結婚まではいかないまでも、作家と担当編集として二人三脚でパートナーとして、恋人として寄り添う二人です。
暗い室内、女性特有の甘い匂いと微かな衣ずれが否応なく耳に入り、何とはなしに落ち着かない。
そんな中で細く華奢な指をたどたどしく繰りながら、彼女、一色いろはは小さく息を洩らす。やがて指は一瞬、動きを止めて、覚悟を決めたかのように黒い一物にそっと指を伸ばした。
「・・・一色、ホントにやるのか?」
緊張ゆえか、これかる始まることへの戸惑いか、どちらかは分からないが深く深呼吸を繰り返す彼女を見てつい声をかけてしまった。
すると、少し不満げに頬をふくらませて俺を睨んでくる。
「ここまで来て何を言ってるんですか。やるって言ったらやるんです!・・・それに」
勢いづいた返答から一拍、膨らませた頬から空気を抜いた彼女は、ほんの少しはにかむように告げる。
「先輩の前だけですから、こんなことできるの」
さっきまでの緊張は何処へやら、その柔らかい表情を見せられ思わず息を呑んでしまった。
そこまで言われて俺も覚悟を決める。
そんな俺をみて、一色はまた照れたように笑い、もう一度だけ息を吸い込んでその一物に、思い切り
「課長のばっかやろーーーーー!!」
絶叫した。
続いて流れる自分たちが生まれるより古いであろうギザギザなハートを歌った曲を熱唱する一色を見ていると思わずほろりとしてしまう。
薄暗い部屋で男女二人っきりの色っぽい空気も、一歩間違えれば言い訳しようのないさっきの会話も、彼女の余りに実感の籠った「そんなに私が悪いのかー!!」という悲痛な叫びによって一瞬でかき消されてしまった。
そりゃ、こんな姿を自分以外には見せられやしないだろう。
付き合いの長い俺でも今日の荒れはすには、若干ビビっているのに、彼女の上っ面に騙された野郎や友人が見たら思わずウナジにチャックを探し始めてしまう事請け合いだ。
何でこんな事になってるのかって?俺が聞きてえよ。
そんな事を考えながらチビチビとドリンクを舐めるように呑んでいると間奏に入った瞬間にリモコンがずずいっと俺の前に置かれる。
「今日はアニソンは禁止です。私が好きそうな癒される渋い曲オンリー、つまり、いろはオンリーです」
「・・・ぷりきゅ「論外です」
何この理不尽。
あと、プリキュアはもうアニソンを超えた何かだと非常に訴えかけたい気持ちが沸きたつがコイツの目がマジなので後日にすることにした。というか、俺にアニソン以外とかマジか。みたいな意見を口ではなく目に乗せてみるが彼女は勝ち誇ったようにこちらを見返してくる。
「小町ちゃんが、二人でカラオケに行くときにメジャー所は大体仕込んでくれてるらしいですね~?しかも、目を瞑って聞けば悪くないとの事です」
「実の妹が敵とは思わなかったぜ・・・」
衝撃の事実に泣き崩れそうになっている振りをして誤魔化そうとするも、問答無用でリモコンを渡されて文句を言う前に本人は歌に戻ってしまった。
文句を言う相手を失って、力を失った言葉を溜息に変えて吐きだす。
言いたい事も、文句も、主張もあったが今日は大人しく呑み下すことにした。
なにせ、ひっそりとプライド高い後輩が、こんなにもストレートに”励ませ”と要請してきているのだ。
これに答えなきゃ、男が廃る。その前に小町に怒られちまう。
そんな事を考えながら、慣れない手つきでリモコンを操作していくとピッタリの曲が目に着く。
まあ、これを聞いて笑うか泣くかは人それぞれかも知れんが、結果の保証適用外の商品を求めたのはアイツだ。
せいぜい笑ってくれたなら幸いと思いつつ、俺は曲を送信する。
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「あっはははっはっはっははははは!!ふつー人を励ますのにあのラインナップで攻めてきます!?あはははは!あー、さいこー!!」
そうは思ったモノのコイツは笑い過ぎである。
こっちだって鳥肌が立つのを我慢して数曲歌いあげたのに、ここまで笑われると少々気分は良くない。
そんな憮然とした表情の俺を見た一色はあざとく腕に手を回してきて笑いをかみ殺しつつも、ご機嫌とりを始めてくる。
「く、っくく。いや、でも、選曲はともかく、歌が始まった最初はガイドボーカルが入ってんのかと思っちゃうくらい上手かったですよ。アニソン以外もあんなに歌が上手いならいつも普通に歌えばモテるのに」
「お前は自分の事は棚にあげての発言が日増しに凄くなっていくな・・・。他人の好みで自分の好みを曲げてまで歌いたかねぇーよ」
にまにまと見上げてくる猫みたいな両目と身体の柔らかさや匂いにあっさりと不機嫌を直しつつある自分のちょろさに辟易しながらも適当に返答すると、その相貌が微かに見開かれた後、ババッと距離をとる。
「な、なんですか!他人の為には主義を変えないアピールからの”お前の為なら主義くらい幾らでも変えてやんよ”アピールですか!?不覚にもときめきそうでしたけど、もっと夜が更けていい雰囲気の時に言い直してもらっていいですか!?ごめんなさい!!」
「・・・いや、もうそれでいいや。で、次は何処いくんだ?」
もう、このやり取りも10年近くやってるのかと思うと、呆れを通り越して単純に凄いと思ってしまう。
そんな諦観と共に溜息を吐きだして、一色の愛車の屋根を叩くと彼女は、不満げに頬を膨らませて”もーちょっと、相手してくださいよー”と言いつつ颯爽と助手席に乗り込んでしまった。
そして、ハンドルタイプの窓をんしょんしょとあざとく開けた彼女は満面の笑みでカギを差し出してくる。
俺は、この流れを知っている。
何度となく苦汁を味わって来た、あの質問が、また要求されている!!
「・・・どこ、行きたいんだ?」
「先輩の行きたい所でいいですよ?」
俺は天を、いや、灰色の駐車場の天井を見上げる。
まさに、いまの俺の心境にふさわしいくすみ具合であることは間違いない。
えーーーー、もうこの質問無しにしようってこの前いったじゃーん。
そんな俺の心の声など無視するように一色は笑顔で車のキーを差し出している。なんならさっさと取れよと言わんばかりのプレッシャーまで感じる。
大体、コイツの判断基準がほんとよくわかんないんだよなー。なんか嫌々入って行った俺の趣味全開の所だと最後には文句言いながら楽しそうにしてるし、気を使っておしゃれな所に行くと笑いながらむすっとするし。もうなんかどうしたらいいの?これ?
「いや、今日は、ほら、もう満足したし、疲れただろうし家まで「”私は”満足してませんし、疲れてませんよ?」
自然な流れで帰宅を提案したらバッサリといいきる前に切られた。昔やったクイズの間違えを突き付けられた気がする。何が彼氏の家だ、馬鹿じゃねーの。
自問自答、愚痴、不平不満、その他多くの葛藤と闘いながら、俺はやがて目を見開く。
かつての俺には出せなかった回答が今は確かにある。
くすんだ天井も今だけは淀んだ目に輝いて見え、一色の差し出す鍵を力強く手に取る。
「一色、最高の場所に連れて行ってやる」
「・・・こんな力強く言われて不安しか出てこないのってある意味才能ですよね?」
やかましいわ。
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「私、先輩に謝んなきゃいけませんね・・・」
「いい、一色。もう細かい事なんか忘れた。だが、この後の一杯はお前のおごりだからな」
「めちゃくちゃ気にしてるじゃないですか!!」
先輩のアリの様なちっさな心に思わず突っ込んでしまうが、今はそんな些細な事さえすぐになごみ溶けて行ってしまう。
自分の目の前に広がるのは、真っ白な湯気とうっすらとした照明に浮かぶ乳白色のお湯とほんのりと薫るヒノキの匂い。
そんな空間が自分の体と頭の芯に残ったコリをほぐして行く感覚に身をゆだねて、ゆっくりと吐息を吐きだし、吐いた息の代わりに優しい木の匂いが心を更にほぐして行く。
まさに夢見心地といっても過言ではない。
そんな極楽気分のまま、視線をちらりと同居している人物に移してみるが、この極楽に感じ入っているのかこっちを見もせずに静かに湯船の中で目をつぶっている。
こんな美女と同伴で来ているのにこっちを見もしないのは少々礼を失していると怒ってみるが、彼の普段見ない表情に口を突きかけた言葉を呑みこんでしまう。
彼の代名詞でもある淀んだ目は静かに閉じられ、長い睫毛や整った顔立ちにほんのりとした朱がさしているせいか何時もよりずっと健全な雰囲気を感じさせ・・・不覚にも、綺麗な顔だと思ってしまった。
「・・・ほんと、先輩って残念美人ですよね」
「オーケー、さっさと湯船を出ろ。今度こそお前との決着を着けてやる。卓球でな!!」
「そこで拳とかじゃなくて、卓球が出てくるのがいい事なのか悪いことなのか判断に迷いますね・・・」
水面を揺らしながら立ち上がってラケットを構えるポーズをとる彼を見て思わず苦笑してしまう。
彼の顔も、鎖骨のラインも、細いけど自分とは違うその腕も、全部好きだけどやっぱり自分の奥底をくすぐるのは淀んだ彼の双眸とくだらない事しか考えない彼の内面なのだと改めて認識させられるから。
「というか、不満はないですけどデートで”温泉ランド”を選ぶのは十分に”残念”と言わざる得ない気がしますけど~?」
そんな照れくささを隠すためワザと憎まれ口を叩いてみると彼は不満気に顔をしかめながらまた体を湯船へと沈めながら答える。
「元々が、あの質問やめろッてんのに振ってくるお前が原因だ」
「それでも毎回必死に考えてくれる先輩の気持ちが嬉しくて、つい」
「・・・ぶっ飛ばす」
憮然と答える彼が面白くてついコロコロと笑ってしまう。
でも、これについては一切嘘ではない。
いつも自分の中では”無い”と思っていた経験が、体験してみたら面白くて、楽しくて、つい何度でもねだってしまう。
隣にいる彼の楽しんでくれるかと自分を気遣いつつも、本人が待ちわびてる顔が、大切にされていて、彼が好きな世界に触れるのだとするあの実感が本当に嬉しくて好きなのだ。
逆に、彼が自分に気を使って選んでくれた様な場所を紹介されると、少し悲しくなる。罪悪感が、ある。
貴方の見る景色を一緒に見て、体験してみたいのに、自分がそれを妨げている事が、悲しくなってしまう。
それが身勝手な感情だとは分かっているがどうしようもない。
それでも辞められないこの行為に気付いてくれない彼にだって罪はあるのだ。
私曰く、”貴方色に染めて”とこんなに伝えているのだから。
いろはにほへと・・・ほど殊勝な心ではないけれど、こんな凡俗な気持ちだって今を生きる私の本心だ。
一色いろは、自身をそう皮肉って、愛しい男の肩へとゆっくりと寄りかかる。
「先輩、大好きですよ」
答える男は憮然とし、されど頬染め。
「・・・」
その無言こそ最上の答えと知ってか知らずか、ただその頭をなでる。
その不器用さこそが、彼の最大の誠意だと知る少女は更に深く息を吐いて、その身をゆだねる。
このろくでなしを好きになって良かったと、心底息を吐く。
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蛇足
「で、ここは誰に紹介してもらったんですか?」
「・・・・・・・・・」
優しげな笑顔で思い切り俺の太ももをひねる一色に俺は涙を滲ませながら笑顔で答える。
「こ、このまえ、平つかァァァァアァァあああああああああああ!!!!!!」
捻られた太ももが思い切りつねられる、て言ううかいたいあたいいいいいいい!!
「へー、先輩はあんな生殺しの返答した後輩を差し置いて、年増の美女とこんないやらしい所にきちゃう方だったんですねー?」
「いや、tyyう、違い舞うjh義うあヘリhああsdfgh、ひ、平塚先生と来たのは貸切の方ではあああああ、なく!!一般の、共同スペースだけです!個室は借りてない!今と同じ!みずぎじょうたいんんんんんんのののおののの!!ごめんんなさいいいいいいぃぃxじぃい!!」
絶叫と共に叫んだ謝罪と共に一色の万力のような指が俺から離れ、ほっとしたのは束の間、思い切り両頬を掴まれて無理くり正面に一色の顔が迫る。
「比企谷さん」
普段は絶対呼ぼうとしない名前で呼ばれ、微かに朱色が滲む湯船からの意識が無理やり引きはがされて、目の前に映るのは、泣きそうな、それでいて切なそうな少女・・・いや、ろくでなしのせいで抱えなくていいような不安を抱えた一人の女性の顔だった。
あの時、あんな曖昧な選択をせずに、はっきりと彼女を選んでいたら、彼女にこんな顔をさせずに済んだのだろうかと。意味の無い葛藤を数瞬して、ゆっくりと彼女の額に自分の額を当てる。
今の自分には、それしか、出来ないから。
「平塚先生と来たのは共同の温水プールみたいな所で、なんもねえよ」
優しく、出来る限り真摯に彼女に語りかけるが、それでも彼女はお気に召さないようで。
「それだけじゃ信じられないです。先輩、浮気性ですから。今日、個室にした理由を述べてください」
きっと自分のなかで答えはあるくせに涙目で問うてくる彼女が可笑しくて、普段は絶対に言えない言葉が口をすべる。
「・・・大切な女の肌を、他の野郎になんざ見せたくねぇだろ」
そう口走った瞬間にあたった何かを説明するのは、後日に回そう。
それを詳細に説明するには少々、長くなりそうだ。