授業・授業・授業で日が暮れて、補習で夜更けを待ち、補習の後はハーマイオニーの指導を受けるという日々が何日も続いた。一週間も経てば、モアは勉強漬けの生活サイクルにもすっかり慣れてきた。
相変わらず杖を振る授業はからっきしだったが、実技科目以外はそれなりにこなせることが分かると、ハーマイオニーは安心して息を吐いた。二年生の魔法薬学の授業では加点こそ得ることは出来なかったが、めげない質問攻撃を経て、モアはスネイプ先生を黙らせるに足る出来の薬を作ることが出来た。
そうして迎えた金曜日の朝、朝食を摂っていたモアの元に一羽のふくろうが飛んできた。ふくろうはモアの皿の上に小さなカードを落とすと、上空をすーっと旋回してまた飛び去って行った。
モアが皿の上でスクランブルエッグに塗れたカードを拾い上げると、カードには丸っこい走り書きでこう書かれていた。『今日の昼休み、図書室、修辞学の棚で』
「ねえ、これって呼び出しってことかしら」
すると、隣でオレンジジュースを啜っていたラベンダー・ブラウンが色めきだった。
「モア、それってもしかしたら愛の告白じゃないかしら」
「ひょっとしたらひょっとするかも知れないわ。差出人は書いてないの?」
ラベンダーの向こうでソーセージを切り分けていたパーバティ・パチルも身を乗り出してきた。だが、裏返してみてもカードには誰の名前も書かれていない。
ラベンダー達に呼び出しの結果を教えるとの念入りな約束を結ばされて、モアは呪文学の教室に向かった。
人生の役には立ちそうもない授業を幾つか終えて、昼休みになった。モアは手早く昼食を済ませると、例のカードを片手に一人で図書室に向かった。ホグワーツの図書室に来るのは初めてだったが、事前にハーマイオニーに地図を書いてもらっていたお陰で難なく辿り着くことが出来た。
修辞学の棚は図書室の奥の方にあって、誰も立ち寄らないのか本棚には薄らとした埃が積もっていた。
本棚に寄り掛かりながら十分ほど待っただろうか。誰かの小さな足音が聞こえて、モアは顔を上げた。おかっぱ頭を揺らして現れたのはパンジー・パーキンソンだった。
「来たわね、モア」
「パンジー! わざわざ手紙で呼び出したりしなくても普通に話しかけてくれれば良かったのに!」
「そういう訳にはいかないのよ、大声出さないで!」
パンジーは素早く周囲に視線を走らせた。そうして自分たちの他に誰も居ないことを確認すると、ほっとしたように息を吐いた。
「前に話したと思うけど、スリザリンとグリフィンドールは……ちょっと色々と障りがあるのよ」
「ねえ、パンジー。私、あなたのことは友達だと思ってるわ」
これを聞くとパンジーは急に興奮して言った。
「私だって出来ることなら友達だと思いたかったわ! あなたは聖28一族じゃないけどクレイズだし、本当なら穢れた血のグレンジャーなんかじゃなくて私が魔法界について色々レクチャーしたかった。でもあなたは、グリフィンドールなのよ!」
幾つかの気になる言葉を無視して、モアは落ち着かせるかのようにパンジーの両手を握り締めた。
「グリフィンドール生とスリザリン生が仲良くしたらいけないなんて誰が決めたのかしら。私達ならきっと寮の対立を超えて仲良く出来ると思うの」
だが、パンジーは無理だとでも言うようにぶんぶんと首を横に振った。
「ねえ、今からでも遅くないわモア、スリザリンに来ない? 私、スネイプ先生に相談してみようと思うの」
「相談って、まさか寮を変われないかってこと!?」
「そうよ。スネイプ先生はスリザリンの寮監だもの」
ちょっと冷静に戻りながらパンジーが言った。パンジーは少しだけ上がった息を鎮めるように一度大きく深呼吸をした。
「モアは杖を使う授業は駄目だって聞いたけど、代わりに魔法薬学が出来るみたいだから、先生もきっと良くしてくださるわ」
魔法界で出来た最初の友達と同じ寮になる。これはモアにとって少なからず魅力的な誘いだった。グリフィンドールではハーマイオニーに随分と世話になっているが、公平な彼女ならモアがスリザリンになってもきっと仲良くしてくれるだろう。
モアが迷っていると、パンジーは駄目押しのように言葉を重ねた。
「あなたの前のクレイズ、つまりあなたのお母様はスリザリンだったのよ。それにあなたの組み分けの時、帽子がスリザリンって言いかけたのを私、しっかり聞いてたんだから!」
モアは耳を疑った。
「待って、私の母さんもこの学校に通っていたの!?」
「当たり前じゃない。イギリスに住む魔法使いの子供は皆ホグワーツに通うのよ。多分、あなたのお父様もホグワーツのはずよ」
パンジーはさも当然とばかりに言った。
家族について知らなかったことがまたもや他人の手によって一つ判明してしまったが、これはモアにとって驚くべき情報だった。母親とこんな話はしたこともなかったし、あの冷徹な母親に子供時代があったなんてモアは考えたこともなかった。
モアは母親がかつてスリザリンに居たと聞いて、転寮に傾きかけた自分の気持ちが急速に冷めていくのを感じていた。
「パンジー。お誘いは嬉しかったけど、やっぱり転寮は止めておくわ」
「どうして!? スリザリンは身内に篤い、団結力のある素晴らしい寮よ!」
「簡単な話だわ。私、母さんと同じ寮は嫌」
正直な気持ちを告白すると、パンジーが息を呑んだ。
「もしかして、モア、お母様との仲が悪いの」
「仲が悪いなんてものじゃないわ」
モアはちょっとだけ皮肉に笑って言った。
「私と母さんの間にはね、そもそも悪くなるほどの仲が存在しないのよ。私が小さい頃から母さんはずっと仕事漬けで、私はずっと無視されてきたの。今更母さんの背中を追いかけるような真似なんてしたくないわ」
これを聞くと、パンジーは言葉を失くしたように黙り込んだ。
始業式の日に両親が見送りに来ていたことから考えて、恐らくパンジーは円満な家庭環境で育ったのだろう。だから、モアの複雑な気持ちは分からないに違いない。
モアは少しだけ寂しい気持ちに駆られたが、気を取り直すように笑顔を浮かべた。
「あなたの気持ちは本当に嬉しかったわ、パンジー。私のことを気に掛けてくれてありがとうね」
パンジーは納得がいかないという表情を浮かべながら、モアに窺うような視線を向けた。
「本当にグリフィンドールに留まるつもり? 気持ちは固いの?」
「別にね、グリフィンドールに拘りがあるわけじゃないの。正直なところ、あの人と同じ寮じゃなければ何処でも良いわ。それにいつまでもこの学校に留まっているつもりはないわけだし」
「そう、それは残念だわ」
パンジーはがっかりしたように肩を落とすと、モアに背中を向けた。
「本当に残念だけど、さようなら、モア」
「パンジー?」
パンジーはモアの声が聞こえなかったかのようにずんずんと歩き出した。そうして書架の横を曲がると、その姿はすぐに見えなくなってしまった。
取り残されたモアは、何か重大なミスをしてしまったような気持ちに駆られていた。さようならを言った時のパンジーは何か決意をしているように見えたし、何より、モアの呼びかけにも応えずに行ってしまったからだ。
パンジーを引き留めるべきだったんじゃないかと後悔しながら、書棚の間を出ようとして――モアは誰かにぶつかって尻餅をついた。
「うわっ」
「きゃっ、ごめんなさい」
モアが立ち上がろうとすると、目の前にすらりとした白い手が差し出された。モアは思わず手の主を見上げる。相手はアッシュブロンドの小柄な男の子だった。
裏地が青いレイブンクローのローブを羽織った彼は、モアの顔を見るなり、あっ、と小さな声を上げた。
「君、俺のこと覚えてる? 始業式の日に、ホグワーツ特急に荷物を載せるのを手伝った……」
正直なところすっかり忘れていたが、モアはすぐに思い出したような振りをした。
「ああ! あの時はありがとう、助かったわ」
モアは白い手に引っ張り上げられて立ち上がる。それからローブの裾ををぱたぱたと叩いて、レイブンクローの男の子を見詰めた。明るいブルーの瞳がこちらを見詰め返した。
「あなた、修辞学の棚に用があるの?」
「用があるってほどじゃないよ。暇つぶしに面白そうな本を探してるところなんだ」
「面白そうな本……修辞学の本なんて面白いのかしら」
「さあね。読んでみてから考えるよ」
男の子は本棚に積もった埃に指を滑らせると、ふうっと息を吐いて指先の埃を舞い散らせた。
「俺はエミール・モーア、二年生」
「私はモア・クレイズよ」
「知ってる。組み分けの時に見てたから」
「そうなの。よろしくね、エミール」
「あのさ、ちょっと小耳に挟んだんだけど、君が魔法を全く使えないって本当?」
エミールは淡白な調子で問いかけた。モアは自分の噂が知らない男の子にまで出回っていることにちょっとびっくりしながら返した。
「そうよ。何か問題でも?」
エミールは驚いたように目を見開くと、疑わしいとばかりにモアの顔を覗き込んだ。
「悔しくないの?」
「全然悔しくないわ。だってそもそもこの学校に居ること自体が間違いなんだもの」
するとエミールは大層驚いた顔を見せて、それから論外だとでも言うように鼻を鳴らした。
「俺だったら悔しくて夜も眠れないよ。はっきり言って、今の君、相当格好悪いよ」
「格好悪いですって!?」
モアはここが図書室だということも忘れて大声を上げた。エミールは何てことないとばかりに頷いた。
「そうだよ。出来ないのが当たり前で、そこに胡坐を掻いているなんて格好悪いよ。君はもっと必死になってみるべきじゃないかな」
「でも私は、魔法使いになんてなりたくないの!」
「魔法使いの学校を出たからって、必ず魔法使いにならなくちゃいけない訳じゃない。卒業してから魔法を使わない生活に戻るっていう選択肢だってあるんだ。でも今の君は、ただ嫌がって目の前の問題から逃げているようにしか見えない」
「なんですって!?」
モアは、このままホグワーツを卒業するなんてことは一ミリだって考えたことはなかった。モアは自分が魔女なんて馬鹿げたものじゃないことを証明して、それから前の学校に戻るつもりだったからだ。それを目の前の問題から逃げているなどと言われるとは思ってもみなかった。
モアは憤然としてエミールに噛み付いた。
「どうしてあなたにこんなこと言われなくちゃならないの!」
「どうしてって……君のことが気になってたから。ホグワーツ特急に乗る時、新入生は本当なら皆嬉しくて堪らないはずなのに、君はあんまり嬉しそうじゃなかった。だからかな」
エミールはモアの怒りなど素知らぬ様子で悪びれずに言葉を継いだ。
「これがお節介だってことは分かってる。でも折角ホグワーツに来たんだ。君は、もう少し前向きに頑張ってみるべきだと思うよ」
言うだけ言うとエミールは平然と書棚に向かい始めた。前言通り、面白そうな本を探しているのだろう。そのあまりにもあっけらかんとした調子に、モアは言い返す気持ちがだんだんと削がれていくのを感じた。
エミールを残して図書室を後にすると、モアは自分の胸の中にもやもやしたものが残っていることに気が付いた。冷静に考えてみるとエミールの言うことにも一理あるように思えて、それが更に胸の中のもやもやを複雑な物に変えていった。
こんな気持ちのまま談話室に戻る気にはなれなくて、モアは階段を一気に下まで降りると、校舎の外に出た。金曜日の午後は空き時間だから、一人でゆっくりと考え事をするには最適だった。湖の方まで足を伸ばすと、大イカが頭を出して日光浴しているのが見えた。
湖畔に腰を下ろすと、穏やかな水面の揺らめきが目に入った。じっとして眺めていると、この水面のように気持ちが穏やかになっていくような気がした。
正直なところ、ホグワーツがモアが転入前に思っていたほど悪い学校ではなかった。確かに授業内容は下らないし、何の役に立つのか分からない技術ばかり学ばせられている気はするが、先生たちは皆、一向に魔法が使えるようにならないモアにも熱心に指導してくれていた。
仲のいい友達も出来た。ハーマイオニーはよくモアの面倒を見てくれているし、規則破りの常習犯だというハリーとロンも、初めに思っていたよりも気さくで話しやすいタイプだった。尤も、ハリーに関してはサイン入り写真を配ったり、仲が良いはずのロックハートを避けていたりとよく分からないところがあったが。
でも、ホグワーツでの生活に慣れてきても、モアの心は、やはり前の学校で過ごした日々のことで一杯なのだった。ふとした時に考えるのはいつも、ここにアレイヤが居たらどんなことを言うだろう、とか、ヒューイならきっと授業中にここで手を挙げるだろう、とかそんなことばかりだった。
ホームシックにも似た気持ちに駆られながらしばらくそのまま座っていると、校舎の方から無遠慮な足音が近づいてきた。
「おっと、そこにいるのはスクイブのモア・クレイズじゃないか?」
何処かで聞いた声がして、振り返る。そこにいたのはドラコ・マルフォイだった。何度か授業では顔を見かけていたが、今日は子分だかボディーガードだかの二人は連れていないようだった。
ドラコは腕組みをすると挑発的な眼差しでモアを見下ろした。
「君のことはちょっとした噂になってるよ、スクイブだなんてクレイズの恥晒しだって。がり勉のグレンジャーと必死になって杖を振らなくて良いのかい?」
「今はそんな気分じゃないの。悪いけど放っておいて。それにスクイブは魔法薬が作れないみたいだから、私はスクイブじゃないらしいわ……残念だけど」
「ちょっと魔法薬が作れるからってなんだい、杖が使えないんじゃ魔法使いなんて言えないよ。僕だったら恥ずかしくてすぐにでも学校を辞めさせてもらうね!」
あからさまな嫌味を聞いて、モアは今気づいたとばかりにドラコを見上げた。
「あなた、もしかして私を怒らせたいの? なら無理よ、だって学校を辞めたいのは本当のことだもの」
「自分が恥晒しだって自覚があるのかい、そりゃいいことだ」
「違うわ! 前の学校に戻りたいのよ! 魔法なんて知らない、穏やかで温かい生活に! でもどうしたらいいか分からないの!」
思わず叫ぶとモアの目からは一筋涙がこぼれた。ドラコはちょっとぎょっとしたように周りを見回すと、ほとんど反射的と言っていい速度でポケットからハンカチを差し出した。
モアはハンカチを受け取りながら、しかしそれを使わずにぎゅっと握り締めた。
「私の父さんと母さんも魔法使いなんですって」
「魔法使いの家に生まれたんだ、当たり前だろう」
「でも私、何にも知らないの。碌に話したこともないし」
「話したことがないだって? 両親と?」
「そうよ」
「僕の父上と母上は魔法界についてのあらゆる知識を与えてくださった。僕がマルフォイ家の跡継ぎとして恥じないように。君は違うのか?」
「ええ。とっても良いご両親なのね、羨ましいわ」
モアは心からの羨望を込めて言った。ドラコは難しい顔を浮かべていたが、やがてはたと気付いた様子でモアが握り締めていたハンカチをひったくった。
「ねえ。前の学校に戻りたいって思うことはそんなにおかしなことかしら」
「当たり前だろう。魔法使いの子供は皆ホグワーツに通いたがる」
「私はただ、アレイヤや皆と同じ学校に通いたいだけなのに……」
モアの育った地域では地元の公立校に通う子供が多かったこともあり、小さい頃から馴染みの面々がそのままモアのクラスメイトだった。それこそ皆が皆、竹馬の友と言って差し支えないだろう。家族よりも長い時間を一緒に過ごしてきた友達と離れたくないという思いは、ホグワーツに来た今でもモアの心に強く根を張っていた。
「でもエミールに言わせると、私は目の前の問題から逃げているだけなんですって」
「知ったことか。言いたい奴には言わせておけ。どうせ君はスクイブなんだ、何処へ行っても何か言われるに決まってる」
ドラコは口に出してから、しまったというような顔をした。
「相談に乗ってくれてありがとう。あなたって意外と良い人ね」
「相談に乗ったつもりはない。君が勝手にぺちゃくちゃ話してただけだろう!」
「そうね、そうだったかも」
くすくすと笑いが込み上げてくる。ドラコは奇妙な物でも見るようにモアを凝視した後、やっていられないとでも言うように深々と溜め息を吐いた。
「なんだか少し話したら楽になったわね。付き合ってくれてありがとう、ドラコ。ハンカチを皺くちゃにしちゃってごめんなさい」
「ふん、こんなもの魔法でどうにでもなるさ」
「ありがとう。やっぱりグリフィンドールとスリザリンで対立するなんて馬鹿げてるわ。パンジーともちゃんと仲良く出来るように、頑張らないと」
「せいぜい頑張ればいいさ、僕は無駄だと思うけどね」
ドラコは背を向けると、校舎の方に向かって歩き始めた。遅れて立ち上がったモアは、その後ろ姿を追いかけながら校舎へと戻っていった。