その時の私はただ怖くて、足が震えて涙が溢れそうで、体を動かす事ができなかった。
悲しい時や不安な時、いつも私達は五人一緒だった。五人一緒だったから何が起きても乗り越える事ができた。五人一緒だったから安心できた。
でも、今日に限って違った。みんなとはぐれてしまった私は一人ぼっちだったから。
一人だと何も出来ないんだって、思い知らされて、恐怖と不安と寂しさで胸が押し潰されてしまいそうで。
そんな時だった。彼が私の前に現れたのは。
颯爽と現れて私の手を掴んだ金髪の男の子。昔お母さんに呼んでもらった御伽噺で見た王子様を私は思い出していた。
お姫様の窮地に駆け付ける白馬に乗った王子様。
ヒロインと必ず結ばれる運命の人。
女の子なら誰しもが憧れる存在。
ピアスを付けて、前髪を上げた彼の姿は王子様とは程遠くて。
でも間違いなく私の目には彼が絵本から飛び出てきた王子様に見ていた。
────掴んでろ。
手を掴まれて戸惑う私に彼はそう言い放った。
私はただ言われるがままに彼の手を握り返して、そのまま一緒に駆け出した。
握られた男の子の手は女の子の私よりも少し大きくて、力強くて、それでいて暖かかった。
姉妹のみんなと一緒にいる時とは違う不思議な安心感を私は彼に抱いた。
そしてその安心感を上から塗り潰すくらい、緊張もしていた。
だってそうでしょう。男の子に手を握られるなんて初めてなんだから。
安堵と緊張と興奮が混じり合い重なり合って私の胸を駆け巡る。
心臓の音が自分でも聞こえるくらいどくどくと鼓動を刻んで、私の頬が林檎のように真っ赤に染まっていたのは鏡を見なくたって分かった。
何もかもが初めてで、何もかもが新鮮で、何もかもが分からない。
でも、それでも一つだけ。これだけは確かだと言えるものが、一つだけあった。
────この出会いはきっと私にとって運命だったんだ。
◇
小学校の修学旅行と言えば小学生達にとって一大イベントである。それは悪ガキだった上杉風太郎にとっても同じで今日という日を一週間も前からずっと楽しみしていた。
行先は定番の京都。父親から勝手に拝借したカメラを首に掛け、みんなで遊ぶ用のトランプも鞄に入れた。準備は万端。おまけに気になる幼馴染の女の子とも一緒の班になれた。テンションを上げるなと言う方が無理がある。
修学旅行当日の朝は風太郎にとっては間違いなく人生で最もハイで、人生で最高の一日になるという予感に胸をときめかせていた。
……だが、蓋を開けて見ればどうだ。
一緒の班だった気になるあの子には家族ぐるみで付き合いのある男子がいると判明し、五人班で残りの男女二人もいい雰囲気だ。二組の仲の良い男女とその他一人。これでは明らかに自分だけが浮いている。
──不要なカードは切り捨てていけ。
ふと新幹線でトランプをしていた時の自分の言葉が風太郎の中で木霊した。
ここでの不要なカード。そんなのもは考えるまでもない。それが『誰』か何て馬鹿な自分でも分っている。
だからその不要なカードを切り捨てる事にした。上杉風太郎という要らないカードを。
腹を壊したと嘘を吐いて、彼らを五人から四人の割り切れる数字にして、楽しんでこいと自分から彼女達とはぐれた。
別に格好つけた訳じゃない。ただあのまま班にいるとやるせなさや惨めさを噛みしめるだけだと思って、それが嫌で逃げ出しただけだ。
それに散ったばかりの恋にも満たない淡い感情を整理する時間が欲しかったのも事実。端的に言えば風太郎はただ一人になりたかったのだ。
なにやってんだ。せっかくの修学旅行なのに。
班の連中と別れた後、手持ち無沙汰になった風太郎は京都駅の階段で座り込みながら道行く人々にカメラを向け、そして幼馴染の顔を浮かべてはアンニュイな気分に陥っていた。
カメラの中には新幹線で撮った幼馴染である少女の横顔が既に何枚か保存されている。何度も消そうとしたが、試みるだけで結局、寸前のところで指が止まる。そう簡単に割り切れるものではないと思い知らされて、やるせなさに嘆息した。
楽しみにして浮足立っていた今朝の自分が嘘のようだ。最低の気分で過ごす最悪の一日。よりにもよって小学校の修学旅行という一生に一度のイベントなのに。
一人になりたかったのは事実だが一人が楽しい筈がない。だからといって今更、自分の班と合流しようという気にはなれない。それをすれば何もかもが中途半端に終わってしまう。
彼らとは集合時間ギリギリまで粘って頃合いをみて合流するのがベストだろう。
でも、結局それまでは一人ぼっちに変わりはない。孤独な時間は嫌でも自分の惨めさを痛感させられる。
せめて何かで気分を紛らわせたい。何かないだろうか。
そう思ってカメラを覗き込みながら辺りを見回している時、ふとその光景が風太郎の視界に入った。
ゴスロリのような服装をした年齢不詳の女性が純和のワンピースを身に纏った少女に対して何やら捲し立てていた。
少女の方は自分と同じくらいの年齢だろうか。二人の間に何かトラブルがあったらしい。
耳を傾けてみると、どうやら少女の方がゴスロリの女性をぶつかってしまい女性がこけて服が汚れてしまったそうだ。
その事で女性は少女に対して怒りをぶつけている。怒鳴り散らす女性に少女は完全に萎縮してしまっていて目に涙を浮かべていた。
女性の方は更にヒートアップした様子で声を荒げていく。周りの人間も騒めき始めた。
流石にそろそろ誰か止めるだろうと風太郎は彼女達の周りを眺めた。だが、どうにも少女の保護者らしき人物や友達が見当たらない。
周りの大人達もただ傍観しているだけ。誰も止めようとしない。少女の味方は誰一人いない。
────俺と同じ一人ぼっち、か。
そう思ったと同時に体が無意識に少女の元へ駆け出していた。
◇
………面倒な事になった。
風太郎は大きくため息を漏らしながら金髪に染めた頭を掻いた。
「風君! 見て見て、さっきまでいた京都駅があんな小さいよ!」
「なあお前、いつまでついてくんだよ」
「掴んでろって言ったのは風君でしょ?」
「……言ったけど」
「ならいいでしょ」
自身の腕を先程からずっと掴かんでいる少女に風太郎は頭を悩ませた。眉間に眉を寄せる風太郎とは対象的に少女の方は鼻歌でも歌いそうなくらいご機嫌な様子である。
風太郎は京都駅での出来事を浮かべてはため息を付くサイクルをもう何度も繰り返ししていた。
気付けば、体が動いていた。
涙を浮かべる少女の元に駆けつけ掴んでろと手を差し伸ばして、全力疾走であの場から逃走してきた。
そのまま成り行きで少女と行動を共にするようになったのだが……。
なんであんな事をしちまったんだ……。
自身の軽率な行動に頭痛がした。本当にどうかしている。普段の自分ならきっとあんな真似はしなかった。
無条件で人助けをするほど自分は善人でない。困っていた少女を助けたのは何かで気を紛らわせたかったのと……彼女が自分と重なって見えたからだ。一人ぼっちの自分と。
善意で助けたつもりは微塵もない。ただの自己満足だ。だから礼は要らないと、彼女を適当な場所まで送ってそのまま別れようとした。
しかし今日はどうにも思い通りに事が運ばない日らしい。所謂、厄日という奴だ。
どういう訳か、少女は風太郎の腕を離さなかった。ゴスロリ女から逃げ、いくつか観光地を巡り清水寺にまで辿り着いた今この時まで少女は頑なに腕を離さず、殆ど密着した状態だ。
最初は余程怖かったのだろうと同情した。ただの小学生が一人ぼっちで奇妙な格好をした女に絡まれたら恐怖するのは無理もない。
だが彼女の楽しそうな表情を伺うと、どうにも違うように思えてきた。最初はそうだったかもしれないが少なくとも今は怯えた様子などなく、ただ純粋に観光を楽しんでいるように見える。
では何故ついてくるのか。風太郎にとっては謎でしかない。
ついてくるな。手を離せ。似たようなやり取りを何度も繰り返しているが彼女は一向に離してくれる様子はなく、むしろ最初よりも強くホールドされてもはや逃げれない。
動きにくいとか、暑苦しいとか、あと恥ずかしいからとか、色々と苦言を呈してみたが少女は全く聞く耳を持ってくれなかった。
猪突猛進な少女に風太郎は駅で出会ってからずっと振り回され続け、気付けばずるずると一緒に行動する羽目になってしまっていた。
「ねえ、風君」
「なんだよ」
風君、と独特のあだ名で呼ばれる事にもそろそろ慣れてきた頃だ。
別に名前を名乗るつもりはなかったのに、何度も何度もしつこく名前を聞かれて風太郎の方から根負けして名前を教えた。
ところがせっかく名前を教えてやったというのに彼女は『風太郎』では呼びにくいからと自身が考案した『風君』なるあだ名を勝手に命名してきたのだ。
その背筋がむず痒くなるあだ名は止めてくれと懇願したが、少女は風君、風君と呼びながら袖をくいくいと引っ張るばかり。これには風太郎も早々に抵抗するのを諦めた。
「せっかくなんだし写真撮ろうよ」
「写真?」
「うん」
「写真ならさっき撮ったけど」
首に掛けているカメラを撫でた。清水寺から一望できる京都の光景は中々に圧巻だ。思わずテンションの上がった風太郎が何度もシャッターを切ったのはつい先ほどの出来事である。
その様子を間近で少女も見ていた筈だが、と風太郎は意図の見えない少女に首を傾げた。
「ううん。私達の写真」
当然のようにふざけた事を口にする少女に思わず眩暈がした。
何故自分達の写真なんぞを撮らねばならないのか。一応の抗議はしてみたが、既に結果は分かり切っていた。
いつの間にか少女は他の観光客の大人に声を掛け写真を撮ってもらうよう頼み込んでいたのだ。
少女に撮影を頼まれた若い大学生くらいと思わしき女性二人組に可愛いだとちびっこカップルだの散々揶揄われながら、無情にもシャッターは切られてしまった。
「もっと笑ったら良かったのに」
「……やだね」
ピースをしながら優しく微笑む少女の隣で出来る限り不機嫌そうな表情を貼り付けたままだったのは、風太郎に出来る精一杯の抵抗だった。
写真を撮り、これで満足しただろうと一息吐いたのも束の間、今度は少女の『せっかくだからお守りも買いたい』という発案と共に風太郎は少女に手を引かれたままお土産が売っている売店まで半強制的に連れて行かれた。
少女がお土産コーナーで目移りしている中、特段お土産に興味がなく手持ち無沙汰だった風太郎は彼女の横顔を何となく眺めていた。
綺麗な髪をしてるなとか、睫毛が長いなとか、そんなとりとめのない事を考えていると視線が気になったのが振り向いた少女と目が合ってしまった。
「どうしたの?」
「べ、別に……それより買うもんは決まったのかよ」
「うん。これにしようかな」
少女が手に持っていたのは清水寺では定番のお土産であるお守りだった。
お守りを買うこと自体は別におかしくはない。だが風太郎は少女が持つお守りの数が気になった。
「随分と多いな。そういうのって一つの方がいいんじゃねえの?」
「ううん違うよ。あの子たちの分」
「あの子たち?」
「私の姉妹だよ」
「へえ、妹がいるのか?」
「お姉ちゃんもいるよ。まあ、だらしない子だけど。私の大事な家族なんだ」
少女は自身の家族の事を自慢げに語った。
妹のものを取ってしまうけど頼りになる姉。
引っ込み思案で人見知りだけど心優しい妹。
一番元気で体を動かすのが好きな明るい妹。
食べるのが好きでお母さん離れできない妹。
そして厳しくて、優しい大好きなお母さん。
想像以上に多かった少女の家族に面喰ったが、それ以上に風太郎は家族を語る時の少女の顔に何故か目が離せなかった。
家族を想いやるその慈悲に満ち溢れた表情。先程とは違う少女が見せた別の一面に何処か懐かしさのようなものを感じた。昔、何処かでこの顔を見たことがある。自分に対して向けられた事が確かにあるのだ。
だけど思い出せない。何処で、一体誰に……。
思い出せないもどかしさを胸に風太郎は家族の事を語り終えて満足そうに笑う少女から目を逸らした。
「みんな私の大好きな家族だよ」
「ふーん……でも五つ子って、信じらんねえな」
「ほんとだよ! そうだ、風君にもみんなを紹介してあげる!」
「いいよ。全員顔が同じなんだろ? ややこしい」
「そんな事ないよ。ちゃんと見分けはつくんだから。お母さんも間違えた事は一度もないよ」
「見分けって、どうやって?」
「愛だって」
五つ子とやらの見分け方に少し興味を抱いたが少女の答えに一瞬で白けてしまった。
愛だなんて。そんな曖昧なもので顔や体が同じ五人を本当に見分けられるのか風太郎には懐疑的だった。
実物を見た訳ではないが、少女が言うには顔どころか髪型や服装まで姉妹は同じと聞く。それで見分けがつくならエスパーではないか。
しかし彼女の母が一度も間違えた事がないと言っているのだから、愛のお陰かどうかはともかくとして彼女達の母親が娘を溺愛しているのは確かなのだろう。
姉妹達が母を愛しているように姉妹達もまた母親から多大なる寵愛を受けている。母離れできない妹がいると言っていたが少女自身も十分に母に甘えているように見えた。
別にそれを揶揄うような真似はしない。母親がいるなら子はそれに甘えるのが自然なのだから。
「……」
幼い妹を思い浮かべながら風太郎はほんの少しだけ彼女達が羨ましく思った。
「しかし五つ子なのは分かったけど……なんでお守りは四つなんだ?」
「本当は全員分買いたかったんだけどね。そしたらバスのお金無くなっちゃうからあの子たちの分だけでもって」
感心しながら意外としっかりしているんだなと風太郎が口にすると、お姉ちゃんだからと少女は笑った。
『お姉ちゃん』と言っても同い年の五つ子なのだから姉も妹もないようなものだろう。それなのに彼女は姉だと主張する。
それはきっと少女が姉妹達の事を本当に大事に想っているからだろう。大切でかけがえのない家族の為なら自分の身を削る事を厭わない。その気持ちは幼い妹を持つ風太郎にも理解できた。あの子の為ならなんだって出来る。それはきっと兄や姉の義務であり、その喜びは兄や姉の権利だ。
「……ほら」
「えっ?」
だから、これはきっと少女に対する共感や同情に違いない。同じように大切な妹を持つもの同士として。
四つのお守りを買った少女に風太郎は適当に手に取ったお守りを一つ買って少女に渡した。
「お前だけ持ってなかったら姉や妹から仲間外れにされるだろ」
「みんなそんな事しないよ。でも……いいの?」
「勘違いすんな。別に買ってやったんじゃねえよ。貸すだけだ。後でお前らの姉妹と合流した時に金は返せ。うちも貧乏なんだ」
「……うん。ありがと、風君。一生大事にするね」
買ってあげたお守りを大事そうに両手で抱きしめる少女を見て、今更ながら恥ずかしくなってきた。どうにも彼女には調子が狂う。
破顔する少女の顔を直視できなくて風太郎は顔を逸らして頬を掻いた。
ああ、でも不思議だ。最初は京都駅であんな事をするんじゃなかったと少女を邪険に思っていたのに、今は正解だったと胸を張って言えるのだから。
「もうすぐ夜だな」
「あっという間だったね」
日は傾き京都の町並みは夕焼けに染まっていた。
随分と歩き回った。有名な観光地も粗方回った気がする。最初は少女に振り回されていたのに、いつの間にか風太郎の方から積極的に少女を連れて京都の町を巡っていた。
単純に、ただただ楽しかった。きっと自分一人だったら最悪な一日で終わっていた筈の今日という日を彼女の笑顔が塗り替えてくれた。彼女が傍にいてくれたからこうして笑う事ができた。
助けたと思っていた少女に実は自分も救われていたんだ。孤独から抜け出す事ができた。彼女には感謝してもしきれない。
だから、もう少しだけ彼女と一緒にいたい。もう少しだけ彼女と遊びたい。もう少しだけ彼女と話したい。
けれど、時間がそれを許してはくれなかった。
「次のバスが来たら……お別れだな」
「……そうだね」
少女の方も風太郎と同じく京都には修学旅行で来ていたそうだ。彼女の学校の先生には既に電話で連絡しており、そこで彼女は姉妹達と合流する予定だ。風太郎も別の場所で元の班と合流する旨を既に担任に連絡済である。
こうもとんとん拍子に事が運んだのも、意外と少女がしっかりもので互いの財布の中身を把握しながら行動していたたらに違いない。
二人の合流場所は別々で、風太郎は少女を見送ろうと彼女と共にバス停のベンチで並んで腰を下していた。
「今日はその……ありがとな」
「それは私の台詞だよ。風君が助けてくれたから」
「助けられたのは俺も同じだ」
「えっ?」
「お前がいなきゃ俺は一人ぼっちだった。だから……感謝してる。本当に楽しかった」
「……うん。私も、楽しかった」
いつの間にか繋ぐのが当たり前になっていた少女の手を強く握りしめた。
今日という日を忘れないよう、この手のぬくもりを忘れないよう、ぎゅっと。
少女が乗る予定のバスが比較的本数の少ないものだったのは幸運だった。まだ次のバスまで少しだけ時間がある。それまでは、こうして少女と手を繋ぎながら話す事が出来るのだから。
「あーあ、修学旅行が終わっちまったらまたつまんねー勉強ばっかに戻るんだよな」
「風君は勉強嫌い?」
「見た目通りだ。お前は?」
「私も嫌い」
「なら一緒だな」
二人でクスクスと笑い合いながら、それからも他愛のない会話が続いた。
学校のこと、友達のこと、そして家族のこと。
「……私のお母さんね、最近体の調子が悪いんだ」
家族の話題になった時、表情に影を落としながら少女がそう切り出した。
「病院に行く事も多くて、この間まで入院してて……心配だよ」
「……」
少女の話を聞きながら風太郎は幼い頃に亡くした母の姿を思い出していた。六歳の頃に亡くなった母との思い出は色褪せる事なく鮮明に残っている。
風太郎は母が作ってくれたパンが好きだった。店で売っているパンなんかよりもよっぽど美味しくて、何より食べていて暖かさを感じたのだ。母が作ってくれた美味しいパンを食べる朝がずっと続くと信じて疑わなかった。
……そんな毎日はある日突然終わりを告げた。理不尽に。唐突に。何の前触れもなく。
「私ね、お母さんの為にお料理を作ってあげたいの」
「料理?」
「うん、私のお母さんすっごくお料理が上手なんだ。お母さんのおいしいお料理を食べると嫌な事があっても元気になれるの。だから、私もお母さんにお料理を作って食べさせてあげたら、お母さん、元気になれるかなって」
「───」
少女の語る目標に風太郎は眩い太陽の如き光を幻視した。あの日から何も出来なかった自分と違って少女は家族の為に目標を持っている。
彼女の境遇は会話の中で聞いていた。自分とそう変わらない貧乏な家庭状況だ。何を為すにも不便な環境にあるに違いない。
それなのに彼女は自分の境遇や環境に諦観する事なく家族の為に変わろうとしている。その姿に風太郎は鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「……すげえなお前」
「えっ?」
「ちゃんと自分の目標があるってさ」
「そんな……まだしてあげたいってだけで実際には何もできてないよ。お料理もまだまだ失敗ばかりだし」
照れながら謙遜する少女に風太郎は首を振った。
「十分にすげえよ。俺なんてお袋に何もしてやれなかったし……今までも何も出来なかったんだ」
流石に少女の前で亡くなった母の事は話さなかったが、それでも彼女は風太郎の言葉で察したようで繋いだ手の力をそっと強めた。
優しく握られた手のぬくもりに少しだけ目尻が熱くなった。ああ、そうか。ようやく思い出した。
先程、清水寺で彼女が見せた家族を想う笑み。その既視感はかつて見た母が自分に向けていたそれと同じだった事を思い出した。
「……俺にも今から出来ること、ねえかな」
ポツリと漏らした心の芯から滲み出た言葉だった。停滞していた毎日から一本踏み出す為の宣言だった。
「お袋の為に出来る事はもうねえけど、でも妹がいるんだ。大切な小さい妹が。せめてあいつの為に何かしてやりたい。お前みたいに」
「私みたいにって……私は一人じゃ何もできないよ。みんながいなきゃ、五人一緒じゃなきゃ何も」
「そんな事ねえよ。俺からしたら立派な奴だよお前は。今日だって俺はお前に救われたんだ」
「風君……」
「お前に会えて良かった。本当に。俺もお前みたいに何か頑張ってみるって決めた」
彼女の手を両手で包み込みながら風太郎は少女に心からの感謝の言葉を贈った。
もうすぐバスが来る。これがきっと最後に交わす言葉だ。
「だから、お前も頑張れ。お袋さんもお前の料理を食べたらきっと良くなる筈だ」
「……っ、うん!」
神に誓った訳でも、約束し合った訳でもない。ただ互いに家族の為に。それだけを目標に二人は互いの夢にエールを送った。
間もなくしてバスが到着した。バスに乗り込み薄く涙を浮かべながら少女に風太郎は一抹の寂しさを憶えながら、それでも笑顔で彼女を見送ると決めていた。
「今日はありがとう。バイバイ……ううん、またね! 風君!」
サヨナラの言葉を飲み込んで再会を望んで手を振る少女に風太郎は目を丸くした。
ああ、そうだ。彼女の言う通り。これは今生の別れではない。きっとまた会える。
根拠はないが、何故かそういう確信があった。それに少女にはまだお守り代を返して貰ってないのだ。これでサヨナラはできやしない。
だから、風太郎もサヨナラではなく再会を祈って少女に手を振った。
「ああ、またな、────」
その時、初めて呼んだ彼女の名前に少女は目を丸くして次第に頬を夕焼けと同じ朱色に染めた。
名前は最初に彼女が名乗ったので知っていた。でも、呼べなかったのは気恥ずかしかったから。
これは練習だ。次に会った時に自然と彼女の名前を呼べるようになる為の第一歩。
風太郎は満面の笑みで少女を見送った。今日という日は間違いなく人生で最高の一日だったと噛みしめながら、次に会う日を願って。
◇
懐かしい夢を見た。京都で出会った、自分の価値観を変える転機となったあの日の事を。
そして共に過ごしたあの家族想いの少女の事を。
どうしてるんだろうな、あいつ。
顔を洗おうと洗面台の前に立った風太郎は欠伸を噛み殺しながら、鏡に映った自身の金髪を眺めた。
何か家族の為に自分が出来る事はないか。あの日、変革を決意した風太郎が自問自答の末に選んだのは勉強をいう道だった。
勉強は誰もが出来る金持ちへの近道だ。一流の大学を出て一流の会社に就職すれば、金を多く稼ぐ事が出来る。そうすればらいはや一人で家庭を支える親父の負担も減るだろう。
勉強は決して無駄になる事はない。努力の還元率は間違いなく他の何より高い筈だ。ならば全力を注ぐべきである。
その為に要らない物は全て捨ててきた。貧乏ながら持っていたゲームや玩具、漫画は全部売って代わり参考書を揃えたし、付けていたピアスも外した。
遊びだけじゃない。家族以外の人間関係すらも断ち切った。勉強の為に。勉強以外のものは全て不要だと切り捨ててきた。
だが、髪だけは、高校進学とともにまた染めていた。高い偏差値の割には校則の緩い学校だからあまりとやかく言われる事はないが、これも無駄の一つには違いない。
染めるのにも金はかかる。それこそ切り捨てるべき無駄の一つだ。不要なものは全て排するべきである。
『風君の髪、とっても似合ってるよ!』
けれど一つだけ。たった一つだけでも、何か捨てなくてもいい物があってもいいではないか。
捨てず、ずっと持ち続けてもいい拘りがあってもいいではないか。そう、思ってしまったのだ。
彼女と撮った写真と彼女に褒められたこの髪は風太郎が残した自身の拘りだった。色褪せる事ない過去の象徴だった。
捨てれる筈がない。これを捨ててしまえば本当に自分は空っぽの人間になってしまう。それだけは御免だ。せかっく彼女が自分を変えてくれたというのに。
また、逢えたらいいな。
もしも街中であの子とすれ違った時、当時と変わらない髪を見れば、彼女は自分に気付いてくれるだろうか。そもそも覚えてくれているだろうか。
……なんて考えは流石に女々しいか、と風太郎は苦笑いを浮かべて顔を洗った。
「お兄ちゃん、今日から新しいバイトだったよね?」
「ああ。とは言っても今日は生徒との顔合わせ程度だがな。家庭教師だなんて務まるか分からんが……」
「大丈夫だよ。お兄ちゃん、勉強だけは取り柄なんだから」
「だけって、お前……」
「でも、お父さんも凄いバイト見つけて来たよね。五倍の報酬の家庭教師なんて」
「全くだ」
仕事で父は既に家を出ていたので卓袱台をらいはと二人で挟みながら朝食をとっていると思い出したかのようにらいはがバイトの話題を振ってきた。
昨日、父が突然持ってきた家庭教師のバイトだ。しかも報酬額は相場の五倍とかなり破格。正直、胡散臭さすら感じるが一応は父経由のバイトなので真っ当な内容ではあるのだろう。
それにこれだけ高額収入のバイトを目の前でぶら下げてられたら多少の怪しさには目を瞑る。
貧窮な上杉家には仕事を選べる程の余裕などないのだから。
しかし、このバイト。風太郎にとってはある問題があった。
「だが、生徒がまさか同い年の女子とはな……」
受け持つ生徒が小学生や中学生ではなく高校生。それも異性ときた。
しかもそれだけではない。
「黒薔薇女子ってたしか物凄くお金持ちの子が通うお嬢様学校だったよね」
「俺でも聞いたことがあるくらいだからな。俺らとは縁のない連中だ」
家庭教師を雇うのだから裕福な家庭なのは当然だが、まさか超が付くほどのお嬢様学校の生徒を受け持つとは思わなかった。
これだけでも素人が家庭教師をするにはハードルが高すぎるというのに、まだ問題があるのだ。
「しかも五つ子だって! 凄いねお兄ちゃん!」
「……ああ」
生徒は一人だけではない。五人の姉妹で五つ子だ。らいはは五つ子という未知の存在に目を輝かせているが風太郎からすれば五つ子という言葉は既知の存在であった。
一つ、風太郎の中で思い当たる人物がいるのだ。五つ子というカテゴリーに該当する少女が。
ありえない。あの子ではない。
今朝の夢を思い出しながら彼女ではないと首を振った。確かに五年前、京都で出会った少女は自らを五つ子と自称していた。
だが、彼女は風太郎と同じく貧乏な家庭に生まれ育ち、ボロボロのアパートに住んでいると言っていた。そんな家庭が家庭教師を雇える余裕があるとは思えない。
ましてやお嬢様学校に五人も娘を通わすことなど不可能だ。少なくとも彼女ではない。あの日、出会い自分を変えてくれた恩人ではない筈だ。
案外、五つ子というのも世間ではそう珍しい存在ではないのかもしれない。そう思う事にした。
「でも、大丈夫かな?」
「大丈夫って何が?」
「お兄ちゃんのそれ」
らいはは風太郎の頭を指さしながら不安そうにぼやいた。妹の指摘に風太郎は思わず言葉を詰まらせた。
彼女が言わんとしてる事は理解している。それは風太郎自身も気にしていた事だ。
「……やっぱマズいか?」
「どう見てもヤンキーだよ」
「………ど、どう見ても優等生だろ。学年トップだぞ」
「相手はお嬢様学校の人達だよ? 金髪の不良なんて怖がるかも」
「不良じゃねえよ。それに地毛って事で誤魔化したら……」
「そんな言い訳通用しないよ?」
「……」
お兄ちゃんが門前払いされないよう祈っておくね、と妹にエールを贈られながら風太郎は不安と恐怖を抱いて家を出た。
「……ここか」
放課後。家庭教師初日という事で今日は生徒との顔見せだけの予定だった為、風太郎は学校が終わって直ぐに受け持つ生徒達の自宅へと赴いた。
らいはに渡された地図を頼りに辿り着いたのは流行りの高級タワーマンションだ。生徒の姉妹達はその最上階に住んでいるとのことらしい。想像を絶する金持ちだ。破格の給料も納得がいく。
しかし妙なのは、そんな金持ちが何故自分のような素人のしかも高校生を家庭教師として雇ったのか、だ。これほどのマンションに住むような親なら幾らでも金を叩いて優秀な人材を雇えただろうに。
風太郎は自身の能力に対して過信も慢心もしていない。らいはの言う通り勉強だけが取り柄のただの高校生だと自覚している。確かに人に勉強を教えるくらいは出来るだろうがプロのレベルを求められては困る。一介の高校生である自分を何故彼女達の親が雇ったのか。
父の何らかの思惑が絡んでいるのは容易に予想できるが、それが『なに』かは検討が付かない。雇い主と父が何らかの関係があるようだが……。
「あなたが上杉風太郎君、ですね?」
父と雇い主の思惑に疑念を抱きながらタワーマンションの入り方に戸惑っていると、後ろから声を掛けられた。
女性の声に振り向くとそこには妙齢の女性が佇んでいた。気品溢れる女性に思わず息を飲む。
普段、異性の容姿に対して特別何も思わない風太郎でも一瞬言葉を詰まらせるほど美人な女性だ。
しかし何故、そんな人が自分の名前を知っているのだろうか。
「えっと、あなたは?」
「初めまして。中野零奈といいます。今日から娘がお世話になります」
「……なっ、は、はい! こちらこそよろしくお願いします!」
自身の雇い主だと分かり慌てて頭を下げた。驚いた。まさかこんなに若い女性が母親だとは夢にも思っていなかった。
俄かに信じられない。彼女の娘は自分と同い年だった筈なのに。とても高校生の娘を持つ母には見えなかった。
この頭髪の事を指摘されないだろうか。まさか生徒に会う前に本当に門前払いされるのでは。
緊張と恐怖で頭を下げたまま動けなかった風太郎に零奈は優しく笑った。
「そう畏まりまらないでください。もっと楽にしていいですよ」
「し、しかし……」
「ふふ。お父さんとは違って礼儀正しいのですね」
「……えっ?」
「ここでは何ですし、詳しい話は中でしましょうか」
「は、はい……」
意味深な零奈の言葉に呆気にとられながら風太郎は彼女の後について行った。
マンションのエレベータホールでエレベータの到着を待ちながら風太郎は零奈から父との関係を聞かされていた。
驚いた事に彼女、中野麗奈は父の高校の時の恩師だそうだ。その話を聞いて風太郎を腰を抜かしそうになった。
父の恩師という事はそれなりの年齢の筈なのだが全くそうは見えない。風太郎の父も実年齢より若く見られるが、その父と同世代と言われても納得してしまう。
これが世に言う美魔女という奴なのか、と関心しながら風太郎は一番の疑問であった自分が家庭教師として雇われた理由を彼女に問うた。
「本来なら教鞭を振るっていた私が娘達に勉強を教えるのが道理なのですが……」
そう言って彼女は恥ずかしそうに事情を話してくれた。
どうにも彼女、数年前に重病に侵され何度も入退院を繰り返していたほど衰弱していたそうだ。
奇跡的に回復はしたものの、今でも体調が万全とは言い難く自宅のベッドで療養する日が多いらしい。
その状態では娘達に勉強を教えてあげるどころか、彼女達に心配され半ば無理やり寝かしつけられてしまうとか。
しかしそれでも母として、元教育者として娘達の成績は看過できない。そこで零奈とその夫の知人である父が息子である風太郎を家庭教師として雇うよう推薦したそうだ。
「……なるほど、事情は理解しました」
自分が雇われた理由は分かった。だが、どうしてプロの家庭教師を雇わないのだろうか。
娘達の成績向上を願うなら、それこそ素人などではなくプロに任せるべきなのではと思った。
わざわざ自分である必要が感じられない。高額報酬で雇われた身なので流石に口にはしなかったが、零奈は風太郎の疑問を察したらしく口角を少し吊り上げた。
「あなたを雇った理由なら直ぐに分かりますよ」
「えっ?」
どういう意味か尋ねる前にエレベータ-が到着してしまった。
そのまま二人で乗り込み最上階まで上がるの無言で待っていたのだが、ぽつりと零奈が言葉を漏らした。
「……上杉君、あなたには感謝しています」
「感謝って、まだ何もしてませんよ」
「いえ、違います。私がこうして娘達と過ごせるのは、あなたのお陰です」
「……? どういう意味です?」
「あの人は、主人は信じてないでしょうけど……私は思うのです。あの子の料理を食べたから、あの子達の温もりを感じられたから、今うこうして私は元気でいられるのだと」
「まさか……」
料理、母親、病気。三つのキーワードは風太郎をある解へと導き出した。
五年前、夕焼けに染まった京都の町。互いに語った家族の為という目的。
少女の姿が脳内でリフレインする。
それと同時にエレベーターの扉が開き、人影が風太郎に目掛けて飛んできた。
長い髪を揺らしながら、その人影はぎゅっと風太郎を抱き寄せた。
脳内で再生された五年前の少女の姿と、目の前の自分に抱きつく少女の姿が重なる。
「また逢えたわね、風君」
「……二乃」
自然と口にしたのはこの五年間、風太郎が片時も忘れなかった想い出の少女の名だった。
最速最短全員幸せ二乃END。続かないです。