その後訪れたペットショップを出てからは、モアはすこぶる上機嫌だった。
ハグリッドは先程からくしゃみをしてばかりで、ろくに言葉を発することが出来ていない。残り少ないティッシュペーパーのやりくりに忙しいお陰か、生き残った男の子への憤りはさっぱり何処かへ飛んで行ってしまったようだった。
「なあ、その子猫は、ぶえっくし! どうにか、へっくし! ならんのか!」
モアはにんまりと荷物でいっぱいのレンタルカートを覗き込んだ。
「ならないんじゃないかしら。だって今日から私の家族なんだもの。ねえ、ブーティ?」
黒い子猫はお腹が落ち着いたのか、キャリーの中ですっかり体を丸めている。綿のように真っ白な鼻先も、今は同じ色をした前脚の下だ。
先程ペットショップを訪れたのがちょうどお昼の時間で、モアは店員の厚意から一匹の靴下猫に餌をあげる機会を得た。そこで指先をふんふん嗅がれるうちにこの人懐っこい子猫を甚く気に入ってしまい、自分の家族として迎えることにした、という次第だ。
「そんなにくしゃみ続きじゃ、神のお恵みがいくらあっても足りないわね! うふふ! あ、この子を起こしたらかわいそうだから、くしゃみはなるべく静かにしてね」
「そんなこた分かっとる。くそう、目までかゆくなってきおった!」
そう。だから別に、この大男が猫アレルギーだと聞いて当て付けに猫を買ったということではないのだ。あっても、それはモアが購入を決めた気持ちのうちの、ほんの二十パーセント少々しかなかったはずだ。
「フローリッシュ・アンド・ブロッツってもうすぐよね」
「なあ、モア。例のサイン会には、へっくし! 長居せにゃならんのか!?」
「ううん。別に興味があるわけじゃないもの。様子だけちらっと覗いて、すぐお開きにしましょう」
モアとしても、そろそろこの大男を連れ回して連射砲のようなくしゃみを聞くのに飽きてきた……もとい、不憫になってきたところだった。そしてそれ以上に、早く家に帰って新しい家族のために色々と設えてやりたかったのだ。
横町の石畳を進むにつれて、じわじわと黒山のような人だかりが近づいてきた。
フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店から溢れ出た人々が道端を大きく占拠している。大きなフラッシュが時折瞬くそこは、先ほどの準備段階と比べてもすっかりサイン会の会場に変貌していた。
ハグリッドが、首を伸ばしていたモアの背中をばしばし叩く。
「ハリー、ぶえっくし! ハリーがおるぞ!」
そう言って指差された方向をモアも見詰めてみる。が、モアの背丈では当然、店から溢れ出た色とりどりの背中しか見えない。
すると、ハグリッドが子犬でも拾うようにモアを腕に抱え上げた。驚いて声を上げるモアを肩に座らせ、それから彼は再び店内の方向を指差す。
モアはもじゃもじゃ頭へ必死にしがみ付きながら目を凝らした。
顔は良く見えないが、黒髪眼鏡の男の子がなにやらハンサムな男性と一緒に写真を撮られている。拍手で沸き上がる会場の様子をなんとか数秒間凝視した後、モアはギブアップとばかりにハグリッドの右肩をタップした。
「ありがとう、もう降ろして貰えると嬉しいわ!」
「もういいのか。遠慮せんでもいいぞ」
「いいの、十分だからお願い降ろして!」
ハグリッドはモアの腰を掴むと、渋々といった風で地面に降ろしてくれた。やっと地上に返ってきたモアは大きく息を吐く。
「わ、私、肩車なんて初めてされたんだけど……すっごく高いのね。逆さまに落っこちるかと思ったわ」
「あんなもん、しっかり支えてりゃ落ちやせん。それより、おっと不味いぞ!」
言うなり、ハグリッドは書店の人だかりに向かって一人で突進していった。ショベルカーのような手が集まった人々を物凄い勢いで掻き分け、道が出来てていく。
ハグリッドが割り込んだ直後、人の波がさっと広がって、中から男性が転がり出てきた。それは赤毛の男性で、唇から血を流しているようだった。その様子をプラチナブロンドの男性が何やら見下ろしているが、彼の目元にも青痣が出来ている。どうやら店の中で喧嘩があったらしい。
プラチナブロンドの男性は、赤毛の女の子に何やらぼろぼろの本を返すと、家族と思しき少年を連れて颯爽と店先を出ていった。
ハグリッドは赤毛の男性を立たせ直すと、男性が羽織っていたローブをほとんど吊るし上げる形で綺麗に着せ直そうとした。
「アーサー、あいつのことは放っておかんかい」
「分かっている。分かっているが度し難いこともある」
モアは赤毛の一団と黒髪のハリー少年、それからもじゃもじゃ頭の女の子とその両親と思しき二人が店から出て来るのを眺めていた。ハグリッドはとぼとぼと帰路に就く彼らを途中まで見送りに行き、それからモアの所へ戻ってきた。
「待たせてすまんかったな、モア」
「いいのよ。私達も後は帰るだけだったんだし。それより喧嘩は大丈夫だったの?」
ハグリッドは困ったようにちょっと肩を竦めて見せる。
「大丈夫といえば大丈夫だ。仲の悪さはいつものことだもんでな」
それから、とびきりの失敗をしたとでも言わんばかりに大きな声を上げた。
「それより、しまった! あいつらにモアを紹介するのを忘れとった!」
「そんなことなら構わないわよ。元より転校するつもりなんてないわけだし」
モアがそう告げると、ハグリッドは残念そうに肩を降ろした。
「まだそんなことを言っとるのか。そんなに魔法界が気に入らないか、えっ?」
「気に入らないのは魔法界というよりもうちの両親ね。魔法使いだって話にも納得はいってないけど、あの人たちがもう少しちゃんとしてくれていたら、こんなに拗れることもなかったはずだわ」
それを聞くとハグリッドは押し黙った。モアと両親の間にあるわだかまりは、今日会ったばかりの他人であるハグリッドには到底分かりっこないことだ。それが分かっているからこそ、何も言えなくなってしまったのだろう。
「だから今日一日案内してくれたハグリッドには悪いけど、私はぎりぎりまで転校には断固反対を表明し続けるわ」
「……俺が思うに、モアの親御さんはお前さんのことをちゃんと考えてくれているぞ」
「そうね、そうなのかも知れないわ。でも結果的に私の意見は無視されるのよ、いつもね」
それからロンドンを去り、家に帰るまでの道中、二人の口数はめっきり少なくなった。ハグリッドは荷物の大半を持って家まで送ってくれたが、上がってお茶を飲むように勧めても、畑のナメクジ駆除があるからと誘いを断られてしまった。
モアはハグリッドに言われた通りホグワーツ行きの荷物の用意だけは済ませて、それからブーティのケージに歩み寄った。
ケージの中で眠る子猫は、安らかにお腹を上下させている。ケージの置かれた床に屈み込んだモアは、子猫の様子を静かに眺めながら膝の上に頬杖を突いた。
「あなたは今日から私のたった一人の家族。ねえブーティ、あなたにもきっとお父さんやお母さんが居たのよね。小さな頃に家族がいない寂しさは私にもよく分かるわ。これからは二人で仲良くしましょうね」
声が聞こえているのだろうか、子猫は少しだけ身動ぎして顔を前脚で擦った。眠たげなその仕種にモアはくすりと笑みをこぼす。
「そろそろ夕食の支度をしなくちゃ。あなたのご飯も用意しないとね、ブーティ」
なるべく足音を殺しながらキッチンに向かい、子猫用のウェットフードを皿に入れる。ケージに戻ってそっとブーティの鼻先に置くと、暫くして餌の匂いに気付いたように子猫が目を開けた。
寝ぼけ眼でゆっくり起き上がると、ブーティはそのまま餌皿に頭を突っ込み始めた。むしゃむしゃと餌をむさぼる姿を見ていると、モアの胸に温かいものが込み上げてくる。
「そんなに急いで食べなくてもいいのよ、誰も取り上げたりなんてしないから。でも回数を分けて少しずつ食べましょうね」
ペットショップで店員に言われたのは、子猫のうちは胃袋が小さいから、一度に量を食べさせるのではなく、何回かに分けて餌を与えるようにということだった。
ブーティが成猫に育つまでのしばらくは、世話で忙しくなることだろう。転校のことを考えると憂鬱な気持ちになるモアにとって、これはうってつけの気晴らしに思えた。
「ねえ、ブーティ。私、やっぱり転校なんてしたくないわ。でも分かってるの、もう転校を取りやめるのは無理だって。どんなに意地を張っても、結局はあの人たちの思い通りになるしかないのよ」
モアは、グリンゴッツ銀行で会った時の父親の様子を思い返す。
モアの両親はどちらも仕事一筋の人間だが、母親よりは父親の方がまだ物腰が柔らかいこともあり、モアは彼ともっと上手く渡り合えると思っていた。それが、ことこれに関してはあの有無を言わせない態度だったし、モアも思わず頭に血が上ってしまった。大きな手落ちは悔やんでも悔やみきれない。
「ああ。魔法使いだなんて、馬鹿馬鹿しいわ! 一体どうしたらいいのかしら」
それからモアは、ブーティが餌皿を空にするまでケージを眺めていたが、いくら悩んでも良い解決策は浮かばないのだった。
***
これはきっと両親の陰謀だ!
モアは心の中で絶叫した。もしそうでないのなら、こんなふざけた出来事はどう考えたってあの毛むくじゃらのハグリッドの仲間の仕業に間違いない。それ以外に考えられない。
朝、いつもより遅く目を覚ましてしまったモアは、身支度を済ませるといつものように新聞を取りに玄関先へ向かった。家の中の誰もが読まない物だとはいえ、毎朝欠かさず届く物をポストに溜めっ放しにしておくのは良くないからだ。
今日もこんがり黒いトースト片手に廊下を渡り、鼻歌交じりで扉を開け――途端、爆発的な騒音が耳に飛び込んできた。あまりの騒々しさに危うくトーストを手放しかけ、そして目を見開く。
扉を開けた先、どういう訳かそこは人の往来も激しい、見知らぬ駅のど真ん中へと繋がっていた。
かっちりとスーツを着込んだビジネスマンが、モアには目もくれず前をかつかつと通り過ぎていく。向こうからは中国系旅行者と思しきおばさんの集団が、喧しい笑い声を上げながら歩いてきた。その騒がしさに掻き消されそうになりながらも、放送のアナウンスは毅然と三番ホームに列車の到着を告げている。
モアは唖然とした。
何処もかしこも老若男女入り乱れ、見渡す限りの人、人、人。まだ朝早い時間に程近いというのにこの混みようは何だろうか。いや、それより、この扉はどうなっている。
モアは唐突に二週間前の買い物と、おかしな入学許可証のことを思い出して青褪めた。
まさかの思いで慌てて玄関扉を鍵まで閉めてリビングに駆け戻る。一鳴きして近づいて来たブーティを踏みつけないよう飛び越え、モアは脇の壁に目を向けた。
パッチワークの壁掛けに並んだカレンダーは八月、夏の爽やかな青空を描いた絵のままである。モアは小さく悲鳴を上げると、その一枚を破り捨てて床に叩き付けた。遊んで貰えるものとでも思ったのかブーティがさっと紙にじゃれつく。
顔を上げて新しいページを睨むと、ボールペンでぐるぐると赤丸が殴り書かれた忌々しい日付が目に飛び込んだ。実りの季節を描いた稲穂の中でかかしが嘲笑うような笑みを浮かべている。
そう、今日は九月一日。忘れもしない転校の日だ。
「だからって、こんなのって有り得ない!」
しばらくの間、モアは苦々しげに唇を噛み、こぶしを握る力も強く敵意の篭った視線を壁の一点に向けていた。だが、はっと思い立つと彼女はよろけながらテーブルをかわして窓辺に走った。
玄関が駄目なら窓があるじゃないか。
大きな期待を込めて窓の桟に手を掛けるも、半分も開けないうちにすぐさま絶句する羽目になった。窓から覗く見馴れた住宅街の景色は、窓を開いた部分だけ駅舎の中に切り替わっていたのだ。
座りなれた椅子の隣にへたれ込むと、モアは文字通り頭を抱えた。
転校からどうにも逃れられないどころか、これでは家からも出られない。
誰の仕業かは分からないが、余りにも周到すぎる。犯人はとてつもなく頭の良い人物か、あるいはとてつもなく性格の悪い人物のどちらかだとモアは感じていた。
目に見えて落胆したモアの元に、ブーティが擦り寄ってくる。
子猫はふみゃっと鳴いて、白長靴の足先をモアの膝に乗せた。まるで慰めるようなその仕草に、モアは頭を振りながら身体を撫でてやる。
手にしたトーストはすっかり冷め切っていた。力なく端を噛っていると、気持ち良さそうに喉を鳴らしていたブーティがまた一鳴きする。先程とは少し様子の違う声にモアは子猫と顔を見合わせた。そのまま瞬き三回。そしてブーティは不意に目を逸らすと、半端に開いたままだった窓の外を見つめた。つられてモアも外を見る。
相も変わらず、窓向こうの駅――恐らくキングズ・クロス駅――は多くの人でごった返していた。よく見ると、家族と思しき賑やかな集団があちらこちらに見られる。その中にはカートを押す同年代か、それ以上の子供達の姿が多く混じっていた。
もしかしなくても、彼らはこれから列車に乗り込んで、あのホグなんたらという妙な学校へ行く所なのだろう。一人一人の期待に胸を膨らませた楽しそうな顔を眺めながら、モアは夏休み前にクラスの友達が開いてくれたお別れ会のことを思い出していた。
あの時のモアはまだ何も知らず、ただ寂しさで転校を拒絶していただけだった。
でも、きっと今は違う。
突然、両親は魔法使いでお前も魔女だ、なんて馬鹿みたいな話を知らされ、だから転校して魔法を学ばなければならないだなんて、そんなゲームやコミックのような展開はずっとあり得ないと思っていた。
けれど、モアは実際に毛むくじゃらのハグリッドと出会い、よく分からない不思議で溢れかえるダイアゴン横丁に引っ張り出され、生き残った男の子と呼ばれるハリー少年の顔も拝んできた。魔法界の片端をしっかり覗かされてきたのだ。
だが、モアはまだ、自分が魔法使いだときっちり認めた訳じゃない。
だからこそ、嫌なのだ。
普通の転校だったらまだ解った。でも訳も分からず勝手に話を進められ、今日だってわざわざ家と駅を繋ぐような真似までされて、決められるがままにあんな変な奴らの仲間入りをさせられるのは、そんなのは絶対に嫌だった。
不意に泣きたくなったモアは、くすん、と鼻を一啜りしてから鼻頭を擦った。
ブーティが、どうするんだと言わんばかりにモアを見つめている。
けれど大丈夫だ。答えは、もう決まった。
モアが立ち上がって振り返ると、何故かリビングの入口にハグリッドの言いつけでまとめておいた荷物の山が転がっていた。物置にしまって厳重に鍵まで掛けてやったはずなのに、どういうことだろう。
これも、玄関と駅を繋げた奴の仕業だろうか。だが、気持ちを固めたモアにしてみれば、今更どちらでも良いことだった。
モアはマーガリンを吸い込んですっかり湿気たトーストを食い千切る。もしかするとこれで最後になるかも知れない慣れ親しんだ焼き加減を、しっかり奥歯で噛み締め、それから声を上げた。
「おいで、ブーティ、出掛けるよ」
パンくずのついた両手を払いながら、唯一の家族の名を呼ぶ。賢い黒猫は全て分かったように駆けてくると、自ら大人しく床のキャリーバッグの中に収まっていった。
その様子を見届けたモアは、一人で運んで行くにはいささか重量のあり過ぎる荷物を担ぎ、キャリーバッグを片手に下げ、リビングをずんずん横切って窓の前に立った。
ちょっと振り返って、静けさの澄み渡る家の中へ向き直る。改めて見ても、ほとんどの時間を一人で過ごすには随分と広い家だったと思えてくる。
「誰の仕業だか知らないけれど、お望み通りそのホグ……とかって奴に行ってやるわよ。そしてそこで、そんな訳の分からない学校が、私には全くもって必要ないってことを絶対に証明してやるんだから!」
決意に満ち溢れた表情と対照的に、モアが鞄を握り締める手元は僅かばかりの不安で震えていた。それでもモアは、これまで育ってきた家に背を向けて、窓の外のキングズ・クロス駅へ一歩踏み出すと、もう、それ以上振り返ろうとはしなかった。