家の借金がなくなるかもしれない。
電話をして欲しいと妹のらいはからメールが来たのは、ちょうど四限目の終了のチャイムを耳にした時だった。
教室を後にした風太郎は食堂に向かいながら、らいはに電話をすると開口一番にそう告げられた。
詳しく話を聞くと、どうやら最近この辺りに引っ越してきた金持ちの家庭が娘の為に家庭教師を探しているらしい。この話を見つけた父に、あんなダメ親父でもたまには役に立つんだなと、感心した。
(……それにしても家庭教師か)
最初、家庭教師と聞いて眉を顰めてしまった。
別に勉強が苦手という訳ではない。むしろその逆で得意だし成績だって学年トップだ。体力がない事を自負している風太郎にとっては下手な肉体労働のバイトよりはずっと向いていると言ってもいい。
しかし問題は勉強を教えるという家庭教師の仕事だ。
らいはに勉強を教えてあげる程度の事なら今までも経験があったが、家庭教師として教えるとなると話は別だ。
生徒の成績の向上は必須だろうし、給料を貰う以上はその責任も当然伴う。教えるにしてもどの程度勉強ができるかによってカリキュラムを練らなければならない。
それに加えて、家庭教師として教える生徒は自分と同い年の女生徒だと聞いた。これがまだ年下なら昔に習った知識と経験を元に対策はし易いのだが、同い年となると自分の分の勉強に加えて生徒の面倒も見なければならないので負担も大きいだろう。
(結局は背に腹は代えられなくて受けるって答えたが)
報酬は相場の五倍、と聞いてしまったら流石に受けざる得ない。これで借金がなくなるというなら御の字だ。
アルバイトは早速明日から始まるそうなので、家に帰ったら色々と準備が必要になるだろう。
(帰りに本屋に寄って、参考書でも読んで帰るか)
肝心の生徒の情報についてもっと詳しく聞こうとしたが、普段碌に携帯電話を使わないせいか充電をし忘れていて通話の途中で電源が切れてしまった。
仕方がないと、ため息を吐きながら風太郎は食堂の厨房でいつもの『焼肉定食焼肉抜き』を注文した。周りの生徒から向けられる怪訝そうな顔はもう慣れたものだ。
そのまま定食の乗ったトレイを持っていつもの定位置の席に座ろうとした、その時だった。
「あの!」
急に掛けられた声に首を傾げながら顔を向けると、違う学校の制服を着た女生徒が風太郎と同じ席に座ろうとしていた。
見ない顔だ。同学年どころか同級生の顔すら憶えているか怪しい彼でも、視界に入れば記憶に残る程度には人目を引く容姿をしていた。
「なんだ?」
「私の方が先でした。隣の席が空いているのでそっちに移ってください」
「はあ?」
何を言っているんだこいつ、と風太郎は女生徒を睨み付ける。だが彼女は一歩も引く様子を見せない。
「ここは毎日俺が座っている席なんだが」
「関係ありません。早い者勝ちです」
風太郎の言葉に有無を言わせないとばかりに反論する女生徒。初対面の相手にここまでストレートに物を申すとは中々に肝が据わっていると、当事者でなければ感服していただろう。
普段ならここで風太郎も臆せずすぐさま言い返すのだが、今は目の前の少女よりも明日から始まる家庭教師のアルバイトの方がずっと気になっていた。
それにこの女生徒はどうにも頑固そうだ。仮に言い返しても直ぐにまた反論してくるだろう。ここで下手に口論になるのも労力の無駄だと判断し、渋々席を譲る事にした。
勿論、ただでは譲らずに無言で睨み付けたが。
(それにしても随分と豪勢だな。セレブかよ)
隣の席に移動しながら盗み見た女生徒が持つトレイに目を疑った。うどんにトッピングの天ぷら、更にデザートも付けて千円は超えている。実に風太郎の一週間分の昼食代に相当する。
金額もそうだが、その量も一般的な女子高生が食べるにしては多い量だ。
(昼間からよく食う女だ。そう言えば、俺が担当する生徒も金持ちだと聞いたが……こんな感じなんだろうか)
脳裏に高飛車そうな少女の像が浮かび上がる。風太郎は増々気が重くなった。まだ見ぬ自分の生徒に不安が積もる。
せっかくの昼食なのにこんな気分で食べるのも馬鹿らしいと思い、風太郎は気分転換にこの間のテストの復習をする事にした。自分の為の学習にもなるし、多少は明日からの家庭教師業務の糧にもなるだろう。
スラックスのポケットから四つ折りにしていた答案用紙と単語帳を取り出す。さあ、勉学と昼食の有意義な時間を過ごそうして……またしても声が掛かった。
「食べながら勉強するなんて行儀が悪いですよ」
「……」
こめかみの辺りが痙攣しているのが自分でも分かった。どうやら今日は所謂ツイてない日のようだ。
鬱陶しそうに隣の席に視線を向けると、ジト目で先ほどの女生徒がこちらを見ていた。
「何? あんた、『ながら勉強』を否定すんの? あの二宮金次郎もやってたのに俺だけ批判するの?」
「状況が違います」
まくし立てるように文句を言ったが、またしても反論してきた。
思わず舌打ちしそうになったが、何とか寸前で我慢した。そんな事をすれば余計につっかかって来る姿が容易に想像できる。
(まあいい。無視だ、無視)
短いやり取りしかしていないが、どうにもこの女とは馬が合わない。そんな人間の相手をいつまでもするのも時間の無駄だ。
それにこの目立つ女生徒と会話しているだけで、さっきから周囲の視線が集まっている気がする。たまったものではない。
女生徒を無視して単語帳と答案用紙に視線を戻し、箸を持って食事と勉強を再開した。
「食事中にも勉強だなんて、よほど追い込まれているんですね」
「………」
まだ話しかけてくるのか。風太郎は無視を続けるのも無理そうだと諦め、女生徒に顔を向けた。
「あっ! もしかしてそれ、答案用紙ですか? 私にも見せてください!」
「はあ? なんでだよ」
「この学校ではどんな問題が出題されるのか知りたいんです!」
「おいこら、勝手に覗くな!」
隣から覗き見ようする女生徒を静止しようとするが止まらない。
「いいじゃないですか! どれどれ……上杉風太郎君。点数は…………」
「止めろ! 見るな!!」
答案用紙を読み上げる女生徒に風太郎は悲痛な叫びを上げる。
そんな彼に女生徒は楽しそうに点数の書かれた箇所を見た。
「……百点」
「あー!! めっちゃ恥ずかし!!」
「……」
丸しか付いていない答案用紙に女生徒は頬を膨らませながら風太郎を睨み付けた。一方の彼は鬱憤が晴らせたとほくそ笑んだ。
「わざと見せましたね……なんですか。勉強できるんじゃないですか」
「別にできないとは言ってない」
これでも成績は学年トップだと付け加えてドヤ顔で煽って更に追い打ちをかけた。
女生徒に対して余程、鬱憤が溜まっていたのだろう。
「……うう、羨ましいです。私は勉強が得意ではないので」
女生徒は目を伏せて気弱に言葉をポツリと漏らした。もっと悔しがる反応を見せるだろうと予想していたが、先程と違って落ち込んだ様子の彼女はどこか深刻そうな表情に見えた。
意外だった。会話から生真面目なイメージを受ける彼女は一見すれば勉強が苦手そうには見えない。むしろ優等生タイプのような勉強のできる人間に思える。とは言え、人は見かけによらないが。
(羨ましい、それに得意ではない、か……。嫌いと言わない辺り、向上心はあるようだな)
少なくとも、勉強に対する思いはかつての自分よりはマシだろう。『彼女』と出会う前の自分よりは。
ふと、脳裏に髪の長い無垢な笑みを浮かべる少女が浮かんだ。
「そうです!」
ぽんと女生徒が何かを思い付いたように手を叩いた。
今度は何を言い出すのだろうか。面倒くさそうに風太郎は女生徒に視線を向ける。
「こうして隣の席になったのも何かの縁です。勉強、教えてくださいよ」
風太郎の満点の答案用紙に目を輝かせながら女生徒は笑顔を浮かべた。
「……」
断る、と普段の風太郎ならノータイムで返していただろう。すぐさまに食事を済ませ、「それだけ食べると太るぞ」と捨て台詞を吐いてこの場を立ち去っていたに違いない。
現に今もそう口にしようとしたが、喉まで出掛った言葉を飲み込んだ。
(待てよ? これはいい機会なのかもしれない)
果たして経験もないのにいきなり家庭教師が務まるのだろうか。答えは否だ。
せっかくの好待遇のアルバイトだ。自分の不手際で失敗は許されないだろう。
なら仕事をこなせるように少しでも経験を積むのは悪くない。見たところ、この女生徒は恐らく自分と同じ学年だろう。どのように勉強を教えれば理解してもらえるか、検証するのに丁度いい。
「……別に構わないが」
「えっ、本当ですか?」
「提案したのはそっちだろ。何でそんなに驚く」
「いえ、言ってから気付たんですが……あなたなら何となく断るだろうと思いまして。すみません、失礼な事を考えてしまって」
「……」
実際、断るつもりだったから否定はできない。
「あっ、もしかして……」
しかし無言の風太郎を見て、何を思ったのか女生徒の視線が何かおぞましいモノを見るような目つきに変わり、両手で自分の肩を抱いた。
「勉強を教える変わりに何か私に要求しようと……」
「違う。こっちにも事情があるんだよ」
「事情、ですか?」
首を傾げる女生徒に理由を話すかどうか悩んだ。だがこのままつまらない勘違いをされても困るので素直に話す事にした。
「明日から家庭教師のバイトを受け持つ事になっていてな。しかも生徒は俺と同い年だ。今までそんな経験なんて無かったから人に勉強を教える練習をしておきたかったんだ」
二人で食事を再開しながら事情をかいつまんで説明した。途中、女生徒からそれだけでは足りないのでは?とトッピングの天ぷらを分け与えられそうになったが風太郎はそれを丁重に辞退した。
「家庭教師……? それに明日から……同い年の生徒……」
話し終えると風太郎の言葉に何故か女生徒は箸を持つ手を止め、考え込むように顎に手を当てていた。
「どうかしたか?」
「……あの、つかぬ事をお伺いしますが」
「何だ」
「その家庭教師のアルバイト、教える生徒は五人だったりします?」
女生徒の質問の意図が理解できず、五人?と今度は風太郎が首を傾げた。
「人数は聞いていないが……普通は家庭教師なんて受け持つ生徒は一人だろ。まあ、報酬は相場の五倍らしいが」
「……なるほど、そうでしたか」
何かに納得したように女生徒は呟いた。何がなるほどなのか分からないが、とりあえずこれで明日からのバイトの備えが多少はできただろう。
ほっと胸を撫で下ろし、改めて女生徒の顔を伺うと目があった。
「勉強の件、よろしくお願いします。早速ですが、今日の放課後でも構いませんか?」
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「驚きました。上杉君と同じクラスなんて、凄い偶然ですね」
放課後。生徒の出入りが少ない図書室の机に筆記用具と教科書、ノートを広げて、食堂の女生徒である中野
(上杉風太郎君……恐らく彼がお父さんが言っていた明日から私達に付く家庭教師)
父から聞かされていた明日から自分たち姉妹を受け持つ家庭教師。食堂で話した内容だけでは断言はできないが……それでも目の前の彼がそうなのだろうと、五月はどこか確信めいた予感がしていた。
(あなたがもし本当に私達の家庭教師になる人なら、相応しい人か見定めさせてもらいます!)
もし彼が本当に自分たちの家庭教師なら、姉妹を代表してここで見極めなければならない。
それにもし違っていても、学年トップの生徒に勉強を教えてもらえる機会は貴重であるし、この時間が無駄になる事はない。編入したばかりで同じクラスに友人を作れたと思えば十分だ。
気合いを入れて風太郎を見つめる五月に風太郎は大きく嘆息した。
「確かに同じクラスだったのは驚いたが……俺はそれよりもお前の勉強の出来なさ加減に心底驚いている」
「うっ……」
とりあえず五月の学力を知るために急ごしらえで用意した簡易的な五教科の小テストをやらせみたところ、それはもう酷かった。
よくこの高校に編入できたなと風太郎が疑問に思うほど壊滅的な結果だった。
「……見たところ、理科が比較的マシのようだが」
「はい! 理科は得意科目です!」
「得意ならせめて半分くらいは正解してみせろ」
「そ、それは……」
額に手を当てて苦言を呈する風太郎に五月は何も言い返せなかった。
自分の勉強のできなささは自分自身が一番よく解っているつもりだったが、それを改めて他人に指摘されるのはやはり心苦しかった。
「まあいい。とりあえずはお前の学力は把握した。始めるぞ」
「……はい」
自信なさげに五月はうなづいた。
小テストの間違えた箇所を解説を聞きながら改めて問題を解く。
その際に風太郎は教科書だけではなく理解を深めやすいように時折、日常生活での例え話を用いたりと工夫を加えて教えた。
風太郎からすれば手探りでの授業だったが、どうやら効果的だったらしく五月のペンを持つ手はさっきからずっとカリカリと問題を解き進めている。
(……一人で勉強していた時と全然違う)
今までの自分の勉強の方法が間違っていたのだと痛感させられた。
一度解けたからと分かったつもりになっていたり、基礎から学ぶ事の重要さをちゃんと理解できていなかった。
何より、間違いを指摘して正してくれる人の存在は思ったよりも大きかった。
(それに……意外と真面目な方ですね)
隣で今も解説を続ける風太郎の顔を眺める。その目は真剣そのものだった。
食堂で話した時はもっといい加減な人だと思っいた。行儀が悪くて、愛想も悪くて、意地悪で口も悪い。
だが、こうして勉強を教えてもらっていると少し印象が変わった。相変わらず愛想も口も悪いが、問題の解説は驚く程に丁寧だ。
分からない問題を尋ねると、こちらが理解するまでペースを合わせて説明をしてくれる。学年トップというのは自称では無さそうだ。
今こうして五月の勉強を教えているのも家庭教師のバイトの為だと言うし、責任感は強いのだろう。
「そろそろ終わるか」
「えっ? でもまだ問題が残って……」
「ここの閉館時間だ」
「あっ」
風太郎の視線の先にある掛け時計を見て驚いた。ここまで集中して勉強できたのは、初めてだったかもしれない。
「教師の猿真似で解説をしてみたが、どうだった?」
「その……とても解かりやすかったです」
「そうか。中野でも理解できるようなら明日からのバイトも何とかなりそうだ」
お前よりアホな生徒を教えることなんてないだろうしな、と教科書を鞄に入れながら憎まれ口を叩く風太郎に五月は頬を膨らませた。
(悪い人ではないとは分かりましたが……この調子だと二乃や三玖とは折り合いが悪いかもしれませんね)
自分含めたそのアホな生徒を五人も受け持つ羽目になるは夢にも思っていない彼に怒りよりも先に少しばかりの同情心が湧いた。
「上杉君、今日はありがとうございました」
「……別に礼なんて必要ない。言っただろ。こちらの都合のためだ」
面と向かって礼を言うと、風太郎は言い訳をするように言葉を並べて五月から視線を逸らした。
そんな彼が何だか可笑しくて、五月はクスクスと喉を鳴らした。
「これからも、よろしくお願いしますね」
「……? クラスメイトとして、って意味か?」
「明日になれば分かりますよ」
思わぬ形で先に出会った家庭教師は同い年で同じクラスの男の子。
無愛想で行儀が悪くて口も悪い彼はきっと自分たち姉妹とこの先何度も衝突する事があるだろう。
だけど案外、彼なら自分たちと上手くやっていけるのかもしれない。
そんな彼をもう少しだけ知りたいと、五月は思った。
二乃を書く予定でしたが、先に五月メインの話が完成してしましました。