ここ最近、中野二乃は虫の居所が悪い日が続いている。その原因はもちろん、あの家庭教師である上杉風太郎だ。彼が来てから腹立たしい毎日だ。
自分達姉妹に家庭教師等という異物は不要である。それをあの父は全く分かっていない。
勉強が大事だという父の考えは一応理解できる。自分達の将来を想って新たな学校や家庭教師を用意してくれたのだろう。だがそれはあくまでも一般論だ。自分達姉妹は例え学校を辞めさせられる事になったとしても五人で一緒にいる事を選ぶ。
五人一緒に。それが亡くなった母の願いでもあり、唯一の家族である大切な姉妹を思う二乃の本心でもあった。
だから、姉妹の仲に土足で踏み入れるあんな俗物を二乃は認める訳にはいかなかった。
それなのに四葉と五月の妹組は既に彼を受け入れ初めている。
聞いた話だと五月なんて出会って初日に勉強を教えて貰っただけで彼に信頼を寄せるようになったそうだ。
我が妹ながらちょろすぎると呆れた。中学校から前の高校まで女子しかいない環境に身を置いていただけあって、異性との距離の取り方が分かっていないのだろう。
本人は友人同士だと主張しているが、むこうはどう思っているか分からない。男など所詮は獣……と言いたい所だがあの家庭教師、同い年とは思えないくらい達観しているので本当に問題はないのかもしれないが。
そして四葉も妙だ。お人好しの彼女が家庭教師の彼に気に掛けるのは分からなくもないのだが、それにしても少々距離が近すぎるのではないか。
昨日も朝早く起きておにぎりを作っている姿を見た。あまりにも珍しいので思わず声を掛けたが、どうやら彼の為に作ったそうだ。ここまで来るとお人好しを通り越して何か別の感情があるのではないのかと訝しんだが、それを言葉にする事はなかった。
前の学校の一件以来、姉妹に対して過剰に遠慮するようになった四葉が、まるで昔に戻ったかのように楽しそうにしていたのだ。思うところはあるが、本人が望んでいるのなら仕方がないと諦めた。
正直なところ、彼が家庭教師でなかったのなら別に二乃は干渉しようとは思っていない。
もし仮にあり得ないとは思うが、五月や四葉が彼と付き合うような事があったとしても男の趣味が悪いだの地味だのと散々ケチは付けるだろうが、最終的には祝福するだろう。大事な妹達とはいえ、個人の付き合いにまで口を出すつもりはない。
……が、家に上がり込んで自分達姉妹全員と係る事になる人間となると別だ。
ここは私達だけの聖域だ。あんな他人がずけずけと踏み入れていい場所ではない。
それに予感がするのだ。あの男は自分達姉妹の関係を大きく変質させてしまうのではないかという確信めいた予感が。
彼はこんな短期間で五月と四葉から信頼を得た。三玖や一花もそうならないとは限らない。もし四人が彼を受け入れてしまったら……。
──それだけは絶対に嫌。私はただ、五人でずっと一緒にいたいのに。
自らの居場所を守るため、二乃はあの外敵を排除しよう決意した。
まず初日に好意的なフリをして飲み物に細工をして眠らせてしまおうと試みた。所謂実力行使という奴だ。
ごく自然に来客におもてなしをするよう装った。笑みを浮かべ、さも自分は味方であるかのように演じて。
だが、彼は自分の出した飲み物に全く口を付けなかった。それどころか、作ったクッキーすら一切手を付けず、まるでこちらの考えなど全てお見通しとでも言わんばかりに。
計画が失敗して腹を立て無理矢理にでも彼を追い出そうとしたが、それも見越していたのか彼はその前に帰ってしまった。まるで子ども扱いされたようで、かつてない敗北感に二乃は涙目になった。
次の日、今度は別の切り口で挑んだ。どうにも彼は警戒心が強いようだ。初日で仕掛けようとして気付かれたのだから、二度目は難しいだろう。ならばどうするか。
簡単だ。”二乃”以外が攻め落とせばいい。
自分達は瓜二つの五つ子だ。姉妹に変装するなど造作もない。早くも信頼を寄せる五月に扮し、五月の姿で家庭教師など不要だと告げて追い出そうとした。信頼を得たと思った五月の口から拒絶の言葉を聞けば彼も動揺するだろう。
三玖ほど完璧な変装はできないが、赤の他人である彼を騙すなら自分でも十分だ。見抜ける筈がない。今度こそ成功すると確信した。
しかし、またしても作戦は失敗に終わった。予想外な事に彼は一目見ただけで自分が五月でないと看破したのだ。"愛"がなければ見抜けない筈の姉妹への変装を。
会話に違和感を感じて、という理由ならまだ分かる。だが一言も発していないのにすぐさま見抜かれるとはいくらなんでも想定していない。
加えて、彼が変装した自分に向けたあの表情が二乃にとっては衝撃的だった。
『……またか』
心底嫌気がさした顔、とは正にああいうのを指すのだろう。滲み出る嫌悪感を微塵も隠そうともしない彼の冷たい眼差しが二乃を貫いた。
確かに騙そうとした。悪い事をしようとした。でもまさかあそこまで怖い顔をされるとは思いもしなかった。
他人にあんな表情を向けられたのは生まれて初めてだった。あまりのショックでまたしても二乃は涙目で敗走した。後ろから彼の呼び止める事が聞こえた気がしたが、立ち止まる事なく全力で逃げた。単純に怖かったのだ。
家に帰ってから怖い顔であの家庭教師に睨まれた事を五月にチクったのだが、うっかり騙そうとした事まで話してしまって五月に叱られた。
───ほんと、ムカつく。
彼が家庭教師な事も、自分が作ったクッキーを食べなかった事も、妹達が彼に信頼を寄せる事も、彼が一目で変装を見抜いた事も、彼が怖い眼で睨んできた事も全て二乃にとっては気に食わなかった。
あの男は間違いなく、姉妹の絆に害為す存在だ。どんな手を使ってでも排除しなければ。
その結果、姉妹から嫌われようとも構わない。汚れ役なら喜んでやろう。
◇
強大な敵を倒すにはまず、その敵を
次の土日にまたあの家庭教師が家に来る。それまでに何か弱みでも握る事ができればと良いのだがと考えてた二乃に思わぬ転機が訪れた。
「──で、何しに来たのよ」
「まあ、その……なんだ」
「なに?」
「今日はお前だけか、二乃」
「何しに来たかって聞いてるのよ」
「……」
一花は私用で、三玖は買い物、四葉は運動部の助っ人、五月は食べ歩きと各々用事で出掛けた中で一人家に居た二乃に予想外の来客が訪れていた。
あの忌々しい家庭教師だ。インターホンを出た時は真っ先に門前払いしてやろうかと考えたが、待てと思慮した。
短絡的な思考のままでは彼に勝てないと先日思い知らされたばかりだ。こちらの腹に受け入れ敵を知るくらいの度量が必要だろう。そう判断し敢えて彼を招き入れた。
リビングのソファーにふんぞり返りながら二乃は風太郎に要件を問いただした。客人を迎える態度ではないが、彼相手なので問題はない。
向かい側のソファーで何故か言いにくそうに前髪を弄っていた風太郎だったがやがて諦めたように溜息を吐いて渋々と言葉を漏らした。
「……前に来た時にどうやらここに忘れ物をしちまったみたいでな」
「忘れ物?」
「ああ。生徒手帳なんだが」
「生徒手帳? ……あっ」
生徒手帳と聞いて彼が初めて家庭教師として家に来た日の事を思い出した。
あれは彼が帰って直ぐの事だ。確か、姉妹の一人が床に落ちていた生徒手帳を拾っていた記憶がある。
彼のものだと判り、面白がって手帳をパラパラと捲っていた彼女が途中でその手を止めて驚愕の表情を浮かべていたのが二乃の中で印象深く残っていた。
あの時は五月が彼に手帳を返しておくと申し出たが、何故かそれを彼女は断った。拾った自分が彼に直接返すからと言って部屋に戻っていったのだが……。
どうやらあの手帳をまだ彼に返していなかったらしい。そのせいで家庭教師の日でもないのに彼の顔を拝む羽目になったのだから二乃からすれば迷惑な話だ。
「心当たりがあるのか?」
「……ええ、あるわ」
わざわざ家に出向いて何の用かと警戒していたのだが蓋を開けてみれば大した用事でもない。
とんだ肩透かしだ。他の姉妹が手帳を持っていた旨を伝えて彼には早く帰ってもらおう。
「そうか。お前が持っていたのか?」
「……」
「二乃?」
───そう、思っていたのだが少し気が変わった。
「心当たりはあるとは言ったわ。でもタダで渡すとは言ってないけど?」
「……なに?」
よくよく考えてみれば妙な話だ。普通、生徒手帳を忘れたからと言ってわざわざ家にまで来るだろうか。それも次の休日に訪れる予定があるのにも関わらず、だ。
──何かある。その生徒手帳にはこの家庭教師の弱みとなりえる何かが。
二乃の直感がそう告げている。これは勝機だ。数少ない彼に付け入る事のできる僅かな隙。
それをみすみす逃すなんてあり得ない。勝ち誇った笑みを浮かべながら二乃は風太郎を指差した。
棚から牡丹餅とはこの事だろう。まさかこんな形で彼の弱みを手に入れる事が出来るとは。
「その様子だとあんたの生徒手帳、よっぽど大事みたいね」
「まさか強請る気か?」
「人聞きが悪いわね。交渉よ」
あの生徒手帳に何やら彼に関する秘密があるのは間違いないだろう。
思えば手帳を拾った彼女があんな表情を浮かべていたのもそれを見たのが原因だったのかもしれない。
線と線が結ばれていく。勝利の方程式は決まった。
これを交渉材料にすれば彼を追い出す事も……。
「断る」
「えっ」
だが、そんな二乃のプランは彼の無常な一言で全て瓦解した。
「ちょ、まだ何も言ってないでしょ!?」
「どうせ家庭教師を辞めろだとか、この家に近付くなとかだろ」
「なっ」
「生憎だが、誰に何を言われようともお前達の家庭教師を辞める気はない。返す気がないのなら手帳は好きにしろ」
全てお見通しのようだ。一言一句違えず自分の考えていた事を風太郎に言い当てられ、二乃は悔しくて歯噛みした。
「な、なによ。生徒手帳、あんたの大事なものじゃないの?」
「別に手帳自体はどうでもいい。大事なのは写真の方だ」
「写真?」
「その様子だとお前は手帳を持っていないのか、或いは中身を見ていないようだな」
「あっ」
「……見てないならいい」
他の連中に見られると面倒だからな、と呟きながら何処か安堵した様子で胸を撫で下ろした風太郎を見て二乃は少し意外に思った。好きにしろ言っていたが、やはり大切なものらしい事が伺える。
あの妙に達観した家庭教師がそんなにも大事そうにする写真には一体誰が写っているのだろうか。ほんの少しだけ興味が湧いた。
「……その写真ってそんなに大事な物なの?」
「言っただろ。好きにしてもいいって」
「嘘よ、顔に出てたわ」
「……っ」
そう指摘すると彼は自分の顔を手で触れながら苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
初めて彼を言い負かす事ができた気がする。機嫌を良くした二乃はそのまま風太郎に写真の事を追及した。
「そんなに大事なんだ。家族の写真?」
「ああ」
「適当に言って誤魔化そうとしたでしょ」
「……」
「素直に白状しなさい。そうしたら手帳の事、教えて上げてもいいけど?」
「……恩人の写真だ」
「恩人?」
「ああ。俺を変えてくれた人の」
弱みだと思った写真の事を追及する事で風太郎の嫌がらせになると思った二乃だったが、意外にも彼はその"恩人"との思い出を語ってくれた。
京都で出会い、共に大事な人の為に勉強を頑張ると誓った少女の話を。
気付けば二乃は風太郎の思い出話に聞き入っていた。見るからに恋愛など下らないと唾棄してそうな彼からまさかこんなロマンチックな話を聞けるとは思わなかった。
「……長々とつまらない話をしたな」
「そんな事ないわ。素敵な話じゃない!」
偶然の出会い、二人きりの修学旅行、二人で誓った約束……まるで少女漫画のようだ。乙女の二乃には胸を刺激する内容だった。
それに話の途中で聞いた彼の家庭事情や妹を楽にさせる為という目的は二乃にとっては風太郎の印象を大きく変えた。自分も姉妹の事が大好きだ。妹を想う気持ちはよく分かる。貧相な生活を送っていた経験からその苦労も理解できた。
ほんの少しだけだが、彼という人物の事を知れた気がする。
「あと、その……ごめん」
「何がだ」
「だって写真、とっても大事なものじゃない。あんたの好きな人の写真だなんて……」
軽い気持ちで考えていたが、まさかそんな大事なものだとは思ってなかった。それを交渉材料に使おうとした事に二乃は罪悪感が湧いた。
「感謝はしているが別に好きって訳じゃない。言っただろ。ただの恩人だ」
風太郎は否定したが、二乃にはそうは思えなかった。きっとその子は彼の想い人だろう。恩人とはいえ、肌身離さずその人の写真を持ち歩くなんてよっぽど思い入れがあるに決まっている。
しかしながら、そうなると安心だ。彼の話を聞いて感じたが上杉風太郎は一途な男だ。間違っても姉妹達に手を出すような真似はしない。
別に彼を認めた訳ではないが、姉妹の仲を裂くような男でもないと感じた。
「それに謝るのは俺の方だ」
「私に?」
「……前にお前が五月に変装しただろ。あの時に睨んじまったから」
「えっ」
思わず目を丸くした。彼が謝った事に、ではない。彼があの時の変装を”
偽五月だと看破したのは驚いた。けれど"誰が"変装していたかまで気付いていたとは思わなかった。
ふと、祖父から続くあの言葉が脳裏を過ぎる。"愛"がなければ見抜けない。
馬鹿な妄想をしかけて二乃は頭を振って思考を掻き消した。二乃は知らぬ事だが同じ考えを妹の五月も先日思い浮かべていた辺り、彼女達は根っこの部分で共通するものがあるのだろう。
「……ねえ、聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「あんた、何であの変装を私だって分かったの?」
「……」
初日に妨害しようとしていた事は彼に悟られていたし、変装をして妨害しようとするのなら真っ先に自分が候補に上がるのだろうが、それでも納得がいかなかった。
二乃の問いに何処か答えにくそうな表情を浮かべていた風太郎だったが、暫く沈黙を続けた後に口を開いた。
「……その、あれだ。前に今と同じ仕事をしていたんだが」
「家庭教師を?」
「ああ。その時の生徒も……変装が得意な奴だったんだ」
「変装が得意って、五つ子の私達よりも?」
「……クオリティは似たようなもんだ」
にわかに信じがたい話ではあるが、五つ子と同じクオリティの変装が出来る人間がいるらしい。
もしかするとその子も自分達と似たような双子か何かだろうか。
「その時に散々騙された。それこそ嫌ってほどにな……お蔭でそういったのを見抜けるようになったんだよ」
「ふーん……その前の生徒ってのは随分とやんちゃだったのね」
「やんちゃ、で済めば良かったんだがな。おまけに馬鹿だ……本当に馬鹿だった」
馬鹿だ馬鹿だと連呼する彼の表情は、何処か先ほどの思い出を語る時よりも楽しそうに見えた。
最初は敵意を剝きだしにされて、でも認めてくれた時は嬉しかったと懐かしさそう嬉しそうに彼は語った。
家族想いで、料理もプロ並みに上手で、彼女の作るお菓子は美味かったと、そんな事まで話してくれた。
───"前の生徒"の作った料理は食べたのに私のは食べないんだ。
何故だろう。彼の話を聞きながら二乃の頭の片隅にはあの日、テーブルに残された手の付けられていないクッキーが浮かんでいた。
◇
人間関係なんてものは片方の意志だけではどうにもできない。前回の二乃にそう言ったがそれは今回も変わらないだろう。
警戒心を剝きだしにする初期の二乃とどう接すればいいのか頭を悩ませた。眠らせてくるのは前回の時に経験済みだったので予測できたが、まさか五月に変装してくるとは思わなかった。
そのせいで前回、あいつらが醜い争いをしていた末期を思い出してしまった。誰かが誰かに化けて嘘を吐く、あの酷い有様を。
トラウマが甦って思わず二乃を睨み付けてしまったが、あいつには少し申し訳ない事をした。前回の出来事なんて今のあいつらは関係のないというのに。
あれで一番繊細な奴だ。何とかしたいと思っていたが今日は上手く事が運んだ。結局こちらを知ってもらうのが一番手っ取り早い信頼方法なのだろう。
知らない人間の事をいきなり信用しろと言っても出来ない。だから、聞かれた事は話せる範囲で話したが、そのお蔭で少しは二乃と歩み寄れた気がする。
思えば、あいつと二人きりで話すのは存外嫌いではなかった。好意を寄せられる前は、姉妹の中でもフラットに言い合えていたと思う。今回は、そんな関係を目指していきたい。
しかし、結局二乃から手帳の行方を聞き出せないまま、有耶無耶になってしまったが……まあ、いいか。写真はあくまでも物に過ぎない。大事なのは思い出だ。
それに下手に持ち歩いている所を四葉以外の姉妹に見られたら少し面倒な事になるかもしれない。二乃には京都の事を語ったが、相手が四葉だとは言っていない。どんな過去があろうとも今の俺達の関係は家庭教師と生徒。そう決めているんだ。下手に距離を見誤るとまた前回の二の舞いになる。
だから俺たちの関係は四葉にも二人だけの秘密と言って口止めをしている。あいつは喜々とした様子でそれを受け入れてくれたので姉妹に口を割る事はないだろう。
まだ出会って数日だが今のところは順調に正しい関係を築けている。この調子で明日も頑張ろう。
「───あ、お帰りなさい。フータロー君」
ああ、失念していた。もう一つあったのだ。決着をつけなればならない過去が。
家に帰ると、妹と"トランプ"をしながら俺の帰りを待っていた中野一花が出迎えてくれた。
……その手に俺の生徒手帳を持って。