ひばりを抱き、庇うような姿勢で窓に背を向け、俺が部屋の奥に飛び込むのと、ほぼ同時に――
ガガガガガガッ、と言う高速で飛来した物体――おそらくは石や金属片だろう、がマンションの壁に激突する音、そしてひばりの部屋を含む幾つかの部屋の窓ガラスが割れる音を俺の耳は捉えていた。
と、同時に
「ちょ、ちょっと遠山君?!」
窓ガラスの割れる音が聞こえていないかのような、それとは別の何かに慌てたようなひばりの反応。
しかし、その反応は、或いは理解できない類のものでも無かったのかもしれない。
ひばりからすれば、俺が突然立ち上がったと思ったら自分に向かって抱きつき、寝室まで強引に押し込まれたような状況であるのだから。
更に言えば……
飛来する物体に対して焦っていた俺は……
予想以上に力強くひばりを抱きしめ、そして、あろう事か左手はひばりのYシャツの下――つまりは地肌に直接触れるような状態に成っていたのだ。
基本的にはクールに見えるひばりと言えど、焦りを覚えるのも仕方の無いことか。
そしてこの状況が引き起こした変化は、ひばりの焦りだけでは無かった。
力強くひばり抱きしめ、文字通り体全体でひばりを感じ、更に極めつけは俺の体の下に居るひばりの、うなじが丁度俺の鼻先にあることによって……
仕事終わりにも関わらず、清潔でナチュラルな、それでいて不思議と甘ったるく感じるような石けんの香り――昔から変わらない、ひばりの濃厚な香りを存分に吸い込んだ俺は――
当然と言うべきか、体の中央に、瞬時に熱い血流が固まるのを感じていた。
これほど存分にひばりの全身を、触覚、嗅覚、視覚で堪能したのだから、成らなければ失礼というものである。
本日三度目――いや、ヒステリアモードの明晰な記憶力から正しい表現を導くなら、午前1時を回った今であれば、本日初と言うべきだろう。
時間を置いていないとは言え、本日初のヒステリアモードになった俺は、抱きしめたひばりの耳元で囁く。
「寝る時間、なんてひばりが言うモノだから、てっきりそう言う事なのかと思ったよ」
「あ、いや、そう言う意味が全くなかったと言えばそれは嘘になるんだけどでもそんなに突然来られてもまだシャワーも浴びてないし――」
追撃の気配が無いことを感じながら、俺はゆっくりとひばりから離れ、慌てた早口でまくし立てる、普段のクールさなど微塵も感じさせないひばりの唇に人差し指を当て、発声を止める。
「わかってるよ。愛らしいひばりに我慢出来なかった俺のミスだ……今度はひばりの準備が、ちゃんと出来るまで我慢するよ。許してくれるかな?」
コクコクコク、と言葉も発さず首を3回縦に振るひばり。
そんなひばりの姿に、微苦笑を浮かべながら俺は続ける。
「ありがとう。それじゃあ今日はこの辺で一端お暇するよ……それと部屋が少し散らかってるけど、俺が戻るまでこの部屋から出ないようにしてくれ」
できるかな?
そんな意味を込めた目で、ひばりの瞳を見つめながら言った俺に対して……
コクッ、とひばりはもう一度、首を縦に振った。
未だに状況が理解できていない様子のひばりだが、とりあえずは大丈夫だろう。
俺は静かに寝室のドアから外を窺う。
「あれは……」
割れた窓ガラスの向こう側――このマンションとは片側二車線の道路を挟んだ向かい側に立つ、企業ビルの屋上に、人影が1つ見える。
追撃が無かったことから、襲撃者は逃げたモノだと思っていたが……
まだ残っているなら好都合だ。
男女の夜の一時を邪魔する無粋者に、お仕置きをする為の一手間が省ける。
「それじゃ、また後で」
ひばりに言うや否や、返事も聞かず、俺は窓の向こう、コンクリート製のデッキに向かって走り出し――
桜花気味の蹴り足で、手すりを踏みしめ跳躍する。
「――ッ!」
後から俺を覗いていたらしいひばりの、声にならない叫びが聞こえた気がしたが……
心配することは無い。
俺は跳躍と同時に、平賀さんに改良してもらい、強度の増した繊維弾を向かいのビルの屋上付近に撃ち込み……銃口から着弾した屋上までに張られた、複相アラミド・リキッドのワイヤーの、青く発光する先端を右手で握る。
そのお陰で……俺は地面に落下すること無く、ビルの壁面に両足で着地することに成功したのだ。
そして、ワイヤーを頼りに俺はそのままビルの壁面を走り――屋上に辿り着く。
向かいのマンションから跳躍し、ここに辿り着くまでの所要時間はおよそ10秒ほど。
実に効率的な移動と言えるだろう。
「……」
ビルの屋上に降り立ち、襲撃者と正対した俺に対して……
唖然、とった表情で立っていたのは――
マンションから見た時から、遠目とは言え確認できた姿から、ある程度わかっていたことだったが……
つい数時間前、俺が強襲逮捕した半グレの一味
その一員であり、俺と戦った男……タトゥーの男だった。
「……どうやって逃走したんだ?」
間違いなく超偵用手錠で拘束され、逃走の手段は無かったはずだ。
まず何よりその確認のため、問い掛けた俺だったが……
「凄い!凄いよ!トオヤマキンジくん!」
よく見れば。
先ほどとは違い、紫色になった瞳のタトゥーの男は、まるで俺の言葉が聞こえていないかのようなテンションで、低い声に似合わない明るい口調で俺の名を呼んだ。
何かがおかしい。
今のコイツの口調は、先ほど俺と対峙した時とはまるで違う。
言うなれば別人だ。
そしてコイツの瞳……先ほどまでのコイツの瞳は間違いなく日本人に多い黒炭色だったはずだ。
唐突に別人のような変化、瞳の色の変化、この現象に――俺はこれに似た現象に何度か巡り会ったことがあったはずだ。
俺の脳裏を、有る可能性がよぎる最中、タトゥーの男は言葉を続ける。
「僕はさっきは別の子を使ってたから、ちゃんと見れなかったんだけど……見に来て正解だった!今のはターザンだね?聞いたことがあるよ!」
別の子を使うと言う、この表現。
タトゥーの男の発言から、予測の進度が深くなる。
コイツは、コイツの正体はまさか――
「お前は――色金、なのか」
「色金は一にして全、全にして一……だね?トオヤマくんはやっぱり凄いね。僕の容姿、僕の言葉からそこまで予測するなんて……だけど、不正解さ」
「だとしたらお前は……何者なんだ?」
タトゥーの男は、俺の予想をあっさりと否定する。
絶対の自信を持って放った予想では無かった。
色金は一にして全、全にして一
この言葉を知っている以上、コイツは間違いなく色金を知っているはずだ。その可能性も有る……その可能性をまず確認したが……違ったか。
……今の俺にはこれ以上の推測は出来そうにない。
ならば、コイツから今は少しでも情報を引き出す必要があるな。
答えでは無くても、何かしらのヒントを得ようと放った俺の問いかけに対して、
「今日は挨拶だけだから、これ以上情報は上げないよトオヤマくん」
その容姿に似合わない、悪戯好きな子供のような笑顔でタトゥーの男は言葉を続ける。
「だけど……トオヤマくんの凄いところは、もう少し見てみたいんだ」
タトゥーの男が、言葉を切ると同時に。
キラ、キラ、キラ、俺の左右5m程の距離で、光が明滅を始め――
二人の男が、そこに現れる。
立っていた二人の男は……
「嘘だろ……?」
ヒステリアモードの俺の口から、驚きの言葉が漏れる。
紫色の瞳をした二人の男は、つい先ほどまで俺がひばりと共に訪れていた居酒屋「臼木屋」
そこで俺を迎えてくれた、店員だったのだから――
「さぁトオヤマくん。キミの凄いところを――もう少し見せておくれ」
タトゥーの男が言うや否や
俺の左右に現れた店員の、紫色の瞳が――俄に発光を、始めるのだった――