ほんとうのものとは限らない。
村上春樹のことば
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───やはり面倒なことになった……。
そんなことを思いながら、がしがしと乱雑にタオルで湿り気を持つ頭を拭う。ともすれば頭皮や頭髪を傷めかねない行為だが、まだ頭髪に気を配る様な年齢でもないので意に介さず乱雑を続ける。
それよりも優先すべきは目の前で小さな寝息を立てている存在。
安物のパイプ椅子に座る自分の正面、白の医療用ベッドに横たわっている点滴に繋がれた病人着の少女。先程、海で拾ってしまった少女についてだ。
あの後、呼びつけた三阪翁の車を利用して一足で頼りの三阪翁の診療所へと向かった。簡単な問診の結果、少女は小さな外傷が幾つかあれど命に関わる様な外傷はなく、海面を漂っていたために起こった体温の低下と軽度の栄養失調が窺えるとのことだった。
どれぐらいの時間を漂流していたかはわからないが、海を漂っていたにしては驚くほどに軽症だ。
とはいえ、
───艦娘、か……。
音にせず呟く。
対深海棲艦制圧用特殊戦闘艦船兵士───通称、艦娘。
人類の仇敵である深海棲艦を唯一打倒できる鋼の少女たち。
そもそも深海棲艦は何故、人類の仇敵と呼ばれているのか? その最大の理由は、深海棲艦が常時発している怪フィールドが範囲内のあらゆる物理法則を侵食・分解してしまうからだ。そして、艦娘はその怪フィールドを中和・無効化できるフィールドを発動している。それ故に艦娘は深海棲艦に唯一対抗可能な存在なのだ。
ここまでは教科書で学べる、知識としての内容だ。
そして、医師の問診の結果、眼前の少女が艦娘だと云うことが発覚した。
───見た感じ、普通の女子だよなぁ……。
そんな風に内心で呟く。
ともすれば、軍規の塊である艦娘は一般人との縁が無さそうに思える。しかし、実際はそうでもない。各地の海軍鎮守府やら駐屯地では解放祭のようなことを定期的に行い理解を深めようと心掛けているし、メディアへの露出もある。未来の鎮守府関係者を青田刈りするため、理解を深めて貰うために鎮守府へ郊外学習を催す学校もあるという。また、艦娘と一般人の恋愛も昨今では珍しくないらしく、艦娘と一般人の婚姻ができる未来も、そう遠くはない。とニュースで聞いた覚えがある。
艦娘自体は珍しい存在ではないのだ。少なくとも、この日本においては。
しかし、十四年弱生きてきた自分の人生において、艦娘を生で見るのは初めての経験だった。理由は単純に接する機会がなかったからだ。
俺が住むこの町は海岸部が近いとは云え軍拠点からはやや距離がある。これといった名産もなく艦娘がわざわざ訪ねてくるのは稀だ。そして、俺自身も艦娘や鎮守府にさしたる興味がないので、解放祭などに行くこともなかった。
故に、今まで脳にあった艦娘像というのはシュワルツネッガーもかくやと言わんばかりの、弾けろ筋肉! 飛び散れ汗! みたいな女か、全身傷だらけのベルセルクみたいな女なイメージだったのだが、蓋を開けてみれば自分と同じぐらいの年の可憐な少女とは予想していなかった。
しかし、よく考えてみればメディアへの露出があり、ミリオタ以外にも熱心なファンがいるような艦娘という存在が女シュワルツネッガーやらベルセルクやらでは個性が強過ぎるし、そんな濃い個性が両手を振るって流行となれる世の中は嫌だ。と思うが、同時に、十代半ば程の少女に群がる大人たち、という絵面は犯罪的ではないか、と嘆息を吐く。まあ戯れ言だ。
そんな意味のない思考をしていると、自分の背後で扉の開く音が響く。足音の連続をいくつか置き、ややあって、
「おう、坊。眠り姫の具合はどうよ?」
嗄れた、しかし、溌剌とした声音が診療室に響く。
「見ての通り、まだおねむだよ」
振り返り、片手を振って答える。
視線の先、歩み来るのは六十代半ばほどの黒を幾房か持つ白髪の初老の姿だ。服装はスラックスに白衣、下には黒のワイシャツ姿。この三阪診療所の主であり、自分の保護者代わりである三阪正孝がそこにはいた。
三阪翁と八田家は爺の代からの付き合いであり、その頃からの縁で、天涯孤独であり未成年である俺の保護者を買って出てくれていた。俺自身も生傷の絶えない生き方をしているのか、よく世話になっている。
三阪翁は漁港から回収した学生服と鞄を此方に手渡しながら、煽りを持つ笑みを浮かべて、
「眠り姫を目覚めさせるには王子のキッスってのが相場らしいぜ?」
「王子ってガラじゃないんでな」
軽口に返せば、三阪翁は憐れみを有した視線を向け、
「…………まぁ、坊に王子ロールは無理だよなぁ。出来てチンピラか」
「こっちから振っといてなんだが、ぶん殴っていいか?」
握り拳の脅しに、おお怖い、などと心にもない言葉を笑って言い、三阪翁はこちらの隣にパイプ椅子を用意して腰かける。その上で笑みを浮かべ、
「で、どうするよ?」
そんな風に問いを投げてくる。楽し気な口調。主語のない問い掛けだ。しかし、何についての疑問かは解る。眼前の少女についてだろう。
故に、渋いものを内心に沈めながら答える。
「正直、決めかねている。というのが本音だな」
「その心は?」
催促する言葉に、少し黙考を置く。その上で、
「俺にだって解ってはいるさ。最良はコイツを海軍にぶん投げることだってことぐらいは」
それでも、と言葉を置いて、ベッドの上の少女を見ながら一息。
「なんか気になるんだよな……」
「お、一目惚れかな? ん? ンん?」
半身を左右に振りながら煽り立てる翁の鼻先にバックハンドを打ち込み、違う、と言い捨てる。
その上で数瞬の瞑目を置いて、
「……二、三言聞いてみたいことがある」
「さよか。……ま、俺はどっちでもいいけどね。好きにすれば? 拾ったのは坊だし」
へらへらと笑みを浮かべて、翁は足を組み、スマートフォンを取り出してゲームをし始める。それを視界の端に置きつつ、両腕を組んで横たわる少女を視界の中心に据える。
幾つか、少女に問い掛けてみたいことはある。と言った。しかし、究極的には尋ねたいのはこの一言だけ。
なぁ、
───アンタには本気になれるものがあるのか……?
音にしない疑問に、当然のことながら返答はない。
少女はまだ目覚めない。
答えは出ない。
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「…………助けて戴いて、ありがとうございます」
「見捨てるのは寝覚めが悪かっただけだ。気にするな」
述べられた少女の感謝の言葉に、しかし、ぶっきらぼうに投げる様な返答をする。
あの後、二時間ほど時間を数えていると、前触れ無く少女は目を覚ました。同時に三阪医師の口頭による問診が行われ、意識の混濁などがないことが明らかになった。
つまるところ、会話に問題がないという判断が下されたワケだ。
故に、ようやく俺の目的が果たせる。
そう思い、内心には高揚の二字を得ていた。しかし、それも過去のことだ。そんな浮かれ気分は少女を一目見て、あっさり霧散してしまった。
「…………」
無言の中、沈黙となる少女を値踏みするように見る。
ともすれば、不躾とも思われる様な視線を向けているにも関わらず、少女の表情に変化はない。先程のぶっきらぼうな物言いもわざと作った所作だ。
しかし、言葉や所作を向けられた少女は意に介することなく、表情にも変化はない。沈黙のまま、生気のない、熱の感じさせない瞳で此方を見ている。
あるいは、何も見ていない。とも云えるのかも知れない。
───嫌な目付きだ。
内心でそう呟く。
造形の整った顔立ち、そして綺麗な青の瞳を持っているのに、そこに宿る諦観の色が全てを台無しにしていた。
とはいえ気に食わないから、はいさよなら。をするのはリスクに釣り合わない。と理解している。
故に、
「…………あー、なんだ。俺もわりとリスクを背負ってアンタの救助したワケだ」
「……ありがとう」
「感謝の言葉が欲しい訳じゃなくてよ」
欠片もそうは思っていないフラットな、無感情な少女の謝礼に苦笑を浮かべながら、言葉を続ける。
そうだな、
「この恩は体で返して貰おう───とか言ったらどうする?」
片頬を上げて下衆な笑みを作り、問い掛ける。
勿論、本気ではない。断られることを前提とした言葉で、むしろ、どういう断り方をするのか、そういうリアクションを引き出す為の言動だ。だったのだが……
「そう」
「冗談だ。本気にするな」
しれっと、予想通りの返答をした少女に、即座に否定を置いた。
ともすれば、健全な男子学生なら喜んで然るべき答えなのかも知れない。……少女の言動に感情の色があるなら、と前提が付くが。
先程から少女の言動に、一切の能動が感じられない。今の質問も、本来なら怒るなり、困惑するなり、或いは喜ぶなりするべき問いなのだ。しかし、少女は無頓着に返答する。───受け入れる。
ただあるがまま全てをに受け入れ、流れるがままに為す。という在り方に思えた。
無関心、フラット、悪平等。
多分この少女は、死ねと言われればあっさりと死ぬだろう。と確信させるような薄気味の悪さ。
───気持ち悪い……。
そんな感想を内心で吐き捨てる。
とはいえ、直接面と向かって言わない程度の常識は有してるので、口にせず沈黙となる。どうするかな、と思考を作る。とはいえ、正直な話をすると当初少女へ問おうと思っていた事柄は、少女の反応から問う意味が見えなくなってしまっていた。それは、己が少女に固執する理由がなくなったということだ。
そんな此方の内心を知ってか知らずか、少女は小首を傾けて、無感情に疑問符を持ちながら言葉を作る。
「? 何か目的があって助けてくれたのじゃないの?」
向けられるのは色のない空虚な視線。そして、返答の意味を問わない無価値な疑問。俺が善意で助けたとは欠片も思っておらず、そして、自分は誰かに使われるものであるという前提からくる疑問だ。
そんな少女の空虚さが、なんとなく気にくわなかった。
だから、自然と口は動いた。
「帰りたい、とか、帰らなければならない、言わないのか?」
率直な疑問に、しかし少女は悩むことなく、
「特には。……どうせ死んだと思われてるだろうし、戻っても使い潰されるだけだろうね」
言葉とは裏腹に、悲観さや嫌悪といった一切の感情を感じさせない、淡々とした声音で言った。
愚痴や同情を誘うといったものではなく、ただ、問われたから答えた。というだけの言動。
とはいえ、想定通りの回答だ。故に、次の問いも用意している。
ならば、
「軍を抜けたいか?」
短い誘惑に、しかし少女は揺れることも憤ることもなく、
「別に。……どうでもいいや」
そう言い捨てた。
一つ間違えれば死ぬような、ともすれば捨てたとも取れる指示を出した存在に対する反応としては、あまりに淡白だった。
だが、その発言で胸中の予想を確信へと変える。
この少女は、己の居場所にも自由にも平等なのだ。否、そもそも居場所、という概念がこの少女にはないのだ。
艦娘は軍にいるのが自然だから、軍にいる。
軍にいる以上、戦うのが自然だから戦う。
戦場では死ぬかもしれないから、死にかける。
自主性なんてものは欠片もなく、ただ流されるままに死んだように生きる存在。
無機質。
無頓着。
或いは、死滅願望。
そこまで思考して、改めて少女を正面から見据える。蒼の双眼が返ってくるのを受けながら、内心で呟く。
───妙な拾いものをしたもんだ……。
とはいえ、少女が進んで帰りたがらない以上、拾ってしまった自分が責任を取らないといけないのだろう。
このまま少女を軍に返せば、少女の言葉通りあっさりと使い潰されるだろうことは目に見えている。それはそれで寝覚めが悪い。
少なくとも、死なせるために助けたワケではないのだ。自分も三阪翁も。
故に、
「丁度、住み込みの労働者が欲しかったんだ。よかったら暫くここで働いていかないか?」
そんな提案をしたのは、ある意味、当然の帰結であり、
「いいよ」
少女がそう返すのは、解りきった流れだった。
故に、こうなることは確定した流れだったのだろう。と、後になってみると思うのだが、しかし、この頃の俺はそんなことは解っていなかった。
何も解っていなかった。少なくとも、この時は。
それはともかく、
「アンタ、名前は?」
「時雨」
「俺は八田耕嬉。暫くよろしく」
対面、少女───時雨が肯首する。
それを認めて、視線を上へと向けて嘆息を吐く。
本気になれない少年と無表情の少女はこうして出会った。
夏の日の、台風一過の出来事だった。
ここまでがプロローグ