日曜日。今日は仕事が入っておらず、家庭教師である風太郎も訪れる予定はない。一花にしては大変珍しく何も予定のない休日だった。
こんな日は普段なら三玖辺りと買い物に出かけたり、或いは五人が揃っていたなら全員でランチにでも行ったりとするのだが、今日に限っては各々用事が重なっていた。
二乃は学校の友人と出かけ、三玖と四葉は何やら最近発売されたらしいゲームを買いに行き、五月は風太郎の妹であるらいはと遊ぶ約束をしたそうだ。
ならば自分は昼間まで惰眠を貪り、のんびりと過ごそうかと思った一花であったが、せっかくの休日を家で寝て過ごすのも勿体ないかと、思い切って外へと出た。
一人で、ただ目的もなくブラブラと街を歩く。
衝動的な行動であったが、気の向くままにウインドショッピングを楽しむのは中々に充実したものだった。
己が意志で目指した女優の道も、長女としてあの個性豊かな妹達を見守る事も、別に苦だと思ってはいない。だけど、それらに囚われずにこうして一人で自由気ままに過ごすのはやはり開放感があった。
(フータロー君は今頃、何してるのかな)
冬へと移り変わっていく町並みを歩みながら、脳裏に彼の姿が浮かんだ。
小言が多くて、厳しくて、それでいて思いやりがあって、自分達姉妹を導いてくれる同い年の家庭教師。
そして……最近、気になり出した同い年の異性。
あの勉強に生真面目な風太郎の事だ。休日でも家で勉学に励んでいる姿が容易に想像できる。
(彼が休みの日に街でショッピングとかしてる姿は想像できないかも)
風太郎の普段から努める節制の姿勢は並々ならぬものだ。そんな彼が無駄に金銭を消費するような姿は想像すらできない。
それも彼の家庭環境を考えれば仕方がないのだろう。家の借金を返済するために自分たちのような問題児姉妹を一挙に受け持つ家庭教師をしているのだから。
数少ない彼の家庭環境を知る人物の一人である一花は、そんな風太郎を密かに尊敬していた。
(……頑張っているフータロー君に何かお礼でもしようかな)
ここ最近は勉強面だけではなく、姉妹の私生活関係でも何かと迷惑をかけてしまっている気がする。先日の林間学校が正にそうだった。
そう言えば、もう少ししたら勤労感謝の日だな、と一花はスマホを操作しながら画面に表示されたスケジュール表を眺めた。
ちょうどこの日も仕事の予定はなかった筈。せっかくだ。風太郎を自分の出演した映画を見に誘ってみるのも悪くないのかもしれない。都合のいいことに他の姉妹に配った映画のチケットもまだ余っている。
あの風太郎の事だし、自分たち姉妹に借りを作るのを嫌がるのは目に見えている。例えお礼で何かを買ってあげようとしても拒む可能性がある。
だけどタダで映画を一緒に見るくらいなら案外、気兼ねなく応じてくれるかもしれない。
(映画に出てる私、フータロー君が見たらどんな感想言うのかな。ちょっと楽しみかも)
どうせ彼の事だろうから「最初に死ぬ役だなんて映画でもドジなんだな」と呆れたような、バカにするような顔で言う姿が容易に思い浮かぶ。
それに対してきっと自分は「相変わらずデリカシーがないね」とでも言って笑って返すのだろう。
既に脳内で次の勤労感謝の日の予定が着々と出来上がりつつある一花だったが、この時本人はまだこれが世間一般で云うところのデートであるとは気付いてはいなかった。
それに気付いたのは、勤労感謝の日の前日。誘いのメールを送る直前だった。
「あれ……?」
次の休日の予定が決まり、自然と軽くなった足取りで目に付いたカフェにでも入って軽く休憩をしようとした時だった。
「フータロー君?」
入ろうとしたカフェの窓ガラス越しに予想外の人物を見つけてしまい、思わず足を止めた。窓側のテーブル席に腰掛ける背の高い見知った男子。
非常に珍しい光景だ。普段から自販機でジュースの一本すら渋る事のある彼がこんな場所に居るとは想像すらしていなかった。
不意打ちのような形で見つけてしまった風太郎に一花はどうするべきか悩んだ。
(まさかこんな場所で出会うなんて……うん、せっかくだし話しかけようかな)
今度の祝日の予定を聞くいいチャンスだと、ぎゅっと拳を握りしめる。その時、自然と頬が緩んでいたの事を一花は自覚していなかった。
ほんの一瞬だけ、困ったような表情を浮かべる三玖の顔が脳裏に浮かんだが頭を振った。これは別にそういうのではない。風太郎の事については未だ自らの想いに整理を付けきれていないが、今は置いておく。
今はただ、この偶然の出会いに感謝して彼に何と話しかけようかと悩みながら、改めてカフェに入ろうとして……。
「えっ」
心臓が飛び跳ねるような衝撃を感じながら、一花は再び足を止めた。
彼の座るテーブル席の向かいに見知らぬ少女が現れたからだ。
黒い髪を肩まで伸ばした、真面目そうな子だ。おそらく自分と年齢もさほど変わらないだろう。
彼女は風太郎と向き合うと、何やら親しそうに会話を始めた。
「……っ」
そんな二人の姿を見た一花の行動は速かった。
二人のいる席から視線を外さないまま、急ぎ足でカフェに入り二人のテーブルを見張れる位置にある席を確保して注文を伺ってきた店員にコーヒーだけを頼んだ。
座った席は風太郎たちが座る場所から二つほどテーブル席を挟んだ位置。幸いにも店内があまり混んでいなかったお蔭で席の確保はスムーズに行けた。
流石にこの位置では二人の会話までは聞き取れないが、余りに近付きすぎても風太郎に感づかれる可能性があるので、この位置がベストだろう。
(私、なにやってるんだろ。こんな、盗み見るような真似して……)
席に着いてから今更そんな後悔のような感情が湧いてきたが、もう遅い。
それにあの場で立ち去らずに、無意識に行動を移したのはきっと本心から気になっていたからだ。
目の前にいる彼と、そして彼女が。
(誰なんだろう、あの子……フータロー君のお友達? でも彼に友達なんて……)
スマホを操作する振りをしながら向こうの席を盗み見る。多少、風太郎に対して失礼な事を考えていたが実際、彼が友人らしい友人と共にしている姿を一花は学校で見た事がない。
友達、それも異性の友達など、果たしてあの風太郎にいるのだろうか。
勉強では普段働かない思考が急速に回転していく。
(学校で見た事ないから、多分私たちとは違う学校の子っぽいけど)
断言はできない。一花も転校してまだ数か月なので同級生の顔を全て知っている訳ではいのだ。
これがコミニケーション能力に優れ早くも多くの友人を作っている二乃なら判断ができるのだろうが、仕事の関係もあって基本的に同級生たちと関わりの薄い一花には無理な話だ。
(……いや、そんな事はどうでもいい)
別にあの少女が自分と同じ学校に通っていようがいまいが構わない。
一花がさっきから気になるのは彼女本人よりも、彼女と話す風太郎の表情だった。
(フータローくん、あんな風に笑うんだ)
それは一花が初めて見る表情だった。
気兼ねなく笑う、楽しそうな笑顔。
別に風太郎が無表情で無愛想という訳ではない。
中々言う事を聞かなかった二乃に呆れたり、小テストの点数が上がった三玖に口元を緩ませたり、勉強よりも部活を優先しがちの四葉に眉を顰めたり、最近は信頼を寄せるようになった五月に真剣に勉強を教えたり。
色んな表情や感情を浮かべる彼の姿はこの数か月で何度も見た。
だけどあんな風に、年相応の笑みを浮かべる風太郎の姿を一花は見た事がなかった。
(楽しそうだな……)
真っ先に思った感想はそれだった。
あの風太郎でも、あんな表情を向ける間柄の人間が家族以外にも居たんだな、と新鮮さすら感じる。
他の姉妹が知らない彼の新たな一面を見れたような気がして、どこか優越感のようなものも覚える。
だけど、それだけじゃない。
(……なんで)
沸々と、心の底から疑問が湧いてくる。
(私たちには、私には……あんな顔……)
出会ってから自分の中で築き上がってきた風太郎の像と、目の前の彼女と会話を楽しむ風太郎の姿にどこかズレが生じているように一花は感じた。
あそこで会話をしている彼は、家庭教師としての上杉風太郎ではなく、ただ一個人の上杉風太郎として接しているように思える。
あの少女は、少なくとも自分の知らない風太郎を知っているのだろう。
だから、彼は自分の知らない表情を見知らぬ彼女へと向けるのだろう。
そう考えるだけで、一花は胸の内から湧いていた疑問が、どこか黒くてドロドロとした何かに変質していくような錯覚を覚えた。
「あれ、私……なんで」
ふと、手元にあったコーヒーカップが視界に入った。二人を盗み見るのに夢中で殆ど口を付けていない、冷めてしまったコーヒー。
黒い液体の表面に映った自分の顔を見て一花は驚いた。
そこには目を鋭くして表情をこわばらせる、中野一花の顔があったからだ。
慌てて顔を隠すようにカップを口元に持っていきコーヒーを一気に飲み干した。
砂糖を入れ忘れたせいで、強い苦みが口に中に広がる。二乃ほど甘党という訳ではないが、三玖のように苦みが平気でもないので、思わず眉を顰める。
(流石に今の顔は女優がしちゃダメだよね……)
カップを手元に戻して深く息を吐いた。強い苦みのお蔭か、少しだけ冷静になれた気がする。
口元を手で撫でながら、自分の表情を手探りで確認する。
……大丈夫だ、今はもう普段の表情に戻っている。
大きく嘆息して胸を撫で下ろす。そして同時に先ほど感じた、あの言い表せない胸の衝動は何だったのだろう、と首を傾げた。
(そう言えば、前にもこんな事があったような気がする)
思い出すのは先日の林間学校の夜。手違いで二人で倉庫に閉じ込められたあの時。
風太郎にキャンプファイヤーのダンスを断られて、何故か自然と涙が流れた。あの時は無性に悲しみが溢れて出て、それが涙となって抑える事が出来なかった。
今回もそれと同じ、自分ではとても制御できない感情の奔流。
だけど、今回のあれは悲しみなんかじゃなく、もっと粘着質で黒くて、心の底から滲み出るような……。
「もしかして、私……」
「さっきからジロジロと見てたが、何か用か? 一花」
「ッ!?」
突然かけられた声に思わず顔を上げた。どうやら深く考え込み過ぎて周りの光景が全く頭に入っていなかったらしい。
気付けば風太郎が一花の座るテーブル席の前で立っていた。
よく見れば、先ほどまで彼と話していた少女の姿は見当たらない。
「え、えっと、奇遇だね。フータロー君。こんな所で会うなんて。というか、気づいてたんだ」
「入口で突っ立ってるのが目立ってたからな」
「えっ」
そう言えば風太郎を見つけた時に思わず立ち尽くしてしまっていた事を思い出し、その一部始終を彼に見られたと思うと羞恥で頬が赤くなった。
「俺はもう店を出る予定だったが、お前はどうする? 話があるなら聞くが」
「……私もちょうど出ようと思ったところだよ」
赤くなった顔を見られるのが嫌で俯きながら、一花は風太郎と共に店を後にした。
「め、珍しいね。君があんなお店にいるなんて、お姉さんビックリだよ」
店を出た一花は、既に用事を済ませ後は帰るだけらしい風太郎と途中まで帰路を共にする事になった。
途中、互いに無言だったが意を決してようやく一花から口を開いた。
「普段なら間違いなく入らないんだがな。コーヒーに五百円も払うだなんて馬鹿らしいし」
そう答えた風太郎に一花はピクリと眉を動かす。
普段なら、という事は今日は特別だったという事だろうか。
「あの、カフェでフータロー君が話してた子だけど……良かったの? 私とこうして帰ってて」
先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。いつの間にか姿を消していたのも気になる。
「ああ、竹林か。あいつなら用があるらしくて先に帰った」
「そ、そうなんだ……」
竹林、それが彼女の名前なんだと一花は心の中で呟いた。
「随分と仲良さげだったけど、もしかしてフータロー君の彼女とか?」
まさか普段の自分を演じる日が来るだなんて一花は夢にも思っていなかった。
なるべく普段通りの、からかうような口調で尋ねた。内心では緊張と不安でまともに思考が出来ていない。
ただ、どこか心の隅で彼がどんな返答をするか予想は出来ていた。
いつもの仏頂面でそんな訳ないだろ、と一蹴する筈だ。
ところが、一花の予想とは裏腹に風太郎は非常に複雑そうな表情を浮かべた。
「……そんな訳ないだろ。あいつは小学生の時の旧友だ。今日はたまたま出くわしたから話してただけだ」
返ってきた言葉は一花の想像通りだったが、その表情は違った。
何やら苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「旧友、か……そっか、そっか」
ただ、そんな風太郎の表情に気を止める余裕は一花にはなかった。
今はただ、胸の中に広がるこの暖かな安心感が心地良かった。
(フータロー君があんな表情をしていたのも、彼女が彼の旧友だったから。別に特別な関係だからじゃないんだ)
心の中で広がっていたモヤモヤとして感情が晴れた気がする。
そして同時に、あの時に滲み出た黒い何かの正体も理解できた。
(やっぱりあの時、嫉妬してたんだ、私……)
自分でも自覚しきれてない程度には、どうやら目の前の彼に心奪われていたようだ、と一花は自嘲した。
そして再び、脳裏に三玖の顔が浮かんだ。自分と想い人を同じくする、愛おしく大切な妹。
(ううん、大丈夫。三玖が相手なら、きっとあんな嫌な気持ちにはならない筈)
「何でそんなに笑ってんだよ」
「解けなかった問題が解けてスッキリしただけ」
「なんだそりゃ」
ようやく普段通りの調子を取り戻した一花は風太郎と肩を並べて、笑みを浮かべた。
(……だって私たちは同じ姉妹なんだから)
この時の一花は、そう信じていた。
遅くなりましたが、アニメ化おめでとうございます。これを機に五等分の二次創作がもっと増えてくれればいいのですが……。
5巻を読んでいたら、原作でも竹林さんいつか出るかなって思って今回の話を思い付きました。
次は二乃あたりを書こうかと思っていますが、単行本未収録の内容を含むと思います。