「あれ? お兄ちゃん。首のそれ、どうしたの?」
前回とは違い大きなトラブルもなく林間学校が終わり、季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。日に日に気温は下がっていき起きるのも少し億劫になってきた肌寒い朝の事だった。
いつものように卓袱台を家族三人で囲いながら朝食を取っていると、らいはが俺の首筋を指差しながら可愛らしく首を傾げた。
「ああ、これか」
「なんだ風太郎。こんな時期に蚊にでも刺されたのか?」
「いや、多分違うと思うが……」
釣られて俺の首を覗き込んできた親父が怪訝そうな表情を浮かべた。二人の視線の先にあるもの。それは俺の首筋に付いている妙な"痕"の事だろう。
鏡を使わなければ自分では確認できないが、俺もこの妙な"痕"に関しては既に把握している。確かこれに気付いたのは林間学校が終わった翌朝の事だ。顔を洗おうと鏡を見たら首筋にこの虫刺されのような痕があった。
最初は親父と同じように時季外れの蚊にでも刺されたのかと思ったが、痒みは特にない。それに奇妙な話だがこの虫刺されのような痕、一つではないのだ。何故か五つも数珠繋ぎに並んでいた。
鬱血したような丸い痕が首筋を横切って綺麗に列をなして五つ並んでいるその様は、まるで自由を縛る首輪を掛けられた奴隷のようで───。
「も、もしかして何か悪い病気とかじゃ……」
「別に大した事はねえよ。痛くも痒くもないしな」
心配そうに眉根を寄せたらいはを安心させる為に笑みを作ったが、正直なところ気味が悪い。
どうせ直ぐに消えるだろうと思って最初は気にも留めていなかったが、未だ消えずに残っているのを見るとこれが只の虫刺されではない気がしてくる。
鏡の前に立ちこれを鏡で見る度に何かこう、胸を締め付けられるような感覚に陥る。まるで取り返しの付かない罪を犯してしまった罪悪感のような何か。
呪いとでも言うのか馬鹿馬鹿しい。そんなオカルト有り得ない……前の俺ならきっと、そう切り捨てただろうに。なまじその"オカルト"を体験した今では有り得ないと断じる事が出来なくなっている。
この痕の数が四つや六つならきっと何も思わなかったのだろう。だが、『五つ』だ。『五』なんだ。この数字に纏わる事象は俺の人生に良くも悪くも変革を齎した。
果たして今度の『五』は吉と出るか凶と出るか。
「まっ、やべー病気なら一花ちゃんの親父に見てもらえばいいだろ!」
「そっか! 一花さんのお父さん、お医者さんだったもんね!」
「だから別に心配いらねえって……」
親父も暗い顔をしたらいはに気を遣ったのだろう。ガハハと笑い飛ばしながらいつもの通り期限切れの牛乳を一気に飲み干した。
しかし元々中野父と旧知の仲らしい親父はともかく、らいはまでそんな事を知っているとは。どうやら俺の知らない内に随分と打ち解けたらしい。
何というか……違和感がある。前回なら二人の口から出る名前は五月だったというのに、それが今回は一花だ。全く違う接し方をしているのだから当然と言えば当然なのだが。
それに一応は女優の卵である一花が仕事の合間を縫ってらいはと交流を深めていたのは意外だ。あまりイメージはなかったが一花とらいはも相性が良かったのか。
「そう言えばちゃんと一花ちゃんとは仲良くしてるのか?」
「まあ、生徒だしな。それなりには」
「一花さんなら何時でも遊びに来てもいいって伝えておいてね」
「ああ、言っておく」
こうして家族との些細な会話でも前回との変化を嫌でも感じさせられる。別に悪い事じゃない。運命を変えたのだという確かな手応えがあるのだから。
進めたんだ。前とは違う道に。変えれたんだ。前とは違う結末を。
林間学校だってそうだ。行く前には何か起こるのではないかと警戒していたが、それも杞憂に終わった。
厄介事になりそうな火種を予め全て潰していたのが大きかった。二乃に妙な誤解をされる事もなく、五月が変装して一悶着起きる事もなく、熱で倒れて入院する事もなく、無事に帰る事ができた。
人間、二回も同じ人生を歩めば誰だって学ぶものだ。間違いなく前回の経験を活かせている。
あいつらとの仲も順調だ。林間学校で二乃とも少しは関係を改善できたようであれ以降、勉強会にも顔を見せるようになってくれた。
……正直、いきなり呼び名を『フー君』に変えてきた時は冷や汗をかいたが、幸いにも前回のような露骨な態度は見せてはいない。
渾名で呼ぶようになったのは二乃なりの信頼の証明、と言ったところだろう。林間学校で厄介な勘違いはなかった筈だしあいつにそんな感情を抱かれる心当たりなど全くないからな。
あんな経験をしたんだ。前の時よりはそういう心の機敏を理解できるようになっていると自負している。
──大丈夫だ。何もかも全て上手くやれている。何も問題はないじゃないか。
先の首筋の痕といい、どうにも最近は神経質になり過ぎている。これも中野父に呼び出されたあの日が原因だろう。
あの時に感じた強烈な悪寒と圧。
気のせいだと何度も自分に言い聞かせても納得せず、頭蓋の奥底で警鐘を鳴らす自分がいる。
あの悍ましさを俺は知っているからだ。俺は既にこの身に向けられた事がある。濁り腐り魂にこびり付くかのような感情の奔流を。
かつての時、姉妹の仲が裂け手段を選ばず嘘と独占欲に塗れた虚無の瞳をしたあいつらに俺は───。
「ッ!?」
ふと、腹部に鈍い痛みが走り、慌てて己の腹を見て固まった。
一瞬だけ、けれど確かに。前回の最後と同じ光景を幻視したのだ。
伝う鮮血、体から熱が抜けていく感覚、腹から生える銀色に煌く五つの刃、力なく笑う五人。
真紅と共に己が内から絶望と諦観が滲み出る。どうしてだ、何故だ、と。
……けれどその五人の瞳には確かに一滴の涙が零れていて。
「おい! 風太郎!」
「お兄ちゃん!? どうしたの、顔真っ青だよ!」
「……いや何でもない。大丈夫だ」
蘇ったトラウマに強烈な吐き気に見舞われながら、這い上がってくる胃液を飲み込んで拳を握りしめた。
ああ、分かっている。上手く行き過ぎて忘れてかけていたんだ。泡沫の幸せな時間を味わえて勘違いしそうになっていたんだ。
願ったんだろう。あの涙を止めたいと。
願ってしまったんだろう。もう一度と。
「でも……」
「大丈夫だ、らいは───俺は大丈夫だから」
ああ、そうだ。大丈夫だ。何も問題はない。何も間違ってはない。
あれを回避出来ればいい。それだけを考えろ。それだけに集中しろ。
それ以上は望まない。望んじゃいけない。きっとどんな結末を迎えようとも、あの惨劇を回避出来れば俺は後悔はしない。
何、簡単なことだ。何も難しい事なんてない。
あの馬鹿共を無事に卒業させる。それだけで全員笑顔のハッピーエンドだ。単純だろ?
◇
夢を見た。素敵な王子様と恋に落ちる妄想のような夢を。
夢を見た。王子様でないのに惹かれてしまった彼の夢を。
前者の彼は金色の髪をした自分の理想の男の子。けれど、その彼との恋は成就しなかった。
後者の彼は理想とはほど遠い地味な姿の男の子。けれど、その彼との恋も成熟しなかった。
一度目の恋は諦めが付いた。いつまでも過去に囚われていた自分と決別をしてちゃんと『サヨナラ』を言い渡せたから。
だけど二度目の恋はダメだった。諦める事なんて出来なかった。この手から零れ落ちる事を許容出来なかった。
姉妹以外で初めて受け入れる事が出来た"外"からきた男の子。彼を拒絶し、彼と衝突し、彼を理解し、彼に歩み寄り、彼を受け入れ、そして彼に惹かれた。
その時には既に彼は自分にとって"家族"同然の人になっていた。大事な、掛け替えのない、大好きな姉妹達と遜色のない家族に。
もしも……。もしも彼が自分でなくても姉妹の中の誰かを選んでいたのなら、涙を流し悔やみながら歯を食いしばって、けれど笑顔でその結末を受け入れる事が出来たのかもしれない。だってそれでも彼は家族として自分の傍にいる事に変わりはないのだから。そう納得する事が出来た。
───だが、そうじゃなかった。そうはならなかった。
彼は、大事な彼は、大好きな彼は、家族である彼は、よりにもよって自分から、そして姉妹から離れるというあってはならない選択をしたのだ。
ダメだ。それは。
それだけはダメだ。亡くなった母のように、消えた父のように、彼までもが自分達の前から消えるなど。
度し難い事であった。赦せない事であった。
家族は一緒でなければならないのに。家族は絆で結ばれていなければならないのに。
どうして、どうして、どうして。
涙が枯れるまで泣いた。けれど涙はとめどなく溢れて、代わりに枯れたのは心だった。
もはや怒りはない。ただ、どうすれば彼が家族の元に戻ってくるのかを考えた。
考えに、考えて、彼との出会いから全て振り返って……ふと思い出したのだ。
あの林間学校の伝説を。結びの伝説を。自分達を結び付けている運命の糸の存在を。
そうだ。あの時、あの瞬間。確かに自分達は彼の手を握っていたではないか。
あの温もりを、あの感触を、忘れる筈がない。今もこの手に残っている。失われてなどいない。
まだ切れていない。彼と自分達を結び付ける運命は決して途絶えてなどいない。
希望の光が見えた。再び彼と共に歩める道が見えたのだ。希望を見出したのはどうやら自分だけではない。
こういう時に五つ子だという事を思い知らされる。他の姉妹も同じ考えに至っていた。
この恋はいつ死ぬのだろう。
想いを寄せる人が離れてしまった時──違う。
好きな人を部外者の女に盗られた時──違う。
その女と彼の結婚式に招待された時──違う!!
───大好きな人に忘れられた時だ。
なら私達の恋はまだ終わっていない。私達の運命はまだ潰えていない。彼が私達を忘れる筈がない。忘れたと虚偽を吐くなら思い出させればいい。二度と忘れないよう、今度は強烈に刻み付けて。
彼の中で決して消えない思い出となればこの想いと恋と愛は不滅となるのだ。
夢はそこで終わった。目覚めた時には殆ど覚えてなくて、曖昧で、ぼやけていた。
けれど、一つだけ分かった事がある。
あの夢の女は結局のところ王子様を手にする事が出来なかった。
所詮はただの敗北者だ。自分とは違う。ああはならない。
◇
「いやぁ、こうしてみると姉妹五人だけでテーブルを囲うのって最近なかった気がするよ」
「あいつがいない時はそれぞれ予定が被ったりするもんね」
「一花はお仕事でいない時があるし、四葉は部活の助っ人で帰る時間もバラバラ」
「あはは、言われてみればそうだね」
「それに最近は五人が揃っている時は上杉君も一緒ですし、五人だけと言うのは久しぶりです」
二乃が用意した料理のお皿が並べられたテーブルを五人で囲いながら姉妹はそれぞれ顔を見渡した。
昔は何をする時も何処に行く時も五人一緒だった仲良し五つ子姉妹であったが、年齢を重ねるに連れて各々が別に時間を過ごす事が増えた。
もう高校二年生だ。いつまでも家族と一緒、と言う訳にはいかない。見た目は同じであるが中身は別で、好みの食べ物も飲み物も趣味も特技も全てが異なる五人。
だからこうして改めて五人で一緒に食卓を囲むというのは嬉しいものだ。二乃なんて鼻歌まじりに今日は一段と料理に力を入れていた。
久しぶりに姉妹水入らずで五人仲良く、みんなで一緒に、語り食事をしようじゃないか。今日は素敵な晩餐会だ。
「早速だけど本題に入ろっか。"私"のフータロー君の事について」
「一花。何言ってるの? 上杉さんは私達の家庭教師なんだから誰かのじゃないよ」
「ああ……ごめんごめん、四葉。言い間違えちゃった」
あはは、と長女と四女が同時に笑った。早速、女子会らしくガールズトークに花を咲かせたようだ。
流石は五つ子姉妹。何ともまあ仲睦まじい。互いに嗤いあう二人に他の姉妹も微笑ましく見守っている。
「そうだよ。"私"の風太郎君なんだから。そこは間違っちゃダメだよ一花」
「四葉こそ間違ってるじゃん。フータロー君は四葉のじゃないよ」
「あはは、ついうっかり」
「もう、ダメだよ四葉。いくら五年前に"たまたま"先に会ってたからってそんな事を言ったら。フータロー君に気味悪がられるよ?」
「そう言えば一花も会ってたんだよね。ただトランプしただけで、私と比べたら一瞬だけど。風太郎君、本当に覚えていたのかな?」
「……ふふっ」
「……ははっ」
「「あっははははっ!!」」
「──何が可笑しいのかな。四葉」
「それはこっちの台詞だよ。一花」
「お姉さん悲しいな。妹にこんな酷い事を言われて」
「酷い事? 私から奪ったのに」
「私が奪った……? ああ、確かに小さい時はあったね。お菓子かな? おもちゃかな? それとも四葉が集めていたシール? あはは、何を返して欲しいの?」
「風太郎君」
「フータロー君? 可笑しな事を言うね。フータロー君はこれから貰うんだよ。私が告白して返事に抱きしめて貰うことでね」
早々に茶番を終わらせ、互いに睨みを利かせた。両者共に一歩も譲る気などなく、姉妹相手だからと言って引く気も更々なかった。
今日、ここらで一度ちゃんとした話し合いの場を設けようと提案したのは長女である一花だった。
水面下で火花を散らしている姉妹間の戦争。チクチクと離れた箇所から棒で突き合う下らないやり取りに嫌気が差したのもあるが、一花が動いた本当の理由は先の林間学校と父と彼との会話であった。
あの時、彼が父にどんな言葉を吐きかけたのか。よっぽど愚鈍で愚図でない限りは誰でも察しが付く。
彼は、上杉風太郎は、あろうことかあんな名前も知らないようなモブを相手に焦がれ始めているのだ。
何故、どうして、理解できない。本当にどうしてあんな女なんだ。あれの何がいいと言うのか。
多少は見た目が整ってはいるようだが、容姿で言えば自分の方が遥かに上だ。いや見た目なんてどうでもいい。彼はそういった要素で人を選ぶ男ではない。そこらにいる凡百の発情した猿とは違うのだ。
そうなると必然的に彼は中身であの女に惹かれた事になるが、有り得ない。あの後、彼とあの女の関係を洗い浚い探ってみたがどうにも関係性や共通点が見えてこない。
あの女自身にも確かめてみたが、彼と直接話をしたのは林間学校のあのスキーが初めてだと語っていた。その時にあの女が満更でも無さそうな顔を浮かべていたのが一花には癪だったが女優としてのスキルをフルに活かし何とか目の前では笑みを張り付ける事が出来た。
話を聞き終えた後、教室のゴミ箱を蹴り上げながら怒りをぶちまけ、その様をクラスメイトであり彼女に密かに憧れを抱いていた前田が目撃して彼の淡い想いが終わったのは別の話である。
「まあ、落ち着きなさいよ二人とも。フー君についてはまだ誰のでもないでしょ」
料理を盛りつけた皿を運びながら二乃が睨み合う二人に制止を呼び掛ける。
が、今は逆効果だ。睨み合う二人の眼が今度は二乃を捉えて感情の矛先を変えた。
「ねえ、二乃」
「何かしら一花」
「そのさ、フー君って……なに?」
「いいでしょ? 可愛いくて。あ、でも付き合うまではいいけど結婚した後は普通に呼んだ方がいいのかしら……」
「二乃は風太郎君の事、嫌いじゃなかった?」
「いつの話をしているのよ四葉」
「……確認、してもいいかな」
「何よ。改まって」
「まさか、今更になってフータロー君の事が好きだなんて言うつもりないよね?」
「あれだけ拒絶していたのに今から掌返して風太郎君を好きになる筈ないよね?」
「そんなのさ」
「都合良くない?」
「都合がいい? 当たり前でしょ。これは私の恋なんだから」
二人の口撃を鮮やかにいなす二乃。強かだ。男子三日会わざれば刮目して見よと云うがそれは彼女にも当て嵌まる言葉のようだ。
先程の一花と四葉のやり取り。半分以上は本音で語り合っていたが何も相手を貶すだけが目的ではない。
こうして目の前で派手に罵り合う事で他の姉妹が彼の争奪戦に参加する事を躊躇させる目的もあったのだ。ただでさえ目の前にいるのは己の最大の敵で、しかも無視できないモブまでいる。これ以上は戦局を荒らされたくないという利害の一致が一花と四葉にはあった。
しかしながら、彼女にそれは通用しない。堂々とこの場で二乃は宣戦布告をしたのだ。
暴走機関車、なんて生易しいものではない。暴走した装甲車だ。動く城塞だ。何人たりとも彼女を止める事などできやしない。
だが、それでも妙だと一花は訝しんだ。
なんだ、あの二乃が漂わせている強者の余裕は。
条件で言えば後から参戦し、更に彼からの好感度も一番低くても何ら不思議ではないのが二乃だ。その状態でこうも余裕を見えるのは不気味だ。
彼女は分かっているのだろうか。彼にただでさえ姉妹というライバルがいる中、彼に想い人がいるかもしれないという一刻の猶予もないこの状態を。
戦局を読めていないのか。ただ猛進する獣なのか。いや、違う。彼女は獣ではない。賢しく狡猾な女だ。眼を見れば判る。
あれは何も見えていない獣の眼ではないのだ。
「そうだ。ちょうどいいから聞いておくわ……最近、妙な夢を見たって子いる?」
「……?」
二乃の奇妙な問いに一花と四葉は顔を見合わせて首を傾げた。妙な夢……一体何の事だろうか。
判っていないのは先程からやり取りを静観していた五月も同じようで目をぱちくりとさせて疑問を抱いている様子だ。
しかし残りの一人───彼女は違った。
「……もしかして二乃も?」
「ふーん、三玖もなんだ」
「何処まで覚えてる?」
「正直あんまり……あんたは?」
「曖昧で、ぼやけてる」
意味深な言葉を交わす二人と理解の追い付かない三人。
確かなのは、夢を見たという彼女達二人の顔は一花や四葉と違って焦燥感など微塵もなく、あるのは絶対的な自信と凶暴な愛の炎が宿った瞳。