今日は家庭教師の仕事がない長閑な休日だった。学校でもバイト先でもあの五つ子に頭を悩まされている風太郎にとっては束の間の休息だ。
今だけは中野姉妹の存在を脳裏から綺麗さっぱり消し去り、家に引きこもって好き放題勉強が出来る。最高の勉強日和とはまさにこの事だろう。
ノートと教科書を広げ、平穏を噛みしめながらペンを走らせていた風太郎であったが、それも長くは続く事はなかった。
何故なら突如鳴り響いたインターホンによって彼の平穏は音を立てて全て崩れ去ったから。
普段、上杉家には来客なんてものとは縁がない。借金取りかセールスの類かと思いながら渋々と扉を開けると、風太郎は驚愕のあまり目を見開いた。
「こんにちは、上杉君」
扉の前に立っていた来訪者の名は中野五月。クラスで常に後ろから睨み付けてくる中野姉妹のやべー五女。
(な、何しに来やがったこの女!)
普通なら真っ先に何故自宅の住所を知っているのかと疑問に感じるところだが、そもそも出会って初日でいきなり自宅の目の前で待ち受けていたやべーヘッドホン女がいた事案があったので特に気にする事もなかった。
自身の個人情報が五つ子に筒抜けなのは今に始まった事ではない。教えてもないメールアドレスと電話番号を何故か知られていたどころか、勝手にスマホのアドレス帳に五人分の情報が追記されていたのは記憶に新しい。自宅を知られていた程度なら許容範囲内だ。
だが、休日にまで彼女達と接するとなると話は別だ。以前の三玖とのやり取りで多少は彼女達に歩みを寄せてもいいかと考えなくはなかったが、休みの日にわざわざ顔を合わせるほど距離を詰めた記憶はない。
五月の姿を見て即座に扉を閉めようと試みた風太郎だったが、彼女は持っていた鞄を咄嗟に扉に挟んでそれを阻止した。
「ひっ」
「お邪魔します」
半開きの扉を掴みながら笑顔を浮かべる五月に風太郎は即座に抵抗の意志を捨て去った。
一体何が目的なのかと緊張しながら居間に案内した風太郎だったが、そこで話を聞くと五月が訪れた理由は意外と真っ当なもので、風太郎に彼女の父から預かった給与を渡しに来たのが今日の目的だった。
「給料か。それなら今度のバイトの日に渡してくれても良かっただろ」
「いえ、お金の事ですし後回しになんて出来ません」
「全く、律儀な奴め」
呆れるような反応を見せつつ内心では五月の言葉を聞いて安心した。それが目的なら直ぐに帰って貰えるようだ。平穏な休日を続ける事が出来そうだ。
「それじゃ、遠慮なくいただいて……なっ」
給与の入った封筒を受け取った風太郎だったがその中身に言葉を失った。諭吉が五人もいたのだ。破格の高収入バイトだと自覚していたが、実際に貰うと気が引ける。
本当にこんな大金を貰ってもいいのかと五月に問いかけようとしたが、ふと思い留まった。よくよく考えれば、ここ最近の精神的及び肉体的疲労を顧みれば割と妥当な金額ではないのだろうか。
確かに家庭教師自体は二回しか行っていないが、それ以外の時間外であの姉妹に絡まれた時間は考えるのも嫌になる程だ。学校生活においてはほぼ全ての時間、姉妹の誰かが傍にいるのが現状である。
家庭教師として仕事、というより日常生活を姉妹から監視される事へのモニターの報酬の方がしっくりくる。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
とりあえず貰った給料は受け取っておく事にした。ここで妹のらいはがいたら何か欲しいものを買ってあげるのだが、生憎と今日は友人と出掛けている。
何でも最近、新しく友人が増えたそうだ。今日はその友人達と遊びに行くという旨を聞いていた。どうやら夜から行われる花火大会にも参加するようで、帰りが少し遅くなるらしい。
兄としては少し心配だが、いつも負担を掛けている妹に遊んでくれる友人が出来たのは素直に嬉しかった。何でも年上の友人らしいが、機会があれば会って直接お礼を言いたい。
「さて、ここからが本題ですが」
「えっ」
「上杉君、まずはこれを」
何やら不穏な言葉を発した五月がすっと懐から封筒をもう一通差し出してきた。
警戒しながら中身を確認すると今度は樋口がひょこりと顔を見せた。彼女の意図が理解できず、風太郎は思わず眉を顰める。
「……何のつもりだ、これは」
「『今日』の給料です」
「は?」
「あなたの家庭教師は一人一日五千円でしたよね。ですから、今日、あなたの時間を一日私に買わせてください」
五月はじっと風太郎の眼を見つめた。相変わらず怖い眼であったが、それでも今までと違って何か決意を秘めているように思えた。
「つまり俺を今日一日、個人で家庭教師として雇いたいと?」
「はい」
「意味が分からん。勉強を教えて欲しいなら平日の放課後でもいいだろう。勉強会なら図書室でやっている」
「それだけじゃ足りないのです」
「……お前が勉強熱心なのは分かった。だがそれは受け取れない」
「どうしてですか」
「お前達に勉強を教えるのはあくまで、お前達の父親から依頼されているからだ。で、その分の報酬はさっき貰っている。お前からの金を貰う事は出来ない」
「……」
差し出しされた封筒をそのまま五月に突き返した。無言で睨まれて一瞬、気圧されたがここで引くわけにはいかない。
「……つまり、個別のレッスンに金はいらねえって事だ。ちゃんとノートと教科書は持ってきたんだろうな?」
「はいっ! ありがとうございます!」
結局は彼女の熱意に折れてしまった。わざわざ休日に家を訪ねて来て勉強をしたいと申し出ている生徒の願いを無碍にするなど出来なかった。
風太郎の返事に嬉しそうに笑顔を浮かべる五月に大きく嘆息しながらも苦笑いを浮かべる。警戒をしていた筈なのに、だんだんと彼女達に対して甘くなっている気がする。
これも一花や三玖との会話のせいだろうか。未だに彼女達とは打ち解けてはいないが異常な発言や行動に目を瞑れば、存外上手くやっていけているのかもしれない。
それに馬鹿でも勉強に対して向上心がある奴は少なくとも嫌いではなかった。
◇
「上杉君はどうして勉強をするのですか?」
相変わらず姉妹揃って距離が近い。今でも四つ足の卓袱台にわざわざ二人隣り合わせに並び時折、目に刺さりそうになる五月の頭頂部の毛束を避けながら彼女に指導していた。
誰もいない上杉家で二人きりの時間を過ごす中、五月の解いた問題の採点をしていると彼女から急にそんな疑問を投げかけられた。
「理由?」
「はい。私は知りたいです」
「勉強は学生の本分だろうが。理由なんてない」
何を馬鹿な事を言い出すんだと返して風太郎は気にも留めず採点を続ける。
ここで一つ、嘘を吐いてしまった。本当は勉強をする明確な理由が存在する。
だが、それをわざわざ素直に話そうとは思わなかったし、他人に話す事でもないと思った。
彼女との思い出は誰かと共有するものではない。
「私には夢があります」
ペンを走らせる風太郎に五月はそのまま言葉を続けた。
「急になんだ」
「学校の先生になることです」
「教員? また随分と遠い目標だな。教員を目指すって事は大学に進学する必要があるが、今は進級出来るかどうかも怪しいだろ」
夢を見るのは結構だが、それ相応の現実を見るのも重要だ。
彼女の掲げる夢は現状では少し厳しいと風太郎は感じた。まずは赤点回避という目先の目標は優先だろう。
それは五月も理解しているようで、風太郎に分かっていますと答えてから言葉を紡いだ。
「確かに今のままでは難しいです……ですから、私は変わりたい。その為に私にはあなたが必要なのです」
「……っ」
思わずペンを動かす手を止めて五月の顔をまじまじと見てしまった。
先日の一花や三玖の時もそうだが、この姉妹は時々珍妙な事を軽々しく口走る傾向がある。
特に『自分を必要としている』だなんて言葉は本当に卑怯だ。嫌でも彼女との思い出が脳裏に浮かんでしまう。
自分が勉強をする理由でもあるそれは、風太郎にとってある意味で殺し文句のようなものだ。流石に彼女達は分かって口にしていないだろうが。
最近、彼女達に甘くなっているのもそれが原因だろうか。
「俺に課せられた最終目標はお前達の全員卒業だ。進路までは面倒見切れん」
「でも、笑顔で卒業させると言ったのでしょう?」
「……あくまでも勉強を教えるだけだ。過度な期待はするな」
その言葉は三玖にしか口にしていない筈。もしかして彼女が口を滑らしたのか。まるで揚げ足取りをされたようで、風太郎は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
態度は素っ気ないのに、言葉では否定しない彼を見て五月はどこか懐かしむように微笑んだ。
「──やはり、あなたは変わらないのですね。もっと、もっと早く信頼していれば、自覚していれば、そうすれば」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
「とにかく無駄話はこれで終わりだ。勉強を再開するぞ」
五月が呟いた小さな声を無視して再びペンを握った。せっかく休日を返上して勉強を教えてやっているんだ。時間は無駄にしたくはない。
「もう一つ、今度は相談をしてもいいですか?」
ところが五月の方は会話をもう少し続けたいらしい。この状態では勉強に身も入らないだろう。
仕方ない。少し休憩を挟む事にしてペンを置いて五月に視線を向けた。
「俺はお前達の家庭教師であってカウンセラーじゃないんだが……まあいい」
「ありがとうございます。さっき、夢があるって言いましたよね。実はもう一つありまして」
「何だ、教師以外にもあるのか」
夢が二つもあるなんて欲張りな奴だと言葉では皮肉を吐き捨てながらも、風太郎にはそんな五月が輝いて見えた。
自分と違って具体的な夢や選択肢があるのは素直に羨ましいと思う。ただ教科書の知識を頭に詰め込むだけでは得ることが出来ない何かに、彼女は手を伸ばそうとしている。
それがたまらなく眩しかった。
「『家族』とずっと一緒に過ごす事です」
「……また随分と抽象的な目的だな」
さっきの教師になるという具体的な夢と違ってあまり要領を得ない目的だった。
首を傾げる風太郎に五月は自身のこれまでの家庭状況を語った。
風太郎の雇い主である今の彼女達の父と再婚するまで自分と変わらない極貧生活を送っていた事。
その生活の中で母が倒れ、五月は他の姉妹の母の代わりになると決心した事。
彼女達の過去や母の五人でいる事が重要だという教えから五月は『家族』で過ごす事を望んでいるらしい。
だが、彼女の話を聞いても風太郎は未だに納得できないでいた。
「お前達の事情は分かったが……別にわざわざ夢として掲げなくても既に達成しているんじゃないか?」
出会って間もない風太郎から見ても姉妹の仲は良好に見える。
中野父とは電話でしか会話した事がないが、落第しそうな娘の為に高額の報酬を出して家庭教師を付けるのだから少なくとも彼女達を大事にしているのだろう。
それともずっと一緒に過ごす、という言葉は文字通りの意味なのだろうか。それはそれで何時までも自立できなくて問題だとは思うが。
話の途中、五月が手伝うと言って入れてくれた上杉家の麦茶をチビチビと口付けながら風太郎は彼女の『夢』に疑問を抱いていた。
「姉妹揃って家族で暮らすなら今もそうしているだろ」
「違いますよ。それだと『父』がいないでしょう?」
「……? いや、お前達の親父さんが」
「私にとっての『父』はお父さんじゃありません。私が『母』なんですから」
何を言っているんだ、こいつは。相変わらず話がイマイチ理解できない。
それに、だんだんと話が妙な方向に進んでいる気がした。
「じゃあその『父』とやらは誰だ。長女の一花か?」
「違います」
「料理が出来る二乃」
「違います」
「三玖か?」
「違います」
「じゃあ四葉」
「違いますよ。分かりませんか?」
さっぱり分からない。例えば彼女達の祖父が『父』とでも言うのだろうか。
答えを当てられない自分に苛立ちを感じているのか、さっきから五月の視線がだんだんと強くなっている。
これは流石にそろそろ正解を当てないと不味い。身の危険を感じる。緊張のせいか喉が渇く。
何とか喉を潤わせようと麦茶を一気に飲み干した。
─────その瞬間、視界が歪んだ。
「なん、だ、これ……」
急激に意識が遠のいていく。風太郎はこの独特な感覚に既視感を覚えた。
しまった。油断した。自分の家のお茶だったから何も警戒していなかった。
一花の時も、三玖の時も確証は得られなかった。だけど今回は間違いない。
こいつらはやっぱり──
「あなたですよ、上杉君」
深淵へと意識が落ちてゆく中、風太郎が見たのは頬を紅潮させた五月の笑みだった。
「上杉君、あなたは私の『父』になってくれたかもしれない男性でした」
「あの時、確かに言いましたよね。私達の『父』になると」
「私が『母』であなたが『父』。つまりそれはもはや夫婦でしょう?」
「あの夜の事は今でもずっと覚えています」
「大丈夫です。あの時の言葉、今はちゃんと理解していますよ」
「だからもう一度、今度は理解した上でこの言葉をあなたに……」
「──今日は月が綺麗ですね」