中間試験も間近に迫ってきた。前の学校に比べ試験が緩いとは言え中野姉妹にとっては難関である事には変わらない。それに今は家庭教師まで付けて貰っているのだ。ここで酷い点数を取れば父にも彼にも申し訳が立たない。
普段以上に気合いの入った五月はホームルームを終え下校のチャイムと共にクラスメイト達がぞろぞろと教室を出る中、前の方の座席にいる風太郎へと真っ直ぐに向かった。
「上杉君、いいですか?」
「なんだ?」
「今日の授業で分からなかった所があったので上杉君に教えていただこうと思いまして」
「そうか。なら勉強会の時に」
「いえ、今すぐに教えて欲しいんです」
「……? 構わないが」
「ありがとうございますっ!」
怪訝そうに首を傾げる風太郎をよそに五月は空いた彼の隣の席を拝借して彼の机と引っ付けた。この時の彼女の動きはいつになく俊敏だった。
こうして風太郎と隣り合わせで勉強をするのは五月にとっては随分と久しぶりだ。他の姉妹達が勉強会に参加するようになってから彼の隣を座る機会がめっきり減ってしまった。
その原因は主にいつも風太郎の隣を占拠している四葉と一花の二人だ。今となっては彼の両隣はもはや彼女達の定位置と言っても過言ではない。
当然、彼はそれに文句を言う筈もなく寧ろ姉妹の中で一番勉強のできない四葉と仕事の関係で毎回勉強会に参加できない一花が隣にいる方が都合がいいとすら思っているような節がある。
確かに自分達姉妹の成績向上を目的とする彼からすれば、その方がいいのだろう。それは分かっているつもりだ。
だが、理解しているのと受け入れるのとでは話が違う。何故、彼の隣をあの二人が我が物顔で独占している。その席に最初にいたのは私だ。
大切な姉達の筈なのに最近の五月は彼女達にそんなモヤモヤとした感情を抱くことが多くなっていた。それが何かは彼女自身まだ正体を掴めていないが不快な気分なのは確かだ。
それだけじゃない。最近は他にも気になる事がある。彼の事だ。
どうしてだろう。日を増すごとに五月の思考は上杉風太郎を占める割合が高くなってきている。彼の傍にいると言葉では言い表せない心地の良さを感じるからだろうか。
明日はどんな授業だろう。問題を解ければ彼はよくやったなと褒めてくれるだろうか。そんな事ばかり頭に浮かんでしまう。それが原因か分からないが食欲も常人の三倍から二倍になる程度には落ちてしまった。彼を想うと何故かお腹も胸も満たされるのだ。
事実こうして彼と隣合せで勉強を教えてもらうこの僅かな時間でも、五月にとって大好きな食事の時間と同等の幸福を感じていた。
「そう言えば五月、お前に聞きたい事があるんだが」
「何ですか?」
「お前の親父さんから俺に何か連絡とかなかったか?」
「お父さんから?」
二人きりの時間はあっという間に過ぎ去り、一通り解説を終えた風太郎がそんな事を聞いてきた。いまいち意図の見えない質問だ。風太郎と父の間で家庭教師に関する事で何かあったのだろうか。
心配になって五月は彼の顔を覗き込んだ。
「いや、心当たりがないならいい」
「何かお父さんとあったのですか?」
「別にそういう訳じゃない。雇い主であるお前の親父さんにノルマを課せられるんじゃないかと思っただけだ。中間試験も近いしな」
「ノルマ、ですか」
「ああ。たとえばお前達が全員赤点を回避できなきゃクビ、とか」
「それは流石に……」
いくら何でもそんな無茶なノルマは課さないだろう。少なくとも父は自分達の成績をよく知っている筈だ。こんな短期間で赤点を回避できる頭ではない事も。
確かに彼のお陰で少しずつだが解ける問題が増えているとは身をもって実感はしている。だがそれでも全て欠点を回避できるかと聞かれたら首を横に振らざるを得ない。
今のところ放課後の勉強会に皆勤の自分ですら達成できそうにないのだ。他の姉妹なら尚更だ。
それに父は風太郎の事を評価していると思う。何故なら毎日のように四葉が彼を家庭教師にしてくれた事を感謝する旨と共に彼との学校生活を父に嬉しそうに報告しているからだ。一花も似たような電話を父にしていたのを見た記憶がある。
少なくとも、父は娘達から評判のいい家庭教師を達成不可能なノルマを課して解雇させようとするような人ではない。
「一花に聞いても特に知らない様子だったんだが、お前もそうか……妙だな。前とは違うのか」
「……一花に」
顎に手をやりながら呟いた風太郎の意味深な言葉よりも五月にとっては一花と彼が口にした方がよっぽど気になって仕方がなかった。
まただ。また、一花だ。
あの長女、どういう訳か勉強会に参加するようになってから姉妹の中でやけに彼との距離が近い。
先日もそうだ。朝、家を出るのが早いと思っていたら案の定、彼と共に登校していて偶然にも五月はそれを見かけてしまった。その時、無意識に歯を食いしばってそれを眺めていた自分に驚いた。
そもそも、おかしな話じゃあないか。
どうして彼女だけが風太郎の住所を知っているんだ。彼は一花だけの家庭教師じゃない。自分達姉妹全員の家庭教師なのに。
どうして彼女が風太郎に給料を渡す役割を担っているんだ。その役目は元々父から自分に頼まれていた筈だ。一花ではない。
どうして彼女が彼の隣をいつも独占しているんだ。そこに最初にいたのはこの私だ。中野五月だ。一花だけじゃない四葉も。
思い返すだけであのモヤモヤが胸の中で再び渦巻いた。黒い暗いドロドロとした何か。
上杉君は最初に私が最初に仲良くなった筈なのに。どうして、どうして、どうして。
「もしそんなノルマを課せられたら、その時はお前が頼りだ」
「……えっ?」
沸々と湧き出そうになっていたがおぞましい何かが風太郎の一言で胸の奥に引っ込んだ。
「いいか、五月。お前はやれば出来る奴だ」
「私がですか?」
「今まで勉強を出来なかったのも飲み込み方が悪かっただけに過ぎない。それさえ改善できればきっと点数は伸びる」
「そ、そうでしょうか……」
「ああ。お前には伸び代がある」
「でも今は勉強会に参加していない二乃とそんなに変わらない気がします……」
「確かに今はまだ団子状態だ。だが五月は他の姉妹よりも多くの時間を勉強に励んできた。その糧がお前の中で確かに積もっている筈だ」
彼はたまにこういう時がある。何の前触れもなく自分の心を大きく揺るがすような言葉を飾る事なく平気で放ってくるのだ。今も、こうして自分の実らなかった今までの努力を肯定してくれた。
それにただ全てを肯定する訳ではなく、欠点も指摘した上で自分を見てくれている。上杉風太郎は中野五月という個に対して真摯に向き合ってくれているんだ。
ああ、そうか。漸く理解した。彼と共に過ごす事で感じる心地良さの正体を。
彼からは父性を感じるのだ。暖かく見守ってくれて、それでいて頼りになって、自分と向き合ってくれる。
表には出さなかったが家に帰っても姿のない今の父に寂しさを感じていたのは確かだ。母であろうとする自分が父性を求めてしまうのは道理かもしれない。
もっと構って欲しい。もっと見て欲しい。もっと話して欲しい。そんな心の何処かで求めていた父性を彼は満たしてくれた。
「その今まで積み重ねてきたものが噛み合えば、きっとお前が姉妹の中で一番になる筈だ」
「私が、姉妹の中で一番……」
彼の言葉を何度も胸の中で推敲する。心臓の鼓動を早くなり、緊張して五月は体を強張らせた。
髪を弄りながら彼の顔を伺うと真剣な眼差しを向けられていた。やはり冗談で言っている訳ではない。彼は本気で言っているのだ。だから余計にタチが悪い。
「そうなれば俺と一緒に他の姉妹にもっと効率よく勉強を教えられるだろ? どんなノルマも俺達なら乗り越えられる筈だ」
「はいっ!」
風太郎に勉強の事で頼りにされた事は確かに嬉しかった。上杉風太郎は中野五月の父になってくれるかもしれない男性なのだ。その"父"から頼りにされて嬉しくない筈がない。
だけど、それ以上に彼が自分を姉妹の中で一番だと言ってくれた事の方が五月にとっては心に響いた。
◇
結局、中間試験で風太郎が懸念していたようなノルマは課せられなかった。
五月も念のために父に確認を取ったが今のところはそのような予定はないとの事だった。毎日のようにかかってくる娘達からの報告を聞いて彼が家庭教師として責務を果たしていると判断しているようだ。
それを風太郎に話すと、彼は怪訝そうな表情を浮かべていたのが五月には不思議だった。酷なノルマを課せられずに済んで喜ぶものだと思っていたのに、彼の反応はどちらかと言えばその逆で困惑した様子だった。妙に達観している中野姉妹専属家庭教師だが、意外と心配性なのかもしれない。
ともあれ、五月からすれば気負わずに中間試験に挑める。流石に彼の家庭教師存続がかかった試験となると緊張してしまうが、これで懸念事項は無くなった。
ほっと胸をなでおろした五月であったが、そんな彼女の心を揺るがす出来事が、家庭教師の日に起きた。
「ねえ、フータロー君、一ついいかな」
「どうした一花。分からない箇所でもあったか?」
今日も中野家で行われた家庭教師による授業は昼過ぎから始まり、既に日が暮れていた。
勉強会と違って風太郎を含む六人でテーブルを囲っているが、その両隣は相変わらずあの二人だ。その片方である一花が風太郎に肩を寄せながら猫なで声を出した。
甘えていると言えば聞こえはいいが、悪く言えば媚びている。一花のクラスメイトの男子が彼女にあんな風に迫られたら一瞬で堕ちるだろう。
最近、一花があんな調子なのは既に姉妹全員に知れ渡っている。二乃はそんな長女に眉をひそめ、三玖は仕方がないなと諦観気味に、四葉はいつもの笑みで、五月はモヤモヤを胸に宿しながら妹達は姉の様子を伺っていた。
「もうすぐ中間試験だよね」
「ああ、だからこうして今日は普段よりも延長して授業をしているんだろ」
「うん。けど今のままだと正直、赤点は免れないと思うな」
「……だろうな。多少は解答欄を埋められるようになったとはいえ、そこまで俺も楽観視しちゃいねえよ」
「でも、私達だって勉強してきたんだし少しは良い点数を取りたいって思ってるんだ」
嘘だ、と妹達の心の声がシンクロした。何か企んでいると四人全員が確信した。あの眼が何よりの証拠だ。
長女のあの眼。妹達はそれを決して忘れたりはしない。かつてお菓子を勝手に食べ、おもちゃを強奪し、傍若無人の限りを尽くした圧制者の瞳だ。
「だから、思い切ってお泊まり勉強会ってのはどうかな?」
「……なに?」
「ちょっと一花! あんた、なに言い出すのよ!?」
「二乃の言う通りだ、一花」
真っ先に声を荒げたのは二乃だった。当然だ。彼を家に上げるのは渋々認めてはいるが泊まるとなると話は別である。それに追随して風太郎も二乃に同調した。
一花の投下した爆弾に二人とも動揺しているようだ。他の姉妹はどうだろうかと五月は三玖と四葉を見ると彼女達二人は笑みを浮かべて事を見守っている。どうやら彼女達は一花の意見に否定的ではないらしい。
しかし、家庭教師と生徒の関係とはいえ年頃の男女が泊まるというのは如何なものだろうか。彼は"父"であるが、同時に同い年の男の子でもあるのだ。
思春期の男子高校生にしては達観している彼ではあるが、何か間違いが起きないとは限らない。それに寝る部屋はどうするのか。誰かの部屋で、それこそ提案した一花の部屋で泊まるのか。いや彼女の汚部屋で客人を寝泊まりさせるのは流石に失礼だ。
仕方がない。ここは自分が一肌脱ごう。彼を自分の部屋に寝かせれば全て丸く収まる筈だ。
自分は他の姉妹と一緒に寝ればいい。いや待て。一花は汚部屋、二乃は一人で寝たがるだろうし、三玖と一緒だと毛布を強奪される可能性がある。寝相の悪い四葉は論外。
そうなると彼と一緒に寝るしかないではないか。ああ、これは仕方ない。故意ではない。自然の流れでそうなるのだ。どうしようもない。
そして共に同じベッドで眠りに着いた後、ふと夜中に目が覚めると彼の顔が直ぐそこにあるのだ。高鳴る鼓動と湧き出る好奇心。
眠る彼に手を伸ばす。まだ起きない。女性とはまた違った異性の感触。頬、唇、首筋、胸板と触れる手はどんどんと下へと向かっていく。そして等々"そこ"に辿り着いた。
ゆっくりと撫でるように触れていく。すると不思議な事に段々と硬い感触になっていくのだ。恐る恐るそれを直接触る。思わず息を飲んだ。
ただの杉ではない。太く大きな縄文杉と呼ぶべきか。上杉君の縄文杉君。上縄文杉風太郎……略して
そして、風太郎の腹部に下部から粥のごときものがあふれ出た。
……なるほど。こういう未来が待っているのか。これは他の姉妹ではあまりに刺激が強すぎる。やはりここは母役を名乗り出ている自分の役目だろう。
風太郎が泊まるかもしれないと聞いて、実際にそうなった場合のぱーふぇくとぷらんを五女は一瞬で練り上げた。
「生徒の家に"また"泊まってまで勉強会をするなんて……」
が、彼が何気なく発したその言葉で全てが瓦解した。自分を含め姉妹達全員が表情を無にした。
パキリ、とまるで空気が軋む音のように聞こえた"それ"は四葉が手に持っていた鉛筆をへし折った音だった。
「あの、上杉さん」
「どうした、四葉」
「また、ってどういう意味ですか……?」
五つ子達の視線が家庭教師に注いだ。
◇
前の生徒。時折、風太郎の口から明かされていたその存在は所詮は過去の人間だと思っていた。数ある彼が出会ってきた人間の中の一人だと。今は関係のないタダのモブだと。
けれど、違った。違ったのだ。忌まわしき過去は未だに彼に纏わり着き、今を共にする自分達姉妹をこうも不快にさせる。ああ、実に不愉快だ。過去は過去らしく深く底に埋もれていればいいものを。
「みんなはフータロー君が言ってた"前の生徒さん"について何か知ってる?」
結局、風太郎は中野家に泊まる事になった。風太郎は最後まで渋ってはいたが途中で渋々折れる形で泊まる事を了承した。
過去に生徒の家に泊まった経験があるのなら今回自分達の家に泊まってはいけない道理はない。そう言って四葉と一花が迫ったのが決め手になったのだろう。特にこの二人の圧は凄まじかった。
一花も早々に彼の妹に泊まる旨を連絡したので抜かりはない。当然、父が帰ってくる事もないので結果としては長女が望んだ通りの展開となった。
しかしながら、彼女の顔は浮かないものであった。一花だけではない。他の姉妹も同様に。
彼が風呂に入っている間、姉妹達はテーブルを囲い五人が顔を見合わせていた。そこには重々しい空気が漂っていた。
そんな中、一番最初に沈黙を破ったのは一花だった。
「フータロー君さ、たまに話してくれるんだよね。その子の事。楽しそうに笑いながら」
曰く、その生徒はしっかり者で、周りの事を良く見て判断できる子で、夢があって、でも気に掛けて上げなければならない子だったそうだ。
「そう言えば、あいつから似たような話を聞いたわ」
曰く、その生徒は最初は風太郎に敵意を剝き出しにして、家族想いで、料理もプロ並みに上手で、作るお菓子は凄く美味いそうだ。
「私もフータローから聞いた」
曰く、その生徒は自分に自信がなく風太郎はその子の事を放ってはおけなかったそうだ。
「……私も上杉さんから聞いたよ」
曰く、その生徒は超弩級の馬鹿でリボン頭をした女の子で、風太郎はその子に救われたことがあったそうだ。
「私も聞きました」
曰く、その生徒は真面目でどうしようもなく不器用で要領の悪く意地っ張りで何度も衝突したそうだ。
総括するとその"前の生徒"とやらは夢があって料理がプロ並みで自信の持てない性格で放っておけない子でリボンを付けていて、真面目な子だが超弩級のどうしようもない馬鹿らしい。そんな子を風太郎は気に掛けており彼女に救われた事もあり、また今日のようにその子の家に泊まって勉強を教えた事もあったそうだ。
……何だこれは。まるで自分達姉妹の要素を全て掛け合せたような存在だ。言うなれば究極完全態グレート・ナカノ。或いは
それが彼をいつまで縛る枷となっている。あまりにも彼が可哀想だ。聞けばその子とは喧嘩別れをしたそうではないか。そんな負の思い出なんていつまでも引きずるべきではない。もっと前を向いて新たな人と別の道を歩むべきだろう。
「もうフータロー君も酷いよね。今は私達の先生なのにずっと前の子を気にしてさ」
「私は別にどうでもいいけど……でもその子と比べられてるとしたら何かムカつくわ」
「大丈夫だよ、フータローはもう私達だけを見てる」
「私もそう思うよ。それにただの生徒だしね……その子も皆も私とは違うよ」
ポツリと四葉が最後に呟いた言葉は聞き取れなかったが、大方姉妹全員があの"前の生徒"にあまり良い感情を抱いていないのは確かだ。
五月だってそうだ。いつまでも彼に他の人と比べられたくはない。何よりもその子の事を嬉しそうに語る彼の顔を見たくないのだ。
どうすれば、彼はその子を忘れて自分達だけを見てくれるだろうか。
その時はまだ、ただ彼に自分達だけを見て欲しいという欲求だけだった。それだけで、良かった。