振り返ってみれば彼との出会いは好奇心から始まったと言えるだろう。五年前のあの日、修学旅行で行った京都の地で彼と初めて出会った。
面白い子と出会ったと満面の笑みを咲かせながら姉妹に自慢する妹を見て何となく、どんな子か気になったのがきっかけだ。一目見ようと彼のいる部屋の前を通りかかった時に一緒に遊ぼうと誘われた。
共に過ごした時間はほんの僅かで互いに名前も名乗ってもいないのに中野一花にとって彼と遊んだ楽しい時間は五年経った今でも色褪せる事なく鮮明に刻まれていた。
男の子とあんなに話したのも遊んだのも生まれて初めての経験だ。彼が自分にとって淡い初恋の相手だったと一花が気付いたのは、中学校になって何度か異性からの告白を受けてからの事だった。
きっとあの時に感じた胸のときめきを今でも忘れられないのだろう。だから近付いてくる男子には何も感じなかったし、自分が誰かに惹かれる事は当分の間はないと思っていた。
───彼と再会するまでは。
好奇心から始まった初恋の人との出会い。その彼との再会もまた好奇心からによるものだったのはある意味、必然と言えるのかもしれない。
上杉風太郎。父が用意した自分達姉妹専属の家庭教師は"地味な男の子"というのが一花の第一印象だった。
背が高くて真面目そうで少し変な髪型をした男子。家庭教師として同級生の勉強を見るという事は頭はいいのだろう。一花の初恋の相手である彼とは真逆のタイプ。けど何故だろう。不思議と彼から懐かしさを感じた。
他の姉妹の反応を伺うと二乃は敵対心を剝き出しに、三玖は無関心、四葉とそして何故か五月が彼に協力的と別れていた。話を聞くと五月とはクラスメイトで転校初日に交流があって彼の事を受け入れているらしい。
あの五月が彼を認めているという事は少なくとも悪い人ではないのだろう。四葉もお人好しではあるが妙に彼への信頼度は高いように見える。
出会って二日で二人の信頼を得る彼はもしかすると今後、妹達ともっと深い関係になるのかもしれない。勉強へのやる気はないが彼の事は少し面白そうだと興味が湧いた。
ここは長女としてあの真面目な家庭教師と妹達の仲を茶化しながら見守ってあげよう。
妨害しようとする二乃を軽くあしらいながら初日の家庭教師業務を無事に終えて帰った彼を見送りながらそんな事を考えていた一花だったが、リビングで拾った生徒手帳が彼女の運命を大きく変えた。
あの家庭教師が落としたと思われる生徒手帳。人の手帳を勝手に盗み見るなんて決して許された行為ではないのだが、その時の一花は好奇心が上回った。
何か面白い事でも書いてないかな。好奇心に駆られてペラペラと頁を捲るが特別何も書かれてはいない。
まあそう都合よく何かある訳でもないか。やや落胆しながら最後の頁を捲った時、一花はその手を止めて目を見開いた。
一花の瞳に飛び込んできたのは"彼"だった。忘れもしない京都で出会った髪を金色に染めてピアスを付けた活発そうな男の子。
写真は半分に折りたたまれていてもう半分は開かないと見えない。誰かと撮った写真だ。どうして彼の写真をあの家庭教師が持っているのだろうか。
今すぐにでも写真を開いて見てしまいたいという衝動に駆られたが、その場では自重した。どうしてか自分でも分からないが、あの写真はこの場では見てはいけない気がしたのだ。姉妹全員が揃っているこの場では。
彼と同じクラスである五月が手帳を拾った一花を見て、自分がそれを返却すると申し出たのだが一花はそれを断り自分で彼に返す旨を伝えて部屋へと駆け込んだ。
念のために部屋に鍵をかけ、興奮気味に一花は写真のもう半分を開いた。
そこに写っていたのはかつて髪型も同じであった妹の姿だった。他人では決して見分けが付かないだろうが姉妹の自分なら分かる。写っているのは四葉だ。
ああ、そうか。そういう事か。点と点が結び付き線になっていく。
どうして四葉が何故か妙にあの家庭教師を信頼しているのか。どうして彼から奇妙な懐かしさを感じたのか。疑問が全てが解けた。
上杉風太郎こそがあの京都の少年だった。
胸の鼓動が速くなっていくのが自分でも分かる。運命というものが本当にあるのならきっと彼との再会を指すのだろう。五年前に出会い、ほんの僅かな時間を共に過ごした初恋の人との再会。これを運命と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
彼と話してみたい。もしかしたら自分の事を覚えているのかもしれない。彼からすれば四葉だと思ってあの時に遊んでくれたのだろうけど、それでも構わない。ただ話したいのだ。ようやく名前を知れた彼と。
そこから一花が行動を移したのは数日経ってからの事であった。最初は翌日に学校で生徒手帳を返そうとしたのだが、緊張して渡せなかった。一花は自分がこの手の事に関して奥手なのだと初めて実感した。
結局、手帳を返せないまま一日、二日と経過し流石にこのままでは不味いと判断した一花は手帳に記載されていた風太郎の住所に目を付けた。どうせなら自宅に送り届けよう。そうすれば逃げ場などなく嫌でも渡せる筈。
いきなり家に訪問するのもどうなのかと迷いはしたのだが、これ以上は長引かせるのも宜しくはない。
ついでに言えば彼がどこに住んでいるのか知りたいという欲求も密かにある。己を奮い立たせて一花は彼の家を訪れた。
出迎えてくれたのは彼の妹だった。どうやらタイミング悪く彼はまだ帰っていなかったようで、一花は手帳を預けて帰ろうとしたのだが、彼の妹らいはに呼び止めれて彼の帰りを家で待つ事になった。兄の異性の知り合いが家を尋ねて来るのは初めてだそうで、らいはは興奮気味に一花を歓迎してくれた。
らいはとトランプをしながら風太郎の帰りを待つ最中、一花は彼の事をらいはに訪ねた。京都の時と随分と雰囲気が変わった理由を知りたかったのだ。残念ながら妹であるらいはも兄の変化に関してはあまり詳しくはなかったが。彼女が知っていたのは彼が昔はやんちゃだったらしい、と父から聞いた程度だ。
しかし、得れた情報もあった。何でも高校に入ってから彼は変わったそうだ。それまでは勉強と家族以外の事には無関心で他人など眼中になかったのに、ある日を境にそういった短所を改めるようになったらしい。
もっと詳しく話を聞こうをした一花であったが、その前に彼が帰ってきた。
ああ、やっと彼と話せる。胸の鼓動が速くなるのを感じながら、自分を見て驚いた表情を浮かべる彼に一花は微笑みで出迎えた。
◇
結論から言えば、生徒手帳を彼の家に直接届けたのは一花にとって大きな成果となった。
あの日はそのまま彼の家で夕食を共にする事になり、彼の家族と共に卓袱台を囲んでカレーを御馳走になった。
何処か懐かしさを感じる味に舌鼓を打ちながら一花は上杉家に打ち解ける事ができた。
そして、何よりも二人きりで彼と話せたのが大きかった。
彼に目的であった生徒手帳を渡して帰ろうとした一花に彼が途中まで送っていくと申し出てくれたのだ。
共に肩を並べて歩く中、一花は意を決して写真の事を彼に尋ねた。勿論、中身を見てしまった事については予め謝った上で。
彼はどう反応するだろうかと身構えた。写真を見た事を怒るだろうか。それとも写真の事を誤魔化すのだろうか。
ところが一花の予想は大きく外れ、彼は素直に写真の事を打ち明けてくれた。あの子と……四葉と共に撮ったその経緯を。
何処か嬉しそうな彼の横顔を眺めながらモヤモヤとした不快感を感じていたが、四葉と共に宿に一緒に行った件を語る中で彼は急にその優しい眼差しをこちらに向けてきた。
『……あの時にトランプの相手をしてくれたの、お前だったんだろ? 一花』
彼の眼に釘付けになりながらも一花は衝撃を受けた。打ち明けるつもりではあったが、けれど彼が気付いていたなんて夢にも思わなかった。どうして、と尋ねると彼は迷う素振りを見せながら四葉から聞いたと答えた。
『四葉だけじゃない。お前にも感謝している。あの時、一人だった俺と遊んでくれたのは嬉しかったし……その、楽しかった。ありがとな、一花』
前髪を弄りながら彼から感謝の言葉を贈られて一花は既知感のある高揚を味わった。かつて五人が同じ姿をしていた頃によく妹の物を取ってしまった時に感じた、あの感覚。母が亡くなり長女としての自覚を持つようになってから長らく眠っていた己の中の強烈な"個"としての欲求。
彼と四葉の思い出を聞く中、彼にとって四葉は特別なのだと思っていた。共に約束をした彼女だけが唯一の特別なのだと。けれど違うのだ。自分も、彼にとって特別なのだ。
全身に熱い血が巡るのが分かる。ああ、そうだ。間違いない。これはあの時、感じたものと同じだ。
彼と遊んだあの時、初恋の人と同じ時間を過ごしたあの瞬間。
改めて確信した。中野一花は上杉風太郎に恋してる、と。
彼の家を訪問して以降、一花は毎日が輝いて見えた。
あんなにもつまらないと、辞めてしまってもいいと思っていた学校も今では彼と会える素敵な場所だ。行くのが楽しみで仕方がない。
姉妹で唯一彼の自宅を知る一花は毎朝、姉妹の誰よりも早く家を出て彼の登校路で待ち伏せして共に学校へ向かうようになった。登校中に勉強を教えてもらうという建前を用意すれば彼も断れない。
放課後の勉強会も都合が付くなら積極的に参加するようにした。初日から参加していた五月、彼に協力的な四葉、あとはどういう心境の変化か彼に興味がなかった筈の三玖もいつの間にか参加するようになり、四人で勉強をする事も増えた。相変わらず二乃の参加率は低いようだが。
『一花も勉強会に参加するようになったんですね』
勉強会に顔を見せた時、五月からそんな事を言われた。その時、彼女は少し困ったような表情を浮かべていた。
姉妹の機敏な心の動きは長女なだけあって察する事が出来きる。勉強会に参加する姉妹が増えて喜ぶ素振りを見せる五月に一花はその真意に感づいていた。
あれは何処か、納得のいっていない表情だ。それも自分が何故そんな事を感じているのか理解していない。
"最初は上杉君と二人きりだったのに"
自覚していない五月の心の声を一花は確かに聞いた。分かるのだ。彼女の気持ちが。
甘えん坊の癖に甘え下手なのが五月だ。好意、とまではいかないのだろうが信頼する彼に対してほんの少しばかり子供じみた独占欲のようなものが既に見え隠れしている。彼はそれに気付いてはいないようだが。
一花はそれを微笑ましく思った。仕方がない事だ。頑張って勉強をしても点数の上がらない自分と真摯に付き合ってくれる彼に五月がそういった想いを抱くのは理解できる。
しかし本当に残念だ。長女として末っ子の淡い想いを応援したいのは山々なのだが、長女である前に一花は一人の少女である事を選んだのだ。彼を譲る気など毛頭ない。
それに仮に他の姉妹がみな彼に惹かれるような事があったとしても一花にとって脅威と成り得るのは四葉だけだと考えている。
彼との再会を通じて一花は運命というモノを信じるようになった。結ばれる人というのは最初から決まっているのだ。残念ながら他の三人はただ彼と家庭教師として出会っただけに過ぎない。
だが一花は違う。一花は属さない。あの再会は自分が彼と結ばれる運命であると理解しているからだ。
運命は私に味方している。そう感じたのは、姉妹にとって母との約束でもある花火大会の日だった。
その日は昼から一花は上杉家をまた訪れていた。彼に家庭教師の給料を渡す為だ。
本来、父が五月に頼んでいた用事だったが、彼の家を知っているという理由から一花自らが名乗り出てその役割を頂いた。五月は何か言いたげな様子であったが、こういう事は長女の役割だと説き伏せた。
無事に彼に給料を渡し、その後もらいはの提案で思わぬ形で彼と妹のらいはも一緒だがゲームセンターでデートする事もできて、一花にとっては至福の時間を過ごした。
貴重な機会を得れて満足していたのだが、今日はそれだけでは終わらなかった。
偶然にも帰り道で花火大会に向かう途中であろう姉妹達と合流。らいはがそれに便乗して兄を花火大会に行こうと誘いだしてくれたのだ。
この流れに彼は今までに見せた事のないほど露骨に顔を引き攣らせていたが、妹の誘いを断れず渋々と自分達姉妹と共に花火大会に参加することになった。
◇
「ねえ、フータロー君」
「なんだ?」
夜の公園。遠くで妹達が花火で騒ぐ声を耳にしながら一花は風太郎と隣合せでベンチに腰掛けていた。余程疲れているのだろう、隣のベンチでは彼の妹が静かに寝息を立てて眠っている。
「……今日はどうして私に協力してくれたの?」
波乱万丈の一日を振り返りながら一花は風太郎に視線を寄越した。
本当に今日は色んな事があった。最初はただ例年通り花火大会に参加して姉妹で一緒に花火を見るだけの予定だったのに、急に仕事が入ってしまう出来事があった。
半年前から始めた女優の仕事。その大事なオーディションを一花は断る事が出来なかった。
自分のやりたい事と姉妹との約束を天秤に乗せ、一花は前者を選んだ。後で二乃に怒られるだろうなと思いながら社長の車に乗ろうとした時、彼に呼び止められた。
きっと妹達に自分を探すように頼まれたのだろう。特に隠すつもりもなかったので一花は女優の仕事の事を彼に打ち明けた。
「俺は、何もしていない」
「ううん。そんな事ないよ」
話を聞いた彼はオーディションに向かおうとする自分を止めるでもなく、ただこちらの頬を両手でパンと挟み一言こう言った。
『お前の笑顔ならきっと合格できる』
瞳を真っ直ぐに見つめられながら、そうエールを送られた。頭が沸騰しそうになった。妹達との約束よりも優先して彼からも応援されて、落ちる訳にはいかない。
彼から勇気を貰ったお陰で一花はオーディションで手応えのある演技をする事が出来た。社長からもこんな演技が出来たのかと褒められ、これなら間違いなく合格すると太鼓判を押された。
「フータロー君が後押ししてくれたから、悔いなく演じきれたんだよ。それに、こうしてみんなで花火を見れるように提案したのも君でしょ?」
「……花火を見るってだけなら打ち上げ花火に拘る必要がないと思っただけだ」
はしゃぐ妹達を眺める彼の瞳は妹達を見守っているよう見えた。
自分が知らない間、彼も奔走したのだろう。目に見えて疲れが出ていた。
「今日はごめんね。迷惑かけて」
「俺が勝手に動いただけだ。それに過度に関わるつもりはなかったんだ。俺とお前達はあくまでも家庭教師と生徒に過ぎない」
「でも、何だかんだ言って面倒見がいいよね。放課後の勉強会だって、あれお給料出てないんでしょ?」
「給料の出る日だけ授業してお前達が赤点を回避できるなら勉強会だってしねーよ」
本当にそうだろうか。仮に欠点を回避できるようになった後でも五月が辺りが勉強を教えて欲しいと頼めば彼は勉強会を開いてくれる気がする。
再会してから思ったが、どうにも彼は言葉と行動が一致しない人だ。口では家庭教師として一線を引いていると言っているのにその実は勉強以外でも自分達姉妹の相手をしてくれている。
その事を改めて尋ねると彼は答えにくそうに沈黙を続けたがやがて観念したのか言葉を選びながら口を開いた。
「……前も家庭教師をしていたんだ」
「そうなの?」
「ああ。お前達に引けを取らない程の馬鹿だった……けれど、そいつには夢があったんだ」
「夢?」
「叶いっこないと思っていたんだが、馬鹿は馬鹿でも夢追い馬鹿でな。ひたむきに努力するその姿に尊敬もしていた」
「……」
「それにしっかり者だと思ってたんだ。周りの事を良く見て判断できる奴だと、一人でも何とか出来る奴だと」
随分とその子の事が大事だったんだな、と彼の語る言葉から伝わってきた。
遠い目をしながら過去を語る彼の瞳には、自分は写っていないのだろう。それが一花にとっては無性に腹立たしかった。
「けど、違ったんだ。もっと気に掛けるべきだった……どうしたと聞いてやるべきだった」
「その子とは喧嘩別れでもしたの?」
「……似たようなもんだな」
その反省を今度は活かそうと思ったと彼は語った。一見、大丈夫そうな奴ほど気丈に振る舞い中身はボロボロになっているから、と。
「だからって訳じゃないが……お前も何かあれば言ってくれ」
彼の語った過去を聞き終えて一花はその"前の生徒"とやらに深く感謝した。
その子のお蔭で彼は自分をこんなにも気に掛けてくれるのだ。本当に感謝してもしきれない。
……ただ、いつまでも彼の心に居座るのだけはナンセンスだとは思う。彼は既に私達の、いや私のパートナーなのだ。埃被った過去の人との思い出なんてものは早急に朽ち果ててもらわなければ困る。彼にとってはもはや亡霊だ。亡霊は暗黒に還るべきだろう。
「あれ? フータロー君?」
気付けば、彼は目を開けたまま眠ってしまっていた。そう言えば彼はあまり体力がないらしい。やはり今日は少し無茶をさせ過ぎたようだ。
目を開けて座ったまま器用に眠る彼の頭を抱きかかえて自分の膝へと乗せた。この方が体勢は楽だろう。少しチクチクするが、これくらいは我慢できる。
「君と再会できて本当に良かった……ありがとうフータロー君」
短い彼の黒い髪を撫でながら感謝を伝えた。彼だけではない、もう一人。一花には感謝を伝えたい人がいる。
「ありがとう、四葉」
あの日、遊んだ『
五年前に京都で自分と彼を巡り合わせてくれたあの子は恋のキューピットだ。彼女がいたから彼と出会えた。
一花は愛する妹に感謝しながら己の膝で寝息を立てる彼の頬に触れるような口付けをした。
───その様子を後ろから瞳孔を開いて眺めていたリボン頭の彼女に気付かぬまま。
◇
全ての原因があいつにあったとは言わない。けれど一花が三玖に変装したのが間違いなく転機ではあったのだろう。俺は選択肢を誤った。
贔屓をする訳ではないが、今度はもう少しあいつを気に掛けて接していこう。大丈夫だ。今のところは全て問題なく進んでいる。
前回と同じように花火大会では過度にあいつらと関わってしまったが、まだ想定の範囲内だ。今ならまだ家庭教師と生徒の関係を維持できている筈だ。