。ここで再びジャパリは行軍を止めたものの、拠点吉田郡山城を奪われるまでに至る。
そしてその後、黒田官兵衛が伊沢城を攻め落とし、そのまま讃岐を奪う。一方東では流れた高橋紹運や立花道雪が羽柴の大軍相手に奮闘、備前への侵入を許さずに食い止めていた。
そしてこの間に島津家久の息子、島津豊久、鍋島直茂の息子、鍋島茂里が元服。フレンズら古参の中で若手の台頭も目立ってきた。
畿内も大きく動いていた。
明智光秀が周辺全てを敵に回す中で劣勢に陥り、京を失陥。羽柴秀吉と織田信雄が大きく勢力を伸ばす。
一方で東からは勢力を盛り返した武田勝頼が勢力を伸ばし、三河に侵攻。織田家の後援のなくなった中、徳川家は劣勢に立たされる。
北からは上杉景勝が越中、加賀に侵入。柴田勝家はこの対応により出遅れ、明智攻めは滞ることとなる。
そして時を空けて1588年、ジャパリ博士は再び7万の兵を率いて毛利との最後の戦に臨んだ。
もはやかつて10国を超える領土を有した毛利家も、備後の一部に備中、備前、美作のみでは絶えることは叶わなかった。
南からは四国を制した羽柴軍が備中高松城を、ジャパリ軍も神辺城から備中松山城を落として東進。ヘラジカ軍が美作を制するなか、備前へと侵入した。
一方で羽柴秀吉は織田家の後継者をめぐる対立から柴田勝家と対立。明智光秀を近江に押し込めると、若狭にて柴田勝家を撃破。
そのまま越前に侵攻し、北ノ庄を攻略して柴田勝家を切腹に追い込んだ。
こうして織田家の後に権力を握る存在は、織田家中には羽柴秀吉しか存在しなくなったのである。
これを受けて羽柴秀吉はジャパリに使者を送った。
「約定通り織田家の後継、三法師様に毛利旧領と筑前筑後、豊前豊後、肥前を割譲すべし」
備前国天神山城
元は浦上家の拠点だったが、今はもう毛利家の最後の拠点であった。
そこにて書面を受け取ったジャパリ博士は臣下を集めた。
「やるですか?やらないですか?」
「毛利に7年。羽柴と戦うとなればそれよりも長く争うこととなりましょう。民にこれ以上疲弊を強いるわけにはいきませぬ」
反対の弁を述べたのは新納忠元。最早かなりの古参の一人となっていた。
「しかし毛利攻めに羽柴はほとんど加担してないではないか。なぜそのような奴らにこの広大な土地を与えてやらねばならん」
「とはいえ約定がありますゆえ、返さねばそれを違えることとなりますぞ?」
「今の我々なら必ずや勝てる!やるしかない!」
「畿内は目前!さらに羽柴は織田信雄や上杉、武田と張り合っていきます。背中は空いていますぞ!」
「しかし拒否するにも理由はいるのです。仮にも織田との約定。織田家の後継者が三法師である以上、違えるのは難しいのです」
「かといって今更この差があって受け入れてなるものか!」
「ここまでの皆の働き、私は存分に報いたいのです」
「はっ」
「それはもう、九州全てを分け与えても足りぬほど」
「皆の者。かの約定は私と織田殿の間の約定。羽柴はその使者にすぎません」
「そのような者からこのような通告を受けるとは無礼千万」
「皆、毛利が済むのももうすぐ。羽柴を叩くのです!」
その後まもなく、毛利家は滅亡した