とある五つ子の(非)日常   作:いぶりーす

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少しやべー姉妹。


外典 フー君強くてニューゲーム! 七つどころか全てにサヨナラ①

 女性は男性に浮気された場合、その湧き出た憎悪と憤怒は浮気をした男ではなく男を誑かした女へと向ける傾向があると昔テレビのバラエティー番組か何かで見た記憶がある。

 ちょうど姉妹全員が揃っていた時に流れていたそれを五人で見て各々感想を述べていたが要約すると概ね同じ意見だった。

 馬鹿馬鹿しい。浮気をしたのはその男だ。そいつが悪いに決まっている。相手の女性に怒りをぶつけるなんて筋違いにも甚だしい。

 姉妹全員が口を添えてその番組に文句を付けていた。その時はまだ恋がどういうモノか理解していなくて、何も知らない無垢な少女だった。胸を迸る熱さも、一人の異性に向ける愛の重さも知らない、ただの子どもだった。

 

 今ならあの時の番組の言葉が頭ではなく心から真に理解できる。それはきっと自分達が少女から女へ、子どもから大人へと一歩踏み出した成長の証なのだろう。

 

 こんなにも愛おしく想う彼が悪いなんて有り得ない。"悪"があるとするなら、自分を理解し、受け入れ、陽だまりのような温もりを与えてくれる彼に付け入り誑かした何処の馬の骨と分からぬ凡骨こそが"悪"なのだ。

 悪は殲滅しなければ。その厭らしい性根を根絶し二度と馬鹿な勘違いをしないよう徹底しなければならない。これは正義である。彼を守護る為であり───そして同時にあの勘違いをしてしまった愚かな仔羊を守護る為でもあるのだ。

 だってそうだろう。あまりに可哀想じゃあないか。あまりに不憫じゃあないか。もしやと思ったがやはり違うのだ。あの凡骨と自分達とでは。

 相手はこの中野姉妹五人。少なくとも容姿に関してこの学校で自分達に敵う女など一人も存在しないという自負がある。私に勝てるのは(姉妹)だけだ。それが姉妹全員が共有する常識であり、覆る事のなり現実であるのだから。

 振り向く筈がない。想いが届く筈がない。報われる筈がない。結ばれる筈がない。その先は地獄だぞ、と親切心であの凡骨に警鐘を鳴らしてあげているのだ。

 待ち受けるのは残酷な結末だけだ。全く彼も酷な真似をする。なんだあのスキーの時の彼の顔は。あんな表情を向けられてしまっては誰だって勘違いしてしまうじゃないか。

 もし自分達にあれを向けられていたのなら体は一瞬で火照り臍の下が強く疼き、その場で己を慰めなければ収まりが効かないところだった。それを判っているから彼は自分達には安易にあの笑みを向けないのだろう。彼は何時だって私達を理解してくれている。会話を交わさなくとも望む言葉を与えてくれて、姉妹に変装しようとも深い愛を持ってそれを看破する。こんな馬鹿な自分達を見捨てず、ただ真摯に向き合ってくれる。

 それは真の愛があるからこそだ。間違いなく彼は自分達に他の有象無象とは違う並々ならぬ想いを抱いている。少なくともあの女にではない。もし彼が自分達に愛を抱いていないと言うのなら、最早この世界の何処にも愛など存在しないだろう。

 

 彼の親友を自称するあの男の眼はどうやら節穴だったようだ。下らない。何があの女にだけ視線を向けているだ。何が他とは違う特別な女性だ。何が友の為だ。何が邪魔をしないでくれたまえだ。気障ったらしい。反吐が出る。

 ちょっと彼と親しい程度の分際で彼の事をまるで全て理解しているかのように思い上がる愚かな男。身の程を弁えない愚者の言葉など中野姉妹には何の意味もないし、何も響かない。

 

 あんな男の妄言には付き合いきれない……が、邪魔をして万が一にも愛おしい彼が機嫌を損ね自分達に煩わしさを感じるような事があっては大事だ。

 そんな事は有り得ない。有り得ないと信じているが、その『もし』を想像するだけでも足が竦んでしまう。何故だろう。彼が自分達の下から姿を消す未来が妙に鮮明なヴィジョンとして姉妹全員が思い浮かべる事が出来たのだ。

 まるで未来視でもしたかのような、実際に目にしたような。リアリティのあるそんな光景が。

 

 だから中野姉妹は全員が身を引いて断腸の想いで彼を見守る事にした───自由行動の間だけは。

 

 ◇

 

『彼氏の浮気を見てしまった場合、一度目は笑って許してあげましょう。それが円満の秘訣です』

 

 以前に購入した恋愛解説本(恋人編)に書かれていたフレーズを思い出しながら三玖はようやく冷静さを取り戻しつつあった。

 やはり先人の知恵は偉大だ。恋愛に関して無知な自分に叡智を与えてくれる。三玖は自信が着実に成長していっているという確かな手応えを感じていた。知恵とは即ち武器だ。武器を手にしていれば人間という生き物は安堵を得れる。事実、あの雪山での惨劇を目にした後、姉妹の中で一番最初に立ち直り次の一手へと素早く手を伸ばしたのは三玖だった。

 

 ──フータローも男の子だもん。ちょっとは目移りしちゃう事もあるよね。

 

 忌々しい記憶が蘇る。両想いである筈の意中の男の子が凡骨と楽しげに白銀のゲレンデを滑るあの光景。思い返すだけで苛立ちと悲しみともどかしさで胸の中が埋め尽くされそうになる。

 林間学校三日目の自由行動は恋人同士の風太郎と思う存分遊ぼうと思っていたのに酷く気分を害されてしまった。最初は黒いドロドロとした感情しか沸かなかったが、それも時間が経つに連れて熱を持った黒い感情は冷めた憐れみへと変化してしまった。

 可哀想に、未だに自分と彼が恋仲であると知らないのはどうやら姉妹だけではないらしい。

 中野三玖と上杉風太郎は両想いである。それは出会って数週間で判明した事であり数か月経った今では二人の関係が恋人に昇華していても何ら不思議ではない。

 この事を風太郎に直接言った事はないが、彼は自分の事なら言葉にしなくても何だって察してくれる。間違いなく彼も自分と同じく既に関係が恋人同士である事を認めている。

 

 それなのに他の女に浮気をするなんて、と涙が溢れそうになったが何とか堪えた。

 男の嘘を許すのが女だと恋愛本にも書いてあった。今は恋人という仲であるがこれすらも自分達には通過点に過ぎない。最終的なゴールは死がふたりを分かつまで。

 何もこれは自分の自意識過剰な妄想ではない。ちゃんと彼の口から出た言葉を耳にしている。あれは他の姉妹が予定が重なり珍しく風太郎と二人きりになった勉強会の時だった。ちょうどいい機会だと思い三玖は勇気を振り絞って彼に尋ねた。『私達の関係って何なのかな』と。

 聞く必要があった。確かめなければならなかった。両想いとは言え当時は言葉にしなければ真意が分からなくてただ不安だった。このもどかしい関係を貴方はどう思っているの、と直接彼に聞きたかった。

 すると彼は間髪入れずにこう答えたのだ。

 

 ───俺達はパートナーだ、と。

 

 パートナー。相棒、相方を意味するそれには配偶者を指す言葉でもある。彼は間違いなく後者の意味合いでその言葉を遣ったと三玖は確信した。

 それを聞いた時、雷に打たれたかのような衝撃が彼女の全身を走った。

 両想いであるとは知っていた。彼は自分に対して他の姉妹にはない愛情を向けてくれるし、そんな彼に三玖自身も惹かれていた。

 けれど、彼の愛の覚悟がまさかそこまで決まっているとは思わなかった。既に風太郎は中野三玖を生涯の相棒として、伴侶として添い遂げる覚悟を決めていたのだ。

 ならば男の覚悟に応えるのが伴侶となる女の役目だろう。

 

「……フータロー見っけ」

 

 林間学校最終日最後の目玉であるキャンプファイヤーが始まり生徒達は盛り上がりを見せていた。あの伝説を信じ勇気を振り絞って異性を誘う生徒、それを出来ず悔しそうに歯嚙みする生徒、目当ての人物が既に別の人と踊っていて落胆する生徒、そしてそんな彼ら彼女らを優しく見守る教師陣営の大人達。

 そんな青春が広げられる場所から少し離れた階段にお目当ての彼はいた。辺りには誰もいない。もちろんあの忌々しい女も。

 

「もう、探したよ」

「……」

 

 風太郎と同じように三玖は階段に腰掛けた。ここなら喧騒もあまり届かなくて落ち着いて二人で過ごせる。

 キャンプファイヤーを遠巻きにして眺められるここは何となくだが彼らしい場所だと思った。自分達姉妹を大切に想いながら、けれどどこか一歩引いた位置で見守る彼らしいと。

 そんな一歩引いた風太郎に二歩踏み込んだ位置に唯一いるのがこの中野三玖、否、上杉三玖である。将来、彼と人生を共にする最愛のパートナーだ。

 

「ねえ、フータロー。いいかな」

「……」

「さっきの事、許してあげる」

「……」

「だって私はフータローのお嫁さんだもん。これくらいは寛大に構えないと子育ては出来ないもんね。でも一度だけだからね? 次は浮気しちゃダメだよ。絶対だよ。次はないからね。気を付けてね」

「……」

「フータロー?」

 

 さっきからどうにも様子がおかしい。言葉を交わさなくとも相互理解し合える最愛のパートナーとは言え何も返事をしないのは変だ。

 不審に思った三玖は彼の顔を覗き込み……そしてクスリと笑みを零した。

 

「疲れちゃったのかな」

 

 器用な人だ。目を開けたまま眠っているなんて。きっと昼のスキーであの女に無理矢理連れ回されて疲れ果ててしまったのだろう。

 何かと無難に物事を熟すイメージがある風太郎であるが体力に関して驚くほど全くない。自分と同じ欠点を持つ彼に最初は三玖も親近感を抱いたものだ。

 それにしても、酷い女だと改めて思う。風太郎の事を何も知らないなんて。

 なんて愚かなんだろう。体力のないフータローを一日中滑らせたなんて。無知とは罪だ。罪には罰だ。可哀想な風太郎。

 そうだ。今こそ疲れた風太郎には少しでも労わってあげるのが妻の務めだ。早速三玖は風太郎の頭を己の膝に置いて膝枕をした。これで少しは楽に寝れるだろうか。

 

「ふふっ、フータローの寝顔、可愛いな」

 

 髪を優しく撫でながら無防備となった彼の顔を眺めて見る。

 背の高い彼の顔を見下ろす機会などそうない。きっとこの至福の光景を瞼に焼き付ける事が出来たのも姉妹の中で自分だけだ。

 一番、劣っていたと思っていた自分だけ……。

 

 ドクン、と心臓が高鳴った。

 

 今、三玖の胸にジワリと広がったそれは劣等感を抱いていた姉妹への初めての優越感。

 そして彼を独り占めしているのだという独占欲。

 ああ、なんて心地の良い感覚なんだ。なんて蠱惑的なんだ。

 風太郎の吐息を感じるだけで、風太郎の鼓動を感じるだけで、何もない空っぽだった己を埋めてくれるような錯覚に陥りそうになる。

 

 そう言えば、もう少ししたらキャンプファイヤーもフィナーレの瞬間を迎える筈。例の伝説の時間は間近に迫っている。

 

 踊りこそしてはいないが、もしフィナーレの瞬間に風太郎と……それこそキスでもしていたらどうなるのだろうか。

 あまりこの手の嘘には興味がない三玖であるが、何故かこの時だけはあの伝説が本当に存在するのだと、彼と永劫結ばれるのだと本気で信じ込んでしまっていた。

 この状況が三玖の冷静さを失わせたのか、それとも胸の内にある妙な既視感が伝説の信憑性を高めているのかは分からない。

 

 ただ言えるのは三玖が寝ている風太郎の唇を奪おうとしているのが事実であり───。

 

「寝てる人にキスをするのはちょっと過ぎた悪戯じゃないかなぁ? 三玖」

「勝手にキスするなんて陰険よ」

「……やめてよね。本気でやったら三玖が私に敵う筈ないのに」

「そういうの、上杉君は嫌がると思いますよ。三玖」

 

 当然のようにそれを阻止せんと彼と自身の唇が合わさるのその直前に待ったを掛けた姉妹が居た事である。

 

 ああ、分かっていた。きっと来るであろうと。邪魔をするであろうと。

 ああ、分かるとも。だって血を分けた大切な愛おしい姉妹なのだから。

 

 仕方ない。この伝説とやらは今回は五人で痛み分けといこうじゃないか。

 みんな仲良く五等分。今までもそうして来ただろう。

 

 ───まあ、最後には全て貰い受けるが。

 

 己に芽生えた消えぬ炎。これが女の闘争心であると三玖はその日知った。

 

 ◇

 

「やあ、急に呼び出して悪いね」

「……いえ」

 

 とある喫茶店。多忙な仕事の合間を縫って五つ子達の父親である中野マルオは娘を通じて中野姉妹専属家庭教師である上杉風太郎を呼び出していた。

 こちらから呼び出したので何でも好きな物を注文していいと言ったのだが遠慮しているのか彼が頼んだのは一番安いサイズの小さなアイスコーヒーだった。

 砂糖とミルクを多めに入れたそれに口を付けないまま、風太郎は警戒した様子でこちらの顔を伺っていた。

 当然の反応だ。雇い主である自分から急に呼び出されたのだから萎縮してしまうのも仕方がないだろう。

 だが別に取って食おうという訳ではない。少し、彼に興味を示したからだ。

 

「そう畏まらなくてもいいよ。今日呼んだのは別に大した用ではないんだ。娘達の面倒を見てもらっている君とは一度、直接会って話がしてみたいと思ってね」

「話、ですか?」

「娘達から君の評判は良く聞いているよ。普段も勉強会を開いて娘達の勉強を見てあげているとか」

「あいつらの成績を上げるのが仕事ですから。それくらいは当然ですよ」

 

 と彼は言うが給料の出ていない日でも時間を割いて娘達に付き合っているのは雇い主からすれば有難い事ではあったが同時に大人として対価を支払うべきだと感じた。

 彼の家庭状況が厳しい状態であるのは彼の父親と旧知の仲である自分も把握している。本来なら他人の為に割く時間などない筈だ。他にバイトだって入れたいだろう。そんな彼が粉骨砕身で娘達に尽くしてくれたからこそ先の中間試験では成長を見せた結果となったのだ。

 当初は彼にノルマを課そうと考えていたのだが、嬉々とした声色で知らされる娘達の報告を聞いてそれも取りやめた。娘達から信頼を得ているし何より彼自身が家庭教師の業務に対して真摯な態度を見せている。

 それを試すような真似は無粋だと判断したのだが、どうやら正解だったようだ。

 

「ならば、その仕事に報酬を与えるのも当然という訳だね」

「えっ?」

 

 風太郎に労いの言葉を掛けながらこれからは勉強会の分も給料を出すと申し出ると意外な事に彼は喜ぶどころか、こちらの申し出を断ろうとした。自分は家庭教師として業務を果たしただけだと。

 あの男の息子の割には随分と謙虚な性格だ。風太郎は覚えていないだろうが一度、彼とは五年前にも見た事がある。その時は父親と似た風貌であったが、正しく成長したらしい。

 遠慮する彼に黙ってこれまでの勉強会の分の給料が入った封筒を押し渡した。これくらいは雇い主として、いや大人としては当然の振る舞いだ。

 

「……えっと、これからも精進します」

「ああ、頼りにしているよ」

 

 しかし直接話してみて分かったが、高校生にしては落ち着きのある若者だ。

 成績は勿論のこと、学校での普段の評判もいいと聞く。あの娘達にも数日で受け入れられたのは人柄の良さか。何にしても雇い主である自分からすれば信頼足り得る男だ。

 

 雇い主としては、だが。

 

「ところで上杉君、君に尋ねたい事があるんだ」

「何ですか?」

「僕はこれでも君を高く買っているつもりだ。そんな君こんな質問は不要かもしれないが、一応父親として確認しておきたくてね」

「はあ……何でしょうか」

 

 金銭の話が終わり緊張が解けたのか漸く風太郎はコーヒーに口を付け始めた。どうせ世間話か何かをされると思っているのだろう、何を問われるかまるで見当も付かないと言った表情だ。

 今日は先程の給料の件で呼び出されたと風太郎は勘違いしているに違いない。それも間違いではないが……しかしマルオにとってはこれからの質問の方が本命であった。

 

「君は娘達の事をどう思っているんだい? 上杉君」

 

 

 ◇

 

 中野姉妹の事をどう思っているのか。先日の二乃もそうだが、似たような事を最近はよく聞かれる。

 二乃の時はあいつが自身が嫌われていると勘違いをしているようだったから、ああ答えたがこの場合は何が正解なんだ。そもそもこの時点で中野父に呼び出されてこんな事を聞かれる状況が呑み込めない。

 時系列で言えばまだ林間学校を終えたばかりだ。中野父はこれが初対面。少なくとも前回と違って今のところは中野父からの印象が悪くなるような事をした記憶はないが……。

 どういう意味合いなのだろうかと中野父の表情を伺ってみたが相変わらずの無表情だ。顔からは何も感情を読み取れない。

 仕方がなく聞いてみることにした。

 

「その、どう思っていると聞かれましても……」

「娘達から君の話をよく聞くよ。何でも随分と仲が良いそうだ」

「ええ、まあ……それなりには」

 

 あいつらに信頼されようと最良の選択肢を選んできたつもりだ。信頼を勝ち取る事こそがあいつらを無事に卒業させる最短の道に違いないと信じているから。

 実際に先の中間試験では全員全教科赤点を回避、とまではいかないものの間違いなく前回よりは良い点数を取れた。成績向上の目的で言えば上々の出来だ。この伸びを維持出来れば卒業自体は容易い。

 それに勉強だけじゃない。姉妹との関係を上手く立ち回って仲違いをさせなければ前みたいにあのマンションを勝手に引っ越すなんて馬鹿な真似もしないだろう。思えば、あそこから『家庭教師と生徒』という線が曖昧になって、結果的に最悪の事態を引き起こしてしまった。

 

 絶対にそれは阻止しなければ。正しい関係を保ち、無事にあいつらを卒業させる。

 その最短の道が今の関係を継続する事だ。家庭教師として、或いは友人として。その距離を卒業まで保てばあんな事は起きやしない。

 そもそも前回が不幸なだけだった。あらゆる偶然が重なってあの悲劇を産んだ。本来のあいつらはあんな事をする程、馬鹿でも愚かでも短絡的でもない。

 

「娘達があまりに君への信頼を強く寄せているから少し気になってね」

「そう、でしょうか」

「そうだよ。父親として心配するほどに」

「……」

 

 なるほど。そういう事か。中野父が言わんとしていることが理解できた。とどのつまり俺があいつらに家庭教師と生徒以上の感情を持っていないか危惧しているのだろう。

 確かに前回よりも信頼を寄せられてはいる。だがそれは家庭教師としてである。もしくは良き友人として。

 ここは誤解を解いておいた方がいい。ちゃんとした理由も添えて、そうすれば少しは彼も納得してくれるだろう。

 先日の林間学校で友の粋な計らいがあった三日目の昼を思い浮かべながら俺は中野父に身の潔白を説明しようとした。

 

「安心してください。あいつらは確かに俺にとって大事な生徒で友人ですが、それ以上の関係ではありません」

「言い切るね」

「はい。それに俺には……ッ!」

 

 言おうとした。証明しようとした。あいつらをそんな目では見えない理由を。

 だけど何故かその時、強烈な悪寒がして言葉が詰まった。全身に鳥肌が立つ。まるで誰かに、何かに睨まれたような、心臓を鷲掴みにされたかのような圧が、確かにあった。

 思わず立ち上がり振り返って後ろのテーブル席を見た。

 

 ───しかしそこには人影はない。ただの空席だ。

 

「……? どうかしたのかい?」

「い、いえ……何でも」

 

 おかしい。全て上手くいっている筈なのに。この既視感のある胸騒ぎは何だ。

 先程まで団体客が座っていたのだろう。テーブルの上に残されていた五つのティーカップに何故か言葉では言い表せない恐怖を感じた。

 

 


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