家庭教師のバイト初日でいきなり生徒の自宅で寝てしまうという失態を犯した数日後、二回目となる授業の日がやってきた。
今日が来るまでの間も風太郎の学校生活は相変わらずだった。
家を出たら三玖が待ち構えており更に二乃まで増えて三人で一緒に登校し、教室では五月に後ろから背中に穴が開くほど睨まれ、食堂ではやたらと距離の近い四葉に絡まれ、放課後に図書室でひっそりと勉強していると鼻歌まじりに機嫌の良さそうな一花に見つかり、そして帰りは姉妹に囲まれながら帰宅する。
常人なら精神を摩耗するであろう日々を送っていたが、ようやくそれも慣れてきた。人生何事も慣れである。
慣れとは即ち学習だ。人は学んで成長する生物である。風太郎は自分がいつまでも彼女達に怯えて過ごす学習できない愚鈍な草食動物ではないと確信している。
彼女達はああいう人間なのだ。目が怖くて何故か付きまとってくるという個性豊かな生徒なのだと慣れてしまえば後はこっちのものだ。今では心に多少余裕が出来た事で中野姉妹に対して新たな発見もあった。
未だに姉妹全員揃って目がやべーのは変わらないが、そんな彼女達の中でも一花だけは比較的僅かにマシではないかと風太郎は思った。何かこう、他の姉妹に比べてどこか余裕があるように感じた。
会話をする時にやけに距離が近いのは姉妹共通だが、その時に一花は他と違ってあまり圧をかけてこない。これは風太郎にとってはかなり有難い事だった。
残りの妹四人、特に三玖から放たれる無言のプレッシャーは慣れてきたとは言え、未だに風太郎の胃を痛めつけている。
気のせいかもしれないが、一花を除いた他の姉妹四人は自分に何かを求めているような節があった。一体、何を求めているのか風太郎には見当も付かなかったが。
金のない自分が彼女達に与えられるモノなど勉学の知識くらいしか思い浮かばない。
だが、分からなくてもいい。敢えて問わない。一線を引いて彼女達と接すると決めたからだ。
求めるモノが知恵なら進んで進呈するが、それ以外なら悪いが管轄外だ。他を当たって欲しい。自分達と姉妹の関係はあくまでも生徒と教師。その範疇を超えるつもりは一切ない。
だから風太郎にとっては姉妹の中でもまだ距離の取り方を弁えている気がしなくもない一花が今のところ接していて楽だった。五つ子とはいえ、やはり長女なだけあって彼女が一番しっかりしているのかもしれない。
それならそれで、連結した暴走列車の妹達の手綱を握っていて欲しいが……それは叶わぬ願いだろう。
「よし、一度休憩にするか」
「はあ、疲れた」
「お茶でも淹れてくるわ」
「私は抹茶ソーダがいい。二乃、冷蔵庫からついでに取ってきて」
「手伝うよ、二乃」
「頭を使ったので何か甘いものが欲しいですね」
昼の三時頃、勉強もひと段落したところで休憩を取る事になった。中野姉妹はみな勉強に対してやる気を見せているとはいえ、苦手なのには変わりない。
苦手な事を続けるというのは中々に骨が折れるものだ。休憩を挟まなければ姉妹達の集中力が持たないだろう。それに今日に限って言えば風太郎自身も休憩が欲しかった。
(睡眠は重要だと改めて思い知らされたな……今日は帰ったら早く寝るか)
姉妹達が各々の休憩を取る中、風太郎は何とか欠伸を噛み殺しながら休憩後に彼女達に出す予定の問題集をパラパラと捲っていた。
今日も寝不足だ。自分の勉強と家庭教師の両立は風太郎の想像以上に負担が大きく、昨日も夜遅くまで起きて前回のテスト結果を反映させた彼女達の個別課題を作成していた。
生徒がやる気を見せる以上、教師にはその熱意に応える義務がある。そう思って気合いを入れて課題作成に夢中になったのが仇になってしまったようだ。
流石に二度も彼女達の家で寝る訳にはいかないと、普段は決して買わない缶コーヒーを来る前に飲んできたが今のところは気休めにしかなっていない。
「みんな、お茶淹れたわよ。フータロー、あんたも飲むでしょ?」
「いや、俺は」
「いいから、ほら」
キッチンから戻ってきた二乃が姉妹にそれぞれ飲み物を配りながら、最後に風太郎に対して有無を言わさず紅茶の入ったティーカップを差し出した。
断る隙すらなく、受け取ってカップを覗き見る。一見は何の変哲もない紅茶だ。
この手の飲み物の良し悪しは分からないが漂う香りから金持ちのお嬢様らしく如何にも高そうな茶葉を使っているのだろうと予測できる。
普段は食堂の水や家の麦茶で喉を潤わせている風太郎には少々気が引けた。だが受け取ってしまった以上は飲むしかないだろう。
それに紅茶にもカフェインは含まれていた筈だ。もしかしたら多少はこれでも眠気覚ましにはなるかもしれない。
風太郎はそのまま二乃に出されたティーカップを口に運ぼうとして────。
直前で手が止まった。手がこれ以上動かない。無意識に、体がまるで何か警鐘を鳴らしているかのように。
「どうしたの?」
「あ、いや……もう少し冷ましてから飲もうと思ってな」
わざわざ口元まで運んだティーカップを飲まずに皿に戻した風太郎に二乃は怪訝そうな眼を向ける。
「あら、猫舌だっけ? 違った筈だけど。それとも麦茶の方が良かった?」
「別に猫舌って訳じゃないが……今日はそういう気分なんだよ」
風太郎はこちらの眼を覗き込んでくる二乃から顔を逸らした。あの眼にずっと見られているとまるで瞳を通してこちらの胸の内まで見透かされているような錯覚がする。
どうにも二乃は苦手だ。姉妹の中でも特に自分の事を知ったような口を利いてくる。
それがただの口から適当に吐かれた言葉なら気にしないが、数少ない苦手な食べ物や好きな飲み物まで言ってもないのにピタリと当ててくるのは恐怖だ。こればかりは慣れようがない。
「フータロー」
「何だ、三玖」
「熱いのが嫌なら私のジュース飲む?」
今度は隣に座る三玖から緑色の缶ジュースを差し出された。相変わらず距離が近い。頬に彼女の吐息がかかる。少し体をずらして三玖から距離を取りつつ風太郎は顎に手を当てた。
彼女が手に持つ飲み物は抹茶ソーダだ。味に関しては未知だが別にそれは問題ない。
重要なのはこれが『未開封の』缶ジュースだと言う事だ。
「……いいのか?」
「うん。フータローにもこの味を知って欲しい」
「味は別に気にしちゃいないが……じゃあ、いただこうか」
「ちょっと、私の淹れた紅茶は?」
「も、勿論、後で飲む」
「ふーん、ならいいけど」
二乃に睨まれ冷や汗を背中に流しながら内心、ほっと胸をなで下ろした。
そのまま缶ジュースを受け取ろうと三玖に手を伸ばす。
「あ、ちょっと待って」
「えっ」
が、その前に三玖が待ったをかけた。
「やっぱり私も飲みたいから、二人で分けようよ」
「いや、待て三玖。それなら俺はいらな──」
「待ってて。コップに入れてくるから」
いそいそと席を離れて、少し間を置いてから三玖が緑色の炭酸水が注がれたコップを二つ持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「……」
差し出されたコップを受け取り、風太郎は再び手が止まった。これでは二乃の淹れた紅茶と変わらない。
風太郎が飲みたかったのは別にジュースなんかではない。『手の加えられない未開封の飲み物』だ。何故そんなものを欲しがったのか理由は単純である。
風太郎は未だに彼女達を疑っているからだ。
(寝不足と疲労で飯の途中で寝ただと? 絶対にありえねえ。今日、こいつらに囲まれて改めて実感したぜ)
先日、自分が彼女達の目の前で寝てしまった件について風太郎は素直に飲み込めていなかった。一花の前では一応は納得した振りをしたが、後になって考えてみるとやはり違和感しかない。
今日も先日と同じく寝不足の状態でコンディションは最悪ではある。だがそれを加味しても彼女達の前で寝てしまおうなんて気は微塵も起きない。そんな恐ろしい真似、出来る筈がない。
飢えた獣の前で寝る草食動物が何処にいるというのだ。
(だがどうする? 今度は二乃の時みたいに熱いから飲めないって言い訳は通用しないだろうし)
面と向かって飲み物を断れるならそれが一番なのだろうが、それが出来ればここまで苦労はしない。今のところ彼女達はグレーだ。黒ではない。下手に疑っているのがバレて今の関係性が崩れるのだけは何としても避けたい。
先日の一花とのやり取りで感じた教師と生徒の関係性。その距離感は今が間違いなくベストの筈だ。これ以上近づくつもりはないが、離れるのも好ましくない。出来るだけ、事は穏便に済ませたい。
(……いや、待て。逆に考えろ)
この状況、彼女達の尻尾を掴むチャンスかもしれない。もしここで自分が直ぐに眠ってしまったら間違いなく何かを盛られていたと確信できる。そうすれば黒と断定して彼女達との距離感を改めて調整できるのではないのだろうか。
盛った盛ってないよりも、このグレーの現状が続く方が精神衛生上よろしくない。彼女達と深く関わらないと決めたが、相手が薬を盛ってくるやべー連中か、ただの目の前怖いやべー連中かでは流石に対応も変わってくる。
それに仮に盛られていてまた眠ったとしても別に失うものなどないだろうし、リスクはないと考えてもいい。不意打ちで眠らされるのと覚悟を決めて眠らされるのでは訳が違う。
前回の時も帰ってから念の為、鞄や財布を調べたが特に変わりはなかった。もっとも教科書しか入っていない鞄も僅かな金銭しかない財布も変化があった所でそこまで痛くはないが。
一番懸念していた懐にしまい込んでいた生徒手帳も見られた形跡もなかったので一応安心はした。着ていた制服に多少の乱れがあったが、どうせそれは寝返りをした時に着崩れたのだろう。
「飲まないの? フータロー」
「いや、もらう。ありがとな、三玖」
三玖に礼を言って風太郎は覚悟を決めた。前回のように記憶が飛ぶ可能性も視野に入れ右手でコップを持ちながら、姉妹にバレないようテーブルの下で左手に持ったペンでひっそりと膝の上に落としたノートの切れ端に三玖から飲み物を受け取った旨と現在の時刻を走書きした。
これで記憶が飛んだとしてもこのノートの切れ端を後で見れば誰に盛られていつ寝たか後で確認できる。切れ端を小さく丸めてスラックスのポケットに入れた。準備万端だ。
「安心して。鼻水は、入ってないから」
「鼻水? どういう意味だ」
「ふふ、あとで教えてあげる」
毒は入っていない、という意味合いだろうか。笑みを浮かべて発した三玖の言葉にイマイチ要領を得なくて首を傾げた。
まあいい。盛られていないならそれで構わない。その時は抹茶ソーダなる謎の飲料を味わうだけだ。三玖の言葉が嘘か誠かは直ぐに分かるだろう。
風太郎はコップに入った緑色のジュースを一気に飲み干した。
◇
夢を見ていた。あまりに有り得ない光景のせいで夢だと自覚している。
純白の衣装を着飾った自分と、同じように隣で純白のドレスを身に纏った女性。
これが何を指す光景なのか直ぐに理解できた。
所謂、男女が人生の墓場に足を突っ込んだのを祝う式だ。
心底、馬鹿馬鹿しいと思った。式に、ではない。普段から恋愛を下らないと吐き捨てていた自分がこんな夢を見ている事に。
夢は深層心理を映し出す心の鏡だと聞いたことがある。ならば自分は心の底でこんな事を望んでいたとでも言うのだろうか。或は、未来の姿を夢想したのか。愛だの恋だのに溺れる自分を。
辺りを見回すと見知った家族や親戚、見知らぬ人間が集っていてやけにリアルに感じた。
全員が笑顔で二組の男女の新たな人生の旅路に祝福している────ように見えたが違った。
よく見るとその中で違う表情を浮かべている集団がいた。
それは五人組だった。
皆が笑う中、彼女達の表情はただただ虚無だった。
何も浮かべていないのだ。
喜びも、悲しみも、苦しみも、怒りも、何もなかった。
だけど、その瞳だけは違う。
ぐるぐると何かが渦巻いている。
執着、執念、愛執、強い感情の色をしたそれは何処かで見覚えがあった。
そして、そんな瞳をした彼女達が全員同時に小さく口を動かしてぽつりと何かを呟いた。
夢のせいか、声は聞こえない。けれど、不思議と何と言ったのか理解できた。
ど
う
し
て
?
◇
「……ッ!」
強烈な悪寒と共に風太郎は一気に意識が覚醒した。
身に覚えのあるベッドの感覚、視界に入る見覚えのない部屋。デジャヴを感じた。
「あ、起きたんだねフータロー。よく眠れた?」
「み、三玖? ど、どうして……それにここは」
「私の部屋だよ。覚えてない?」
混乱した脳を働かせて記憶の糸を辿っていく。
今日は二回目の家庭教師のバイトの為、中野家を訪れた。それは覚えている。
休憩を取って、色々とあって三玖から貰ったジュースを警戒しながら飲んだ。それも覚えている。
そしてその後の記憶もあった。
「確か、授業を何とか終えたが眠気が限界に来て……」
「うちで少し休んでもらう事になった。今日のフータロー、何だか寝不足みたいだったし」
「……悪い、また世話になったようだ」
三玖のジュースを飲んでも体に異変がないと安心して気が抜けたのだろうか。念の為、二乃の淹れた紅茶は結局、口はしていないし今回は自分の失態のようだ。
元々今日は自分が寝不足だったのを軽く見ていたのかもしれない。何とか耐えられるものだと思っていたが休憩後は想像以上に眠気が強烈だった。
授業を進めていく内にだんだんと睡魔が強くなっていき、授業を終えて直ぐに倒れそうになった自分を二乃と三玖が支えて運ばれたのが最後の記憶だ。
その時に誰の部屋に運ぶか後ろで口論していたような気がしたが、詳しくは覚えていない。
きっと前回の一花の時のように、じゃんけんか何か決めて今回は負けた三玖の部屋に運ぶ事になったのだろう。
「ううん、気にしないで。私たちの為にフータローが頑張ってくれたのは分かってるから」
「だが、二度も生徒の家で寝るのは……」
「うちで寝ないで帰る途中で寝ちゃった方が困るよ」
「……それでも家庭教師としては問題ありに変わりない。教師失格だ」
風太郎は自分が情けなくなった。
本来、信頼すべき彼女達生徒をあろうことか教師の自分が疑いの目を向けた挙句、自分の失態でその尻拭いまでさせてしまった。
距離感を保つと言って置きながらも、彼女達に対して罪悪感のようなものが湧いてくる。
「ねえ、フータロー」
「……なんだ?」
「休憩時間に言った話、覚えている?」
露骨に話題を変えてきた三玖に戸惑いつつ、あの時の会話を思い浮かべた。
「確か、鼻水がどうのって話だったか」
「うん。あれ、石田三成が大谷吉継の鼻水の入ったお茶を飲んだエピソードから取ったジョーク」
「い、石田三成? 急に何の話だ」
「私ね、戦国武将が好きなの」
今度は趣味の暴露にまたしても困惑する。三玖の意図がイマイチ読めない。
「まあ、いいんじゃないか? 趣味なんて十人十色だろう」
「でも、私はその趣味を誰にも言えなかった。他の姉妹にも」
「どうしてだ。別に恥じる事じゃないだろ」
「私が一番の落ちこぼれだと思っていたから」
自身を持てない、という事だろうか。自分の趣味に、ではなく自分自身に。
だが、さっきから三玖の言葉は妙に引っかかりを覚える。
言えなかった、思っていた、何故彼女は過去形で語るのだろう。
「少なくとも、前のテストは五月に次いで点数が高かったが」
「私に出来る事は他の姉妹にも出来たよ。五つ子だから……だから、落ちこぼれの私は諦めてって言ったらフータローはどうする?」
問いかける三玖の瞳はいつもの恐怖を感じる眼ではなかった。
ただ純粋に、真意を確かめたい一心の曇りのない色だ。
答えなど、決まっている。
「それはできない。俺は五人の家庭教師だ。お前達には五人揃って笑顔で卒業してもらう」
堂々と言い切ると三玖は花を咲かせるように笑った。
「……やっぱり、フータローはフータローだね」
「どういう意味だ」
「私達には、私にはフータローが必要だよ。家庭教師失格なんかじゃない」
「……二度も生徒の家で寝る奴だぞ?」
「私にはフータローしかいない」
「……っ」
流石にそこまではっきりと言われると言葉に詰まる。
もう少し消極的な人柄だと思っていたがここまでストレートに言葉を投げてくるとは……いや、よくよく考えれば毎朝人の家の前で待ち構えているような奴はむしろ積極性の塊ではないか。
「だから、フータロー。私たちから離れないでね」
「少なくとも責任は果たすつもりだ」
「今度こそ、絶対だよ」
「……まっ、金で雇われている以上は、な」
口ではそう答えたが、実際はどうだろうか。距離感を保つとは決めたが、もしかしたら少しずつ歩みを寄せるのも悪くないのかもしれない。
もし今日の三玖のように姉妹が全員、自身の事を語ってくれるのなら風太郎は少しだけ、それに応じても良いのではないかと思った。
──思っていた。
「ところで三玖」
「何?」
「なんでタイツ脱いでいたんだ」
「……暑かったから」
「暑いか? 快適な気温だと思うが」
「う、運動したせい」
「運動……ああ、俺を運ぶのにか。悪かったな」
「……いい」
「あと、すまない。覚えていないんだが悪い夢でも見たせいか、シーツを寝汗で汚しちまった。枕もだ。これじゃ一花の時と変わらねえな。洗うならクリーニング代を」
「記念だから置いておいて」
「姉妹で流行っているのか? その記念って。一花も似たような事言ってたな」
「……」
「それと、怪我は大丈夫か?」
「怪我?」
「ベッドに赤い染みが着いてたんだよ。一花もそうだが、そんな所も姉妹で似るんだな」
「……」