「ふふ、緊張しているんですか?」
「う、うるせえ」
いざ身を差し出すとなると、覚悟をしたつもりでも緊張は中々解けないものだ。
正体を暴く為にキスをした後、風太郎は直ぐに行為へと移行せずに五月と少しばかり会話をしていた。
「ところで、なんでそんなイカれた格好をした?」
「えっ?」
五つ子フルアーマーを解いていつものヘアピンを付けて髪を整えている五月にずっと感じていた疑問を投げかけた。四葉のあの姿は分かるが、五月の奇行は謎だ。というか今回に限らずこの中野五月の行動はいつも風太郎の斜め上を往く。
「イカれた、とは失礼ですね……」
「事実だろ。鏡見てみろ」
「わ、私は三玖や一花のようにそこまで変装が得意ではないのです。だから誰かに変装するよりも誰だか分からないようにした方がいいと思いまして……」
確かにあれでは誰だか一目で判断は出来ないが、それにしても限度がある。フルアーマーナカノの状態でこの部屋まで来たとなると目撃した生徒はさぞ恐怖しただろう。
そもそもの話だが、最初から変装なんてしなければいいのに。それを口にしたらまた文句を言われるのだろうとは分かっているが。
どうにも彼女達は誰か一人だけを特別扱いされる事を嫌う傾向がある。一花が三玖に化けたのもそれが原因だった。五つ子特有の複雑な乙女心という奴なのだろうか。毎回それに巻き込まれるこっちの身にもなって欲しい。
「そんな事より、はやくしましょうっ! 善は急げです!」
まるで御馳走を目の前にしたか子どものような無垢な笑顔を浮かべてベッドの上でぴょんぴょんと跳ねる五月。頭頂部の毛束と豊満な胸部が連動して揺れている。やけにテンションが高い。普段真面目な彼女が見せる末っ子らしい反応に微笑ましさを感じる。
……ことなど一切なく、不安しかなかった。例えるなら皿の上でただ喰われるのを待つしかない魚の気分だ。覚悟して自ら身を差し出したとはいえ、事が事だ。既に両手で数え切れないほど経験を重ねた風太郎であったが、全てが向こうからの宣戦布告による強襲ばかりだ。こちらから仕掛ける攻め戦に関しては未だに経験がないままである。
だからこそ準備が必要だ。戦局を有利に進める為の下準備が。
「ま、待て。その前に用意したものがある」
「用意したもの、ですか?」
ベッドから降りた風太郎は近くに置いてあった自身のリュックサックを漁り、そこから紙袋を取り出して頭頂部の毛束を垂らしながら首を傾げる五月へと見せつけた。
「せめて、これを使わせてくれ」
「これは……」
紙袋の中に入っていたのはビニールで包装された小さな小箱だった。
所謂、ゴムゴムの近藤さんである。五つ入りで風太郎の昼食一週間分相当の費用を要した。
こんなものを事前に用意していた自分に自己嫌悪したが、決して間違った選択ではない筈だ。
林間学校前日、姉妹に連れられた買い物で彼女達の異様な雰囲気を感じ取った風太郎は密かにこれを購入していた。勿論、そういう関係を期待して用意した訳じゃない。色々と手遅れになるのを防ぐ為の防衛手段としてだ。これは鞘だ。剣を守る為に必要となる鞘。そして同時に破滅の未来を回避する為の希望だ。
結局、今日まで使う隙すら与えてもらえなかったが使えるのならそれに越したことはない。
そもそも今までが狂っていたんだ。
彼女達が自分に肉体関係を求める事に関しては、もう今更どうこう言うつもりはない。豚に真珠、馬の耳に念仏、とは正にこれを指すのだろう。あの姉妹に何を言っても止まらないのは分かっている。それに彼女達の性欲求は何故か成績にも直結しているのだ。拒んで折角上げた点数を落とされても困る。
だが、関係を持つならせめてそれ相応の準備をした上で事を為すべきだと風太郎は思う。
中年サラリーマンが居酒屋に来て気軽に注文するような感覚で毎回毎回『とりあえず生で』では間違いなく取り返しの付かない事になる。
既に手遅れの可能性もあるが、それはなるべく考えないようにしていた。一度それを考えてしまって震えて眠れなくなった夜があったからだ。責任の取れる立場でもないただの学生で、しかも家の借金もまだ残っている。なのに母親の違う五人の娘息子達からパパと呼ばれるなど、真っ平御免だ。そんな波乱万丈の人生設計図を描くつもりはない。
とにかく、関係を持つならこの程度の備えは必要だ。給料が上がったとはいえ、彼女達の要求頻度を考えれば痛い出費だ。それに加えてせっかく中野父が自分の実績を認めてくれて給料を上げてくれたのに、その賃金で娘と交わる為の近藤さんを買うのは正直かなり気が引ける。金銭的に懐が、心情的に胸が痛い。
しかし、もはや綺麗事は言ってられない。やらない善よりやる偽善。付けない生より付けるゴムだ。
「なんですか。それ」
「なにって見ての通りだが」
まさか見た事がないのだろうか。いやそんな筈はないだろう。今時、避妊具なんて保健の授業でも実物を見せられるくらいだ。いくらアホの中野姉妹とは言え、これくらいは常識として知っている筈である。
そう思ったが、五月からの言葉は風太郎の予想を遥か斜め上をいった。
「違いますよ────それは何のつもりですか、と訊いたんです」
「はっ?」
さっきまでの高いテンションはどこへやら。目つきを鋭くして問いただす五月に風太郎は目を丸くした。
「……上杉君、今一度問います。私とあなたの関係はなんですか?」
「関係? なんでそんな事を……」
「いいから答えてください」
何故、今このタイミングでそんな事を問われなければならないのか。それが近藤さんとどう関係あるのかと疑問は尽きないが、この様子だと答えなければならないようだ。
頬を膨らませている中野姉妹は決まって面倒な事が起きる前触れだ。無視して良かった試しは一度もない。
しかし随分と突拍子もない問いだ。自分達の関係だなんて。
どんな関係かと言われたら、真っ先に思い付いた家庭教師と生徒だと答えようとしたが言葉を飲み込んだ。
会う度に保健体育の実技が強制的に行われる関係が果たしてただの家庭教師と生徒の関係なのだろうか。
では何かと訊かれると直ぐには思いつかない。知り合い、というには物理的にも深い関係を築いてしまった。もちろん恋人同士でもない。
だが中野姉妹とは肉体だけの関係でもないのだ。彼女達とは五年前から続く数奇な縁で結ばれているのもまた事実。それに肉体的なあれに目を瞑れば彼女達とは良好な仲と言えなくもない。友人というカテゴリが一番相応しい気がした。
敢えてこの関係に名前を付けるならやはり友人同士、だろうか。それも肉体関係を持った。
いや待て、それはつまりセフ───。
「もう、しっかりしてください。私達は夫婦ですよ。夫のあなたが直ぐに答えられなくてどうするんですか」
答えあぐねる風太郎に五月は深く溜息を吐いた。
「どうやら、まだあなたには自覚が足りないようですね」
「……」
むっ、と頬を膨らませて睨んでくる五月に先ほどまで真面目に考えていた自分がアホらしくなった。
そうだ。こいつはそういう奴だ。頭のネジが何本か消し飛んでしまっているんだ。一番真面目そうに見えて一番頭がお花畑なのが中野五月なのである。
普段ならここでスルーしてもいいが、今はそれをすると後から否定しなかったと言って無理矢理彼女の夫にされる可能性もある。人生の墓場に片足を突っ込むのはまだ早い。
「……結婚どころか付き合ってもないのに何言ってんだ」
「果たして本当にそうでしょうか」
「……なに?」
「休日にあなたの家で共に勉強をして、その後に私の初めてを捧げて愛を育み、義妹のらいはちゃんやお義父からも信頼を寄せられ、この林間学校では日が昇るまで一晩中愛し合い、そして先ほどもあなたからキスをしてくれました。これはもはや恋人、いえ夫婦では?」
「……」
事実を淡々と並べられて風太郎は閉口した。経緯はともかくとして結果は彼女の言う通りなのだ。否定は出来ない。
向こうから襲われただけならまだ言い訳ができた。それだけならやべー姉妹に薬を盛られて襲われた哀れな子羊でいられた。
だが、自らキスをしたのは不味い。言い逃れが出来ない。もし彼女達の父にこの事がバレて問いただされた時、おたくの娘さんを見分ける為だけにキスしましたなど口が裂けても言えない。ましてや今度はそれ以上の事を自らしようとしている。
「上杉君、もう私達はただの友人同士や教師と生徒で済まされる関係ではないですよ」
五月の言葉は確かに真理なのかもしれない。もうあと一歩踏み出せば、それこそ本当に引き返せない所にまで行ってしまう。
五月の言いたい事はつまりこういう事なのだろうか。自らの意思で己を抱くならこの関係をはっきりさせろ、と。
「お前の言いたい事は分かったよ。この関係を俺の口からはっきりさせる為に……」
「何を言っているのですか。私達が夫婦なのは公然たる事実です。今更変わりませんよ。問題はそこではありません」
「……」
ゴジョの奇妙な発言に何だかもう全てがどうでも良くなってきた。この場では真剣に考える自分の方が馬鹿なのだろう。
彼女の中で自分が夫なのはもう決定事項らしい。そもそも近藤さんの話をしていたのに何でこんな会話になっているのだろうか。投げやりになりながら風太郎は黙って自称妻の意見を聞くことにした。
「上杉君、今から私達は何をするのか分かっているのですか?」
「何って、あれだろ……」
「あれ、とは?」
「……言わせるなよ」
「いいから答えてください」
「……セッ」
「……」
言葉の途中でもの凄い目で睨まれたので言えなかった。どうやら直接的な表現ではなく、別の言葉で言って欲しいらしい。何となく五月の扱いが分かってきた。
しかし、そうなると彼女が何度も口にしているあの表現だろうか。
口にするのは憚れるが、言わないと話しが進まない。風太郎は渋々言葉を言い直した。
「…………ふ、夫婦の営み、だろ」
「はい、そうです」
どうやら満点の答えだったようだ。五月は満面の笑みで頷いた。
「私達は今から夫婦の営みをします。しかも今回は上杉君がリードしてくれる約束でしたよね」
「……た、確かに言ったが」
「それなのになんですか、それは」
「なにって、いるだろ常識的に考えて」
それ、と彼女が鋭い視線を向けるのは風太郎が手にした近藤さんだった。
まるで汚物を見るかのような五月の眼に風太郎は思わず気圧された。意味が分からない。
「あなたは妻にそんな無機物と交われと、そう言っているのですかっ!?」
「な、なにを言ってるんだ……とりあえず落ち着け」
上等な料理に蜂蜜をブチ撒けるがごとき愚行とてでも言わんばかりに感情を爆発させる五月。
風太郎は頬を引き攣らせながら何とか彼女を宥めようとしたが、聞く耳を持たない。
興奮したまま五月はさらに風太郎にまくし立てる。
「上杉君。あなたは姉たち三人の時にそんな無粋な物を使いましたか?」
「いや、使ってないが……」
使う暇もなかったので使えなかったが正しいがそんな事は五月には知った事ではないのだろう。
(そういう事か……)
五月が腹を立てている理由に見当が付いた。とどのつまり他の姉妹と同じ条件を望んでいるのだろう。
中野姉妹は特定の誰かが贔屓される事を極端に嫌う。今回の五月の怒りもそこから来ているに違いない。
「なら、どうして私の時だけ使おうとするんですか。どうして私だけ……三玖や一花や二乃には使わなかったのに……私の想いもみんなに負けてないのに……どうして」
「わ、分かった! 使わない! お前とも使わずにするから!」
「……本当ですか?」
「あ、ああ……今回は使わねえよ」
取り乱す五月を鎮める為にこちらから折れることにした。説得が通じる相手でないのは何度も身をもって思い知らされている。下手に相手を刺激するよりは受け入れてしまった方が利口だ。
しかしこの流れだと最後の四葉にも近藤さんは使えそうにない。他の姉妹にも使ったからと嘘を吐いて使うことも出来なくは無さそうだが後が怖いのでそんな愚かな真似はしない。
この林間学校では彼の出る幕が無さそうだ。風太郎は深く溜息を吐いて昼食一週間分を費やした無用の小箱を鞄に放り込んだ。
────と同時に袖を強い力で引っ張られてそのまま仰向けに押し倒された。
「えっ……」
唖然とした表情を顔に貼り付けた風太郎の瞳に呼吸を荒くし恍惚した五月が映った。
「な、なんのつもりだ、これは……俺がリードすると言った筈だが?」
「私もそのつもりでした」
「じゃあどいてくれ……」
「上杉君。さっき言いましたよね? "今回は"使わないと」
「い、言ったが、それが何だ?」
「それはつまり、次もあるって事ですよね?」
「……ッ!!?」
違う。言葉の綾だ。そんなつもりで言ったんじゃあない。
即座にそう反論しようとした風太郎だったが、次の瞬間には唇を五月に塞がれていた。
長く永く、永遠にも思えた口付けをして、五月は微笑んだ。
「ふふ、嬉しいです。あなたは"次"も約束をしてくれました。これはもう相思相愛では?」
「ち、ちが……」
「だから、あなたからリードしてもらうのは次に取って置きます。好きなものは最後に取っておいた方が美味しく味わえますから……それにもう私の方が我慢できません」
「や、やめろォ!」
逃げ出そうとした。けど無理だ。
彼女にマウントを取られた状態で非力な風太郎が抜け出す事など不可能である。じゅるりと五月は舌なめずりをした。
蛇に絡めとられた蛙の運命など決まっている。
「──では、感謝を込めて。いただきます」
◇
どうして俺はここにいるのだろう。
白銀の世界でポツリと佇みながら風太郎は白い吐息を吐いた。
初めての攻め戦と思いきや結局いつもの防衛戦へと移行した五月との戦いを終え、気付くと時計の針は十二時を回っていた。どうやら気絶していたようで目覚めた時には傍に五月の姿はなく、代わりに枕元に置手紙とドリンク剤が置かれていた。
『スキー場で待っています』
短い言葉で綴られた文章は筆跡から四葉のものだと直ぐに分かった。一緒に置かれていたのは例の精力剤だ。疲れているからまた今度、とはいかないらしい。
疲労時の差し入れなんて普通なら気が利いた贈り物だと喜ぶ所だが相手とその目的が分かっている為に素直に感謝できない。
ゲームで例えるならラスボス戦前に設置されたセーブポイント、と云ったところだろうか。全力を持ってかかってこいと言われるようなものだ。
今更逃げる選択肢のない風太郎はドリンクを一気飲みし、重たい足を引き摺ってスキー場へと向かったが……。
「……いねえじゃねえか」
辺りを見回しても彼女らしき人物は見当たらない。当然だ。目印になる場所を指定もせずにただスキー場に来いとだけの手紙じゃ見つかる筈もない。
声が大きく騒がしい彼女ならこの広いゲレンデでも直ぐに分かると思っていたが少々考えが甘かったようだ。
「にしても四葉の奴、なんでこんな場所に呼び出したんだ」
彼女の目的は既に分かっている。他の姉妹同様に激しいスポーツを望んでいる筈なのだが、あれは少なくとも屋内競技だ。間違ってもこんな野外のしかも雪が降り積もった場所で行うウィンタースポーツではない。
目的を果たすだけならこんな場所に呼び出さずに部屋で事を済ませば良かった筈だ。いまいち彼女の意図が読めない。
(まだ何かあるのか……?)
常に予想の斜め上を超えてくるのがあの中野姉妹だ。スキー場に呼び出したのも何か裏がある筈。それも間違いなくろくでもない事だ。
「あっ、上杉さんっ!」
聞き覚えのある大きな声が背中から聞こえた。振り向くと洗練された身のこなしで雪原の上スキーで滑ってきた四葉が見えた。
「ようやく来てくれたんですね。もうっ、随分と待ったんですよ? あまりにも遅いんで滑ってました」
「あ、ああ……悪いな」
いつものウサギを模したリボン頭ではなく、猫の耳のような特徴的な帽子を被った四葉は風太郎の傍まで来て嬉しそうにはしゃいでいた。
この様子を見ると彼女は恐らく本物の四葉だろう。あの方法を使わなくても、何となくだがそう感じた。
しかし彼女が本物の四葉だという事に風太郎は違和感を覚えた。
「四葉、一ついいか?」
「なんですか?」
「何故、変装をしていないんだ」
そうだ。彼女が変装をしないまま本来の姿でいるのが妙だ。これは五つ子ゲームだ。
いくら残り一人で答えが決まっているとはいえ、言い当てるまでクリアではない。
それとも残り二人で五月を当てた時点でクリアだったとでもいうのだろうか。
いや、有り得ない。彼女達は五つ子ゲームと称して自分と交わうのが本来の目的の筈。
疑問と疑心が頭蓋を駆け回っていた風太郎に四葉は首を傾げた。
「えっ? だって残り一人は私だけですし変装する必要はないですよね?」
「い、いや、確かにそうだが……それだと五つ子ゲームは」
「おめでとうございます! 上杉さんは無事ゲームクリアです!」
「な、に……?」
歯を見せしししと笑いながら四葉は風太郎を称えるように拍手を送った。
当然、風太郎自身はそれを素直に受け入れられない。更に混乱して思考が追いつかない。
何だこれは。ゲームクリアだと。馬鹿な、ありえない。こんな簡単に狂気が終わりを迎える筈がない。
「うーん。上杉さんはあまり納得がいかないみたいですね」
「あ、当たり前だ。何を企んでいる。正直に吐け!」
「あっ、そうだ! ではこれでどうでしょうか」
警戒心を抱いたまま後退る風太郎に四葉は何かを思い付いた様子でぽんと手を叩いた。
何をするのかと彼女の一挙手一投足見逃さないようにしていた。
だが、視線で捉えていた筈の四葉の体が一瞬、ぶれた。
「えっ──」
轟ッ!!という音が風太郎の鼓膜を叩いた。
それが雪の大地を踏み締めた四葉が生み出した音だと気付いた時には、風太郎の眼前に四葉の顔が迫っていた。
何が起きたのか、理解するのに数瞬の時を要した。
神の宿ったとしか思えない彼女の脅威の肉体を以って神速を生み出し風太郎へと瞬時に接近したのだ。常人では決して捉えられない神の速さ。
それらを全て理解し終えたと同時に風太郎は雪原に押し倒されながら唇を押し付けられていた。
「……ぷはっ、これで私が誰だか判るんですよね?」
「よ、四葉、だろ」
「はい、正解です!」
正直、今までのようにキスの感触や舌の絡み方で判断する余裕などなかった。だが断言できる。
今もなお、押し倒したまま胸元で抱きついて離れようとしない彼女は間違いなく本物の四葉だ。こんな膂力を有している姉妹が何人もいてたまるか。
ドリンクを服用しても体力は増えるが身体能力が上がる訳ではない。紛い物では決してできない芸当を彼女はしてみせた。
「これでゲームクリアです。納得できました?」
「……ほ、本当か?」
「はいっ! 本当に本当です」
「そ、そうか……俺は、クリアしたのか」
「納得できましたか?」
「一応は、な……」
「それならよかったです!」
未だに信じ難いがどうやらこれで解放されたらしい。
願っていた結末であったが、あまりにも唐突過ぎて実感が湧かない。
あのどうあがいても絶望だった一昨日のような夜は本当に訪れないにだろうか。
「さて、無事にゲームも終わりましたし本来の目的を果たしましょうか、上杉さん」
「え」
やはりそうだ。まだ終わってなどいない。四葉の不穏な言葉に風太郎は恐怖し、足が震えた。
安心などできない。安堵などほど遠い。この林間学校はまだ何かある。
だが諦めるな。あと半日だ。あと半日乗り越えれば本当に終わりなんだ。耐えろ。耐えるんだ。
なんとか歯を食いしばり立ち上がろうする風太郎だったが、そんな彼に四葉は微笑みながら手を指し伸ばした。
「忘れちゃったんですか? 楽しい林間学校の思い出話をらいはちゃんに持って帰るのが上杉さんの目的ですよ!」
今度こそ、風太郎は拍子抜けして雪原に尻餅を着いた。
◇
「どうですか? そろそろ慣れてきました?」
「あ、ああ。なんとかな」
「上杉さんも随分と滑れるようになってきましたね」
「お陰様でな」
「しししっ、練習の成果ですよ。何事も練習が一番です」
「それを少しは勉強にも活かしてくれたら俺も助かるんだがな」
「それは言わないお約束です」
ぎこちない動きで四葉に手を引かれながら雪原を滑る。
妹への思い出話の為に。そう言って彼女はスキーを堪能しようと提案してきた。
体力がなくスキーなど滑った事のない風太郎はあまり乗り気ではなかったが、こうして手を引かれて滑っていく内に段々と表情に笑みを浮かべるようになっていた。
(スキーってのも存外、悪くねえな)
雪風を頬に受けながら思う。ああ、これだ。こういうものだ。泊行事というものは。
間違っても性の耐久レースで身を削るイベントではない。今この瞬間だけは風太郎は林間学校という行事を心の底から楽しんでいた。
思い返してみれば今までは酷すぎた。どれだけフー君を酷使したのだろう。今日の午後くらいはゆっくりと休ませてもいい筈だ。
「上杉さん、ちょっと休憩しませんか? 私は大丈夫ですが、ずっと滑ってばかりでしたし」
「そうだな。少し休むか」
携帯を確認すると三時を過ぎていた。随分と夢中になって滑っていたようだ。
あと数時間もすれば夕食の時間だ。それが終わればキャンプファイヤーでこの林間学校は幕を閉じる。
殆どがろくでもない記憶ばかりだが、最終日にはこうして一応は泊行事らしい事も出来たし土産話には十分だろう。
(にしても、こうしていると思い出すな)
四葉に手を引かれて雪原をザクザクと踏みしめて進みながら休憩所を目指している間、ふと五年前の思い出が蘇った。
あの時もこうして"彼女"に手を引かれて一人ぼっちだった自分を連れ出してくれた。
(思い出すのは当たり前か。あの子はこいつらだったんだから)
中身はどうであれ、あの時に救われたのは確かだ。
そして彼女の正体が中野姉妹全員だと知り、彼女達を真人間に戻す事で恩を返そうと思った。
けど、今はどうなのだろう。
狂気の五つ子ゲームであったが、得られたものは何も恐怖だけではなかった。
彼女達について改めて考えさせられる事になったのは確かだ。
五月との会話は少々あれだったが、彼女の言う通りこの関係性ははっきりとさせなければならない。それは今すぐには難しいが、いつかは必ず。
(だが、本当はもう気付いているのかもしれない)
自分が彼女達を拒まない理由も。
彼女達の涙を見たくない理由も。
この五つ子ゲームで思い知らされたそれらの感情は───。
「あっ、上杉さん。あそこ、見てください!」
四葉の声に顔を上げた。いつの間にか休憩所前まで到着していたようだ。随分と考えふけっていたらしい。
四葉の指さす方に視線をやると休憩所の壁際にスキー板やスノボーが立て掛けられていた。
その中で一際目立つものが存在感を示していた。
「何だこれ……かまくらか? なんでこんな場所に」
「誰かが作ったみたいですね。せっかくですしここで休憩しましょう!」
「あ、おい! 引っ張るな!」
「さあ、レッツゴー!」
そう言って四葉は風太郎の制止を振り切りかまくらの中へと突入した。
手を引かれた状態の風太郎も合わせて一緒に入る事になる。
中は人が二人どうにか入れる程度のスペースで少し薄暗い。並んで座ると体同士がどうやっても密着してしまうが、今更それを気にする仲でもない。
特に四葉はあの無理矢理襲われた夜に全身を舐め回された。風太郎の体で彼女が触れていない箇所などないだろう。服の上から触れるなど風太郎からすれば逆に珍しいくらいだ。
「意外と暖かいもんだな」
「はいっ。これくらいなら大丈夫そうですね」
「……? 何の話だ」
「上杉さん」
隣同士で座っていた四葉がずいっと更に身を寄せてこちらの瞳を覗き込んできた。
「なんだ?」
「らいはちゃんへのお土産もこれでバッチリですね!」
「ああ。そうだな。スキーはけっこう楽しめた。お前のお陰でな」
「それは良かったです」
ししし、と笑う四葉に風太郎も釣られて笑った。
「上杉さん」
再び彼女は己の名前を口にした。気のせいだろうか、先程よりも熱の籠った言葉だ。
「今度はなんだ」
「まだ油断してはいけませんよ。林間学校は終わってません」
「キャンプファイヤーだろ。分かってるよ」
そう言えばキャンプファイヤーでダンスがあるのを思い出した。
いつもの流れからすれば、彼女達の誰かと踊るのが容易に想像できる。
特定の誰かだけでは満足しないのは目に見えている。ダンスも五人でルーティーンを組むのだろうか。
「上杉さんはキャンプファイヤーの伝説はご存知ですか?」
「伝説……ああ、一花と三玖が言っていた奴か。生涯を結ばれるとかなんとかっていう」
「はい、それです」
図書館で二人がそんな話をしていた事を今の今まで忘れていた。正直、それどころではなかった。あのキャンプファイヤーの伝説なんかより五つ子ゲームで全員と朝まで盛った姉妹と自分の方がよっぽど伝説的な存在だろう。
まあ、あの狂気が誰かの眼や耳に入らない限り伝説にはならないだろうが。
「お前もあの伝説とやらを信じてるクチか?」
「素敵じゃないですか。それにあの伝説は本当ですし」
「一花と三玖も同じように信じていたな。とんだロマンチストだ」
何を根拠にそんな荒唐無稽は話を信じているのだろう。四葉や一花はともかく、その手の話には懐疑的なイメージのある三玖も信じていたのが意外だった。
何度生まれ変わっても繋がり続けるだとか言っていたが胡散臭いにも程がある。
(こいつらが俺に異常な執着を見せるのは、あいつらが俺と前世で繋がっていたから、とでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい)
くだらない妄想をした自分自身を鼻で笑おうとしたが、少し思考を巡らせた。
そう言えばあの時、三玖は身をもって体験したと言っていたがどういう事だろうか。
今まであまり深く考えようとはしていなかったが、彼女達の言動も確かに妙な点がある。
初対面だと思った彼女達が自分の事を知ったような風で接していたのは五年前に京都で出会っていたからだ。そう思っていた。
(俺、あの時に食い物の好物の話とかしたか?)
初めて中野姉妹の家に訪れた時、二乃は確か自身の好物や苦手な食べ物をピタリと言い当てていた。そんな話は京都の彼女にも話した記憶はない。
(いや、らいはから聞いた可能性だってあるだろ。あの時点で何故からいはとは仲が良かったんだし……)
そうやって無理矢理自分を納得させようしたが、次から次へと疑問は湧き出てくる。
そもそも、あの京都の子は何故、初対面の自分にあそこまで積極的に絡んできたんだ。
段々と考えていく内に寒気がしてきた。思わず首を振って風太郎は思考を揉み消した。
くだらない。こんな馬鹿げた話、正気じゃない。
「上杉さん」
「っ!?」
また名前を呼ばれ、体がびくりと震えた。
「な、なんだ」
「上杉さんはあまりこういう伝説は信じない人だとは分かっているんですが、今夜のキャンプファイヤー、ご一緒してもいいですか」
「……なんだ。そんな事か。別に構わねえよそれくらい」
「本当ですか! ありがとうございます!」
風太郎は即座に頷いて返事をした。
たかがダンス程度だ。それくらいなら別に付き合っても構わない。
むしろこうして断りを入れてくる方が驚きだ。彼女達の事だから有無を言わさずに迫ってくると思っていたが。
やはり四葉は姉妹達の中ではまだ会話になる方だと風太郎は改めて思った。
「───じゃあ、本番に向けて練習が必要ですね」
言葉と同時に風太郎は狭いかまくらの中で押し倒された。
「……っ!!?」
言葉を失う風太郎に四葉は微笑みを浮かべたまま彼の頬を両手で包み込んだ。
まるで赤子を抱きかかえる母のように。その手は慈愛に満ち溢れていた。
「約束しましたよね、ちゃんと私の相手もしてくれるって」
「しょ、正気か!? こんな野外でなんて」
「だからこそです。言ったじゃないですか。これは本番に向けた練習ですよ」
「ほ、本番……? 何を言って」
「キャンプファイヤーのフィナーレの瞬間、触れ合っていた男女は結ばれるんです」
「それがどうした!? それとこれが何の関係が……っ!」
四葉の言葉でようやく気付いた。気付いてしまった。彼女達の真の目的が。
五つ子ゲームで全員に襲われたのは、あれが本命ではなかった。
あれも本命に向けた練習の一環だったのだ。恐らく後の個別での五つ子ゲームは彼女達にとっては想定外だったのだろう。
そしてつい先程、四葉が口にした『これも本番』の意味。
あの五つ子ゲームにおける集団戦闘。そして今回の野外での戦闘。
それらは本命の、キャンプファイヤーで全員と野外で事を交わるのを想定した訓練だった。
「さあ、上杉さん。本番に向けていっぱい頑張りましょうね?」
彼女を止める術など持ち合わせてはいなかった。あの性欲モンスターである五月を相手に歯が立たなかったのだ。今回の相手は四葉だ。
モンスターではない。神だ。
雪原にフー君の白い涙が散った。