(1)何の変哲もない水曜日
何の変哲もない水曜日だった。制服を着て、鞄を持って、靴を履いて、『いってきます』の声と共に慌てて家を出る必要はない。夏休みだ。
いつもより遅く起きたモアは、焦げ臭い香りの充満するリビングでいつもより遅い朝食を摂っていた。彼女は鼻を突く臭いに眉をしかめるでもなく、グリーンサラダをこれでもかというほどだらだら口に運んでいく。
テレビも点いていない家の中は閑散としたものだ。窓を見遣ればこの上なく天気は良いが、生憎、モアには出掛ける予定もなかった。
やがて、空になったサラダボウルの上から、モアはトースターに手を伸ばす。時折聞こえる溜め息は、約束のない我が身や真っ黒に仕上がったトーストを憂うものではない。
先程から姿の見えない両親は、もうとっくに仕事へ出てしまったのだろう。
とは言え、いつもより遅く起きたのは他でもないモアだ。だから、顔を見れずとも仕方のないことだと、人はそう思うかも知れない。
だが、モアにしてみれば、彼らが昨晩ちゃんと家に帰ってきたかどうかすら怪しむべき所なのであった。
両親共に不在のことが殆どなこの家庭で、モアはここ数ヶ月に渡って誰かとまともに言葉を交わした覚えがなかった。最後に家族揃って朝食を摂ったのは、何時だっただろうか。モアはぼんやりと記憶を辿るも、すぐにそれが徒労だったと気が付いた。
モアは九月から別の学校へ転校することになっている。父親に言わせれば、今の勉強よりもっと必要なことを学ぶためには転校するしかないのだそうだ。だが一方的に教えられたのはたったそれだけの決定事項であり、記憶にある限りではそれが家族と交わした最後の会話だった。
モアは自分の両親が何を考えているのか全く理解出来ていなかった。そもそも、忘れた頃に顔を出しては、いつも適当な口だけ挟んですぐ居なくなるような奴らなのだ。当然、転校については断固反対したい所だったが、両親は姿を晦ましたようにまた不在を続けていた。そしてとうとう、その機会が訪れることもなく夏休みを迎えてしまったのだった。
「いつもいつも勝手すぎるわ。どうして私が迷惑してることに気付かないのかしら」
ぽつりと呟いてみた所で、応えてくれる者などこの家にはない。
ゆるゆると首を振ったモアはテーブルの上に置かれた写真立てを見遣る。中には送別会で撮った集合写真が収められていた。
家庭に幸福を見出せないモアにとっては、今の学校こそが心の支えだった。彼女の中でクラスメイトの皆は良い友人であると同時に家族だったのだ。けれど、この夏を境に、その支えさえ失われようとしている。
どうしようもない事実を噛み締め、モアは鼻の奥がつんと詰まる感じがした。徐々にぼやけ始めた瞳がテーブルクロスに染みを落としていく。
ヤンセンは誕生日になると袋一杯のチョコレートボンボンをくれた。クラスで三番目に頭の良いヒューイは分からない宿題を根気よく教えてくれた。お洒落好きのジョアンナはモアに一番似合うリボンを見付けてくれたし、お調子者のジャンはモアを怒らせることもあったけれど落ち込んでいる時には誰よりも励ましてくれた。ミルと顔を合わせれば喧嘩ばかりだったが、それでも送別会の日はモアのために一日中涙を流してくれた。
マイケルは、シャロンは、リチャードは、モニカは、キャシーは。
幼馴染で一番の親友だったアレイヤは、モアを何度もお家に招いては食事をご馳走してくれた。寂しくなって夜中に電話しても、嫌な顔せず話を聞いてくれた。モアが結婚する時は一番に招待状をちょうだいねと言ってくれた。アレイヤの小鳥が亡くなった時には二人で大泣きした。
他にも、他にもたくさん。
「ううっ……アレイヤ、みんなぁ……」
友達のことで思い出せないことはない。一つ思い返せば思い出が芋蔓式にずるずるとリフレインする。そうしてモアがクラス全員の顔を思い浮かべた後、感極まってとうとうしゃくり上げようとした、その時。
突如ドンドンと鳴り響いた豪音で、涙の海に沈みかけていたモアの意識は一気に引き揚げられた。
不意に部屋の明るさが陰ったかと思えば、電灯がちかちかと瞬き始める。まるで嵐が近付いてきた時のように、窓ガラスは割れそうなほどに音を立てて、ぶつかり合うサッシが高く鳴った。この部屋のみならず家全体が怯えるように震えている。
昨日の時点で悪天候の予報はなかった。第一、さっきまであんなに晴れていたのだ。これはまさか“地震”という奴だろうか。モアは何年か前にアースクエイクでアメリカの町に甚大な被害が出たことを思い出した。
「な、泣いてる場合じゃないわ、今すべきことは、避難経路の確保よ!」
モアは窓を開けようと反射的に振り向いて、すぐさま後悔した。この家を襲っているのは嵐でも、地震でもなかった。なんと、大熊のようにどす黒く大きな影が窓にへばり付いていたのだ!
「ぐぉおおおおお!!」
「きゃあああっ!?」
モアは戦慄して窓から飛び退いた。テーブルの写真立てが音を立てて転がり落ちる。
黒い影は、低い声でしきりに唸りながらベランダに続く大窓を叩いていた。窓を叩くリズムに合わせて、食器棚の中で皿やグラスがカタカタと揺れている。天井から吊り下がった電灯は振り子の動きで宙に弧を描いていた。その力の強いことといったら、思わず家が倒壊しないよう祈るほどだった。
「ぐおおーい、ぐぉいごごごごがげごぐえええ!」
「いやああああっ!!」
影はその体格に似合う、太い声で吼える。その大迫力に、モアは床の上で思わず身を縮めた。この町にこんな恐ろしい熊、あるいはそれに準ずる猛獣が棲んでいるなんて話は聞いたことがない!
大熊の建物を揺らす力が一層強くなり、遂に壁でぶらんぶらん揺れていたカレンダーが剥がれ落ちた。その異形がモアの目を、何がしかの切実さが入り混じった咆哮が耳を、釘付けにする。
「ぐおおーい……おおーい、ちょいとここを開けとくれ! モア・クレイズ!!」
そうして改めて聞いた唸り声に、モアはふと気が付いた。もしかしなくとも今、あの大熊は人語を発してはいなかっただろうか。
モアは残り僅かな黒こげトーストを、短剣でもかざすように構えてから立ち上がる。随分心許ない武器だが、何も持たないよりマシだと思ったのだ。テーブル伝いに窓へと近付き、とは言え手の届かない距離を保ったまま大熊を凝視する。
大熊の顔は髪とも髭とも分からないぼうぼうとした毛に覆われていた。逆光でよく見えないが、毛むくじゃらの中からは年かさの窺える肌と、子供染みてきらきらした真っ黒の目が覗いていた。
少なくとも猛獣の、獲物を狙う様なぎらぎらした瞳ではない。歴とした人間の目だ。いくら人語を発するとは言えど、見た目からもオウムの類ではないように窺えた。
どうやら彼は新種の猛獣ではなく、ある種の人間であるらしい。そう気付いたモアは一気に身体の力が抜けるのを感じた。
モアの名前を知っているならば取り敢えず泥棒ではないだろう。
ただ残念ながら彼女はこんな大きな友達を持った覚えはなかったし、放任主義を盾にした両親に関しては友人と呼べる者が存在しているのかどうかすら怪しかった。
この見ず知らずの相手に対して窓を開けた方が良いのか、開けてはいけないのか、モアには皆目見当が付かなかった。
「あの、どういうご用件、ですか」
膠着状態が続くこと数十秒。つい好奇心に耐えられなくなったモアは、トーストを構える手もそのままに大男へ声をかけた。大男は疲れたように肩を落とすと、ちょっと微笑み混じりに口を開いた。
「おまえさんのご両親に頼まれてな、転校のことで来たんだが」
なんだそのことか、とモアも肩を落とした。
素性は分からないがひとまずは信用しても良さそうだ。幾ら転校に反対とはいえ、わざわざ頼まれて来た人を追い返す訳にはいかない。
モアは手元で潰れたトーストを一口に放り込みながら窓を開けた。大男が、こりゃどうも、と言いながら窮屈そうに上がって来る。立ち塞がれていた窓から陽射しが差し込んで、部屋全体に夏らしい明るさが戻って来た。
「あなたねえ、人の家を訪ねる時は玄関から来るものよ」
「おお、あの小さい扉を壊したらいかんと思ってな。仕方なく窓にした」
差し出された椅子にどっかりと座りながら大男が言う。粗忽そうな見た目は随分を通り越して完全に怪しいが、そう悪い人でもなさそうだ。
彼が家に上がったお陰で、がらんとしていたリビングも一気に手狭に感じる。椅子は控え目に言っても悲鳴を上げており、こんなに大きな人間が世の中に居るものなのかとモアは感心した。考えてみればみるほど玄関から来てくれないで良かった、と思った。
「おれはルビウス・ハグリッドだ、おまえさんのことは話に聞いとる。とにかく色々準備せにゃならんのだが……」
「えっ、準備ってなあに。まさか転校の準備ってこと!?」
モアはショックを体現するように、よろけて壁に凭れかかった。
ハグリッドは真夏に似つかわしくないコートのポケットに手を突っ込むと、ごそごそとやり始める。彼がポケットの中を一掻きする度、フローリング張りの床へと変わった色のビスケットや何かの種の様な物が撒き散らされた。
初めのうちはモアもその奇妙な様子を呆然と見詰めていた。が、突然リスの様な小動物や奇怪な形をした木の枝が頭を覗かせるものだから、びっくりするやら驚くやらでおちおち眺めても居られなくなった。
そうしてしばらく漁っているうちに彼はお目当ての物を見付けたらしく、徐ろに、黄味がかった羊皮紙の封筒を引っ張り出した。
「詳しい事は全部その手紙ん中に書かれちょる。転入許可証も入ってる大事な書類だからな、失くすなよ、ちゃんと仕舞っとけ」
大事な書類。そう聞いた途端に、モアの表情が不自然なほどの笑顔へ変わる。
「あら。つまり失くしたら転校出来ないくらい困るってことかしら」
「つっても中身は許可証と学用品のリスト、それに列車の切符ぐらいだからな。心配せんでも、すぐにまた送られてくる」
その一言で、モアのささやかな期待は簡単に打ち砕かれてしまった。
むっとしながら封筒を受け取ると、ひっくり返しそっくり返し眺めてみる。エメラルド色のインクで書かれた宛名に、変わった紋章の入った紫の封蝋。一介の学校にしては中々小洒落た手紙である。かといって転校する気がそそられる訳でもない。
モアはその封筒を、封も切らず、ぞんざいにテーブルへと放ってやった。ハグリッドが訝しげに眉をしかめた。
「まあいい。とにかく、今日おれが遣わされて来たのはその手紙を渡すのと、学用品の買い出しに向かうためだ。準備さえ良ければすぐにでも出発したいんだが……」
彼は物言いたげにテーブルの上を見た。空になったサラダボウルの中で、今しがた投げやられた封筒がドレッシングに浸って変色している。
モアは鼻を小さく鳴らすと、封筒を摘まみ上げて椅子の座面に落とした。それからグラスに半分残っていた牛乳を一気にあおり、空の食器を次々重ねていく。
「そう。わざわざ訪ねてくれたあなたには申し訳ないけれど、私、新しい学校に行くつもりなんてないのよ」
吐き捨てながら、モアは重ねた食器を文字通り流しに投げ込んだ。ぎょっとしたハグリッドが驚いた声を出す。
「おまえさん、もしかせずとも転校が嫌なのか!?」
「当ったり前じゃない! 何の相談もなしに勝手に話を進められて、納得する子供が世の中にいると思う!?」
冷ややかな表情を浮かべて振り返るとハグリッドは押し黙り、困ったように眉を下げた。遣いとしてやってきた人に当たり散らすのは的外れな気もしたが、他に捌け口の無い今はこうでもしなければモアの気が済まなかった。田舎町の静けさが、余計に沈黙を際立たせる。
「まあ、おまえさんの気持ちは分からんでもないがな、もう既に決まったことだ。それにおれも、このまま仕事半ばで帰る訳にゃいかんからな……」
ハグリッドはどうしたものかと頬を掻く。
モアは、男の立ち姿を足元から頭の天辺まで見上げてみた。靴底の擦り減った靴、よれよれで冴えない色のコート、顔を覆う伸びっ放しの髭と髪の毛。一見するとただの山男だ。両親の遣いで来た、と言っていたが、どうみても普通の生活を送れているようには見えない。
ハグリッドの足元を睨みながら、モアは考え込む。もしこのまま彼の仕事を果たせなかったらこの大男はどうなるのだろう。
あの冷淡な両親のことだ、きっとろくな報酬も与えずに放り出してしまうに決まっている。そうなれば、この人の夕食は――下手をすれば、あのポケットに入っていたビスケットだけになってしまうかも知れないのだ。それでは些か、不憫が過ぎる。
「そうね、この件についてあなたに罪は無いものね。分かったわ。その買い出し、付き合ってあげる」
「おお、そうか! いや良かった。なら善は急げだ、学用品を買うならこれからロンドンまで行かにゃならんしな」
満面の笑みで膝を叩くと大男は立ち上がり、入って来た窓の方へと歩みを向けた。
「ええと、でも私、お金なんてそんなに持っていないわ」
「その点は大丈夫だ、始めに銀行に寄るからな」
「ならキャッシュカードが必要よね……どこに仕舞ってあったっけ」
「鍵ならおまえの親父さんから受け取ればええ。銀行員じゃろうが」
「違うわ、あの人はただの偏屈な宝石鑑定員よ」
「ああ。これから行く銀行のな」
そうなの? とモアは首を傾げる。てっきり胡散臭い質屋か何かで仕事をしているとばかり思っていたが、銀行勤めだったとはかなりの安定職ではないか。
それにしても自分の知らなかった肉親の一面を、今日初めて会ったばかりの大男から知らされるとは思ってもみなかった。改めて浮き彫りになった家庭環境の不遇さを思い、モアはむっとした表情を浮かべた。
とにかく、父親の職場を訊ねるのであれば、ついでに目一杯文句を言ってやらなければならない。そして、どうにかして転校を撤回させるのだ。
モアは気合を入れるかの如く、服に付いたパン屑を力一杯に叩き落とした。
「ほれ、何をしとる。早くせんと日が暮れちまうぞ」
「ああ。ごめんなさい、今行くわ」
モアは答えるなり椅子の封筒を取り上げ、少し逡巡した揚句、ドレッシングの染みたそれを尻ポケットに押し込んだ。既に外に出ているハグリッドを追いかけ、窓を潜る。人の居なくなった屋敷内では流し台に積み重なる食器が音を立てて崩れ、そっと、彼女を送り出していた。