コロンボ警部がジムリーダーサカキに目をつけたようです   作:rairaibou(風)

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※ 作中にロサンゼルスという都市名が登場しますが、イッシュ地方などとの関係性は一切考慮していません。また、日本語圏である可能性が高いカントーの人間と、英語圏であるロサンゼルス市警のコロンボがなんの苦もなく会話をしていますが。そのようなものだと思っていただけると幸いです。


1.発覚

 ケンタロスの『すてみタックル』が、ニドキングに炸裂した。

 肉と肉がぶつかりあう鈍い音がジムの中に響き、その試合を見ている誰もが、その威力を想像して顔を歪ませる。

 ニドキングはそれを受け止めようと踏ん張っていたが、暴れ牛のパワーには敵わず、弾けるように地面を転がった。

 なるほど、戦いをよく知っている。と、トキワジムリーダー、サカキは、対戦相手をそう評価した。ニドキングのトゲだらけの外殻ではなく、無防備な腹を的確に狙った『すてみタックル』、その選択だけで相手の技量を読み取る。

「最後だ!」

 戦闘不能になったニドキングを戻し、言葉通り最後のポケモンを繰り出す。

 対戦相手のトレーナーは、そのポケモンを確認するより先に、再びケンタロスに『すてみタックル』の指示を出した。ケンタロスはその命令に忠実に、現れたポケモンを攻撃する。

 だが、今度のポケモンは、逆にケンタロスを弾き飛ばす。ケンタロスも、トレーナーも、目を見開いて驚きを表現した。

「さあ、どうする? 力だけではかなわんぞ」

 現れたポケモン、ドリルポケモンのサイドンは、フンと力強く鼻息を吐き、怯えているようにも見えるケンタロスの両角をむんずと掴んだ。それは、本来ならばかわすことが出来た動きかもしれなかったが、ジムリーダーサカキの最後の切り札であるサイドンに、トレーナーも、ケンタロスも、圧倒されていた。

「『じごくぐるま』」

 サイドンはその怪力でケンタロスをブンと振り回し、回転をかけるように宙に放り投げた。それは、彼等にとって初めての経験だった。翼が生えていないという先天的な身体構造と、鍛えに鍛えて後天的に作り出した重厚な肉体、それら二つは、ケンタロスという種族を、空から切り離すのに十分なはずだったし、他のポケモンの腕力で空に舞い上げられるなど、考えてもいなかった。

 頭から落ちないようになんとか体を捻りながら、ケンタロスは地響きと共に地面に叩きつけられる。なんとか首を守ることは出来たが、鍛え上げられた肉体は、比例的に落下のダメージを増やしていた。

 このサイドンこそが、カントー八つのジム最後の試練だった。それまで力に頼ってきた挑戦者にとって、そのサイドンのフィジカルは遥かに高い壁だった。

 しかもそれに、カントー八つのジム最強のジムリーダーであるサカキのテクニックが加えられる。単純な考えでは、決して乗り越えることは出来ないだろう。

 対戦相手のトレーナーは、苦しい顔を見せながらケンタロスをボールに戻す。カントー最強のジムリーダーであるサカキに力押しが通用すると思っていたわけではないが、やはり自分たちが積み上げてきたものが通用しないという体験は、単純に受け入れることは難しいだろう。

 だが、そのトレーナーは、決してそこで立ち止まるようなトレーナーではなかった。物事が、バトルが単純でないことを多少知っている実力者であるからこそ、彼はトキワジム以外七つのジムに認定されている。

 トレーナーが次に繰り出したポケモンを一目見て、サカキはサイドンに『じしん』の指示を出した。それは、カントー最強のジムリーダーらしくない速攻だったが、その対面における最適解でも合った。

 トレーナーが繰り出したポケモン、人のようで少し違う姿をしたルージュラは、サイドンよりも当然素早く、なおかつサイドンの弱点であるこおりタイプの攻撃を操ることのできる種族だった。

 だが、フィジカルが弱いという弱点もある。だからこそサカキは、先手を取られるより先に速攻を選んだ。その迫力に対戦相手がひるめば、そのまま一気に押し切ることもできるからだ。

 しかし、迫り来る巨体を前にしながら、ルージュラと対戦相手のトレーナーはひるまなかった。むしろ、そうすることこそが、この流れこそが当然だと心の準備が出来ていた。

「『れいとうビーム』!」

 指示を待ち構えていたのだろう、ルージュラは吐息を吐き出すように冷気の光線を作り出し、サイドンを迎撃する。

 氷に弱いじめんタイプのサイドンは、それに抵抗することが出来なかった。

 

 

 

 

「おめでとう」

 サカキはそう言って、トキワジムがそのトレーナーを認定した証であるジムバッジを、対戦相手のトレーナーに手渡した。

 トレーナーは、興奮と緊張からかガチガチに、ブリキのように不器用に手を振りながらそれを受け取った。

 サカキは、トレーナーのそのような動きを微笑みながら眺めていた。この瞬間は、ジムリーダーとして最も誇らしく、最も幸せな時間の一つだ。彼はトレーナーが一人前になる瞬間をこれまで何度も見てきたし、自らも一度、その興奮を味わっている。

 トレーナーにとって、バトルに負けることは屈辱だ。たとえそれがジムリーダーとして強さを制限されたパーティであってもだ。だが、その幸せな瞬間を味わえば、そのすべてが報われる。

 さらにサカキは、そばにいたトレーナーから円盤状の機械を受け取って、それもトレーナーに差し出す。

「これも持っていきなさい」

 それが『わざマシン』と呼ばれる、ポケモンに技を教えるための道具であることは、トレーナーの間では常識だ。

「これは『じわれ』と言う技で、相手を一撃で戦闘不能に持っていける、かつて私が開発した大技だ。餞別として、持っていきなさい」

 トレーナーは、感激しながらそれを受け取った。サカキのポケモンたちが使う大技『じわれ』を、彼が知らないはずがない。

「もし使わなくても、売ればいい金になるはずだ」

 ははは、と、サカキは軽口を笑ったが。トレーナーはそれを冗談とは受け取らなかったようで、ブンブンと首を横に振った。

「これから、君は一流のトレーナーとして世に出る。いつか、本気の私と戦うことができればいいね」

 最後に握手を交わしながら、サカキはトレーナーにそう声をかけた。

 トレーナーは今度は何度も首を縦に振りながら、サカキと戦える日を想像する。このジム戦が、サカキの実力そのものではないことを、彼は知っている。

「もし何か困ったことがあれば、なんでも私に相談するといい」

 そう言って、サカキはトレーナーを見送った。

 実力者を拍手で送り出すジムトレーナーの一人、ツチヤは、サカキを尊敬と、困惑の目で見ていた。

 

 

 

 

 

 

 その日の深夜、サカキはトキワジムのジムリーダー室に居た。

 ポケモン達とその日の対戦を振り返り、それに対する修練を夜遅くまで積んでいたのだ。シャワー室で汗を流し、あとはジムの戸締まりをしっかりと確認してから帰るだけ。

 この時間までジムに残っているのは自分ひとりだろうと、サカキは部屋の電気を落とそうとした。

 しかし、「サカキさん」と彼を呼ぶ声があり、扉がノックされる。

 サカキがそれに返事をすると、扉の向こうにいたのは、トキワジムのジムトレナーであるツチヤだった。

「ああ、ツチヤか、どうした?」

 サカキは意外な客を笑って迎え入れる。ツチヤは真面目一徹なトレーナーで、サカキもその実力をかっていた。

 ツチヤは、一歩二歩部屋に入ったが、それ以上は進まない。顔はうつむき、両手の拳は握られ、鼻息が荒く、足はなにかに緊張しているかのように震えていた。

「どうした」と、サカキはもう一度そう問うた。彼のそんな姿を見るのは、はじめてのことだった。

 ツチヤは大きく深呼吸をすると「サカキさん」と一つ名前を読んでから続ける。

「俺は、もう、あなたのことがわからない」

 今にも泣き崩れそうな彼をなだめるようにサカキが肩に置いた手を、彼は払う。

「あなたは、ロケット団のボスだ」

 その言葉に、サカキは表情を変えなかったが、しかし、その心の中には大きな動揺がある。なぜならば、それは紛れもない真実だからだ。

 ロケット団、ポケモントレーナーという武力を最大限に活かした暴力組織。数年前からこの世界で名を挙げはじめ、今ではおおよそマフィアというものの存在を語る際に一番に名の出る組織だ。それでいながら、その内情の多くが闇の中にあり、彼等をまとめ上げるボスの素性は、ロケット団の中でも限られた数人しか知らない。

 そして、トキワジムリーダーのサカキは、ロケット団のボスとしての顔も有していた。

「何を馬鹿な」

 しかし、サカキはそれを鼻で笑って否定する。

「どうした、らしくないぞ」

「らしくないのは、あなただ」

 サカキの合いの手を、ツチヤは振り切った。強い決意が感じられる。

「何を根拠にそう思う」

 はぐらかすことを諦めたサカキは、とりあえずそれを問うことにした。

「そんなことは、どうでもいい」

 突っぱねるような目つきだった。しかし、サカキは動じない。

「それで、そんな憶測でどうするつもりだ?」

 彼は、その疑惑が確信を得ているものではないと高をくくっていた。カントー最難関ジムのリーダーという肩書は、それを考えることすら否定できるほどの威光があることを彼は理解していたのである。

「俺だって、それを認めたくはなかった。あのロケット団の男が、口からでまかせにホラを吹いたと確信できれば、どれだけ良かったことか。ですが、それならば全ての辻褄があってしまう」

 まずいな、と、サカキは脳内で焦りを形にした。

 秘密主義で構築されているロケット団は、その殆どの団員が、ボスの正体を知らない。だが、限られた数人が、それを知っているのも確かだ。

 その僅かな数人のうちの一人が、ツチヤ相手に口を割ったと考えれば、ある程度納得がいってしまう。確かに幹部にはある程度の武力と忠誠を携えたものを選んではいるが、ツチヤほどのトレーナーならば、武力で彼等を上回ることもできるかもしれないし、その結果の前に、忠誠心が揺らぐこともあり得る。

 そして、ロケット団幹部からの情報ならば、それを思い過ごしと断言するのは難しいだろう。

「サカキさん」と、ツチヤが続ける。

「俺はあなたを尊敬しているし、この世界で最も偉大なトレーナーの一人だと信じている。だから、どうか、あんな連中とは手を切って欲しい」

 彼の目には、涙が浮かんでいた。

 はあ、と、サカキはため息をつく、馬鹿が付くほどに真面目な男だ。心の底から道徳を、倫理を尊重している。そんな願いが、叶うはずもないのに。

「なあ、ツチヤ。私はそんな連中とは全く関係がない、それこそ誓って言える。チンピラが苦し紛れにいった言葉と、私の言葉、どちらを信用するんだ?」

 その言葉に、ツチヤは一度ぐっとつばを飲み込んだ。だが、首を振ってそれを否定する。その考えは、その葛藤は、彼の中ではもう燃え尽きた後だった。

「今日まで、俺は誰にもこの事を言ってはいなかった、あなたを信じていたからです。ですが、それでも考えを変えないというのなら、俺はこの事を世間に公表します」

「誰も信じやしないさ、誰もな」

「本人が自供すれば、そうはいかないでしょう」

 そう言うやいなや、ツチヤはベルトに装着しているモンスターボールに手を伸ばした。

 サカキは彼の考えをすぐさま読み取り、自分も同じようにモンスターボールを手に取る。ツチヤは、彼がロケット団の幹部相手にそうしたように、武力を持ってサカキを抑え込もうとしている。

 だが、ツチヤがボールを放ることは無かった。

 代わりに、くぐもったような彼の悲鳴がジムリーダー室に響き、彼は膝から床に突っ伏す。

 サカキは不意に起きた惨劇に驚きながらも、ツチヤの首元に食らいついているゴルバットに目を取られていた。

 そのゴルバットは、ツチヤが戦闘態勢を取ろうとした瞬間に開きっぱなしのドアから音もなく侵入し、彼の首筋に噛みついた。そしておそらく、自身の持つ猛毒を、ツチヤに打ち込んだ。

 突っ伏したツチヤは、自分を襲撃したモノの正体を確認しつつ、更にそれに対する防御姿勢をとろうと、体を捻って起き上がろうとする。だが、彼が頭の中で思い浮かべていた行動を、彼は出来ない。神経に作用する毒が、彼の肉体と思想を断ち切っている。

 やがて彼は自身の肺が全く膨らまないことに気づき、息を吸い込もうと口を開くが、それが出来ないことに絶望し、どう仕様もない胸の痛みと、急激に全身の力が抜けるような感覚を覚える。それが自身の持つ知識の一つである、どくポケモンの毒による作用だとなんとなく感じ始めた頃に、彼の意識は途絶えた。

 人を殺したゴルバットは、それになんの動揺も示すことなく、ツチヤの背中で待機の姿勢をとった。獲物にかぶりつかないところから、そのゴルバットがトレーナーのポケモンであることは明白だった。

 状況を考えれば、次にサカキが襲われてもおかしくはない。だが、彼はそんなことを微塵も考えてはないなかった。それは、彼が自身のトレーナーとしての技量に絶対の自信を持っていることが理由ではなく、そのゴルバットが、自身を襲わないという確信があったからだ。

「サカキ様」

 扉の影から、一人の若者が姿を現した。全身を黒の衣服で固めたその青年は、死体となった目の前のものに一切動揺することなく、小さく指を振って、ゴルバットを自身のモンスターボールに戻す。

 その青年は、ロケット団の幹部の一人、サカキも自身の右腕としてその実力をかっていた。頭が良い反面考えが浅く、汚い仕事をこなすことこそが、サカキへの忠誠だと考えている節があった。

 自身に絶対の忠誠を誓っているはずのその青年を、サカキは険しい表情で見つめる。

「余計なことを」と、サカキは唇を曲げ、そう吐き捨てた。

 その言葉の意味することを知りつつも、「しかし」と、その青年は返す。

「危険な男でした。幹部から情報を聞き出し、サカキ様の正体を暴こうとしたばかりか、手をあげようとも」

「つけていたのか」

「はい、幹部の一人がこの男相手に口を割ったと聞いてから」

 はあ、と、サカキはため息をつく。日に日にその実力を上げていることは理解していたが、隠密という点でここまでの実力者になっているとは思っていなかった。自分でさえ、その気配に気づけなかったことが、この最悪の状況を招いたのだ。

「誰も信じない」サカキは死体となったツチヤをちらりと視界に入れながら答える。

 そう、状況は最悪だ。ジムという、ジムリーダーサカキの縄張りの中で、殺人が起こってしまった。血なまぐさい事件、ましてやロケット団とは対極にいるはずの自らの縄張りでだ。

 無関係を装わなければならない、と、彼は考える。この殺人と、自分が結び付けられることは、大きなリスクとなるだろう。

 そして、彼は幹部の若者の名前を呼ぶ。

「私の言うことをよく聞くんだ」

 

 

 

 

 

 それは、真夜中を回ろうかとしている時間帯だった。

 トキワシティの名物居酒屋であるその店の大将は、不意の客に声を跳ね上げる。

「おや、サカキさん。いらっしゃい」

 大将の声に、まだ店に残っていた数人の客たちは、一斉に入口の方を見て、驚きや喜びなどそれぞれの感情を表現する。ジムリーダーのサカキがこの店を贔屓にしていると知ってはいたが、いざ目の前にすると、それぞれ思うところがあった。

 サカキは、帽子と外套を店員に手渡しながら、「どうも」と、彼等に会釈した。

「こんな時間に珍しいね」と、大将はカウンターから身を乗り出すようにして言う。

「ちょっと調整がうまく行かなくてね、今日の試合の中で少しまずい動きがあったんですよ」

「ははあ、大変ですなあ。ささ、こっちに」

 大将の目の前の席に招待されたサカキは、いつも自分が頼む酒を注文する。

「静かなのがよけりゃあ、出来上がってる客は帰しますぜ」

 そう言って大将が指さした先には、顔を真赤にさせてまさに酩酊している何人かの客がいた。彼等はそわそわとサカキの様子を窺っていた。大将が睨みを効かせていなければ、すぐにでも絡みたいといった風に。

「いや、構いませんよ」と、サカキは彼等に手を振りながら答える。

「この街におけるジムのあり方について、誰かと話したい気分だったんです。むしろ、私が皆さんの代金を支払いますから、少し付き合ってほしいですね」

 サカキの粋な提案に、大将はぱっと表情を明るくし「今日はジムリーダーのおごりだそうだ!」と、店中に響き渡るような声で言う。

 客たちはそれに歓声を返し、一人、また一人と好奇心のあるものから順番に、サカキのそばの席へと移動し始めた。

 

 

 

 

 サカキがその店を訪れてから二時間ほどがたった。

 客たちは代わる代わるに、サカキと会話をしていた。その途中に必要以上に彼に絡みたがる厄介な客もいたが、店の大将が、彼等を上手くあしらっていた。

 サカキは、トキワジムに対する客たちの意見や、それぞれの相談事などに答えていた。

 トキワシティの住人である客たちは、概ねジムリーダーやジムトレーナー、トキワジムというものに好意的で、中には、カントー最難関のジムがトキワシティに存在することを誇りに思っている住民もいる。

 そして、彼が今相手にしている老人の悩みは、孫がトレーナーとして生きることを渋っていると言うものだった。ポケモンたちの原生林であるトキワの森を遊び場に育ったその老人にとって、それは考えられないことだった。

「好きなことをやらせれば良いんです、バッジを集めることを急ぐ必要はありません。年老いた人物が私に挑戦しに来ることは珍しくありませんし、我々は彼等を特別な目で見ることもありませんよ。生まれたその時からトレーナーとして完成している人物もいれば、人生を経験することで完成するトレーナーもいる。戦うことを強要するのは、コロッセオと変わりはしません」

 しかしサカキは、その老人よりも、そこにいない孫の肩を持つ。一人の教育者として、サカキにはサカキの考えがあり、アルコールが入っても、それが変わることはない。

 サカキの答えが望んだものではなかったのだろう、老人はううむと一つ唸ってから盃を仰いだ。

 その言葉で、その老人が考えを変えることはないだろう。だが、彼の孫に対する態度が、少し柔らかくなることは間違いない。

 納得していない風の老人に酌をしながら、サカキは腕時計を見やった。

「そろそろ帰りますかい?」

 酒場の長らしく客の振る舞いに敏感な大将はサカキにそう問うた。

「いや、今日は気分がいいから閉めるまでお邪魔しよう。問題はないだろう?」

「そりゃもちろん。ジムリーダーを追い出すほど商売下手じゃありませんよ」

 その言葉に微笑んだサカキに大将は嬉しく思い、滅多に出さない秘蔵の酒を出すことも考えたその時、消防車のサイレンの音が、小さく聞こえた。この賑やかな酒場でも聞こえるのだから、実際には相当近くに来つつあるだろう。

「こんな真夜中に火事ですか」

 そうつぶやく大将に、サカキもその音に気づき、盃を傾けることで、表情がこわばるのを誤魔化す。

 客の一人、最も早くサカキに近づいた野次馬根性の強い男が、言葉のようなものを叫びながら居酒屋から出ていった。彼の外套やカバンなどはそのままだったから、ダイナミックな食い逃げというわけではないだろう。

「火の不始末は怖いですからね」と、大将がしみじみと言う。

「うちも気をつけなきゃ」

 やがて大きくなり始めたサイレンの音と共に、先程の野次馬男が、居酒屋のドアを力いっぱいに開いた。時間帯に似つかわぬ騒音に、大将を含む客たちすべてが、彼に視線を移し、サカキもまた、それが不自然にならないように気を使いながら、彼等に追随する。

 野次馬の男は、先程までの真っ赤な顔をどこかに置いてきたかのように、真っ青な顔色をしていた。「サカキさん」と、敬称をつけてサカキを呼ぶことから、酔いもすっかりと冷めているようだった。

「ジムが」

 野次馬の男はそれだけ言って、再び外に帰る。

 サカキはすぐさま席を立って、彼に続く。察しのいい客たちもそれに続き、大将はそれを確認したい気持ちと店を守らなければならない気持ちの中でせめぎあい、やや遅れて彼等に続いた。

 彼らが見たのは、真夜中の闇を切り裂くように燃え盛る、トキワジムだった。幸いにも、トキワジムと居酒屋はかなり離れており、自分たちに被害が出ることはなさそうだった。

 彼等は皆、サカキの方を見た。燃え盛るジムの主を見た。

 サカキは目を見開いて驚いていたが、やがて一つため息を吐いて言う。

「良かった、誰もいないときでよかった」

 それを聞き、客たちはサカキに対して崇拝に近いような感情を覚えた。自らの城であるジムが燃え盛っているこの状況で、自分以外の誰かのことを気にかけることができる精神力に、皆感服していた。

 当然、それはサカキの演出の一つだった。一つ、ポツリとそうつぶやくことで、今、ジムには誰もいないはずだと言うことを、誰でもないサカキ自身が信じていることを皆に印象付けるための演出。

 そして、もし火災の現場から誰かの死体が出てきても、それがサカキの想像の外であるということを、彼等は疑ってはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 真夜中と言っていい時間も後半になろうとし、海中の生物たちが活気よく動こうとしていた頃。

 ロケット団幹部の青年は、二十一番水道を、部下の手持ちであるラプラスに乗って南下していた。それもすべて、ボスであるサカキの指示である。

 二時間後にジムに火を放ち、ナナシマ諸島のアジトに身を隠せ、それがサカキの指示だった。

 それは、青年が思う限り最良の選択だった。本土から遠く離れたナナシマのアジトは、そもそもその存在すらも知られてはいない、身を隠すにはうってつけ。

 そして、身寄りもなく、ジムトレーナーのような表の顔のない自分が消えたところで、誰もそれを気にしはしないし、怪しまれもしない。自身をロケット団に追いやった社会と言う人格の彼への無関心さが、ここに来て、彼に有利に働いた。

 これなら、ジムの遺体とサカキとの間に線が引かれることはない、ケチな物取りが、大胆にもジムに忍び込み、出会わせたトレーナーを殺した後に、証拠隠滅をはかるために火を放った。当然それで証拠や遺体が消せるわけではないが、そのずさんも、聡明なジムリーダーの対極の存在として考えられるだろう。

 青年は、懐からセカンドバッグを取り出した。中には、ジムの中にあったほとんど全ての、物取りが盗みそうな物品が詰め込まれており、結構な重量だった。

 しかし、青年はそれを惜しむことなく海に放り投げる。割と大きな音が響き、闇の中には波紋が広がっているだろうが、ラプラスの進みが、それから遠ざかる。

 チンケな稼ぎだ、と、青年はため息を吐いた。ジムリーダー、社会的には大物かもしれないが、その本拠地にあった物品のなんと貧相なことか。サカキの裏の顔が動かしているものを知っている青年は、そのギャップに軽い笑いすら覚える。

 彼のような男を失脚させようとすることは、つまるところ社会の損失なのだ、と、青年は考える。

 だから当然、あの男が命を絶たれたのは、この社会を維持するために必要な犠牲だったのだ。

 不意な水音に、まさか偉大な幹部が海に落ちたのかと彼を確認したしたっぱは、彼が詮索を嫌う性格だということを理解しながら、こんな真夜中に仕事をさせられていることのささやかな報酬位いいではないかという気持ちで、彼の暗号名を呼ぶ。

「アポロさん、一体何があったんですか?」

「なに、大したことはない。ゴミを掃除しただけだ」

 振り返らずに答えられたその言葉に、したっぱはそれの含むものを想像し、身を震わせて、これ以上の詮索をやめた。

 青年は、それを後悔してはいなかった。唯一しまったと思っていることは、その殺人を、衝動的にサカキのテリトリーで行ってしまったこと。殺人という行為そのものにはなんの躊躇もなく、何度過去を繰り返しても、どの次元でも、自分はそれをしていただろうと想像していた。




刑事コロンボの最も特徴的な形式の一つとして、倒叙形式があります。
これはまず犯人側の視点で書かれるミステリーのことで、トリックの複雑さよりも、犯人の完全犯罪が主人公によって一つづつ崩されていく過程を重要視する形式です。
コロンボの他に倒叙トリックとして有名なのは『古畑任三郎シリーズ』ですね。
刑事コロンボはシリーズは今から三十年以上も前の作品ですが、今でも色あせない面白さを持っていると思っているので、見る機会などがありましたらぜひ

刑事コロンボhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E4%BA%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%9C

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