わんないとらぶる①
深く溜息を吐くと白い息が視界にふわりと広がった。肉体的な疲労と精神的な困憊が混じり合い吐く息すら重く感じる。肌に突き刺さるような真冬の冷たい風は体だけではなく心まで熱を奪ってしまう。
どうしてこうなったのだろう。帰りたくない。さっきからそんな幼稚な考えが浮かんでは消える自分に嫌気が差す。寒空の下、棒になりそうな足を無理やり引きずって帰省本能に従いながら駅に向かう中で風太郎は只々、途方に暮れていた。
普段なら仕事が終われば寄り道などせずに真っ直ぐ帰路に着く。共に残業を終えた同僚に飲みに誘われても断るのが常だったが、今日ばかりは些か事情が異なった。
今朝の事だった。端的に言えば妻と喧嘩をした。
売り言葉に買い言葉。反発し、感情的になり、つい思ってもない言葉を互いにぶつけてしまった。口喧嘩自体は結婚する前から幾度なくしてきたが、それでも長引くことはなかった。
だが今回は別だ。積もり積もったものが爆発してしまったのだ。
結婚してから数年。愛する妹からも仕事人間だと揶揄される風太郎はつい仕事を優先しがちになってしまっている。ここ最近は残業が続きそれを何度も妻に咎められたのだが、仕事が繁忙期なこともあってそう都合よく直ぐには改善はできない。
上手く折り合いを付けることができないまま、先延ばしにして妻よりも仕事を優先して夜遅くに帰る日々が続いてしまい、とうとう妻の堪忍袋の緒が切れた。
昔ならともかく、今なら彼女に謝罪をして埋め合わせをする程度の対応はできた。けれど多忙な仕事でのストレスと疲労が重なってか、風太郎もつい昔のように反発してしまったのだ。
今更ながら、馬鹿な真似をしたと頭を抱えた。妻の言葉にカチンと来たのは確かだが、堪えれる程度にはもう大人だと言うのに。
「……はあ」
今朝の醜い掛け合いを思い出して、風太郎は再び溜息を吐いた。
どうすればいいのか分からない。解が見えない。学業に全てを捧げていた学生時代ですら、こんな難問と出会った事などなかった。
突発的な喧嘩であったならどれだけマシだったか。それならば今までの経験を活かせばいい。真っ先に帰って妻に謝ればいいのだから。俺が悪かったと頭を下げて、ご機嫌取りに彼女の好物でも買って帰れば元通りだ。
しかし今回はそうではない。毎朝、朝食を共にする時に感じていた段々と空気が冷え切っていく感覚。それを分かっていながらも、見て見ぬふりをしてしまい、不満を募らせて爆発させてしまった。
一朝一夕の怒りではない。長い年月をかけて降り積もった負債だ。そう簡単に解消できるとはとても思えなかった。
妹や彼女達姉妹に相談をしようかと考えたが、首を振った。これは夫婦の問題である。自分で解決しなければ意味がない。親族とはいえ、ここで彼女達に頼ってしまっては今度も似たような事が起きた際に毎回他の人間に頼るようになってしまう。
持ち前の責任感の強さから、誰かに頼るのを良しとはしなかった。けれど幾ら思考を割いても案は浮かばず、何も解決しないまま時間だけが無駄に過ぎて行く。
今日みたいな日に限って仕事がスムーズに進み、いつもよりも少しだけ早く仕事を終えてしまったのは間が悪いとしか言いようがない。
普段よりも早い帰路に着く中、ふと思った。このまま真っ直ぐに帰って妻と顔を合わすことが出来るのだろうか、と。
今朝の事でご機嫌取りに今日だけ早く帰ってきたと思われ、ならば普段からもっと早く帰ってくればいいのにと愚痴を零されそこからまた口論になる可能性だってある。
悪い方へ、悪い方へと思考の天秤が傾く。ネガティブな考えに囚われて上手く頭が回らない。打開策が浮かんでは消えをループする。まるで出口の見えない迷宮に迷い込んだような気分だ。
気付くと、改札口へと向かう筈の足が自然と別の方向へと進んでいた。
ふらりとふらりと目的なく足を運び、立ち止まったのは駅に面している少し寂れた居酒屋の前だった。普段、通勤だけにこの駅を利用している風太郎にとってはあまり馴染みない店だ。もしかしたら職場の同僚達がよく利用しているのかもしれない。
自然と手が店の扉へと伸びていた事に気付き、手を止めた。
何をしているのだろう、俺は。自身の非合理的な行動に心底驚いた。これはただの逃避だ。ましても問題を先延ばしにしているだけ。
だが、確かにこのまま家に帰っても妻との和解案がないのも確かだ。今の自分に必要なのは考える時間と心の余裕。一度、冷静になる必要がある。
夏休みの宿題を終えていない小学生でももう少しマシな言い訳をするだろうなと、自嘲しながら風太郎は暖簾を潜ろうとして、待てと立ち止まりコートのポケットにしまい込んでいたスマホを撫でた。
妻へ連絡をするか。いや、ほんの少し一人でいる時間が欲しいだけだ。いい案が浮かんだら直ぐに帰る。それならわざわざ連絡する必要もないだろう。ここで一時間過ごしたとしても普段よりは早く帰れる。
結局のところは逃げでしかない。自身の行動を頭の隅で冷静に分析しながらも、逃避を選ぶ自分が情けなかった。
「……風太郎?」
店のカウンター席に案内され、席に着いてほっと一息を吐いて適当に注文を終えた時だった。
背後から自身の名前を呼ぶ女性の声が聞こえ、びくりと肩を震わせた。こんな場所で声を掛けられるとは夢にも思ってなかった。それも上杉ではなく風太郎と親しそうに呼ぶ女の声を。
一体、誰だ。交友関係は決して広いとは言い難い。勉学一筋に生きていた高校時代よりはマシになったとは言え、それでも人と比べれば遥かに狭いものである。そんな数少ない知人の中で自分の事を名前で呼ぶ女性となると更に限られてくる。真っ先に浮かんだのは妻の姉妹達だ。かけがえのない思い出を与えてくれた恩人達。
しかし有り得ない、と直ぐに脳が否定した。あの五つ子達は顔も体も声も全て同じであるが、今ではそれでも誰だか判別できる程度には彼女達の事を知った身だ。声を聞けば直ぐに名前が浮かぶ。
この声は姉妹の誰にも該当しなかった。ならば誰だ。眉根を寄せながら振り向くと、そこには長い黒髪をサイドテールに纏めた女性が驚いた表情を浮かべていた。
「奇遇だね、こんなところで」
見知らぬ顔、ではない。何処かで見覚えがある。この懐かしい感じ……。
過去の記憶を掘り起こしながら女性の姿を眺めていた風太郎は、彼女がしていたヘアピンを見てようやくその名を思い出した。
「……竹林、か」
「もう、何? その間。また私の顔忘れてたでしょ」
「何年振りだと思ってんだ。一目じゃ分からん」
「私は風太郎だって直ぐに分かったけど?」
「……」
「それに今は『竹林』じゃないよ」
そうだったな、と口にしながら竹林の左手の薬指に嵌められた銀色に輝くそれを風太郎は横目で見た。風太郎自身の指にも嵌められている一人の異性に永遠の愛を誓った証。
彼女達の式はちょうど自分達と同じ年に挙げていたからよく覚えている。相手の男性も風太郎が見知った眼鏡の彼だった。家族ぐるみで付き合いがあったのだから順当に結ばれたのだろう。素直にお似合いだと思った。
彼は悪い奴じゃない。空っぽだった自分に得る物が欲しいと必死になって勉強を頑張ろうとした時、風太郎は竹林だけではなく彼にも世話になった。
だから二人の式には参加し、友として幼馴染として純粋に彼女達を祝福をした。その時、純白に包まれた竹林の姿に一瞬だけ目を奪われたのは風太郎にとって墓場まで持っていく秘密の一つだ。
もし彼女の式に妻やその姉妹が招待されていたら、と考えるだけでも末恐ろしい。きっとバレたら事あるごとに揶揄されるに違いない。
「同僚と飲みに、って訳でも無さそうだね。一人?」
「ああ」
自然な立ち振る舞いで自分の隣の席に着く竹林に風太郎は眉を顰めた。一人の時間が欲しいという名目でこんな場所に来たというのにこれでは言い訳が成り立たない。
だからといって隣に座ったばかりの彼女を置いて今更、店を出ていくという選択肢も取る気にはなれなかった。若干居心地の悪さを感じながらも、風太郎は固い木製の椅子を座り直した。
「なぁんだ、寂しいな」
「そう言うお前も一人じゃねえか。旦那はいいのか?」
「……あーまあ、今日はね。風太郎の方こそいいの? 可愛い奥さんが待ってるでしょ?」
「……今日はな」
二人して言葉を濁した事で互いに事情を察し、同時に苦笑いを浮かべた。
どうやら向こうもパートナーと何かあったらしい。昔なら察せなかった人の心の機敏。それを感じ取れるようになったのも妻とその姉妹のお陰だ。
しかし、こんな偶然があるのだろうか。今日初めて入った店で幼馴染と再会し、共に似たような悩みを抱えていただなんて。
パートナーの悩みを抱く竹林に風太郎は少し親近感が湧いた。さっきまでは一人でいたかったのに、どういう訳か今は少しだけ彼女とこの悩みを分かち合いたくなった。もしかしたら何か解決の糸口が見えるかもしれない。
それは竹林も同じようで、彼女は自身が注文をしたビール瓶をそのままこちらに向けてきた。
「いや、酒は……」
「居酒屋に入っておいて何言ってるの。ほら」
あまり外で飲むのは好まないのだが、昔と変わらない仕切りたがりの彼女が飲めと言うのだ。断ろうとしたらきっと骨が折れる。
今の風太郎にそんな労力は残っていなかった。渋々グラスを持って竹林に注いでもらい、瓶を奪って今度は彼女のグラスに風太郎が注いだ。そんな粗暴で不器用な風太郎に竹林は懐かしむようにはにかんだ。
偶然の再会に対するものか、それとも同じ悩みを持つ同士としてか。
カチンと音を立ててながらグラスを互いに引っ付けて乾杯を上げた。
◇
父と違って風太郎はそこまで酒に強い訳ではなく、そもそもあまり飲酒という行為が好きではなかった。
どの酒が美味いだの料理に合うのだのと感じれるほど舌は肥えていないし、何よりアルコール摂取による思考の低下が馬鹿馬鹿しくて嫌いだった。
人間の本質は学び考える事だ。何が悲しくてその本質を投げ捨ててまで一時の快楽の為に馬鹿にならなければならいのか。大学に進学し、社会に出てからも酒で馬鹿をした人間も周りで何人も見てきた。
だから酒を飲む時は仕事での最低限での付き合いか、もしくは信頼できる家族や親族の前でしか飲まないようにしていたし、それすらも酔わない程度の量で抑えていた。
……それなのに、どうしてこうなったのだろう。
「ふうたろう、聞いてる?」
「ああ、聞いてる、聞いてるから」
意外と酒豪であった彼女のペースに付き合わされて、既に空の瓶がカウンターに並んでいた。
旦那が出張ばかりで家を空けてばかりだとか、帰ってきても疲れていて直ぐに寝てしまい最近は殆ど会話がないだとか、休日もあまり構ってくれないだとか。
風太郎にとっても耳が痛い愚痴を延々と零されながら竹林はペースを落とすどころか更に上げていた。
彼女に合わせたせいで、気付けば脳が上手く働かなくて、アルコールによる高揚感と思考にもやが掛かったような独特の感覚が風太郎の思考能力を奪っていた。
酒が入る度に風太郎もまた、上杉家の現状を零すようになり妻の事を彼女に話すようになっていた。案の定、彼女からは自身に対するダメ出しのような苦言を呈されたが。
だが、こうして本音で語り合う事が出来るのは貴重だ。男は男の、女は女の、それぞれの悩みを互いに嚙み砕いて知る事が出来た。
話は段々と盛り上がり、小学生時代の馬鹿をしていた思い出話にまで発展していた。
「ねえ、風太郎」
「なんだ?」
「風太郎はさ、どうして急に勉強を教えてって言い出したの?」
ほんのりと朱色に染まった頬の竹林が覗き込むように尋ねてきた。酔っているからだろうか、妙に距離が近い。
素面であったなら風太郎も冷静に彼女を引き離しただろうが、今は酒が入っていたせいでそんな判断も出来なかった。
ただ純粋に子どもの頃に戻ったような錯覚していて、あの時と同じように目と鼻の先にある彼女の顔をただ当たり前のように受け入れていた。
「言っただろ。何もない空っぽな自分に嫌気が差したって」
「あの写真の子だよね」
「ああ。約束したからな」
「本当にそれだけ?」
「なに?」
「実は疑ってたんだよね、あの時から」
「何の事だ」
「その子の事が好きだったから、でしょ?」
からかうようにはにかむ竹林に、風太郎は今自分がどんな表情を浮かべているのか分からなかった。
風太郎の事なら何でも分かるよ、と自慢するように笑う彼女。
ああ、そうだ。彼女はいつだってそうだった。まるで自分を弟のように見て、仕切りたがりで、馬鹿な自分を叱って、けれど最後はしょうがないなと折れて付き合ってくれる。
そんな彼女に上杉風太郎は初めて異性に対して淡い思慕の情を抱いたのだと思い出した。
「ははは、やっぱり当たった? もしかして初恋だったり?」
「……」
普段ならこんな馬鹿げた事はきっと口にしない。
これもきっと酔いのせいで、からかう彼女の表情を崩してやりたと悪ガキのような悪戯心が芽生えたのだろう。
だから、これは酒のせいだ。
「俺の初恋はお前だった」
「───えっ?」
言葉を無くす竹林にしてやったりと笑みを浮かべてグラスに残ったビールを仰いだ。
さっきまで談笑していた筈の竹林の表情が固まった事に、その時の風太郎は気付かなかった。