「黒尽くめの制服に、謎の大鍋、父さん好みの薬瓶と他にも色々……で、今度は何なのかしら? 正直もうたくさんなんだけど」
この魔法界とやらを訪れて、初めこそモアも貨幣単位のややこしい繰り上がりに混乱したり、魔法仕掛けの様々な物に驚かされたりしていた。
だが、横町を行ったり来たりして両腕が荷物でいっぱいになった今では、現金の支払いも何となく具合が分かって来たし、大概の物は顔を歪めて睨み付けるだけで見なかった振りが出来るようになっていた。
「次は教科書だな、量が多くてちいとばかし骨が折れるやも知れんが」
「ってことは本屋に行くのね。全く、次こそ少しはまともな物が拝めそうだわ」
ただ一つ問題だったのは、ここが魔法使いの世界かと思うと吐き気がすることだが、自分がいま居るのは“テーマパーク風のショッピングモール”だと思い込めばまだ耐えられないこともなかった。モアは自身の適応力の高さに心の内で涙した。
「さあ、着いたぞ。フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店だ」
ハグリッドに背を押されて店の中へ踏み入ったモアは、目の前に広がる光景に圧倒された。店内の壁一面が大きな書架になっており、色も形も様々な本がびっしりと詰め込まれている。
革張りに細工の細かな金箔押しは勿論のこと、表紙がカラフルな寄木細工になっている物や、パズルを解かなければ開けない仕組みなどの凝った装丁を見付けて、モアは僅かに色めき立った。
「おまえさん、何時になく楽しそうだな」
「どれも奇抜だけど、こんなに冴えてるデザインの本って初めて見るわ! 魔法なんかなくたって普通に作れそうなのに、どうして誰もこういう物を思い付かないのかしら」
なんだ、まともな物だってちゃんとあるじゃないか。そう思ってほっとしたのも束の間、近くに平積みされていた本を手に取ってモアは失望した。それは一見するとただのミステリー小説だったのだが、表紙を開いた途端、本がひとりでに喋り出して犯人とトリックについての解説を始めてしまったのだ。
大量の教科書を抱えて並んだレジの傍では、店員と思しき者達が指揮棒のような物を手に慌ただしく駆け回り、何がしかの舞台をがたがたと組み上げていた。その周りでは行列を作るためのロープが張られており、そこここにカメラスタンドが設置されている。店で何かイベントでもあるのだろうか、とモアは辺りを見回し、壁に貼られたポスターに目を留めた。
「このポスター、ええと……“わたしはマジックだ”発売記念?」
「ああ。今日は午後からその本の作者、ギルデロイ・ロックハートのサイン会なんだよ」
斜め後ろから若い男の声がかかり、モアは振り返った。濃紺のエプロンをかけた店員と思しき男は、服の袖で額を拭いながら愛想良く説明してくれた。
「始まるのは十二時四十分からだけど、今はその準備中でね。キミ、ホグワーツの学生さんでしょう。今年の教科書は彼の著作ばかりだから、良かったら後でサインを貰いに来ると良いよ」
「私は……いえ、ありがとう」
私は魔法学校の生徒なんかじゃないわ! と声を大にして言いたかったモアだが、その店員の余りにも疲れ切った様子を見れば自ずと口は閉じられていた。
モアはもう一度ポスターに目を遣った。大きくプリントされた動く写真の中からは、ちょっと二枚目な男性がまるで映画俳優か何かのようにこちらへ笑顔を振り巻いている。
そのウィンクにぐったり来たモアは、隣で教科書の半分を持ってくれている大男の腕を叩いた。
「ね、さっきの話聞いてた? この人ってそんなに有名なわけ?」
「ああ、サイン会だろう。あんな奴よりもっと有名な魔法使いならいくらでもおるさ。例えばダンブルドア――ホグワーツの校長だな。あのお方こそ誰もが認める偉大な魔法使いなのは間違いねえ」
大男は納得したように一人でうんうんと頷き始める。誰もが認める、などと漠然としたことを言われた所で何処がどう偉大なのかモアには全く以ってピンと来なかった。が、このロックハートとかいう作家についての言及がないことから、取り敢えず奴が小物であることだけは汲み取った。
「偉大と言えば、“例のあの人”もある意味ではそうだったな」
「例のあの人? それって誰のことよ、勿体ぶった呼び方しちゃって」
「“名前を言ってはならないあの人”とも言う。闇の魔術に取り憑かれたそれは恐ろしい魔法使いだからな、つまりはそういうことだ。おまえさんも魔女になるならこれ位は知っていて損はないぞ」
「だ・か・ら、私は魔法使いにはならないんだってば!」
その時、前の客の会計が終わってモア達の番になった。
カウンターに全ての教科書を置いた所、授業用と補習用の両方で山積みになってレジ係の顔が全く見えなくなってしまった。その上、ロックハートの著書は他の教科書より割高で金額がかさみ、仕方なくガリオン金貨を使って支払いをした所どうにも損をしたような気分にさせられた。
「モア。サイン会が気になるようなら、買い物が済んだ後で来てみるか」
「気になるってわけじゃないんだけど、まあ、気が向いたらね」
ずっしりした重みを腕に次の店へ向かう道すがら、ハグリッドが思い出したように口を開いた。
「そうそう、有名と言えばあと一人。忘れちゃいけない“ハリー・ポッター”がおるな」
ショーウィンドウに飾られた光る花束に見惚れていたモアは、その声に慌ててハグリッドの隣へと並び直した。書店で買った教科書一式は相当な量だったが、ハグリッドはその半分以上を片腕一本で抱えてくれている。
「よく考えてみればモアはハリーと同い年だったな。ハリーは去年入学して今度二年生になる。モアは二年に編入されるから、ほら、やっぱり同級生だ」
「同い年なのにその子が有名なのって不思議な感じね。彼は魔法界の人気子役か何かってこと?」
ちっちっち、とハグリッドが指を振った。彼はたっぷりと含みを持った微笑みでもって当ててみろと言わんばかりにモアをせっつく。だが、魔法界のトレンドなど知ったこっちゃないモアは肩を竦めて先を促した。
「ハリーは生き残った男の子、つまり例のあの人を倒した張本人なんだ」
とっておきのクイズを放棄されてしまったためか、ハグリッドはやや不服そうな顔で答えを明かした。
「あら、例のあの人ってとっても恐ろしい魔法使いだったんじゃないの? なのに子供にやられちゃうだなんて、相当な間抜けだったのね」
「そりゃどちらとも言えんな。当時ハリーはまだ赤ん坊だったし、例のあの人が失脚した以上、何が起こったのかは誰にも分からん。とにかく、ハリーもおまえさんのようにマグル達の中で育ったんだがな。今じゃすっかり魔法族だ。そんな訳だから、おまえさんだってすぐこっちの生活に慣れるさ」
言いながら、ハグリッドはモアの頭を宥めるようにぽんぽんと叩く。
ハリー、ハリー。その名を呼ぶ時、ハグリッドは何処か誇らしげに見えた。
次に連れて来られたのは杖の店だった。こちらも先程の書店同様に壁一面がびっしりと棚で埋め尽くされており、見上げると首が痛くなるのに変わりはない。だがこの杖の店の方が遥かにしんとしていて、思わずかしこまってしまうような空気に満ちていた。
カウンターに掛けていた店主のオリバンダー老人は、モア達が来店すると待っていたとばかりに席を立った。
「いらっしゃいませ……ハグリッド、そちらのお嬢さんは?」
「モア・クレイズだ」
「なんと! あのクレイズですか、秘密主義の」
店主は驚いた様子でモアの全身を眺める。それからすぐさま動く巻き尺での腕などの採寸を進めると、壁一面の棚からいくつか細長い箱を見繕ってきた。
「こうしてまたクレイズ家の者の杖を選ぶことが出来るとは、これほど光栄なことはありません」
「杖を選べるのってそんなに光栄なことなの?」
「ええそうですとも。魔法使いにとって杖は一生物ですからね。ああ、厳密には杖を選ぶのではなく、杖が持ち主を選ぶのですが」
箱を開けたオリバンダーは、中にしまわれていた細長い棒きれをモアに差し出す。モアは棒切れを受け取りながら、小首を傾げた。
「ねえ、この棒切れ、一体どうしたらいいのかしら?」
「難しいことはない。軽く振ってみればいいだけですよ、お嬢さん。あなたが杖に選ばれた時には火花が散ったり、光が発せられたりと、何かしらの現象が起こるはずですから」
しかし、オリバンダーが持って来たどの杖を振ってみても、杖先が空を切るばかりでモアの身に何かが起こる気配は全くと言っていいほどなかった。かれこれ三十箱ほど試したが、どの杖もただの棒切れと同じく沈黙を続けていた。
オリバンダーは、壁掛けの梯子を上りながら大きな目玉で棚に収まった箱をぎょろぎょろ見回した。モア達が来店してからというもの、老人はもう散々箱を引っ張り出しては、中に納まっていた棒切れをモアに握らせる作業を繰り返していた。
「クレイズの家系は割合長めの強力な杖に好まれる者が多い。お嬢さんもきっと良い杖に選ばれることでしょうな」
気を取りなすようにオリバンダーが梯子の上から呼び掛ける。だが残念ながら杖の良し悪しなど分からないモアには、いままで握ってきた杖の違いなどは見た目の差異くらいでしか分からないのだった。
オリバンダーは棚のあちこちから箱を引き摺り出すと、それらを抱えたまま梯子を下って降りてきた。
「すまないがハグリッド、場所を開けとくれ」
そう言った所で既に店内は杖の箱だらけであり、人の居所などはほとんどない。仕方なく、ハグリッドはモアの傍を離れると壁際の丸椅子に腰掛けた。オリバンダーは先程までハグリッドが立っていた場所へ、また二十箱ほどを下ろした。
入店してから優に三十分が経っても、モアの杖はなかなか決まる様子がなかった。
すると、それまで隅に座っていたハグリッドが立ち上がって気まずそうな声を上げた。
「モア、オリバンダー。あー、悪いんだが、まだ時間がかかるようならちょいと買い物に出てもいいか」
モアは降ろした箱の開封に取り掛かっていた老人を窺い見る。
「おじいさん、これ後どれくらいかかるの?」
「杖次第だから何とも言えませんな」
「だって。私は構わないわよ、行ってきたら」
モアとしても丁度、この延々と棒切れを握ったり放したりする作業にハグリッドを付き合わせるのが申し訳なくなってきた所だった。ハグリッドは胸を撫で下ろすと、眉を下げて見せた。
「そうか、すまんな。今年は畑に大量のナメクジが湧いてなあ、丁度強力な駆除剤が欲しかった所なんだ」
ナメクジと聞いて思わずモアは顔をしかめた。最初のパブで見掛けたおばあさんの様子を思い出してしまったのだ。帽子の中からぼとぼととナメクジが零れ落ちる様は忘れようにも忘れがたい。
ハグリッドが店を出た後、モアは先程の二十箱を握る作業に向き直った。このまま杖が見つからなければ、自分が魔法使いじゃないと証明できるかもしれない。そう考えれば、自ずとやる気も出るというものだ。
十八箱目、十九箱目、さらに二十箱目も合わなかった。オリバンダー老人はうむうむ唸りながら店の奥へと入っていき、それからしばらく戻ってこなかった。
老人が店の奥へと消えて何十分経っただろうか。オリバンダーは、今まで見た中でもとびきり古そうな五箱を抱えて戻ってくると、これが最後の心当たりだとモアに告げた。
一箱、二箱、三箱目までは駄目で、杖は手にしてすぐにオリバンダーに取り上げられてしまった。残りは二本。モアは思わず生唾を飲む。
「モミノキ、一角獣の尻尾の毛、三十センチメートル。軽くて振り易い」
そう言って差し出された杖は漆喰のように真っ白で、素朴だが優美な曲線を持つ一品だった。手にすれば羽根のように軽く、これまでのどの杖よりもすっと指に馴染む感覚があった。
店内はしんと静まり返っている。モアは息を呑んだ。促されるままゆっくりと白い杖を掲げ、宙へ弧を描くように振るってみる。すると――
――オリバンダーが、実に勢い良く両手を打ち合わせた。
「これだ、この杖で決まりです!」
断言するなり杖を奪い取り、怖ろしい素早さで元の紙箱にしまっていく。それから丁寧に包装紙を巻いてカウンターへ置くと、モアを手招いた。どうやら会計がしたいらしい。
そこではっとしたモアは、慌ててオリバンダー老人に詰め寄った。
「決まりってあなた、何も起きなかったじゃないの!? 本当なら火花が散ったり光が飛んだりするんでしょう!?」
「いいえ、これです。あなたにはこれしかないと杖利きの目が言っている」
「やめてよ、嘘でしょう。私、杖なんて欲しくないんだってば!」
何度訊き返してもオリバンダーはこの杖だと言い張って聞かなかった。モアにはそれが、魔法使いでないモアを無理矢理魔法使いにするための策略としか思えなかった。
杖店でハグリッドの帰りを待ちながら、モアは自分が囲い込まれつつあることに危機感を覚えていた。買い物がほとんど終わった今では、このまま両親の望み通りに魔法使いとやらへの道を歩まざるを得ない状況に陥っている気がしてならなかったのだった。
しばらくして戻ってきたハグリッドは、何があったのか鼻を膨らませていた。
「ハリーの奴が、ノクターン横丁なんぞにおったんだ! 全く危ないところだった」
モアはハグリッドをどうどうと宥めながら、子細を聞き出す。
なんでも、先に話に上った魔法使いで一番有名な男の子が、魔法界で一番危険な街をうろついていたというのだ。そこを見つけたハグリッドが、その男の子の首根っこを掴んでダイアゴン横丁へ引っ張り戻してきた、ということらしい。
「俺がナメクジ駆除剤を買いに行かなかったらどうなってたことか! 考えただけでも恐ろしい!」
「ぶ、無事だったのなら良かったじゃない。ねえ、そんなことよりペットショップに行きましょうよ。私、可愛いペットが欲しいわ」
どうにかハグリッドの気を逸らそうと、モアは上目遣いでねだってみる。この大男は図体がでかいだけあって、ちょっと語気を強めただけでもかなり怖く見えたのだった。
ハグリッドはまだぶつくさと文句を言っていたが、今度はモアが腕を引っ張ることで、なんとかオリバンダーの店先から引っ張り出すことに成功したのだった。